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第三章 岡埜谷俊一郎
04 蛇は寸にしておれを吞み、
しおりを挟む高橋ゆき。
朝凪高校周辺の地域で、中学時代から陸上をやっていたおれと同世代のやつなら、彼女の名前を知らないやつはいないだろう。
少なくともおれはそう思っているし、東先輩の様子を見る限りそれは間違ってなかったなと何年かごしの確信を得ることが出来た。
得たところで、何かが変わるわけではないんだけど。
おれが陸上を始めたのは、中学生の頃だ。
おれには兄が二人いる。長男である宗一郎は五つ上と歳が離れていて、吹奏楽部に入部していた。そしてもう一人、二つ上の次男である浩一郎は陸上部。
優しい宗一郎のこともおれは好きだったけれど、歳も近くて面倒見のよい浩一郎におれは一番懐いていて、陸上部を選んだのだってそんな真ん中の兄の影響だった。
まあ、おれの兄の話など今はどうだっていいのだ。本題は、おれが中学二年生になってからのこと。
秋に開催された、中体連の新人戦で。
誰が話を持ってきたのかは流石に忘れてしまったけれど、気付いたら、一つ下の学年に、ものすごい女子選手がいるのだと、そんな話になっていた。
「へー。で、なにがすごいの?」
「そんなの、走りに決まってるだろ!」
どうせなら見てから帰ろうぜ、なんて同級生たちに言われて。どれだけすごいのか気になったおれは素直に女子の長距離が始まるのを観覧席で待っていた。
すごいって誰かが言ったからにはすごいんだろう、そのすごさをみてやろうじゃないかと、一体何様なんだと言われてもおかしくないような生意気なことを考えていたのはここだけの話だ。
そうして、始まった女子の部、三千メートル。
ばらばらと走り出した女子たちをしばらくみてから、おれは首を傾げた。
「すごい子って、どの子?」
「知らない。第一組にいるって聞いてたんだけど」
「えー。学校とかも聞いとけよ」
すごいと呼ばれている子をわざわざこうして見に来たのに、いま集団で走っている女子たちの誰が該当者なのかわからなければ意味がないじゃないか。リサーチ不足にも程がある。
まあ、でもとりあえず前をキープしている誰かだろうな。
そう思って、おれは品定めでもするみたいに集団の前の方の女子たちを眺めていた。
前の方にいる子たちは、どの子も確かに早いと思う。フォームも綺麗で、乱れがない。
でも、それだけ。すごいって絶賛する程じゃない気がする。
すごいっていうのは、浩一郎みたいなやつのことを言うのだ。スタートダッシュから観客に期待を持たせるような走りを見せ、常に先頭を譲らず、終盤ではその期待以上の走りをみせる、あの、兄のような。
目に見えて他の人とは違うのだと、突出したものがあるのだと、見ただけで周りを納得させるようなやつが、すごいって言葉をたすき掛けするのにふさわしいのだ。そうそう、浩一郎に並ぶようなすごいやつなんか現れるもんか。
現れてたまるか。
そう思って見ていたのもつかの間。
最後の四百メートルから、思わず腰を浮かしてまでレースに魅入ることになるなんて、おれは一ミリも思っていなかった。
最後の四百メートル。中腹あたりで団子状態になっていたところから、突然一人の選手が前に飛び出した。
そこからは、圧巻だった。
おれが思っていた「すごい」を、それこそ浩一郎にも負けないような「すごい」を、絵に描いたような姿がそこにあった。
どこにその余力を残していたのか。そう誰もが驚くほどに、彼女は属していた集団をあっという間に後ろに置いて行って、さらに一人、二人と前を走っていた選手たちさえ気持ちよく抜いていく。
流れ星のように、新幹線のように。光や音の速さ、は、あまりにも過大評価がすぎるか。
それでも、あっという間に先頭に躍り出た彼女は、それだけでは足りないとばかりに二位との差をぐんぐんと離していった。
「……すっげ」
観覧席がどこもかしこもざわつくなかで、口からぽろっとそんな言葉がこぼれたのは、おれだったのか、友達だったのか。
二番手と大差をつけてゴールしたうえに、タイムも当時の県記録を塗り替えたその女子選手は、ゴールしたと同時にぱっと花が咲くように笑っていた。最後にあれだけのスパートをかけたというのに、絶対に苦しくないわけがないのに、ただただ、走るのが楽かったと言いたげに。
当然、瞬く間に彼女の名前は知れ渡った。次の記録会では、弟や妹から話を聞きつけた高校生たちが、わざわざ観に来ていたのをおれは覚えている。
そのたびに彼女は、野次馬根性で観に来る人たちにさえ圧倒的な走りを見せつけて、同時に彼女に魅入らせていた。
当時、中学一年生。
それが、現朝凪高校陸上部マネージャーの、高橋ゆきだった。
東先輩には高橋と同級生の弟がいる。彼も中学の時は陸上部だったようで、よく応援にも行っていたようだ。
当然、弟の出場する記録会は高橋が出場するものと被る。だからこそ学年が離れている東先輩も、高橋のことを知っていたのだろう。
つまり、東先輩はこう言いたいわけだ。
なんで、あの高橋ゆきが選手じゃなくて、マネージャーをやっているのか。
強豪校と呼べるわけではないにせよ。女子の陸上部だってちゃんと存在する、この朝凪高校で。
「……おれも詳しくは知りませんけど」
正直、おれだって顔合わせの時は驚いたのだ。おれ以外にも、中学から陸上を続けているやつはみんな同じ反応をしていた。
なんであの高橋ゆきがここにいる。
なんでおれは、陸上部のマネージャーとしてよろしくお願いしますなんて、彼女に挨拶をされてるんだ。
丁度一年前。桜も散って、新緑が芽生え始めたあの日が瞼の裏に焼き付いている。
おれは、ゆっくりと深呼吸をして、記憶を押しのけるように瞼を持ち上げた。
「……なんか、中学の最後に怪我したらしいですよ、彼女」
おれの知る限りを伝える。
おれが口を閉じれば、東先輩は「そうか」と一言呟いて、おれと同じように黙り込んだ。
春の訪れには似合わない、じっとりとした重苦しい沈黙だった。
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