わおん

小楯 青井

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 私は好きな人がいる。

 恋に落ちる。私の中で渦巻いているこの感情にこれほどぴったりな言葉は無いだろう、重力に従って落ちていくように、どれだけ足掻いても無力を実感するだけ、この場合は落下の流れに身を任せて快楽を感じてしまっているのだろう。抵抗する気さえ浮かばない。
 確かに幼い頃は恋に恋して、甘酸っぱい物語のような体験が訪れることを願っていたが、まさか本当に恋に落ちる日が来るとは思わなかった。
 ラインのトーク欄に表示された長田翔の三文字を眺める。
 彼のラインは共通の友人である葵のお陰でどうにか手に入れることができたが未だに何のやり取りも行われていない。トーク画面を見てため息を吐く。
 仰向けになって打開策を考えるが思いつくと同時に否定の言葉が浮かんでくる。なにか面白い話の一つでも送れたら良いのに、でもそんな間柄じゃないし、そもそもいきなりラインを送られても戸惑うだろう、けど逐一ラインをするねなんて報告するものでもないし。
 自信のコミュニケーション能力には自身があったはずなのに彼に対しては良いコミュニケーションの方法が思い浮かばない。
 しかしよくよく考えてみればラインを介して仲良くなる必要はないし、それこそ気軽にラインを送り合える仲になるには普段のコミュニケーションが大事だろう、思いついた私は明日どうやって彼に近づくか考えはじめる。
 やっぱり自然に近づくには偶然を装うのが一番だけど、どのタイミングで話しかけようか、彼の通学途中?ありきたりすぎるし気まずい雰囲気になるのが予想できる。じゃあ葵と話しているとき?でも話している最中に割り込んでしまって非常識なヤツだと思われる可能性がある。じゃあ音楽室でピアノの練習をしているとき?明日は音楽の授業があるし、葵も一緒に授業を受けるメンバーである。これなら気まずくならないし、ピアノに興味を持った体で話しかける事ができるだろう。ただやっぱり練習中に話しかけるのは迷惑じゃないかな?提案が浮かんでは消えてを繰り返す。
 この調子では彼に近づくのは夢のまた夢、そう悲観に暮れていると、スマホにバナーが降りてきた。
 どうやらもう寝る時間になってしまったらしい、美容に気を使って設定した時間を表示する画面を確認する。
 早くに寝てしまうのは名残惜しいが、学校という皆が集まる場所、彼がいる場所で少しでもキレイな顔で居たい私はスマホを置いて目を閉じた。

 朝の静寂を破りながら、心地良いピアノの音がスマホから流れる。
 彼が好きだというピアノの曲、その旋律を理解しようと設定したアラーム音を切り、続きを鼻歌で歌う、いつのまにか彼の好きな曲から私の好きな曲へと変わった曲、その旋律を鼻歌で楽しみながら朝の支度を始める。

 フルーツとヨーグルトで手早く栄養を摂り、食後に水を一杯。
 一息ついて歯磨き。ラバーの凹凸がついた歯ブラシで丁寧に磨き上げて鏡の前で歯を見せて微笑む、右左と角度を変えて確認してからスキンケアを始める。
 洗面台に並んだ化粧水や乳液を馴染ませて鏡で肌の調子をチェック、彼と対面しても自信を保てるように入念に、ついでに制汗剤と日焼け止めも塗ってしまうおう。
 髪の手入れはブラシで梳かしてヘアオイルを手に伸ばして髪全体に行き渡らせ、いつものポニーテールを作り出す。変化をつけるのも良いが、やっぱり一番しっくりくるのはこの髪型だ。ふんわりとした髪を揺らして鏡を前に微笑む。
 制服に袖を通してシャツのボタンを一つ一つ留めていき、スカートをはしたなく見えないように高すぎも低すぎもしないように気をつけて整える。
 最後にリップクリームを塗って全身の確認。
「よし」
 これで朝の支度は完了。玄関のドアを開けると暑い日差しと大気に晒されるが支度のおかげで爽やかな気持ちで登校できそうだ。
 涼し気なポニーテールを揺らして一歩を踏み出した。

 バス停に着くと日傘を差す必要も無いくらいに早くにバスは到着した。
 郊外なのもあってかこのバスに乗る人は少ない、それこそ同じ学校の生徒だけしか見当たらない、空いている席に座って外を眺める。

 ぼんやりと外を眺めているとバスが停まった。どうやらバス停に着いたらしい、ここで停まっても乗客なんて居ないのに律儀なもんだ。
 そんな私の思いとは裏腹に誰かが乗り込んで来た。思いがけない珍客をどんな奴かと視線を送り、やっと乗り込んできたのが彼であったことに気づく。
 自転車通学じゃなかったけ?驚きと喜びが混じった感情を抱きながらもこちらに気づいた彼に小さく手を振る。

「高石さん、おはよう」
 彼に名前を呼ばれて胸が高鳴る。いつかは美玖って軽く呼ばれる様になりたいが、今はまだこの距離感で満足しよう。
「おはよう長田くん、今日は自転車じゃないんだね」
 今までの通学で同じバスに乗ったのは始めてだ。自転車の故障か何かだろうと思いつつも、話を続けるため質問をする。
「そうなんだよ、自転車に乗ったらパンクしちゃってさ」
 自転車は家に置いてこれたけどね、と付け加える彼に災難だったねと返して横に座るように促す。
 彼が隣に座ると少し緊張してしまう。お互いに少しの沈黙が流れた。
 何を話そうか、空回りしないよう慎重に話題を探していると長田くんが口を開いた。
「高石さん、いつもバスで通学してるの?」
「うん、歩くにはちょっと遠いからね」
「そうなんだ。たまにはこうやって一緒にバスで行くのもいいね」
 普段は交わすことのない会話が続く。こんなに近くで話すことができるのが少し不思議な感覚で、でも嫌じゃない。むしろこの時間がずっと続いてほしいと思ってしまう。
「明日もバス通学なの?」
「あぁ、うん修理は土曜日に出すから金曜日まではバス通学になるね」
 彼にとっては災難だろうけど、どうやら私にとっては幸運らしい、この機を逃さないように、かつ引かれないように訊ねる。
「じゃあ今週は一緒に登校する?」
「うん、もしよかったら一緒に行こうか」
「じゃあ明日も同じ時間に乗ってきてね、待ってるから」
 彼の返事に自然と笑みがこぼれる。テストの話や授業の話、他愛のない会話をしているうちに到着したバスはいつもより早く感じた。

 バスを降りたあと二人並んで歩く、今日の一時間目の授業のことを考える。
「長田くんはそのまま音楽室に向かうの?」
「うん僕はこの向かうよ、高石さんは?」
「私も一緒に向かうよ、今日もピアノの練習?」
「いや、今日はギターの練習をしようと思って」
「えっ!、長田くんギターも弾けるんだ?」
 彼がギターを弾く姿を想像してみる。格好良い姿で実物を見れば言葉を失いそうだ。
「いや、最近、萩原さんに教えてもらってるんだ」
「へぇー」
 どうやら葵に教えてもらいながら練習しているらしい、葵に対して羨望を感じつつも次の話題を探してみる。
 「私もギターを始めてみようかな」なんて言おうとしてみるが、心の中で迷ってしまう。彼と一緒に練習したい気持ちはあるものの、いざ言葉にするとなると、なんだか照れくさくて勇気が出ない。
 二人で校舎に入り、ロッカーで荷物を整理する。
「行こっか」
 荷物を整理し終えた彼を待っていた私は、ぼーっと返事を返す。
「うん」
 音楽室に向かう階段を上がると焦る気持ちがどんどん膨らんでいく。何も言えないまま沈黙が続き、気づいていないのか普通に歩いていく彼の横をただただ歩く。
 心の中で彼に「一緒に練習したい」と伝えるシーンを何度もシミュレーションしてみるものの、どのタイミングで言えばいいのか、どう言えばいいのかが分からず、結局何も言えずにいた。
 音楽室のドアが見え、さらに心は揺れる。せっかくここまで来たのに、どうしても言い出せないまま、彼女は深く息をついて心を落ち着けようとする。
 そしてついに二人は音楽室の前に立つ。彼はドアを開け、私はそれに付き従うように音楽室に入った。
 私はは音楽室に広がる静かな空気の中で、彼がギターを手に取るのを見つめていた。そして彼がギターのチューニングを始める音が響く。彼女はその音に耳を傾けながら、自分の気持ちを整理しようとする。
「今日は見学でいいかな」と自分に言い聞かせる。でも心のどこかで、いつか勇気を出して彼と一緒にギターを練習できる日が来ることを密かに願っていた。

 音楽室で彼がギターの練習を始めると、彼女、美玖は少し離れた場所からその姿を見つめていた。ギターを爪弾く彼の指先は、滑らかで私の心を一層惹きつける。音楽室に響くその音色に、美玖はつい聞き入ってしまう。
「見られていると恥ずかしいな」
 照れ臭そうに言う彼にハッとして、なんて返そうか迷っていると、音楽室のドアが静かに開いて葵が入ってきた。彼女はニマニマと笑顔を浮かべて、軽やかな足取りで私達の方に近づいてくる。
 「おはよう、シショウ、美玖ちゃん」葵が声をかけると、彼が顔を上げて笑顔で「おはよう、葵さん」と応じる。
 私も解れた心で「おはよう、葵」と返した。
 葵は持ってきたギターを音楽室に置いてくると、今度は音楽室に置かれているクラシックギターを二つ持ってきた。そして私に向かって「今日は美玖ちゃんにもギターを教えてあげよう」と言う。
 突然の提案に驚いた私は「えっ、私にも?」と戸惑った声を上げる。
「そう!せっかくだし、一緒に練習しようよ。皆でギターを弾くのはきっと楽しいと思うよ」
 葵は楽しそうに言いながら、もう一つのギターを私に手渡す。
 私は一瞬、どうしようか迷ったが、葵の折角の後押しだと考えると、心の中で少し勇気が湧いてきた。葵にお礼を言いながら、ギターをしっかりと受け取る。
 彼も「一緒にやろうよ高石さん。萩原さんの教え方は分かりやすいよ」と優しく促してくれる。
「うん、やってみるね」と、私は少し照れくさそうに笑いながら彼の隣に座った。
「それじゃあ、基本から教えるね」
 葵が言って、私達の前に座ってギターの持ち方や弦の押さえ方を丁寧に教え始める。
 三人で和やかに練習が進む中、私は心の中で彼と一緒に何かを学ぶ楽しさを感じながら、少しずつギターを弾く楽しさを掴み始めていた。
 私にとっては、彼との距離が一歩近づいたような、そんな特別なひとときだった。
 ふと気がつくと授業開始のチャイムが鳴り出した。私達はギターを片付けて席に着くと、隣に座っている葵が軽く話しかけてくる。
「どう、良い感じ?」
 要領の得ない質問。さっきまでの長田くんとのやり取りの事を聞いているのだろうけど、こうやって聞かれると良い感じかどうかなんて掴めた気がしない、ただ私にとっては良い時間だったのは確かだ。
「うーん、でも楽しかったよ、ありがとう」
 私の返答に満足したのか葵は自慢げな顔で「どういたしまして」と返した。
 先生が軽い挨拶をしながら入ってくると授業が始まる。だけど、さっきまで彼と一緒にギターを弾いていた時間が頭の中に残っていて、少しだけ心が浮ついている。彼のことを思い浮かべながら、でもちゃんと授業に集中しようと自分に言い聞かせる。
 先生の指示に従って教科書を開くと、音楽のコードに関する解説が載っている。
 授業が進んでいく中、教科書を開いても、どうしてもさっきのことが頭から離れない。長田くんと一緒にギターを弾いた時間、彼の真剣な横顔や、私に向けてくれた優しい言葉が何度も蘇ってくる。浮つく心を抑えようとするも融通が聞かない。
 「コードの構成について、教科書のこの部分を参考にしてください」と先生が指示を出すけれど、少しぼんやりとしてしまう。
 隣の葵が、こっそりと私に視線を送ってくる。「さっきのこと、まだ気になってるんでしょ?」とでも言いたげな表情だ。私は軽く肩をすくめて苦笑いを返す。どうやら葵には全てお見通しのようだ。
 授業が進むにつれて、少しずつ気持ちを落ち着け、先生の言葉に耳を傾ける。長田くんとの時間が心の中で温かく残っていることを感じつつ、授業の内容に意識を向けた。
 きっとまた、次の休み時間に葵が色々と話しかけてくれるだろう。その時はもっと長田くんについて聞いてみたいと思う。
 
 授業が終わると葵が笑みを浮かべながら話しかけてくる。
「授業はどう?しっかりと聞けた?」
 いつからこんなに意地悪な質問をしてくる様になったのか、隣に座っているんだから私の様子も分かっていただろうに、しかし強がって返答する意味もないので正直に答える。
「いやぁ、やっぱり集中できなかったよ」
 葵は私の返答に吹き出しながら、「やっぱり、全く板書できてないもん」と言いながら私の机に置かれたプリントを指差した。
 指差されたプリント、丁寧に書き写されている筈のそれを目を凝らしてみると全てズレた位置に書かれている事に気づく。
「あっ!」
 思わず声が出る。授業中はしっかりと写せているように思えたが、そうでは無かったらしい、自身が思うよりもぼーっとしていたみたいだ。
 そんな私を笑う葵に呆れながら、軽く訂正したプリントを鞄にしまって、教室に向かう。 
「美玖、ごめんって~」
 謝りながら葵が後を着いてくる。別に怒ってはいないのだから謝らなくても良いのに、ただちょっと呆れているだけだ。
「ジュース、奢りね」
 ちょっとだけ美味しい思いをしたくなった私は葵に意趣返しの思いも込めて話すと、項垂れながらも葵は「一本で許してよね」と返し、反省したような素振りを見せるが、すぐにケロッとして無邪気に話し始める。
「ほら、もう機嫌直してよ、美玖~」  
 葵が軽い調子で言いながら、また隣にぴったり寄ってくる。正直、怒っていたわけではないのだけれど、あまりにもあっけらかんとした態度に少し呆れてしまう。
「大丈夫、怒ってないよ。ただジュースの奢りは忘れないでね。」  
 私がそう言うと、葵はわざとらしく深く息をつき、肩に寄りかかってくる。
「もう、ほんとーに一本だけだからね。それ以上は無理!」  
 彼女の反応に小さな笑いがこぼれ、気持ちも少し軽くなる。そんなやり取りをしながら、教室に向かって歩くと、葵は再び明るい表情で話し始めた。
「さっきの話の続きだけど、長田くんも慣れてきたし、これからも一緒に練習しようよ」  
 葵の提案は嬉しいが、どうにも彼女に頼りすぎるのも良くない気がして軽く笑って誤魔化す。
「いや、テストももうすぐ始まるし遠慮しとくよ」
 それに彼に格好悪いとこ見せちゃうかもしれないし、そう付け加えると葵はクスッと笑って
 励ましてくれる。
「そんなの大丈夫だよ、むしろ頑張ってる姿が可愛いって思ってくれるかもよ」
 葵の言葉に心が少し軽くなる。心強い言葉を放つ葵に関心するが、私についての事で笑い出した。
 
 二限目の授業が終わり、次の授業の準備を済ませた私は葵の席に向かう。教室の雰囲気はリラックスしており、のいつものメンバーたちと楽しそうに話す葵の姿が目に入る。彼女が今朝の出来事を話しているのが聞こえてきた。
「それで、美玖がすごく頑張ってたんだ」  
 葵が笑顔で話している。周りの友人たちも興味津々といった様子で聞き入っている。私は少し照れながらも、その話題に混ざるタイミングを伺う。
「美玖、聞いたよ。長田くんとギターの練習、楽しかった?」  
 麗奈が私に話しかけてきた。私はにっこりと笑いながら頷く。
「うん、すごく楽しかったよ。長田くんも優しく教えてくれて、葵もすごく助けてくれたし。」  
 そう言うと「良かったね!」といった反応が返ってくる。
「葵のお陰で楽しかったよ、ありがとう」
 私が感謝の気持ちを伝えると、葵はにっこりと笑って「どういたしまして」と言ってくれる。雰囲気がさらに和やかになり、皆での会話が弾んでいった。
 しかしまた調子に乗った葵が、私のことを掘り下げた。
「でも、ほんとにこの子は自信がない」
 葵の言葉に麗奈がせっかく可愛いのになんて追随して、皆して私を弄りだす。
 不貞腐れて、時計に目を向ける。ついでに廊下に視線を送ると長田くんが友人達と談笑している姿が見えた。
「また長田くんのこと見てる~」
 麗奈が私の様子に気づいたみたいだ。「いつも長田くんのこと見てるよね~」なんて言って皆に私を弄るネタを提供している。
 今日は一日中この話題で盛り上がるだろう、呆れながらまた廊下を眺めた。

 昼休みになると、食堂に向かう生徒達で廊下は賑わうが、私達が机を動かして集まる頃には一定の落ち着きを取り戻す。
 皆がそれぞれのお弁当を机に広げ昼食を摂っていると、教室の和やかな雰囲気の中で麗奈がふと話を切り出す。
「ねえ、美玖、ちょっと面白いことを考えたんだけどさ。」  
 麗奈がニコニコしながら話しかけてきた。こういう時は大抵ロクな提案ではないだろう、聞き流すつもりで続きを促す。
「長田くんのこと、葵の呼び方に合わせて『シショウ』って呼ぶのはどう?いちいち長田くんって使い分けるのは分かりづらいし」  
 その提案に、葵は少し驚きながらも興味津々で反応する。
「 確かに面白いね。シショウも喜ぶかもしれないし、試してみてもいいかもね。」  
 葵が笑顔で答えると、岬まで乗っかる。
「そうだね、ちょっと試してみようよ。」
 長田くんのことをあだ名で呼ぶ私を想像してみる。
 その距離感は今よりももっと近くて暖かいものだろう、一気に照れ臭さが込み上げてくる。  
「え、えーと、それはちょっと、恥ずかしい、かな」
 私は顔を赤くしながら否定すると、麗奈が笑いながら言う。
「うーん、まぁ気に入らなかったら無理に呼ばなくても良いんじゃない?」
 ホッとしながらも、心の中で迷い続ける。ただあだ名で呼ぶ。それだけの事だけど、それすら出来ない現状、打開するにはそれこそ勇気を振り絞らないと。
「ありがとう、ちょっと考えてみるね」
 一旦この話は区切り、そのままの軽い雰囲気で昼休みを過ごした。

 放課後、教室に残っていた私は次のテストの勉強のためにノートを開いていた。そこへ葵が長田くんと一緒にやってきて私の隣に座る。
「美玖、このあと予定ある?」  
 葵が少し気さくな口調で聞いてくる。
「ううん、特には…」  
 私は首を振って答える。
「じゃあ、ちょうどよかった! 私たち、今から一緒に勉強するんだけど、美玖も一緒にどう?」  
 葵が私を誘ってくれる。どうやら、葵と長田くんは元から一緒に勉強するつもりだったらしい。
「えっ、私も?」  
 一瞬戸惑ったものの、断る理由も見つからず、むしろ一緒に勉強できるのは嬉しいことだったので、私は頷いた。
「うん、ぜひ一緒にやろうよ。長田くんがいろいろ教えてくれるよ。」  
 葵がにこやかに言い、長田くんも「もちろん、よろしくね」と優しく微笑む。
「ありがとう…よろしくお願いします。」  
 少し照れながらお礼を言うと、私たちは勉強を始めることに。
 教科書やノートを広げ、少し緊張しながらも、彼らと一緒に勉強を始めた。葵がリードしつつ、時々長田くんが補足してくれる形で進んでいく。彼の説明は分かりやすくて、葵も楽しそうに話を進めていく。
 時折、長田くんが私に質問を投げかけてくれたり、理解が浅いところを丁寧に教えてくれる場面があって、ますます心が温かくなる。葵が時々私の方を見て「頑張って!」と目配せしてくるのが、なんとも心強い。
 こうして、少し緊張しつつも和やかな雰囲気の中で、私たちは放課後の教室で勉強を続けていったが徐々に葵がつまずく場面が増えてきた。
「ねぇ、この問題、全然わかんないんだけど」  
 葵が困ったように声を揚げた。彼女のノートを覗き込むと、どうやら数学でつまずいているようだ。
「大丈夫、焦らなくていいよ。まずは基本の公式をもう一度確認しようか。」  
 私は落ち着いた声で言いながら、自分のノートを広げて公式を書き出していく。長田くんも隣で頷きながら、他の問題を確認している。
「まず、この公式を使ってみて」  
 私は葵に説明を始めた。公式の使い方や問題の解き方を細かく教えていくと、葵は真剣に頷きながらノートに書き込んでいく。長田くんも途中で補足を入れながら、二人で葵をサポートしていく。
 真面目な顔で問題を見つめる長田くんに気を取られてしまいそうになるが、どうにか抑え込んで問題を確認する。
「こうやってやれば、あ、できた」  
 葵が嬉しそうに答えを見つけ出したとき、私はホッとした気持ちと同時に、小さな達成感を感じた。
「すごい、美玖ちゃん、やっぱり教えるの上手いね」  
 葵が私を褒める。少し照れくさくなった私が「いや、そんなことないよ。葵が頑張ったからだよ」と返すと、彼女は満面の笑みを浮かべて「ありがとう」と言ってくれた。
 その横で長田くんがにこりと笑って「美玖ちゃん、本当に頼りになるよね。俺も少しは見習わないとね」と言う。その言葉が嬉しくて、でもどこか照れくさくて、真っ赤になった顔を教科書に戻して「そ、そんなことないよ」なんて素っ気無い返答をしてしまう。
「ねぇ、葵ちゃん、もう少し頑張ってみようか?次の問題も一緒に解いてみよう。」  
 私は自分を落ち着かせる意味も込めて、葵に次の問題を勧める。葵も「うん、頑張る」と意気込んでくれて、再び三人で問題に取り組んだ。
 こうして二人で葵に教える形で進んでいく勉強会。想定とは違ったけど、楽しくて、時間が経つのを忘れるほどだった。
 勉強の間、長田くんが隣にいて、見せる笑顔や、さり気なく私をフォローしてくれる言葉に心が揺れる。勉強は得意だけど、こんなふうに彼と一緒にいると、緊張して上手く頭の回らない自分がいて、少しだけ恥ずかしい、きっと差し込んでくる太陽の光がなければ真っ赤になった顔を上げるなんて出来なかっただろう。
 でも、葵のお陰で慣れてきた私は、顔を上げてもう少し頑張ってみようと思えた。
 その後も、葵がわからないところが出てくるたびに、私と長田くんが交互に教える場面が増えていき、自然と二人で葵に教える体制が出来上がっていた。
「美玖、長田くん、二人ともありがとう。おかげで助かったよ。」  
 葵が少し申し訳なさそうに、でも感謝の気持ちを込めて言う。
「気にしなくていいよ、みんなで一緒に勉強する方が楽しいし、理解も深まるしね」  
 長田くんが優しく返し、私もそれに頷く。
「うん、私も一緒に勉強できて良かった。葵のおかげで楽しかったよ」  
 私も少し恥ずかしがりながらも、自分の気持ちを素直に伝える。
 こうして私たち三人が和やかに勉強を進めていくと、気づけば時間が過ぎていた。葵が二人に教わるという少し想定と異なった形になりつつも、こうした穏やかな時間を共有することで、さらに友情と絆が深まった気がして、彼との距離が少しだけ縮まった気がして、心が優しく温まっていくのを感じた。

「今日はここで終わりにしようか」
「そうだね」
 私達二人がそう言うと葵は息を吐いて体を伸ばした。
「二人ともありがとう」
 葵が気の抜けた声で礼を述べる。
「どういたしまして、また分からないとこがあったら聞いてよ」
 長田くんが微笑みながら葵に返し、それに続いて私が「こっちこそ理解に繋がったし、ありがとう」と返すと、葵はへにゃりと笑って「どういたしまして」なんて言う。
 本当に今日は葵に助けられた。少しでも返す事が出来ていたら良いんだけれど、そう思いながら帰る準備を済ませる。

「美玖、シショウ、また明日」
 葵とはロッカーで別れ、私と長田くんは自然と一緒に帰る流れになった。
 葵が分かれる際、私達の名前を呼んだのを思い出す。軽々しく長田くんをあだ名で呼べる彼女が少し羨ましい、私もあだ名で呼んで良い?その一言が言えなくて、無言のままバス停に到着すしてしまい、いざ言い出そうすればバスが到着して静かに乗り込んでいく。
「今日は結構疲れたね」
 悩みながら窓の外を眺めていると長田くんが話し出す。
「そうだね、でも楽しかったよ」
 また今度も一緒に勉強しようよ、その台詞が言い出せず言葉に詰まるが、彼が代弁するかのように言う。
「また今度も一緒に勉強しようよ」
 動悸がする。笑顔に安心させられているのに心臓は激しく脈打っている。
「そ、そうだねまた今度もしたいね」
 また静寂が訪れてしまった。ドンドンと突き進んでいくバス、茜色に染まった空、いつまでもは続かない彼との時間に焦った私は思いがけず口走る。
「あの、前から思ってたんだけど、シショウってあだ名で呼んで良い?」
 しまった、と思った。耳まで熱くなっているのに冷や汗が出てくるのを感じた。
「あだ名で?」
 無常にも私の声は彼にしっかりと届いていたらしい、これ以上悪いことにはならないよう祈りながら頷くと、彼は柔らかく笑った。
「そっか、良いよ、僕もこのあだ名は気に入ってるからね」
 一瞬、聞き間違えたかと思ったけど、それが間違いでないことを理解すると、安堵すると同時に歓喜も感じた。
「ありがとう、シショウくん」
 エヘヘと、普段ならしない笑い方が飛び出る。
「シショウくん、君づけはそのままなんだね、新しい」
 私のぎこち無いあだ名呼びに優しく笑いかけ、暫く普通の会話でもシショウくんって呼んでみる。
 そうしているうちにシショウくんの降りるバス停に着いてしまったが、名残惜しさも感じつつ、最後にもう一度シショウくんって呼んでみた。
「また明日ね、シショウくん」
 彼から返されるのはまだ苗字だけど、それでも関係が進んだ気がして、バスに身を揺られながら余韻に浸った。
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