血よりも赤い瞳

奈々野圭

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第40話 解放 *

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 リビングを出て、仕事部屋に向かう智也。大きな足音を立てながら廊下を歩く。包丁を握る手にも力が入る。

 部屋の前に立つと、勢いよくドアを開けた。大きな音が、静寂を破る。

「純、出て来やがれっ」

 智也は叫びながら、クローゼットのドアを開けた。中では純が体育座りをしている。相変わらずの無表情だ。

 何を考えているのかは分からないものの、智也に向ける目は、なにか不思議なものを見るようだった。

 一方の智也はというと、眉間に皺を寄せ、目がつり上がっている。まさしく、鬼のような形相ぎょうそうであった。

 純の肩を掴むと、そのまま床に投げ出す。クローゼットから出された純は、床に倒れこんだ。

 智也は純に馬乗りになると、包丁で胸を一突きした。右手に、鈍い感触が伝わる。刺し傷から、じわりじわりと血が出てきた。

「殺してやる!」

 このまま、包丁で滅多刺しにする。床が赤く染まる。智也も返り血を浴びている。

 息は荒くなっていったが、純の表情に変化はない。ただじっと、智也を見つめているだけだ。

「智也。何故こんなことをしてるのか分からないが、やめた方がいい。疲弊するだけだ。それにその刃物は戦闘用ではない」

 体が傷だらけになっている上に、出血多量だ。それにも関わらず、純は冷静そのもので、智也のことをさとしていた。

「うるせぇ、黙れ! とっとと死ね!」

 智也は叫ぶと、包丁を何度も純に突き刺す。その最中、ついに包丁が折れてしまった。刃は床に落ち、乾いた音を立てる。刃先のなくなった包丁を、智也は乱暴に投げつけた。

「はぁ、はぁ……」

 智也は、息が上がっている。
 純の体には無数の刺し傷と血痕があった。それでも尚、顔色一つ変えない。

「なんでこんなことをする。それに、私は以前、再生能力があると言ったはずだが」
 言ってるそばから、純の体にある無数の刺傷が塞がっていった。

「畜生っ」
 智也は拳で純の顔を殴った。鈍い音が響く。強い打撃だったが、純は意に返さなかった。

「てめぇのせいで、美咲が死んだんだよっ」
 顔を殴りながら、智也は叫んだ。

「美咲が、死んだ」

 智也の言ったことを反復するように、純が言葉を発する。それを聞くと、智也の心はさらに荒れた。

「そうだ! てめぇのせいで美咲が死んだんだ!」

 智也は、美咲のことを思いだす。彼女と過ごした日々、そして自分に向けられた笑顔。それら全てが智也の脳裏をよぎる。去来した思いが、薪となったようだ。智也の怒りがさらに燃え上がった。

「てめぇのせいで、美咲が死んだんだ」
 純は、智也の言葉を反復する。

「そうだ」と言いながら、智也は殴り続ける。

「佐藤が死んだ。私のせいで」

 純が言い直す。こんな状況でも、「美咲のことは佐藤と呼べ」という律儀に命令を墨守している。そのことが、智也の逆鱗に触れた。
「そうだよ」と言いながら、顔面に拳を見舞う。

「私のせいで」

 こう呟いた瞬間、純の顔に変化が起こった。目から、赤黒い液体が流れたのだ。磨きあげられたルビーのような瞳から、どす黒い液体。鮮やかな赤色であるため、余計黒ずんで見えたのだ。
 それは一雫となり、頬を伝う。頬に、一筋の線ができた。

 液体は、床を染めている血と同じ色。即ち、血液だ。

 純はしゃくり上げている。目から出てきた血液は、涙だったのだ。

「なんでお前が泣いてるんだよ」

 智也は、拳を振り上げるが、その腕が下がり始めた。下げている間にも右手は力を失い、震える。

「私のせいで、佐藤が死んだ」

 純の顔が血に染まる。傍目はためには、おぞましく映る。智也も例外ではなかった。
 はたまた、しゃくりあげる声は強くなるばかりだ。まるで子供のようだ。

 純はやはり怪物か、もしくは物を知らぬ子供なのか。智也は次第に混乱してきた。

「なんでお前が泣くんだよ……」

 智也の拳は完全に下りた。その姿勢のまま、泣きじゃくる純を見ている。

 純は、美咲のことをよく知らないはずだ。二回しか会ってないし、オマケにそのうちのひとつは、やり取りさえない。その時の純には認識阻害がかかっていたのだから。

 それに引替え、何故自分は一滴も涙が出てこないのか。
 体だけではなく心も繋がった、生涯を共にしたいと願った相手なのに。

 ああ、だから殺したのか。深く愛し合っていても、自分の思い通りには行動しない。純とは違うのだ。美咲には、自我があった。それが気に入らなかったのだ……。

「フフフ、ハハハ、アハハハハハ」

 智也は笑いだした。ひとしきり笑うと立ち上がり、部屋を出る。廊下を駆け抜け、リビングに突入する。勢いままに、窓を開ける。乾いた音を立てながら、ベランダに出た。日はすっかり落ちており、外は暗い。

「悪いな美咲。あんなことしたけど、俺は今でも愛してるよ。すぐにお前のところに行くからな」

 智也はベランダから身を投げた。


***

 部屋の中で、純は横たわっていた。目から涙がこぼれている。つかの間、開け放たれたドアを見ていた。

 そうしているうちに、落ち着いてきたようだ。目から涙が止まる。顔もいつもの無表情に戻る。 手で顔を拭ったあと、体を起こし、部屋を出た。まるで、智也の後を追うように。

 彼の居場所を探すように、目に付いたドアを開けていく。

 リビングのドアを開けた時、美咲の姿が見えた。彼女は、ピクリともしない。

 中に入り、美咲に近寄る。白目を向き、息ができないという顔をしている。実際、息をしていなかった。生体反応さえなかった。首を見ると、手の跡がついている。これが死因か。純はこう結論づける。

『てめぇのせいで、美咲が死んだんだ』
 ここで智也の発言を思い出す。

 殺したのは智也だろう。首についている手の跡から、そう推論する。だが、美咲の殺害と、自分はどう関わっているのか。まるで見当がつかない純は、首を傾げた。

 他にも、もうひとつ。
 智也と美咲は番関係だろう。どうして智也は番である美咲を殺害したのだろうか。ヒトという生物は、番を殺すこともあると聞いている。とはいうものの、それはかなり珍しいことだとも。
  
 つかの間、純は考え込んでいたが、ついぞ理解ができなかった。心というものが、ヒトの行動を決めているそうだが、純には、その心がわからないのである。

 とにかく今は、智也を探すのが優先だ。美咲から目を離すと、ベランダの窓が開いていることに気がついた。直ぐさま、ベランダに向かう。
 さほど大きくないその場所には、誰もいない。

 ベランダに足を踏み入れると、縁から体を乗り出す。下を見ると、視線の先に、智也はいた。

 高所から飛び降りたからか、体があちこちに曲がっている。落下時に怪我をしたようだ。特に強く叩きつけられたであろう箇所から出血していた。

 少しも動かない智也を見て、通行人は慌てふためいている。この時も、純には認識阻害がかかっている。ベランダに目を向ける者がいても、誰もその存在に気がつくものはなかった。

 純は夜目が効く。それに感覚も鋭い。遠くからでも、智也は既に事切れていることがわかった。

 智也は死んだ。頼みの綱だった美咲も死んだ。

 ここにいる意味はもう無い。だんだん騒ぎが大きくなる外を後目しりめに、純は部屋を後にした。
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