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第四章 伊賀忍者 藤林疾風 戦国に救う者

第三話 疾風の都見聞『尼寺へ行く娘』

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永禄7(1564 )年5月 摂津国堺 今井宗久邸 
藤林疾風


 初夏の風薫る5月、ハヤテは伊勢屋七兵衛を伴い、海路で堺湊を訪れていた。
 堺という湊町は、その名が摂津国、河内国、和泉国の境にあったことから由来する。
 町の大小路通を境に摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡に跨っているのだ。

 堺湊は、室町時代末に成立した日本最古の海洋法規集『廻船式目』に、日本の十大港湾として『三津七湊さんしんしちそう』に、安濃津 (三重県津市)、博多津 (福岡県福岡市)、堺津と記されている。

【 津とは港や船着き場を意味し、港は元々「水路」で船着き場という意味はなかった。
 湊は物が集まり、水上航路も集まる場所、すなわち現代の港のことだ。】


 俺が堺湊に来たのは、京の都が三好長慶の死や内紛で荒れる前に、都の状況を見ておきたかったからだ。
 それともう一つの目的。七兵衛の案内で、堺の豪商の一人 今井宗久を訪ねた。
 宗久という人物は、堺の豪商の武野紹鴎に茶を学び、紹鴎に認められ婿となって財を譲り受け、それを元手に、初期の頃は鎧に使う鹿皮などで財をなした豪商だ。
 年の頃は四十半ば、精悍な顔付きで武将にしてもおかしくはない。

「ほほぉ、あなたさんが伊賀の藤林の御曹子はんですか。
 伊賀の珍しき品々、それをお作りになったお方と聞いてますぅ。一度会うてみたい思うとりましたのや。」

「藤林疾風と申します。宗久殿は、茶の湯の先達にして、諸芸の道にも明るいお方と聞いております。
 田舎暮らしの俺には、及びもつかぬことでありますれば、お会いできたのは嬉しい限りでございます。」

「いやいや、ものを知るも、ものを作れるお人には敵いませんがな。はははっ。」

「宗久殿から見て、京の都の様子はいかがと見えましょうか。」

「さてさて、あきませんな、御所も公卿衆も疲弊するばかりでな、古から何百年も続いていた儀式も催しも、戦乱で何十年も途絶えてますさかいに。
 蹴鞠はともかく、歌や陰陽の知識が廃れるのは、惜しいことですわ。

 将軍様に代わるお方かと思われた、修理太夫様(三好長慶)も病に伏せっておられますしな。
 諸国は戦続き、いずれどなたかが上洛され、戦乱の世を治めてほしい思うとります。
 疾風はんは、どう見ておりますやろか。」

「《時分の花》とでも申しましょうか。どのお方が天下人になられても、そのお方の勢いがある限りのこと。家として続くことは難しきことかと。」

「ほう『風姿花伝』ですかいな。『時分の花』とは、若さ故の勢い、或いは物珍しさで評判を取ることでんな。それが真の実力ではないと諌める言葉や。
 疾風はんは、能にも通じておりましたのかいな。はてさて、油断のならんお人ですな。はははっ。」

「能一芸を極める書なれば、人生の導き書として、学ばせていただいております。」

「それは頼もしいことでんな、お励みなされや。
 わてに手伝えることがあれば、なんでも言うておくれなはれっ。」


 後年、俺の妹の綺羅が、戦乱で荒れ果てた京の都を復興する時、その傍らにあって智慧を授けてくれた人物である。


 
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 堺を出て、才蔵、佐助と共に、初めて京の都へとやって来たが、見かける町並みと人々の姿は、貧富の差が目につく。
 今の俺達は武士のなりをしている。商人の身なりで野盗に襲われては敵わないからだ。
 商家などが並ぶ一帯は、建物も普通だが、名のある寺の本山以外は古びて朽ちており、そこかしこに荒んだ人達がたむろしている。


「なんだか物騒なところですね、都って。」

「品物の値も高い、これでは暮らし難いな。」

「有名な羅生門なども、荒れてましたね。」

 供をしている佐助と才蔵と話して歩いていると、遠くに争いが起きているのが見えた。
 駆けつけてみると多勢が切り結んでいた。
 数人の武家と思しき女連れの一行が、多勢の野盗紛いの男達に襲われている。
 武家の方は、武士が3人あとは女が3人と人足が2人。野盗紛いは15人もいる。
 既に野盗が二人斬り倒されており、武家の三人はなかなかの腕のようだが、少なくない手傷を負っている。形勢は圧倒的に不利だ。

「助太刀致すっ。」そう声を掛け、野盗達に斬り込んで行く。
 怯んだ野盗3人を、立て続けに斬り倒す。 
 才蔵と佐助も4人を倒しており、あっと、言う間に半数を倒された野盗共は、敵わぬと見て逃げ去った。


「どなたかは存ぜぬが助成忝ないっ。姫様お怪我ありませぬかっ。」

 年配の武士が連れの女性を気遣っている。
 身分のある女性なのだろう、地味だが良い着物を着ている。年の頃は16~17か、まだ稚さが見える。

「爺、私は尼寺へなど行きとうありませぬ。近江に帰りたい。」そう言って泣き出した。


「失礼ながら、どこぞのご息女でありますか。
 某達は伊勢の者にて、怪しい者ではありませぬ。」

 すると、涙声で娘が答えた。

「私は、近江の六角家家臣 平井定武の娘の登代と申します。」

「あっ、それでは浅井家に嫁がれたっ。」

「ご存知なのですか · · 。」



 それから、いろいろ紆余曲折はあったが、登代を伊賀へ連れて行くことになった。
 伴の者には野盗に襲われ登代が命を落としたと、帰って報告させることにした。

 登代は4年前の1月、浅井長政に嫁ぐため浅井家に送られたが、祝言も上げることなく二月後には離縁を言い渡され、近江の実家に帰ったとのことだ。
 浅井家に着いた当初から『家臣の娘を正室に寄越すなどとは臣従させるつもりか。』という声が上がり、全く受け入れられる雰囲気ではなかったらしい。

 その後、六角家に戻ると周囲からは出戻りとして白い目でみられて縁談もなく、さらに昨年の観音寺騒動があって、娘の身を案じた父親が京の大原の尼寺寂光院に入れることにしたという。
 わずか12才でそんな目に遭い、女の幸せも知らないで尼寺へ行かされる登代を不憫に思った俺は、登代を父上と母上に頼み、養女としてもらうことにしたのだ。



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永禄7(1564)年6月 伊賀藤林砦 藤林疾風


 登代を伊賀に連れ帰った俺は、父上と母上に事情を話し、無事とは言い難いが養女に落ち着いた。
 なぜなら、父上も母上も反対とは真逆に、俺が嫁を見つけて来たと決めつけて、やれ、祝言だとか新居を作らねばとか、大騒ぎになったのである。


 登代とよは『台与とよ』と改字させた。
 藤林台与に生まれ変わって、新しい人生を歩んでほしいからだ。
 ちなみに、台与はあの邪馬台国の台与だ。

 その台与は俺が伊賀の藤林疾風と知って、もちろん驚いていた。それ以上に豊かな伊賀の民の暮らしぶりに唖然としていた。
 だが7才になったおませな綺羅に懐かれ、母上のおっとりした性格に癒やされ、孤児院の子供らに囲まれて、本来の明るさを取り戻したようだ。

 彼女は、赤ん坊の時に生母と別れ、母親のことを知らない。そんな彼女に母上は愛情を注ぎ、まるで最初からの母娘のようだ。

 ただ俺の立場は微妙だ。息子溺愛の母上に、近頃おませで兄への我儘が増長して来た妹様に加え、俺の妻の座を目指すと公言する台与が、徒党を組んで甘えて来るからだ。
 もし今、占いをすれば『女難の相』が出ているに違いない。





【 尼門跡 】

 京都大原にある寂光院は一般の尼寺だが、尼寺にも門跡尼寺があり『比丘尼びくに御所』や『尼御所』と呼ばれるものがあった。
 皇女や公家の身分のある女性が入寺した寺院であり、修行や仏教儀式、文学や芸術にも親しみ、住まいの調度品、室内の装飾に至るまで王朝風の生活が営まれていた。
 そして、皇室所縁の独特の御所文化と言えるものが育まれていたのである。

 戦国期には朝廷の衰えと同様、貧窮していたのではあろうが、一般の尼寺とは一線を画した生活をしていたことは確かである。
 現存しているのは、京都の7寺『大聖寺、宝鏡寺、曇華院、光照院、林丘寺、霊鑑寺、三時知恩寺』と奈良3寺『円照寺、中宮寺、法華寺』がある。

 
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