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第1部

訪問者は王子様〜宮原の視点〜

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「悠?
起きられる?」

宮原は母親の声音にパチリと目覚め、何度か瞬きを繰り返すと目尻に溜まっていた涙が顳顬に流れていくのを感じた。
母親に泣き顔を見られた居心地の悪さに宮原は腕で顔を隠し、目を擦る。

一瞬、自分が何処にいるのか分からなくなり、ベッドで仰臥位のまま、視線をぐるりと動かすと漸く自分の部屋にいるのだと分かる。
狭いベッドスペースに手を彷徨わせると大切な人の温もりを感じない冷たいシーツの感触が寂しさを膨らませ、胸を軋ませた。

耳元に残る弾む呼吸も、触れられる肌の熱さも、律動をする度に滴る汗も、自分の身体に浸透された形のまま残っている。
そして、女の胎の中のように変えられてしまった器官に残存している、鈍く疼く感覚だけが甘い毒のように体内に広がっている。

手を伸ばすと指先を絡め取られ、甘い匂いのする胸の中に抱き締められる、そんな数時間前までの情事が全身に刻まれている。

『…直哉…
直哉・・・
ーーー直哉……』

閉められたカーテンの隙間から夕闇の光が線のように入り込み、静寂な時間の流れが記憶を混乱させてしまう。

宮原は重怠い上肢を起き上がらせるとベッドの上で両膝を抱え、細く長い溜息を静かに吐く。
その不自然な程に大人びた仕草を母親は目前で見せ付けられ、鬱々と消沈している気持ちを和らげる為にそっと宮原の頭を撫でた。
宮原は俯いたまま母親の細く、小さい指を受け入れ、優しく触れられる無償の愛情を得る。

母親はまだ幼さの残る首筋に触れるとその箇所に幾つかの発赤を見付け、指先で辿る。
母親としての庇護欲を掻き立てられただけの行為に宮原はピクリと反応を示すと一瞬で動揺をした顔を上げ、母親から少し距離を取ってしまう。

「…な、何?
擽ったいよ!…」

露骨な気疎さに母親は気色ばむと宮原の頭をコツンと叩く。

「沢海くんって同じ部活の先輩でしょ?
彼が家まで送ってくれたのよ。
ーーー悠、覚えてる?」
「…え?
沢海先輩が?
オレの家まで?」
「土曜日のトレーニングゲームで左膝と右肘を怪我して、休んでもらっていたって。
宮原くんの自宅に連絡も入れないですみませんでしたって……
ーーー彼、何度も謝っていたわよ」
「……沢海先輩……」

宮原は自分自身が原因であるにも関わらず、沢海が自分の家族に対して謝罪をしていたという事実に途端に気落ちしてしまう。
弁解をする科白を考えるよりも先に母親が感受した沢海の印象を訂正する為に、その理由が下らない口実として捉えられないように言葉を選ぶ。

「違うんだよ…
ーーー沢海先輩は…」
「もう本当、悠に対して過保護なくらい優しい先輩なんだもん!
『甘えん坊の悠くん』も沢海くんに勝手な我が儘ばっかり言って、迷惑かけていたんじゃないの?
あちこち怪我していたからって、痛いよ!痛いよ!って、泣いていたんじゃないの?」

食い気味に母親が宮原の言葉の先を折り、幼児が駄々を捏ねるような身振り手振りを真似する。
宮原は単純に揶揄われていることに対して羞恥を感じながらも、それと同時に母親の不変しない態度に僅かに安堵してしまう。

「そんな事するわけ、ないだろっ!
ーーーするわけ、ないよ……
…なんで?」

母親は宮原の素直な反応に半分呆れ返り、吹き出して笑う。

膨れっ面の宮原の頬を指で押すと母親はニヤニヤと笑いながら顔を近付けてくる。
悪戯に小突き回される宮原は母親の性悪な一面を感じ取り、訝し気に視線を上げると堪らずに「さっきから、何だよっ!」と憤ってしまう。

すると母親は得意げに鼻を鳴らし、宮原が着ている見慣れないシャツのタグを引っ張り上げ、XLサイズと書かれている事を確認する。
宮原の体型からするとMサイズかLサイズが妥当なのだが、撓む首回りが際立ってしまう。

「沢海くんって、名前は沢海直哉くんよね?
ーーーカッコいいもん、ねぇ…
素敵だもん、ねぇ…
…ねぇ?悠?」
「…なんだよぉ…」
「直哉、行かないで…って。
甘えた声出しちゃって…」
「え?」
「大好き、って…
直哉、大好き、って…
聞いちゃった私まで恥ずかしくなるわ」
「ーーーそ、そ、そんなこと言ってないよっ!」

宮原は現実と非現実の区別が分からず否定をするが、その事実を肯定するかのような激しい狼狽に母親は大袈裟に溜息を吐く。
2人の関係性を茶目っ気に勘繰ると一層、唆される宮原に追い討ちを掛けていく。

「悠が沢海くんにベッタリなのも分かるわぁ」

既に反論する余地さえもなく、宮原は赤面したまま俯いてしまう。

ふっと意識が逸れると怪我をしていた右肘と左膝がしっかりとテーピングで固定され、巻き方の癖で沢海が処置してくれた事なのだと気付く。
煙草の吸殻を押し付けられ、汚されたテーピングは外され、四肢を真白なテーピングで患部を保護をしてあった。

宮原はその箇所に触れると目を閉じ、口元に柔らかい笑みを浮かべる。
残された形跡を辿り、沢海のバニラの匂いが淡く残るシャツをギュッと握る。

「ーーーオレが1番に尊敬する、大切な先輩だよ…
…とても、大事な人、なんだ…」
「……悠……」

母親の半ば好奇の視線を宮原は真正面から真摯に受け止め、宮原自身の言葉で沢海に対しての気持ちを伝える。
嘘偽りもない感情は一点の曇りさえなく、汚れのない純真で無垢な眸で見返すと母親は突然に押し黙ってしまう。

宮原にとって唯一の存在、好きな人が同性でもある沢海直哉だった。
ただ、それだけの理由でしかない。

宮原は沢海の事を好きになってしまった事実を自分の家族に隠蔽する必要はないと考えた。
この事が発端となり、価値観の違いで家族との関係に瓦解を生じるかもしれないと分かっていても、自分自身の心を形成していく、とても大切な人を誤魔化していく訳にはいかない。

宮原は自らの一方的な告白を綴る事で我に返り、それでも自分の気持ちに否定をする事もなく、静かに含羞む。
その先に家族でもある母親から侮蔑や罵倒に晒される可能性があるかもしれないのだと分かった上で覚悟を決める。

たった1人だけの存在を好きになる事を肯定してほしい訳ではない。
たった1人だけの存在を好きになる事を理解してほしい訳ではない。
ただ、自分が好きになった人が自分の事を好きでいてくれるように、自分が好きになった人を大切に、自分が好きになった人を大事にしたい。

それは沢海が自分に対して溢れる程の無限の愛情を今尚、沢山与えてもらえるからこそ、自分の心の中に濃密な激情が芽生え、溢れる愛おしさを沢海へ捧げていきたいと思う。

自分にとって大切な人なのだと教えたい。
ーーー直哉、好きだよ。
自分にとって大事な人なのだと伝えたい。
ーーー直哉、大好きだよ。

「ーーーあ……あのね!
沢海先輩はサッカー、すっごく上手いんだよ!
ポジションはセンターバックなんだけど、1年の頃から蒼敬学園のレギュラーなんだよ。
オレが1対1で勝負しても全然ボールが取れないんだ。
視野が広いからゲームの緩急をつけて流れを組み立てたり、落ち着かせたり出来るし。
攻撃の起点として、最終ラインからドンピシャで前線にスルーパスが入るし。
コーナーからのセットプレイでも身体の強さがあるから、相手からマンツーマンでマークされても簡単にマークを外してゴール決めちゃうし。
本当、凄いんだよ!
ーーーだから……
ずっと……ずっと……
ーーー中3の頃から、ずっと憧れていたんだ…
沢海先輩と一緒にピッチに立てたら、いいなって…
同じチームで戦えたら、いいなって…
ーーー沢海先輩と一緒にサッカー……したいんだ…」

沢海には羨望と嫉妬さえ感じ得ない程、強い畏敬と憧憬の念を抱いた。
それは今現在でも全く変わる事はない。

宮原は高揚し、饒舌に捲し立てると自分自身に諭させるように心情を吐露する。

「ーーーオレ……沢海先輩が……
沢海先輩の事が・・・好き…
……好き、なんだ…」

一縷の迷いもない告白は宮原の表情を質実にさせ、真っ直ぐな意志を母親に言葉にして伝える。
現状での少しだけ煩わしい詮索が原因で母親の誤解を生じる事がないように、毅然とした態度で向かい合う。

自分の本当の気持ちに嘘を吐く事は出来ない。

たった1人しかいない存在を大切にする事も、たった1人しかいない存在を大事にする事も、たった1人しかいない存在の透明な心が傷付けられないように自分の両手の中で守りたい。

告白の言葉は宮原の気持ちを冴え冴えと晴らせるが、可笑しいくらいに緊張で手指が冷え、高まる心音が鼓膜まで鳴り響いてくるのを感じる。

母親は宮原の生傷だらけの指を見付けるとその手を包むように重ね、優しく慰撫する。

「…うん。分かったわ…
悠の気持ち……
……ずっと、大切にしなさいね…」

宮原は一方的に否定をされる事を覚悟したが母親の柔らかい笑顔を見た瞬間、何故か勝手に涙腺が緩んでしまう。
一度、涙が頬を伝ってしまうと嗚咽まで吐き出してしまい、宮原は緊く口唇を噛み、声を凝らした。

異性ではなく、同性を好きになってしまった事に自責の念を感じる事はない。
だが、宮原の心の深淵には漠然とした不安が澱んでいたのかもしれない。

沢海の事を好きなのだと自覚する度に、このまま沢海の事を好きでいいのだろうかと理不尽な自問を繰り返してしまう。
最初から、ただひとつしかない答えを分かっていた筈なのに、形にならない感情に躊躇してしまう。

選択肢がある訳でもない程の明確な意思は不確定な迷いを生み、その答えを見出す事が出来なくなる。

「ーーーほら、泣かないの!
大丈夫だから、ね!
明日も朝練あるんでしょう?」
「…うん…」
「じゃぁ、もう今日は寝なさい」
「うん。
ーーーおやすみなさい」

母親は宮原の項垂れた後頭部をポンと叩くとこれ以上の追求もせずに退室していく。

宮原は階段を降りる足音を遠くに聞きながら、力が抜けたようにベッドに顔を埋め、深い溜息を吐いた。

数時間前までは沢海の胸の中で包まれ、目を閉じると心地良い呼吸音と少しだけ肌寒い体温に目蓋を落としていた。
背中に回された腕の強さに身体を投げ出し、時折、悪戯に耳朶に口唇を這わせられ、擽ったさに首を竦めていた。
ひとつの毛布の中で2人で身体を絡め合い、人肌の温もりの中にある愛情をお互いが根刮ぎ奪い取るような口付けを交わした。

そして、突然の沢海の涙に愛おしさが込み上げ、このまま離れなくないとーーー祈った。

「ーーー直哉……
…会いたいよ…」

瞬きを繰り返すと目尻から顳顬に涙が流れ、宮原は冷たいベッドの中で小さく身体を丸めた。
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