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第1部
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悪い予感という事は何故、理由もなく不安な気持ちを逸らせてしまうのだろう。
それは平穏な日常を過ごしていても突如として自分の感情に侵食をすると水面に輪を描いて広がるように黒く蝕んでいく。
数分前までは自分の素直過ぎる欲求を伝え、腕の中で様々な羞恥と葛藤にたじろぐ宮原の身体を抱き締めていた。
宮原の身体に触れた瞬間に伝わる、火照る体温の熱さも、肌にうっすらと滲む汗も、少しだけ早くなる鼓動も、全てが愛おしいと感じていた。
自分の事を意識しているのだと言葉ではなく、全身で表してくれていた。
まだ宮原の温もりの感触が残る手を握り締めてみても、その大切な想いの深さに心拍数は跳ね上がり、胸の中が温かくなっていく。
それは実際に今も感じている。
だが反面、脆弱な心細さも存在しているのは確かだった。
自分の手の中で屈託なく笑う宮原の存在が薄膜を張ったガラスのように脆く壊れていく感覚に怯えてしまう。
手を伸ばして触れようとすると寸前で形が歪み、震える指先が触れた瞬間にボロボロと剥がれ落ちていく。
大切に、大事にしたいと思っていても、自分自身に張り付く陰影が見えない水面下で壊しているのかもしれない。
大切に、大事にしたいからこそ、触れ方も接し方も分からずに迷走を繰り返してしまう。
柵のように複雑に絡む感情が沢海の脳裏で鬩ぎ合い、焦燥感だけが一方的に募る。
「ーーー宮原…」
実習棟の真っ直ぐに伸びる長い廊下を走りながら、沢海は先程、激しい物音がした方向へ足を運んだ。
廊下を進むと、点灯している筈のないトイレの電気の光が扉の隙間から僅かに漏れ、その中から排水溝に伝う湿った水音が聞こえた。
それは酷く閑散としたこの空間に耳障りな程に響く。
扉を一枚隔てても、その先に人の気配がある事が分かり、沢海はゆっくりとドアノブを押した。
「ーーー!!ーーー」
沢海はトイレの出入り口で静かに目を見開き、ただ茫然と立ち尽くしてしまう。
それは現実離れしたような状況下において理解出来る範疇を遥かに超えていた。
抑えられない衝動と混乱する衝迫の間に揺れ、沢海の思考能力を完全に奪っていく。
何も考えられない、何も分からない状況で、さらに不可解な現実を差し出され、到底理解することが出来なかった。
自分の目前で僅かに息衝いている宮原の肢体があっても尚、まだ現実として認識する事を躊躇っていた。
受け入れられない現実を否定する沢海の脳裏とは反するように、彼の身体は戦慄を覚える程の緊張に震え、全身が粟立つ。
全身が鋼のように硬直してしまい、この現状を直視する目が拒み、視界が捻じ曲げられていく。
「ーーーみ…や、……は…ら・・・……」
そこにはタイルの床に力無く四肢を投げ出し、意識のない眸が緩く閉じられ、口元から漏れる浅い呼吸を繰り返す宮原の姿があった。
沢海の足元にも広がる水量がトレーニングシューズを濡らし、波紋していく。
ユニフォームの上にジャージを羽織った全身から水が滴らせ、宮原の脆弱な身体のラインを浮き彫りにしていた。
腰骨にまで下ろされたハーフパンツが宮原の薄い腹筋を覗かせ、その皮膚の上にも透明な水滴が流れていく。
濡れた黒髪が宮原の表情を隠し、毛先から幾筋もの水滴が頬を伝い、首筋へ滑る。
前髪の隙間から覗く眸の虹彩は頑なに閉じられ、その色の鮮やかさを失っていた。
何かを拒絶するような宮原の手は開いたまま固く強ばり、それは意識を失っている状態でも固化を広げていた。
宮原の指先は生傷が絶えず、捲れたままの皮膚からまた血が滲んでいた。
『……何があったんだ……』
それはトレーニングで汚れただけではない、乱れた形跡のあるユニフォームが、袖口から覗く右腕のテーピングに残る黒い煤のような痕跡が、宮原の口元から顎、咽喉を伝い、胸元にうっすらと残る染みが沢海に違和感を覚えさせた。
そして、換気ファンだけでは清浄する事が出来なかった室内を重畳する饐えた臭いと煙草の臭いに背筋が凍った。
宮原の口唇に張り付いた白い体液が一体、何なのか瞬時に悟った。
『……何があったんだ……』
沢海は直ぐに宮原を横抱きに抱えると、その衝動のまま全身を揺さぶる。
「おい!宮原っ!
しっかりしろっ!
ーーー宮原っ!宮原!!」
ーーーオレはまた宮原を守れなかったのか?
ーーーオレはまた宮原を守れなかったのか?
ーーーオレはまた宮原を守れなかったのか?
何度も傷付いてしまう宮原をどうして守れなかったのか自責の念に囚われ、この現実を受け入れる事が出来ない。
それは平穏な日常を過ごしていても突如として自分の感情に侵食をすると水面に輪を描いて広がるように黒く蝕んでいく。
数分前までは自分の素直過ぎる欲求を伝え、腕の中で様々な羞恥と葛藤にたじろぐ宮原の身体を抱き締めていた。
宮原の身体に触れた瞬間に伝わる、火照る体温の熱さも、肌にうっすらと滲む汗も、少しだけ早くなる鼓動も、全てが愛おしいと感じていた。
自分の事を意識しているのだと言葉ではなく、全身で表してくれていた。
まだ宮原の温もりの感触が残る手を握り締めてみても、その大切な想いの深さに心拍数は跳ね上がり、胸の中が温かくなっていく。
それは実際に今も感じている。
だが反面、脆弱な心細さも存在しているのは確かだった。
自分の手の中で屈託なく笑う宮原の存在が薄膜を張ったガラスのように脆く壊れていく感覚に怯えてしまう。
手を伸ばして触れようとすると寸前で形が歪み、震える指先が触れた瞬間にボロボロと剥がれ落ちていく。
大切に、大事にしたいと思っていても、自分自身に張り付く陰影が見えない水面下で壊しているのかもしれない。
大切に、大事にしたいからこそ、触れ方も接し方も分からずに迷走を繰り返してしまう。
柵のように複雑に絡む感情が沢海の脳裏で鬩ぎ合い、焦燥感だけが一方的に募る。
「ーーー宮原…」
実習棟の真っ直ぐに伸びる長い廊下を走りながら、沢海は先程、激しい物音がした方向へ足を運んだ。
廊下を進むと、点灯している筈のないトイレの電気の光が扉の隙間から僅かに漏れ、その中から排水溝に伝う湿った水音が聞こえた。
それは酷く閑散としたこの空間に耳障りな程に響く。
扉を一枚隔てても、その先に人の気配がある事が分かり、沢海はゆっくりとドアノブを押した。
「ーーー!!ーーー」
沢海はトイレの出入り口で静かに目を見開き、ただ茫然と立ち尽くしてしまう。
それは現実離れしたような状況下において理解出来る範疇を遥かに超えていた。
抑えられない衝動と混乱する衝迫の間に揺れ、沢海の思考能力を完全に奪っていく。
何も考えられない、何も分からない状況で、さらに不可解な現実を差し出され、到底理解することが出来なかった。
自分の目前で僅かに息衝いている宮原の肢体があっても尚、まだ現実として認識する事を躊躇っていた。
受け入れられない現実を否定する沢海の脳裏とは反するように、彼の身体は戦慄を覚える程の緊張に震え、全身が粟立つ。
全身が鋼のように硬直してしまい、この現状を直視する目が拒み、視界が捻じ曲げられていく。
「ーーーみ…や、……は…ら・・・……」
そこにはタイルの床に力無く四肢を投げ出し、意識のない眸が緩く閉じられ、口元から漏れる浅い呼吸を繰り返す宮原の姿があった。
沢海の足元にも広がる水量がトレーニングシューズを濡らし、波紋していく。
ユニフォームの上にジャージを羽織った全身から水が滴らせ、宮原の脆弱な身体のラインを浮き彫りにしていた。
腰骨にまで下ろされたハーフパンツが宮原の薄い腹筋を覗かせ、その皮膚の上にも透明な水滴が流れていく。
濡れた黒髪が宮原の表情を隠し、毛先から幾筋もの水滴が頬を伝い、首筋へ滑る。
前髪の隙間から覗く眸の虹彩は頑なに閉じられ、その色の鮮やかさを失っていた。
何かを拒絶するような宮原の手は開いたまま固く強ばり、それは意識を失っている状態でも固化を広げていた。
宮原の指先は生傷が絶えず、捲れたままの皮膚からまた血が滲んでいた。
『……何があったんだ……』
それはトレーニングで汚れただけではない、乱れた形跡のあるユニフォームが、袖口から覗く右腕のテーピングに残る黒い煤のような痕跡が、宮原の口元から顎、咽喉を伝い、胸元にうっすらと残る染みが沢海に違和感を覚えさせた。
そして、換気ファンだけでは清浄する事が出来なかった室内を重畳する饐えた臭いと煙草の臭いに背筋が凍った。
宮原の口唇に張り付いた白い体液が一体、何なのか瞬時に悟った。
『……何があったんだ……』
沢海は直ぐに宮原を横抱きに抱えると、その衝動のまま全身を揺さぶる。
「おい!宮原っ!
しっかりしろっ!
ーーー宮原っ!宮原!!」
ーーーオレはまた宮原を守れなかったのか?
ーーーオレはまた宮原を守れなかったのか?
ーーーオレはまた宮原を守れなかったのか?
何度も傷付いてしまう宮原をどうして守れなかったのか自責の念に囚われ、この現実を受け入れる事が出来ない。
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