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第1部

考えたくない

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絶望ってなんだろう。
ーーーよく分からない。

全ての望みを奪われ、失ってしまうと自暴自棄に囚われ、自分の中にある脆弱な感情がボロボロと壊れてしまう。

失望ってなんだろう。
ーーーよく分からない。

全ての望みを放棄した身体がだらしなく垂れ下がると色のない感情が解放されるようで、自分自身に考える意思という事が無くなってしまう。

何かを考えなくてはいけないのに、何も考えたくない。

『このまま左膝、潰しちゃおうか…?』

言葉の意味が理解出来ない。理解出来ないというより、全くその意味が分からない。

どうしてこんな事になってしまったのか、どうしてこんな状況になってしまったのか、もうそれすらも分からなくなってきている。

ただ、分かるのは男に両手首を自分の頭の上で掴まれ、右膝裏を真正面から抱えられ、鏡の前で貼り付けられている情けない自分の姿だけだ。

『ーーー沢海、先輩……』

砕けて千切れそうになる自我を必死に保とうと譫言のように大切な名前を呼び、その大切な存在だけを求めている。

身体の痛みも、心の痛みも全て掴んで、離さないで嘘にしてしまいたい。
このまま切なくて、苦しくて、もうどうしようもなくて、全てを振り切れるくらいに叫んでしまいたい。

『ーーー沢海先輩……』

掠れる声が霧消し、宮原の口許で落ちていく。

ーーー沢海先輩じゃない。
沢海先輩しかいらないのに。

ーーー沢海先輩じゃない。
この手は誰の?
この呼吸は誰の?
この言葉は誰の?

限界を超えた宮原の左膝がガクガクと震え、自分の足で立っている事でさえも出来ない程に力を無くし、男の足元に崩れ落ちそうになる。

ーーー覚えているーーー
自分の左膝裏に蹴り込まれたポイントスパイクの跡。

ーーー残っているーーー
自分の左膝裏から消えない血生臭い生傷と斑らに広がる青痣。

ーーー忘れていないーーー
抵抗しようとする術を根刮ぎ奪われ、シャワールームの壁に何度も激しく頭を叩きつけられた衝撃。

意識を失わせるような激痛に視界が狭まり、手足の感覚が麻痺をしてくる。

まるで木偶人形のように扱われ、汗臭い練習着も、先走りの精液が湿る下着も乱暴に脱がされ、心も身体も剥がされた。

ーーー忘れていないーーー覚えている。

「ーーーや……やだ・・・
やだ……
怖、い・・・
ーーー怖い…」

失意に染まる宮原の眸から自分の頬を勝手に流れている涙が止まらず、視界に入ってくる輪郭が歪んでいく。
真っ赤に充血している目が涙に濡れ、薄く開いた口から吐かれる呼吸が震えてしまう。

混乱する記憶が真面な精神状態を欠けさせ、身体中の感覚を奪っていく。

男は抗う力を失くした宮原を上から眺めると、手錠のように繋いでいた手首と押し付けるように密着した腰をゆっくりと離していく。

「……は…ぁ…・・・」

糸が切れたように弛緩する宮原の身体は、そのままズルズルと冷たいタイルの床に座り込んでしまう。

自分の目の前にいる男の行動から逃げ出さなければならないと考えてみても、自分の身体が強張ってしまい、指先でさえも動かす事が出来ない。
動けない四肢も、止まった感情も、何ひとつさえ自分の中から消えしまっている。

頬を伝う涙の暖かさだけが自分の生存理由を教えてくれるだけだ。

何に対して怒りがある訳でもない、誰に対して恨む訳でもない、ただ自分自身に対して何も考える事が出来ない、真っ白な無の世界が広がる。

ーーー考えるなーーー

「なぁ、しゃぶってくれよ
ーーー何でもするんだろ?」
「いい面構えだな」
「…そんなに泣いてんなよ。
これから、もっとーーー痛くなるってのによ、
ーーーあぁ、気持ちいいの間違いか?」

ーーー考えるなーーー

何が嘘で、何が本当なのか、
何が偽物で、何が本物なのか。

全部がないものだったら、どんなに簡単だったのだろう。
全部がないものなら、どんなに満ち足りていないのだと分かりもしなかったのだろう。
全部がないものなら、どんなに寂しいという感情も、悲しいという感情も、嬉しいという感情も知りもしなかったのだろう。

自分の心の中にある『沢海直哉』という存在が淡く消えていく。

ずっと自分の傍にいて欲しいのに、このままずっと自分の傍にいて欲しいのに、それが叶わない事なのだと酷く冷めた胸の中で知ってしまう。

ーーー沢海先輩が好き。
ーーー沢海先輩が好き。
ーーー沢海先輩が好き。

以前から自分自身が感じていた不協和が、形を持って流線を表していく。

ーーー考えるなーーー

「ーーーヤローの処女もキツイな。
まぁ、処女はそれが堪んなくていいんだけどな」
「ーーー急にケツ、締めんなよ。
お前も気持ちいいんだろ?」
「チンポ触るとキュウキュウ、締め付けてくるなぁ…」

ーーー考えるなーーー

流れ込んでくる感情の中に言葉が降り注ぐ。

これは誰の声だ?
これは誰の感触だ?
これは誰の体温だ?

ーーー何だ…コレ……
ーーーこの記憶は何だ…
ーーー覚えている?
ーーー知っている?
ーーー何時だった?
ーーー何処だった?

誰だった?
ーーー誰だ?
誰だった?
ーーー沢海先輩?

誰だった?
ーーー違うーーー
誰だった?
ーーー沢海先輩じゃないーーー

誰に?
誰に?
誰に?

ーーー考えるなーーー

一気に宮原の記憶が鮮明に彩る。

過去を忘れた筈なのに、過去を消してしまった筈なのに、過去を覚えていたくない筈なのに、水面の気泡のようにふつふつと湧き出てくる。

震える自分の両手の指を見詰めると、宮原は泣きながら生傷の癒えない箇所に噛み付いてしまう。

また殴られてしまう。
また虐げられてしまう。
また屈服しなければならない。
またーーー絶望が口を開けて待っているーーー

受け入れなければならないこの事実を拒絶することは出来ないのだろうか。

『沢海先輩……
ーーー分からないんだ…
考えても、考えても分からない。
どうしたらいいんだろう…
…沢海先輩…』

何度も何度も考え続ける事が、宮原にとっての精一杯の拒絶であり、精神的な自己防衛であった。

だが、それを容易く壊されてしまい、剥き出しの宮原の心が男の目の前で曝け出されてしまう。

このまま心も、身体も全部が壊れてしまえば良いのに、と考えてしまう。

思い出したくない事、覚えていたくない事が何度も何度もフラッシュバックしてくる。

「……いや……
いやだ……
・・・助け、て……
助けて……せんぱ…い
ーーー沢海、先輩……」

ずっと開けないように閉じ込めていた記憶が、宮原の中から一気に溢れ出していく。

漆黒の闇のような陰湿でドロドロとした感情が傷口から滲み、切れた箇所から膿と共に垂れ流れていく。
まるで口を開けて自分を嘲笑うように次々と溢れ始め、止まらない慟哭が自分の身体の中で叫んでいる。

「ーーーあ……ぁ……
イ、ヤ・・・」

分からない。
分からない。
ーーーでも、覚えている。

まるで狂いながら壊れてしまいそうになる自分自身の感情を信じられずに、その先で確かめ合った沢海との温もりを感じていた記憶を思い出す。

『もう、こいつに手、出さないでもらえる?
ーーーオレんの、だからさ』
『ーーーごめん…
ごめんな……
許してくれよーーー
……宮原の事、もう傷付けたりしないから。
傍にいるから』
『宮原ーーー好きだ…
……好きだよ……』

覚えている。
覚えている。
ーーーそれは、現実という答えだ。

「イヤ……イヤだ…
ーーーイヤだあぁぁぁ!」


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