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始の太刀 天命の魔剣
第4話 元服の条件
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ローザリッタは屋敷を目掛けて森を駆ける。
木から木へ。枝から枝へ。矢継ぎ早に〈空渡り〉を繰り返す。
何ら阻むものがない平地であれば単純に地面を走ったほうが速いだろう。しかし、障害物の多い森の中では、その移動速度は圧倒的だった。
――歴代最速かもしれないな。
ヴィオラが今のローザリッタの姿を見ていたら、そう言ったに違いない。だが、本来であれば並走しながら軽口を叩くはずの近侍の姿はなかった。置いてきた。彼女が全力で空を渡れば、同じ奥義の遣い手であるヴィオラさえも文字通り置き去りにしてしまう。
梢の向こうに屋敷が見えると、ローザリッタは樹上から地面へ飛び移った。慣性で転がりそうになる体を強引に支え、そのまま勢いを速力へ変換。なお駆ける。屋敷を囲う塀の直前で、とどめと言わんばかりの大跳躍。またしても塀を軽々と跳び越えた。
さながら流星の如く着弾した先は屋敷の中庭だ。
季節の花木が植えられた花壇。鮮やかな淡水魚が放された池。精緻な石造りの灯篭――小さいながらも調和のとれた閑静な庭園に、無粋の極みとも言える土煙が舞う。
「はぁ……はぁ……!」
肩を激しく上下させながら、ローザリッタは顎先に伝う汗を手の甲で拭う。
さすがの彼女も、徒歩で四半刻かかる距離を一気に駆け抜けるには多大な体力を消費した。髪は風でぐしゃぐしゃ。足は泥だらけ。寝巻きも肩や胸元が露わになるほど着崩れ、今にも豊満な乳房がまろびでそうだ。貴族令嬢にあるまじきはしたなさであるが、それがかえって逼迫した心境をありありと表している。
ローザリッタは顎先に伝った汗を乱暴に拭いながら、険しい視線を池のほとりに向けた。その先には、池の魚に餌を投げている初老の男が背を向けて佇んでいる。
「……朝っぱらから騒々しいぞ、ローザ」
餌をやり終えた男が悠然と振り返った。
ローザリッタと同じ金髪に空色の双眸。目元や口元の皺に寄る年波を感じさせるが、彫りの深い、端正な顔立ちをしている。美丈夫と言って差し支えない。性別の違いはあれ、美的な構成要素が彼女とよく似ていた。血縁であることは疑いようがないだろう。ローザリッタ同様に寝巻き姿ではあるが、防寒用の羽織の上からでも鍛え抜かれた筋肉の厚みが見て取れる。背筋もぴしりと伸び、とても壮年期とは思えないほど若々しい。
「日頃から、みだりに奥義を遣うなと言っておるじゃろう。そなたにとっては塀を越えるなど造作もない事であろうが、面倒でも出入りは玄関からするものだ。そのくらいの良識がなくては周りに示しがつかん」
穏やかながらも威厳に満ちた声だった。聞けば誰しも思わず襟を正し、心服してしまいそうな不思議な力が宿っている。これを風格というのだろうか。
「何より、警笛で叩き起こされるのは心臓に悪い。老いた父をもっと労わってくれると、ありがたいのだがな」
伯爵家当主。王国最強の剣士。そして、ローザリッタの父でもある男――マルクスは冗談めかした口調で言った。
ただし、顔はにこりともしていない。寝巻きの腰帯には大小の黒鞘が差してある。脇差はともかく、屋敷の中で本差を携帯することはまずない。本人の言葉通り、警笛を聞いて即座に武装したことが窺える。常在戦場の心得が十分に発揮された結果ではあるが、巡邏から警笛の意図を聞かされたとすれば、そういう顔もしたくなるか。
「お父様!」
漂う威風など何のその。小言を無視して、ローザリッタは柳眉を逆立てながらずかずかとマルクスへ詰め寄った。
向かい合って並ぶと、二人の体格差が如実に表れる。身の丈六尺のマルクスに対して、五尺二寸のローザリッタでは頭一つ違う。視線を交わすには、大木の天辺を見上げるように首を反らすしかない。
「元服の儀を取り止めにするとはどういうことですか!」
「言葉通りの意味だ」
娘の鋭い視線を受け止めながら、淡々とマルクスは告げた。
「そなたを元服は一年見送る。昨夜、親族会議で決定したことだ」
「そんなの、いくらお父様でも横暴です!」
「そなた、元服の儀を済ませたら武者修行に出るつもりであろう?」
「もちろんです! それをずっと心待ちにしておりました! なのに――」
「だからだ」
マルクスは嘆息を一つ、ローザリッタに厳しい視線を向ける。
「元服は、年齢さえ満たせばいいと言うものではない。家長から承認を得て、初めて成立するものだ。己の立場を弁えない者を大人と認めるわけにはいかん。……今一度、そなたの立場を説明してやろう、ローザリッタ。そなたは、このベルイマン伯爵家の跡取りだ。元服した後は速やかに婿を取り、男児を産む義務がある」
レスニア王国において爵位継承は長子相続が原則だ。
基本的には長男が継承するものではあるが、一人も男児がいない場合は長女であっても相続を許されている。周辺諸国に比べ、高い文化水準を誇るレスニア王国であっても医療分野は未成熟。子供の早死を克服できていない時世、そうでもしなければ血統を保つことができないからだ。
その一方で、女性当主の効力は一代限りと定められている。あくまで正当な嫡子が生まれるまでの繋ぎに過ぎず、爵位を継承した女当主は速やかに次の継承者たる男児を産み、育て、爵位を譲ることが望まれている。それがローザリッタに課されている運命であり、直面している現実だ。
「自分の置かれた立場は重々承知しています。ですが、結婚など武者修行のあとでもいいではないですか! わたしはまだ母になるには早すぎます!」
「旅先で死なれたら困る」
率直かつ明瞭な理由を、マルクスは突きつける。
街の外――人間が開拓した土地以外の場所は、未だ原初の息吹が残る魔境である。
人間さえ餌にしてしまうような獰猛な大型の獣。
豆粒のように小さく、されど、たった一噛みで死をもたらす有毒の蟲。
神経を麻痺させる花粉や、精神を狂わせる蜜を巧妙に駆使し、時には消化液そのものを武器としてくる肉食植物。
街の中で安穏と暮らしていては想像もできないような物騒な生き物がひしめいている危険地帯が外の世界だ。専門の知識や技術がなければ、街から街へ渡り歩くことさえ困難。当世では、生まれ育った街から一歩も外から出たことがない人間が大多数だ。
危険なのは、何もそこに棲む生き物だけとは限らない。
街の外には、人の法がない。あるのは弱肉強食という原初の掟のみ。それをいいことに、街から追放された無法者たちが跋扈している。
多くの場合、彼らは群れて野盗へと転じ、洞窟などを根城にして近隣の村落や行商人を狙って簒奪を繰り返す。自然の猛威に対しては、その生態を学ぶことである程度は対処できるだろうが、野盗の襲撃はあくまで偶発的なもの。遭わない時は遭わないが、遭遇してしまえば被害は甚大。一種の賭けだ。
それでも行商人などは毎回、決して安くない料金を払って傭兵を雇って旅をする。街の外では、金で買える安全を買わない人間に明日はない。そこまでしてなお命の保障がないのが、ローザリッタが廻りたいと渇望する場所なのである。
「何を馬鹿な」
ローザリッタは信じられないとばかりに首を振った。
「とても王国最強の剣士の言葉とは思えません。危険だからこそ修行になるのではないですか!」
「……ローザよ。儂にはそなたしか子がおらん。そなたに何かあれば直系の血筋は絶える。そなたに課された役目は、余人には任されないものなのだ。わかってくれ」
すでに初老に差し掛かったマルクスにとって、一人娘であるローザリッタは伯爵家存続のための命綱。武者修行の旅で万一のことがあれば、お家が傾く。当主として当然の発言であった。
そんな事情はこれまでにさんざん語って聞かせてきたつもりだ。それでも、ローザリッタの武者修行に出るという熱意は一向に失せる兆しを見せなかった。それこそ、元服の日の直前まで。
不安に駆られたマルクスと親族たちは急遽、会議の場を設けて話し合った。そこで出た結論が、元服そのものを遅らせてしまえばいいというものだ。元服しなければ武者修行に出る資格も理由もない。もちろん、ローザリッタが根本的な納得をしない限り、問題の先送りでしかないのも事実ではあるのだが。
「それでも、どうか元服をお認めください!」
懇願にも似たマルクスの声に、それでもローザリッタは否と唱えた。
「今のままでは足りないのです! 納得できないのです! わたしはもっと強くなれる、いや、ならなくちゃいけないんです!」
「――これ以上、そなたが強くなってどうする!」
なお聞き分けのないローザリッタを、マルクスは一喝する。
「そなたはもう頑張らなくてよいのだ。もう誰も、そなたが伯爵家の跡取りとして不足だなどと思っておらぬ。それだけのことをそなたは成し遂げた。そなたは自分の幸福だけを考えていればそれでいい。どうして、それがわからん⁉」
それは当主としてよりも、娘を案じる親としての言葉だったのかもしれない。わざわざ娘を危険な目に遭わせたい父親はいない。
しかし。
「……お父様のお言葉でも、それだけは聞けません」
ローザリッタの表情から怒りが消えた。いや、怒りを上回る何かが塗り潰した。
一切の表情が消え失せた愛娘を見て、マルクスは眉を顰めた。それが溢れないように懸命に堪えているのだと理解したからだ。失言だったと後悔する。それでも――
「……そなたが引かぬように、儂も伯爵家当主として引くわけにはいかん。だが、我らがこうやって言い争うこと自体、皆に不安を与える。それはそなたも本意ではなかろう。平行線であったとしても、落としどころを用意せねばならぬ」
マルクスは視線を外すと、近くの石灯篭まで歩み寄った。
「――そこでだ。一つ、儂と勝負しようではないか」
「勝負……? まさか、お父様に試合で勝ったら、なんて言うつもりですか?」
「それは勝負として成立せんよ」
マルクスは当然のように語った。悔しいが、厳然たる事実である。他の門弟たちならばともかく、今のローザリッタの実力がマルクスに及んでいないことは、自分が一番理解している。だから、武者修行に出たいのだ。
「斬ってみよ」
マルクスは石灯篭の頭をぽんぽんと叩いた。
「え?」
予想外の言葉に、ローザリッタが気の抜けた声を出す。
「この石灯篭を刀で斬ってみよ。さすればそなたの元服を認め――武者修行を許そうではないか」
「……ふざけているのですか?」
苛立ちを隠そうともせずに、ローザリッタは尋ねた。
そもそも斬れるという現象は、刃を押し当てられた物体が、左右に引っ張られる応力によって変形する性質を利用して分裂することをいう。つまり、ただ硬いだけで粘りのない石などは、斬るということに関してはまったくの不向きなのである。何せ、斬れる前に砕けるのだから。無論、この灯篭のような石細工があるからには、職人技術としての石割は実在するだろう。だが、やはりそれも斬るのとは方向性が違う。
据物斬りの的として石灯篭を用いるなど不適切極まりない。そんなこと、少し考えれば誰でもわかることである。旅立たせないための方便、あるいは難癖。ローザリッタがそう捉えるのも当然だ。
「儂に勝つよりは現実的だろうよ」
抗議の眼差しを、マルクスは柳に風と受け流した。
「それに――無理難題であるのは否定せんが、不可能かどうかは、その眼で確かめるがいい」
そう言うと、マルクスは灯篭から一歩下がって本差をすらりと抜いた。
流れるように構えたのは甲冑式の上段。それ自体は何の変哲もない基礎の型だが、マルクスのそれは王国最強の名に恥じず、一分の隙もない。
(……相変わらず、非の打ち所がありませんね)
悔しさを覚えつつも、ローザリッタは内心で感嘆する。構え一つで、父と自分との距離が痛いほど伝わってきた。ヴィオラはローザリッタの才覚を絶賛したが、それでもまだまだ遠い場所に彼は立っている。あの境地に辿り着くのに、自分はあと何年鍛えればいいのだろう。どんな修行をすればいいのだろう。
(でも、いくらお父様でも、石灯篭を斬るなんてできるはずがない)
全身全霊で打ちつけたとしても、せいぜい表面が砕ける程度。下手をすれば、刀のほうが折れ飛ぶ。常識的に考えて不可能だ。不可能のはずだ。
(あれ……?)
ローザリッタはマルクスの周囲の空気が変わるのを感じた。どこがどうと、うまく説明はできない。ただ、何かが違う。感覚的な表現ではあるが、まるで世界そのものがマルクスに跪いているような――
「ぬんっ!」
かっと目を見開くと同時に、裂帛の気合を伴って神速の斬撃が放たれた。
ローザリッタは目を疑った。
振り下ろされた刀身は、石灯篭に弾かれることもなく、折れることもなく――灯篭の胴体を袈裟懸けに、弧を描いて斬り抜けたのだ。
「…………」
一瞬の沈黙の後、ずず、と石灯篭の上半分が滑り出し、激しく音を響かせながら地面に転がり倒れた。遠くで鳥たちが羽ばたき、池の魚が跳ねる。あまりの出来事に、ローザリッタも開いた口が塞がらなかった。
倒れた灯篭の断面はまるで磨かれた鏡のように滑らかだった。単純な力でかち割ったのだとしたら、このような平坦な切れ口になるはずがない。マルクスは本当に刀で石灯篭を断ち斬ったのだ。しかも、マルクスの刀身は刃毀れさえしていない。現実離れした光景だが、この目で見てしまった以上、現実だと認めるしかない。
「……どうだ。不可能ではなかろう?」
血振るいの後、鍔を鳴らして刀を納めたマルクスがローザリッタに向き直る。
「七日、猶予を与えよう。これができなければ武者修行は諦め、早々に結婚すると約束してもらうぞ。これが儂にできる最大限の譲歩だ。よいな?」
ローザリッタは何も言い返せなかった。
木から木へ。枝から枝へ。矢継ぎ早に〈空渡り〉を繰り返す。
何ら阻むものがない平地であれば単純に地面を走ったほうが速いだろう。しかし、障害物の多い森の中では、その移動速度は圧倒的だった。
――歴代最速かもしれないな。
ヴィオラが今のローザリッタの姿を見ていたら、そう言ったに違いない。だが、本来であれば並走しながら軽口を叩くはずの近侍の姿はなかった。置いてきた。彼女が全力で空を渡れば、同じ奥義の遣い手であるヴィオラさえも文字通り置き去りにしてしまう。
梢の向こうに屋敷が見えると、ローザリッタは樹上から地面へ飛び移った。慣性で転がりそうになる体を強引に支え、そのまま勢いを速力へ変換。なお駆ける。屋敷を囲う塀の直前で、とどめと言わんばかりの大跳躍。またしても塀を軽々と跳び越えた。
さながら流星の如く着弾した先は屋敷の中庭だ。
季節の花木が植えられた花壇。鮮やかな淡水魚が放された池。精緻な石造りの灯篭――小さいながらも調和のとれた閑静な庭園に、無粋の極みとも言える土煙が舞う。
「はぁ……はぁ……!」
肩を激しく上下させながら、ローザリッタは顎先に伝う汗を手の甲で拭う。
さすがの彼女も、徒歩で四半刻かかる距離を一気に駆け抜けるには多大な体力を消費した。髪は風でぐしゃぐしゃ。足は泥だらけ。寝巻きも肩や胸元が露わになるほど着崩れ、今にも豊満な乳房がまろびでそうだ。貴族令嬢にあるまじきはしたなさであるが、それがかえって逼迫した心境をありありと表している。
ローザリッタは顎先に伝った汗を乱暴に拭いながら、険しい視線を池のほとりに向けた。その先には、池の魚に餌を投げている初老の男が背を向けて佇んでいる。
「……朝っぱらから騒々しいぞ、ローザ」
餌をやり終えた男が悠然と振り返った。
ローザリッタと同じ金髪に空色の双眸。目元や口元の皺に寄る年波を感じさせるが、彫りの深い、端正な顔立ちをしている。美丈夫と言って差し支えない。性別の違いはあれ、美的な構成要素が彼女とよく似ていた。血縁であることは疑いようがないだろう。ローザリッタ同様に寝巻き姿ではあるが、防寒用の羽織の上からでも鍛え抜かれた筋肉の厚みが見て取れる。背筋もぴしりと伸び、とても壮年期とは思えないほど若々しい。
「日頃から、みだりに奥義を遣うなと言っておるじゃろう。そなたにとっては塀を越えるなど造作もない事であろうが、面倒でも出入りは玄関からするものだ。そのくらいの良識がなくては周りに示しがつかん」
穏やかながらも威厳に満ちた声だった。聞けば誰しも思わず襟を正し、心服してしまいそうな不思議な力が宿っている。これを風格というのだろうか。
「何より、警笛で叩き起こされるのは心臓に悪い。老いた父をもっと労わってくれると、ありがたいのだがな」
伯爵家当主。王国最強の剣士。そして、ローザリッタの父でもある男――マルクスは冗談めかした口調で言った。
ただし、顔はにこりともしていない。寝巻きの腰帯には大小の黒鞘が差してある。脇差はともかく、屋敷の中で本差を携帯することはまずない。本人の言葉通り、警笛を聞いて即座に武装したことが窺える。常在戦場の心得が十分に発揮された結果ではあるが、巡邏から警笛の意図を聞かされたとすれば、そういう顔もしたくなるか。
「お父様!」
漂う威風など何のその。小言を無視して、ローザリッタは柳眉を逆立てながらずかずかとマルクスへ詰め寄った。
向かい合って並ぶと、二人の体格差が如実に表れる。身の丈六尺のマルクスに対して、五尺二寸のローザリッタでは頭一つ違う。視線を交わすには、大木の天辺を見上げるように首を反らすしかない。
「元服の儀を取り止めにするとはどういうことですか!」
「言葉通りの意味だ」
娘の鋭い視線を受け止めながら、淡々とマルクスは告げた。
「そなたを元服は一年見送る。昨夜、親族会議で決定したことだ」
「そんなの、いくらお父様でも横暴です!」
「そなた、元服の儀を済ませたら武者修行に出るつもりであろう?」
「もちろんです! それをずっと心待ちにしておりました! なのに――」
「だからだ」
マルクスは嘆息を一つ、ローザリッタに厳しい視線を向ける。
「元服は、年齢さえ満たせばいいと言うものではない。家長から承認を得て、初めて成立するものだ。己の立場を弁えない者を大人と認めるわけにはいかん。……今一度、そなたの立場を説明してやろう、ローザリッタ。そなたは、このベルイマン伯爵家の跡取りだ。元服した後は速やかに婿を取り、男児を産む義務がある」
レスニア王国において爵位継承は長子相続が原則だ。
基本的には長男が継承するものではあるが、一人も男児がいない場合は長女であっても相続を許されている。周辺諸国に比べ、高い文化水準を誇るレスニア王国であっても医療分野は未成熟。子供の早死を克服できていない時世、そうでもしなければ血統を保つことができないからだ。
その一方で、女性当主の効力は一代限りと定められている。あくまで正当な嫡子が生まれるまでの繋ぎに過ぎず、爵位を継承した女当主は速やかに次の継承者たる男児を産み、育て、爵位を譲ることが望まれている。それがローザリッタに課されている運命であり、直面している現実だ。
「自分の置かれた立場は重々承知しています。ですが、結婚など武者修行のあとでもいいではないですか! わたしはまだ母になるには早すぎます!」
「旅先で死なれたら困る」
率直かつ明瞭な理由を、マルクスは突きつける。
街の外――人間が開拓した土地以外の場所は、未だ原初の息吹が残る魔境である。
人間さえ餌にしてしまうような獰猛な大型の獣。
豆粒のように小さく、されど、たった一噛みで死をもたらす有毒の蟲。
神経を麻痺させる花粉や、精神を狂わせる蜜を巧妙に駆使し、時には消化液そのものを武器としてくる肉食植物。
街の中で安穏と暮らしていては想像もできないような物騒な生き物がひしめいている危険地帯が外の世界だ。専門の知識や技術がなければ、街から街へ渡り歩くことさえ困難。当世では、生まれ育った街から一歩も外から出たことがない人間が大多数だ。
危険なのは、何もそこに棲む生き物だけとは限らない。
街の外には、人の法がない。あるのは弱肉強食という原初の掟のみ。それをいいことに、街から追放された無法者たちが跋扈している。
多くの場合、彼らは群れて野盗へと転じ、洞窟などを根城にして近隣の村落や行商人を狙って簒奪を繰り返す。自然の猛威に対しては、その生態を学ぶことである程度は対処できるだろうが、野盗の襲撃はあくまで偶発的なもの。遭わない時は遭わないが、遭遇してしまえば被害は甚大。一種の賭けだ。
それでも行商人などは毎回、決して安くない料金を払って傭兵を雇って旅をする。街の外では、金で買える安全を買わない人間に明日はない。そこまでしてなお命の保障がないのが、ローザリッタが廻りたいと渇望する場所なのである。
「何を馬鹿な」
ローザリッタは信じられないとばかりに首を振った。
「とても王国最強の剣士の言葉とは思えません。危険だからこそ修行になるのではないですか!」
「……ローザよ。儂にはそなたしか子がおらん。そなたに何かあれば直系の血筋は絶える。そなたに課された役目は、余人には任されないものなのだ。わかってくれ」
すでに初老に差し掛かったマルクスにとって、一人娘であるローザリッタは伯爵家存続のための命綱。武者修行の旅で万一のことがあれば、お家が傾く。当主として当然の発言であった。
そんな事情はこれまでにさんざん語って聞かせてきたつもりだ。それでも、ローザリッタの武者修行に出るという熱意は一向に失せる兆しを見せなかった。それこそ、元服の日の直前まで。
不安に駆られたマルクスと親族たちは急遽、会議の場を設けて話し合った。そこで出た結論が、元服そのものを遅らせてしまえばいいというものだ。元服しなければ武者修行に出る資格も理由もない。もちろん、ローザリッタが根本的な納得をしない限り、問題の先送りでしかないのも事実ではあるのだが。
「それでも、どうか元服をお認めください!」
懇願にも似たマルクスの声に、それでもローザリッタは否と唱えた。
「今のままでは足りないのです! 納得できないのです! わたしはもっと強くなれる、いや、ならなくちゃいけないんです!」
「――これ以上、そなたが強くなってどうする!」
なお聞き分けのないローザリッタを、マルクスは一喝する。
「そなたはもう頑張らなくてよいのだ。もう誰も、そなたが伯爵家の跡取りとして不足だなどと思っておらぬ。それだけのことをそなたは成し遂げた。そなたは自分の幸福だけを考えていればそれでいい。どうして、それがわからん⁉」
それは当主としてよりも、娘を案じる親としての言葉だったのかもしれない。わざわざ娘を危険な目に遭わせたい父親はいない。
しかし。
「……お父様のお言葉でも、それだけは聞けません」
ローザリッタの表情から怒りが消えた。いや、怒りを上回る何かが塗り潰した。
一切の表情が消え失せた愛娘を見て、マルクスは眉を顰めた。それが溢れないように懸命に堪えているのだと理解したからだ。失言だったと後悔する。それでも――
「……そなたが引かぬように、儂も伯爵家当主として引くわけにはいかん。だが、我らがこうやって言い争うこと自体、皆に不安を与える。それはそなたも本意ではなかろう。平行線であったとしても、落としどころを用意せねばならぬ」
マルクスは視線を外すと、近くの石灯篭まで歩み寄った。
「――そこでだ。一つ、儂と勝負しようではないか」
「勝負……? まさか、お父様に試合で勝ったら、なんて言うつもりですか?」
「それは勝負として成立せんよ」
マルクスは当然のように語った。悔しいが、厳然たる事実である。他の門弟たちならばともかく、今のローザリッタの実力がマルクスに及んでいないことは、自分が一番理解している。だから、武者修行に出たいのだ。
「斬ってみよ」
マルクスは石灯篭の頭をぽんぽんと叩いた。
「え?」
予想外の言葉に、ローザリッタが気の抜けた声を出す。
「この石灯篭を刀で斬ってみよ。さすればそなたの元服を認め――武者修行を許そうではないか」
「……ふざけているのですか?」
苛立ちを隠そうともせずに、ローザリッタは尋ねた。
そもそも斬れるという現象は、刃を押し当てられた物体が、左右に引っ張られる応力によって変形する性質を利用して分裂することをいう。つまり、ただ硬いだけで粘りのない石などは、斬るということに関してはまったくの不向きなのである。何せ、斬れる前に砕けるのだから。無論、この灯篭のような石細工があるからには、職人技術としての石割は実在するだろう。だが、やはりそれも斬るのとは方向性が違う。
据物斬りの的として石灯篭を用いるなど不適切極まりない。そんなこと、少し考えれば誰でもわかることである。旅立たせないための方便、あるいは難癖。ローザリッタがそう捉えるのも当然だ。
「儂に勝つよりは現実的だろうよ」
抗議の眼差しを、マルクスは柳に風と受け流した。
「それに――無理難題であるのは否定せんが、不可能かどうかは、その眼で確かめるがいい」
そう言うと、マルクスは灯篭から一歩下がって本差をすらりと抜いた。
流れるように構えたのは甲冑式の上段。それ自体は何の変哲もない基礎の型だが、マルクスのそれは王国最強の名に恥じず、一分の隙もない。
(……相変わらず、非の打ち所がありませんね)
悔しさを覚えつつも、ローザリッタは内心で感嘆する。構え一つで、父と自分との距離が痛いほど伝わってきた。ヴィオラはローザリッタの才覚を絶賛したが、それでもまだまだ遠い場所に彼は立っている。あの境地に辿り着くのに、自分はあと何年鍛えればいいのだろう。どんな修行をすればいいのだろう。
(でも、いくらお父様でも、石灯篭を斬るなんてできるはずがない)
全身全霊で打ちつけたとしても、せいぜい表面が砕ける程度。下手をすれば、刀のほうが折れ飛ぶ。常識的に考えて不可能だ。不可能のはずだ。
(あれ……?)
ローザリッタはマルクスの周囲の空気が変わるのを感じた。どこがどうと、うまく説明はできない。ただ、何かが違う。感覚的な表現ではあるが、まるで世界そのものがマルクスに跪いているような――
「ぬんっ!」
かっと目を見開くと同時に、裂帛の気合を伴って神速の斬撃が放たれた。
ローザリッタは目を疑った。
振り下ろされた刀身は、石灯篭に弾かれることもなく、折れることもなく――灯篭の胴体を袈裟懸けに、弧を描いて斬り抜けたのだ。
「…………」
一瞬の沈黙の後、ずず、と石灯篭の上半分が滑り出し、激しく音を響かせながら地面に転がり倒れた。遠くで鳥たちが羽ばたき、池の魚が跳ねる。あまりの出来事に、ローザリッタも開いた口が塞がらなかった。
倒れた灯篭の断面はまるで磨かれた鏡のように滑らかだった。単純な力でかち割ったのだとしたら、このような平坦な切れ口になるはずがない。マルクスは本当に刀で石灯篭を断ち斬ったのだ。しかも、マルクスの刀身は刃毀れさえしていない。現実離れした光景だが、この目で見てしまった以上、現実だと認めるしかない。
「……どうだ。不可能ではなかろう?」
血振るいの後、鍔を鳴らして刀を納めたマルクスがローザリッタに向き直る。
「七日、猶予を与えよう。これができなければ武者修行は諦め、早々に結婚すると約束してもらうぞ。これが儂にできる最大限の譲歩だ。よいな?」
ローザリッタは何も言い返せなかった。
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周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
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