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34.嫌な現実

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    カイル様から新たな魔術書の存在を知らされた私は、はっきり言ってやさぐれていた。


 魔術書に選ばれた存在といえば聞こえはいいが、これって俗に言う貧乏くじを引かされたというものでは……。

 カイル様が契約した『聖霊の書』の話を聞くにつれ、私のほうの『聖魔の書』がいかに特殊で危険な本なのかということがよくわかってしまったのだ。


 ──いや、知ってたけどね。知ってたけどさ……。


 あらためて認識させられれば、聞かなかったほうがよかったと思わずにはいられない。
 最悪な道を無理矢理選択させられて歩み始めた後に、他の人はもう少しマシな道を行ったと聞かされれば、気持ちが荒む。

 ただでさえ、今その道を進むのに大きな壁にぶち当たっている状態に加え、その状態を作り出すことになった原因ともいえる相手がその壁を乗り越えるための指南役として派遣されてくるなんて、もう私の残りの人生が罰ゲームに変わってしまったとしか思えない展開だ。


 意図して行ったことではないとはいえ、王家の秘宝を奪った代償は大きかったというこということだろうか。

 私だって返せるものなら返したいが、その方法が契約者の死という形しかないと聞かされて、泣く泣く諦めることになってしまった。


 だって、一回死の恐怖を味わっている私が一番手放せないものがこれだからね……。


『死ぬ気で頑張れ』


 そう言ったカイル様のアドバイスが、今の私にとってベストマッチな言葉だということをしみじみと実感したのだった。




 それから私のモチベーションは上がらないまま、アーサー・ロイドという少年として王弟殿下と再会する日がやって来た。

 約束の時間よりだいぶ遅れて私が滞在しているエセルバート公爵邸の特別施設に現れた王弟殿下は、ロザリーとして出会った時の貴公子然とした憧れのアーサーの姿は見る影もないほど、ろくでなし感満載の人物だった。


 引っ掛けただけの上着に、ろくにボタンが留められず胸元まで開けられたシャツ。
 ほんのりと漂うアルコールの香りに混じった香水の匂いと気怠げな雰囲気が、昨夜行われたと思われる過度の飲酒と女性との逢瀬を明確に教えてくれていた。

 こんな状態の王弟殿下に、カイル様も苦い表情をしている。


「……アルフレッド様。少しはシャキッとしていただかないと、示しがつかないのですが」

「仕方ねぇだろ。こっちは、さっき寝たばかりなのを無理矢理起こされて、しんどいんだから……」


 あくび交じりでそう言った王弟殿下に、カイル様が呆れたような視線を送った。

 ちなみに今の時刻はもう昼過ぎで、本来の約束の時間から優に二時間以上は経っている。


「何時だと思ってるんですか?こっちも暇じゃないんですよ」


 私が王弟殿下と顔を合わせる日という事で、気を遣ってくれたらしいカイル様は、わざわざ仕事を抜け出して約束の時間に邸に戻り、王弟殿下の訪れを一緒に待っていてくれたのだ。

 ところが、当の本人は大幅な遅刻を悪びれることなく、堂々と眠いと不満を訴えている。

 一体何をしたら、昼過ぎまで寝ている自堕落な生活になるのか不思議に思ったのだが、その疑問はすぐに解決した。


「昨夜はなかなか解放して貰えなくてさー、朝までフルコースだったんだよ。いい女なんだけど、ベッドの中じゃしつこくて……」


 恥じらいもなくこんな話題を口にするなんて……。

 あっさりと赤裸々すぎる事情を暴露され、そういった話題に馴染みのない私は絶句してしまう。

 すると、見るに見かねたカイル様がわざとらしく咳払いして、尚も事情を話そうとする王弟殿下をなんとか窘めてくれた。

 そこでようやく私という存在がいたことを思い出したらしい王弟殿下が昨夜の出来事を話すことをやめてくれたのだが、その表情からは少しも悪びれた様子は感じられなかった。


 カイル様はそんな王弟殿下を無視して本題を切り出した。


「それではアルフレッド様。そろそろこの者を紹介させていただいてもよろしいでしょうか?」

「……ああ、頼む」


 王弟殿下の許可が出たところでカイル様から視線を向けられ、私は跪いて頭を下げた。


「アーサー・ロイドと申します」


 そう名乗ると、すぐに王弟殿下が私のすぐ前まで歩みよってきたことが気配でわかり、私の緊張は一気に高まった。


「へぇ……。これが噂の天才少年かー」


 そんな言葉が聞こえた直後、何故か無造作に髪をかき混ぜられ、続けてその大きな手で前髪を掻き上げられるのと同時に、もう片方の手で顎を掬われ、顔を上げさせられた。

 髪に触れた手の感触と、じっと私の顔を覗き込んでくる藍色の瞳が、あの日の図書館の庭での出会いを彷彿とさせる。

 ところが、あの時のようなときめく感情が私の中に生まれることはなく、どこか蠱惑的に見える笑みを浮かべた王弟殿下を見た途端、何故か背筋に寒気を感じてしまった。

 嫌な予感がする……。


「この髪の色といい、瞳の色といい俺の好みドンピシャ。触り心地もいいなー。お前が大人の女だったら確実に惚れてたわ」


 ろくでなしの片鱗が透けて見えるような台詞を言われた直後。

 それまで髪に触れていたはずの王弟殿下の手が、あろうことか呪いのせいで全く自己主張しなくなった私の胸部を撫で回してきたのだ。


 突然すぎる出来事に固まる私。

 唖然とするカイル様。

 不愉快そうに口の端を歪ませる王弟殿下。


 三者三様の反応ではあったが、誰ひとりとして得した人間がいないということだけはよく分かる反応に、私の心は撃沈寸前だった。


「もしかしたらって、ちょっとだけ期待したんだけど、やっぱり男かぁ。あー、がっかりー」


 その言葉を聞いた瞬間。

 私が王弟殿下に抱いていたほのかな恋心も、理想の王子様に対する憧れも、初恋に破れた気まずささえも、一気に私の中から吹き飛んで、綺麗サッパリ消え失せたのだった。
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