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26.契約の対価
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目の前に差し出された短剣をたっぷりと穴があくほど見つめた後、私は意を決してそれを受け取った。
震える手で凝った意匠が細工された豪華な鞘を外し、剥き出しになった刃を見た途端、やっぱり怯んでしまう。
「あのさー、どれだけ時間かけたって避けて通れないんだから、さっさとやっちゃってよ~。僕も父上も暇じゃないんだよねー」
私はわりと早い段階でほぼ置物状態になっていた国王陛下の存在を思い出し、慌てて短剣の刃先を自分の左手の親指の腹に押し当てた。
よく手入れが行き届いているらしい王太子殿下の短剣は、予想以上に切れ味がよく、すぐに血が滲んでくる。
「じゃあ、その血をここに垂らしてくれる?」
王太子殿下は『聖魔の書』の表紙を捲ったところに描かれている幾何学模様の中心部分を指差した。
私は自分の血で本を汚してしまうことに躊躇いながらも、主君となった王太子殿下の命令には逆らえず、崖から飛び降りるくらいの決死の覚悟で、血に濡れた親指を本の上に突き出した。
傷口から滲む血を無理矢理搾るようにして、模様の中心と思われるところ目掛けて垂らしていく。
真っ赤な粒が一滴、本に触れた途端──。
それは突然眩しいほどの光を放ち、跡形もなく消え失せた。
何!?一体何が起こったの?!
私は自分の血が付いて本を汚してしまわなかったことに安堵しながらも、よく状況が把握出来ずにただ目を白黒させていた。
「これでキミと『聖魔の書』の契約はなったはずだ」
そう言われても正直実感は、──全くない。
物語に出てくる表現のように、力が漲るだとか、凪いだ湖面のように静かで落ち着いた心境になるといったことはまるでなく、いつもの私と何ら変わりはないようだ。
あえて云うのならば、多少首筋がスースーするくらいで。
……ん?……スースー???
私はその正体を探るべく、ハーフアップに纏められていたはずの自分の髪に触れた。
その途端。
そこにあったはずの髪は跡形もなく無くなり、髪を纏める役割を担っていたはずの髪飾りが、毛足の長い高級絨毯の上に音もなく着地した。
──え!?
「実は『聖魔の書』と契約するには、それ相応の対価が必要なんだ」
「は!?」
「キミの場合はその月光の輝きのようなの髪の毛だったみたいだねー」
私はあまりに突然起こった自らの変化に絶句した。
何ソレ……?全く聞いてないんですケド……。
もう王太子殿下には何を言っても無駄だとこの短時間で学んだ私は、説明を求める意味で、もうひとりの置物状態になっていた人物であるカイル様に視線を向けた。
「あー、その手の本と契約すると、その対価として身体の一部が劇的に変化することが往々にしてあるんだ。だから余程強い魔力を必要とする場合じゃない限り、リスクを冒してまで契約する人間はいない。大抵の人間は本に選ばれて使えるようになっただけで満足してしまうからな」
「そんな…!!」
私も立派な魔術師になどならなくても、人間魔石くらいで充分だったのに……。
そうは言っても、既に契約はなされてしまったようだから仕方ない。
私は手の感触だけで、自分の髪の長さを確認していく。
──絶対に結べないであろう長さになってはいたが、それほど見苦しい事になってはいないようだった。
丸坊主じゃなかっただけヨシとしないと……。
女の命と言われる髪を失ったにも関わらず、そんな事を考えられる私は、結構な楽天家らしい。
それでも事前に何の説明もしてくれなかった王太子殿下に恨みがましい気持ちを持たずにはいられない。
まあ、口には出しませんけどねー。
「異論は認めないし、無理だと思う事も認めないって言っただろう?説明したところで、実際に何が起こるかまではわかんなかったんだから、無駄だよねぇ?」
私の気持ちを読んだような王太子殿下の答えに、私は慌てて表情を取り繕った。
その時。
「フェリクス。そこまでにしておきなさい。本当はお前だって、このような結果になるとは思っていなかったのだろう?──まさかロザリーの美しい髪が失われてしまうとは」
思いがけない国王陛下の言葉に、王太子殿下はばつの悪そうな表情になっていく。
国王陛下はソファーから立ち上がると、そんな王太子殿下の様子を気にすることなく、私の前へとやってきた。
「ロザリー。こんな結果になって申し訳ない。そなたの犯した罪は普通に考えれば、極刑は免れないほど重大な事態を招く可能性があったことに相違はない。──しかしそなたはあくまでも何も知らずに、偶然与えられられた力を使っただけに過ぎない。しかもそれがもたらした結果はほぼ無害だ。それに元はと云えば、そもそもの原因はアルフレッドの女癖の悪さに由来するのだ。……『聖魔の書』のことさえなければ、こような大仰な事態にならずに済んだのだが……」
突如もたらされた予想を裏切る事実を前に、国王陛下直々のありがたい謝罪は私の耳を素通りしていく。
何て事……!!
呪いの本にさえ選らばれなければ、無罪放免だった可能性もあったとは……!!
ん……?待てよ。そもそもあの本に選ばれなかったら、あんな行動はしてないはずだから、罪自体が存在していないわけで……。
もっと言うなれば、あの時図書館にさえ行かなければ本に選ばれる事もなかった筈。
………………。
結局、自業自得という結論に達しそうになったところで、私は今更これ以上考えてもどうしようもない事に気付き、速やかに考えるのを止めた。
「父上の仰るとおり、キミの場合は仕出かしたことより、『聖魔の書』に選ばれた事のほうが重大な事態なんだ。なんてったって自覚なしに精神干渉系の魔術とか使っちゃうんだよ?どう考えても危険だよねぇ。犯罪者の臭いがプンプンするだろ?それを野放しにしておくわけにはいかないんだから、どっちにしろキミは捕らえられる運命だったんだよ。それが理解できて正しい知識も、素晴らしい能力も手に入ったんだ。髪の毛くらい高い授業料払ったと思いなよ」
王太子殿下の恩着せがましい言葉に、私は成る程と頷きかけて、ハッと我に返った。
「えーっと、……私はこれからどうなるのでしょうか?」
犯罪者じゃないのならば、王太子殿下に忠誠を誓って駒になる必要もないわけで……。
おずおずとそう訪ねると、王太子殿下は今までで一番素敵な笑顔を私に見せて下さった。
「あのね。キミ、忠誠の誓いってそう軽いものじゃないって知ってる?それを勝手に反故にするのならば、それこそ処刑ものだけど」
「うっ……」
「それにねぇ、キミ、王家の秘宝と契約したんだよ?わかる?すなわちキミは王家の物になったも当然なんだ。勝手な真似されちゃ困るんだよねー」
「………」
言ってることは理不尽だが、今の私にはぐうの音も出ない。
「髪の毛のことは残念だったと思うけど、どうせキミはもうロザリー・クレイストンとして生きていく訳にはいかなかったんだからちょうど良かったかもよ」
「そんな……っ」
「よく考えてみてよ。今まで魔力どころか何の特徴もなかったキミが突然魔術を使えるようになったなんて、どう考えても不自然だろ?必ず余計な詮索をしてくる奴が現れる。キミは叔父上の一件でわかるように非常に単純で騙されやすい性格をしているからね。絶対に悪い男に引っ掛かって、知らないうちに犯罪に加担して、処刑される未来しかみえないけど」
酷い言われように私は最早王太子殿下の言葉を理解しようとする事を止めた。
「まあ、どのみちキミにはこの先の人生、男として生きていって貰おうと思ってたから、髪が短くても支障はないんじゃない?」
「はい……?」
どうして私が氏素性だけでなく、性別まで変える必要があるんですかね?
禁術が使えるようになった私が、悪い男に引っ掛かって利用され、本当に国家反逆罪になる未来を潰すという理由だけでは弱すぎる。
「ねぇねぇ。よく考えてみてよ。百年以上ぶりに見つかった『聖魔の書』と、それに選ばれた人間だよ?僕達王家の人間がそれをみすみす見逃すと思う?」
…………。……うん。そうだよね。思わない、かな。
けど、それが男じゃないと駄目な理由にはならないと思います。
そう考えた私は全く持って甘かったのだろう。
王太子殿下は呆れたような視線を私に向けてきた。
「あのさぁ、キミもしかして、王族の側に仕える魔術師になれるのは男だけだっての、知らないの?」
「えぇーーーーっ!!!」
震える手で凝った意匠が細工された豪華な鞘を外し、剥き出しになった刃を見た途端、やっぱり怯んでしまう。
「あのさー、どれだけ時間かけたって避けて通れないんだから、さっさとやっちゃってよ~。僕も父上も暇じゃないんだよねー」
私はわりと早い段階でほぼ置物状態になっていた国王陛下の存在を思い出し、慌てて短剣の刃先を自分の左手の親指の腹に押し当てた。
よく手入れが行き届いているらしい王太子殿下の短剣は、予想以上に切れ味がよく、すぐに血が滲んでくる。
「じゃあ、その血をここに垂らしてくれる?」
王太子殿下は『聖魔の書』の表紙を捲ったところに描かれている幾何学模様の中心部分を指差した。
私は自分の血で本を汚してしまうことに躊躇いながらも、主君となった王太子殿下の命令には逆らえず、崖から飛び降りるくらいの決死の覚悟で、血に濡れた親指を本の上に突き出した。
傷口から滲む血を無理矢理搾るようにして、模様の中心と思われるところ目掛けて垂らしていく。
真っ赤な粒が一滴、本に触れた途端──。
それは突然眩しいほどの光を放ち、跡形もなく消え失せた。
何!?一体何が起こったの?!
私は自分の血が付いて本を汚してしまわなかったことに安堵しながらも、よく状況が把握出来ずにただ目を白黒させていた。
「これでキミと『聖魔の書』の契約はなったはずだ」
そう言われても正直実感は、──全くない。
物語に出てくる表現のように、力が漲るだとか、凪いだ湖面のように静かで落ち着いた心境になるといったことはまるでなく、いつもの私と何ら変わりはないようだ。
あえて云うのならば、多少首筋がスースーするくらいで。
……ん?……スースー???
私はその正体を探るべく、ハーフアップに纏められていたはずの自分の髪に触れた。
その途端。
そこにあったはずの髪は跡形もなく無くなり、髪を纏める役割を担っていたはずの髪飾りが、毛足の長い高級絨毯の上に音もなく着地した。
──え!?
「実は『聖魔の書』と契約するには、それ相応の対価が必要なんだ」
「は!?」
「キミの場合はその月光の輝きのようなの髪の毛だったみたいだねー」
私はあまりに突然起こった自らの変化に絶句した。
何ソレ……?全く聞いてないんですケド……。
もう王太子殿下には何を言っても無駄だとこの短時間で学んだ私は、説明を求める意味で、もうひとりの置物状態になっていた人物であるカイル様に視線を向けた。
「あー、その手の本と契約すると、その対価として身体の一部が劇的に変化することが往々にしてあるんだ。だから余程強い魔力を必要とする場合じゃない限り、リスクを冒してまで契約する人間はいない。大抵の人間は本に選ばれて使えるようになっただけで満足してしまうからな」
「そんな…!!」
私も立派な魔術師になどならなくても、人間魔石くらいで充分だったのに……。
そうは言っても、既に契約はなされてしまったようだから仕方ない。
私は手の感触だけで、自分の髪の長さを確認していく。
──絶対に結べないであろう長さになってはいたが、それほど見苦しい事になってはいないようだった。
丸坊主じゃなかっただけヨシとしないと……。
女の命と言われる髪を失ったにも関わらず、そんな事を考えられる私は、結構な楽天家らしい。
それでも事前に何の説明もしてくれなかった王太子殿下に恨みがましい気持ちを持たずにはいられない。
まあ、口には出しませんけどねー。
「異論は認めないし、無理だと思う事も認めないって言っただろう?説明したところで、実際に何が起こるかまではわかんなかったんだから、無駄だよねぇ?」
私の気持ちを読んだような王太子殿下の答えに、私は慌てて表情を取り繕った。
その時。
「フェリクス。そこまでにしておきなさい。本当はお前だって、このような結果になるとは思っていなかったのだろう?──まさかロザリーの美しい髪が失われてしまうとは」
思いがけない国王陛下の言葉に、王太子殿下はばつの悪そうな表情になっていく。
国王陛下はソファーから立ち上がると、そんな王太子殿下の様子を気にすることなく、私の前へとやってきた。
「ロザリー。こんな結果になって申し訳ない。そなたの犯した罪は普通に考えれば、極刑は免れないほど重大な事態を招く可能性があったことに相違はない。──しかしそなたはあくまでも何も知らずに、偶然与えられられた力を使っただけに過ぎない。しかもそれがもたらした結果はほぼ無害だ。それに元はと云えば、そもそもの原因はアルフレッドの女癖の悪さに由来するのだ。……『聖魔の書』のことさえなければ、こような大仰な事態にならずに済んだのだが……」
突如もたらされた予想を裏切る事実を前に、国王陛下直々のありがたい謝罪は私の耳を素通りしていく。
何て事……!!
呪いの本にさえ選らばれなければ、無罪放免だった可能性もあったとは……!!
ん……?待てよ。そもそもあの本に選ばれなかったら、あんな行動はしてないはずだから、罪自体が存在していないわけで……。
もっと言うなれば、あの時図書館にさえ行かなければ本に選ばれる事もなかった筈。
………………。
結局、自業自得という結論に達しそうになったところで、私は今更これ以上考えてもどうしようもない事に気付き、速やかに考えるのを止めた。
「父上の仰るとおり、キミの場合は仕出かしたことより、『聖魔の書』に選ばれた事のほうが重大な事態なんだ。なんてったって自覚なしに精神干渉系の魔術とか使っちゃうんだよ?どう考えても危険だよねぇ。犯罪者の臭いがプンプンするだろ?それを野放しにしておくわけにはいかないんだから、どっちにしろキミは捕らえられる運命だったんだよ。それが理解できて正しい知識も、素晴らしい能力も手に入ったんだ。髪の毛くらい高い授業料払ったと思いなよ」
王太子殿下の恩着せがましい言葉に、私は成る程と頷きかけて、ハッと我に返った。
「えーっと、……私はこれからどうなるのでしょうか?」
犯罪者じゃないのならば、王太子殿下に忠誠を誓って駒になる必要もないわけで……。
おずおずとそう訪ねると、王太子殿下は今までで一番素敵な笑顔を私に見せて下さった。
「あのね。キミ、忠誠の誓いってそう軽いものじゃないって知ってる?それを勝手に反故にするのならば、それこそ処刑ものだけど」
「うっ……」
「それにねぇ、キミ、王家の秘宝と契約したんだよ?わかる?すなわちキミは王家の物になったも当然なんだ。勝手な真似されちゃ困るんだよねー」
「………」
言ってることは理不尽だが、今の私にはぐうの音も出ない。
「髪の毛のことは残念だったと思うけど、どうせキミはもうロザリー・クレイストンとして生きていく訳にはいかなかったんだからちょうど良かったかもよ」
「そんな……っ」
「よく考えてみてよ。今まで魔力どころか何の特徴もなかったキミが突然魔術を使えるようになったなんて、どう考えても不自然だろ?必ず余計な詮索をしてくる奴が現れる。キミは叔父上の一件でわかるように非常に単純で騙されやすい性格をしているからね。絶対に悪い男に引っ掛かって、知らないうちに犯罪に加担して、処刑される未来しかみえないけど」
酷い言われように私は最早王太子殿下の言葉を理解しようとする事を止めた。
「まあ、どのみちキミにはこの先の人生、男として生きていって貰おうと思ってたから、髪が短くても支障はないんじゃない?」
「はい……?」
どうして私が氏素性だけでなく、性別まで変える必要があるんですかね?
禁術が使えるようになった私が、悪い男に引っ掛かって利用され、本当に国家反逆罪になる未来を潰すという理由だけでは弱すぎる。
「ねぇねぇ。よく考えてみてよ。百年以上ぶりに見つかった『聖魔の書』と、それに選ばれた人間だよ?僕達王家の人間がそれをみすみす見逃すと思う?」
…………。……うん。そうだよね。思わない、かな。
けど、それが男じゃないと駄目な理由にはならないと思います。
そう考えた私は全く持って甘かったのだろう。
王太子殿下は呆れたような視線を私に向けてきた。
「あのさぁ、キミもしかして、王族の側に仕える魔術師になれるのは男だけだっての、知らないの?」
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