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23.別れの時

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    クレイストン伯爵邸に到着すると、事前に私の帰宅について連絡があったらしく、長兄のジョシュアがわざわざ玄関前まで出てきて待っていてくれた。
 その後ろには執事のロバートと侍女頭のターニャが沈鬱な面持ちで控えている。

 いつもこの時間は仕事で邸にいることのない長兄がいることに違和感を感じつつも、仕事どころではなくなった原因を作ってしまった自分に対して益々自己嫌悪の気持ちが強まっていった。

 普段から柔和な笑顔を絶やさない兄も、今日ばかりはさすがに厳しい表情になっており、心なしか顔色も優れないように見える。
 兄から笑顔と顔色を失わせたのが私だと思うといたたまれないが、その事実から目を逸らす訳にもいかない。

 出来ることなら地面に手をついて誠心誠意謝りたかったが、そうしたところで許されるような事でもないだけに、自己満足にしかなりえない行為をあえてするような愚かな真似は出来なかった。

 それ以前に、この帰宅に際してカイル様から家族や屋敷に仕えてくれている人間と言葉を交わす事自体を禁止されているため、私にはもう自分の言葉で謝るチャンスすらないのが現実だ。

 私は申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、兄の顔を真っ直ぐ見つめた。


 長兄はその朗らかな外見からは想像もつかないほどドライな性格をしている人物だが、私と私の二歳年上の姉のソフィアに対しては掛け値なしに優しかった。

 私達が幼い頃は、よく本の読み聞かせをしてくれたり、自分で作った物語を聞かせてくれたりしたものだ。私の本好きの原点は間違いなくこの兄である。

 そんな兄と、これが今生の別れになるのかもしれないのだ。

 幼い頃の無邪気で楽しかった思い出が次々と脳裏を過り、私は胸が締め付けられていくような切ない気持ちにさせられた。

 こんな状態では、たとえ言葉を交わすことが許されていたとしても、確実に何も言葉が出てこなかったに違いない。


 このまま兄の顔を見ていたらあられもなく泣き出してしまいそうで、私は今までの感謝の気持ちを込める意味でも、ただ頭を下げ続けることしか出来なかった。
 そんな私に対して、兄は何も言わず、小さい頃によくしてくれたようにポンポンと頭を撫でてくれたのだった。


 懐かしいな……。そういえば昔、私とソフィア姉さまは、ジョシュア兄さまが本物の王子様だと思ってたんだっけ……。

 もう一度あの頃からやり直すことができたのならば、こんな風に間違ったりしないのに……。


 後悔の気持ちばかりが次から次へと湧いてきて、私は段々平静を保っていることが難しくなり、今にもみっともなく取り乱してしまいそうになっていた。


その時。


「ロザリー。そろそろ」


 後ろからカイル様に声を掛けられ、私は何とか自分の中に渦巻く気持ちを表に出さずに押さえ込むことに成功すると、断腸の思いで兄から離れた。


「ジョシュア・クレイストン殿。先程連絡したとおり、急で申し訳ないが、よろしく頼みます」

「エセルバート公爵。貴方が申し訳ないなどと仰る必要はどこにもございません。こちらこそ、謝罪の言葉を申し上げることすら烏滸がましい事態を引き起こしたにも関わらず、このように特別なご配慮を下さった事、深く感謝申し上げます」

「クレイストン伯爵はご不在だと伺いましたが」

「ええ。父は普段は領地のほうへ行っていることが多いもので……。しかし此度の事、領地にいる父には緊急連絡用の魔道具を使って既に連絡済みでございます」

「クレイストン伯爵は何と?」

「どのような結果になっても、国王陛下とエセルバート公爵の下された判断に従うとの事でした」

「……わかりました。陛下にもそうお伝えしておきましょう。──それではロザリーの準備をお願い致します」

「はい」


 兄は頷くと、すぐに後ろに控えていた侍女頭のターニャに目配せした。


「……かしこまりました。ロザリー様。こちらへ」


 私はターニャに促されるまま、その後について屋敷の中へと入っていった。


 ターニャは王都にあるクレイストン伯爵邸に長年勤めてくれているベテラン侍女で、私との付き合いはそれこそ母のお腹の中に宿った時からというものだ。

 本にばかりのめり込み、貴族の令嬢として最低限のことだけできていればいいという考え方をする私に対して、貴族の令嬢としての在り方を再三再四苦言を交えて指導してくれた人物だ。

 私はターニャの後ろ姿をぼんやりと眺めながら、彼女の言葉を聞かなかった結果、こんな事態を引き起こしてしまったことに対して、情けなさと申し訳なさを感じていた。


「さあ、準備はできております。私に全てお任せください。私の大事な大事なお嬢様が誰よりも素敵なご令嬢だということをたまには確認させてくださいな」


 私の使っていた部屋に入るなりそう言ったターニャに、私はどういう反応をしたらよいのかわからなかった。
 今になってようやく口煩いと思っていた彼女が、誰よりも私を大事に思っていてくれていたのだということがわかり、私の心は色んな感情でぐちゃぐちゃになっていく。

 いつも厳しい印象しかなかったターニャがこんな時ばかり優しくしてくれるせいか、私はそれまで必死に堪えていた気持ちが一気に溢れ出し、不覚にも堰を切ったように泣き出してしまった。

 ターニャはそんな私を優しく抱き締めると、私の気持ちが少し落ち着くまでずっと背中を擦ってくれたのだった。


「さあ、そろそろお着替えいたしましょうか。エセルバート公爵様がお待ちですから」


 私は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を、ターニャが用意してくれたハンカチで拭ってから顔を上げ、大きく頷いた。


 それからのターニャの仕事は早かった。

 別人かと思うほどの特殊メイクを施され、私の瞳の色と同じ薄紫色のドレスを着せられて、華美にならなよう最低限のアクセサリーを身につけた私は、どこからどう見ても立派な貴族令嬢となっていた。


「やっぱりロザリー様は、お美しいですわ」


 その一言にうっかり涙腺が緩みかけたものの、必死に堪え、感謝の言葉を伝えられない代わりに、ターニャに向かって微笑みかけた。


 ──ありがとう、ターニャ。こんな時になってようやく貴女に教えてもらっていたことの大切さがわかるなんて、私は本当に大馬鹿だったわ……。ごめんなさい。


 私は心の中でターニャに感謝と謝罪の言葉を呟くと、もう一度ターニャと抱き合ってから、カイル様のもとへと向かったのだった。

 玄関ホールに向かうと、カイル様の姿は既になく、そこにいたのは兄のジョシュアと執事のロバートだけだった。

 支度を終えて現れた私に、兄がカイル様は先に馬車で待っていると教えてくれた。

 どうやらまたしてもカイル様が気を遣ってくれたらしい。

 本当によく出来た人物だと感心してしまう。

 カイル様のようにとまではいかなくとも、私にも何か出来ることはないだろうかと考えてみたが、残念ながらよい考えは浮かんでこなかった。

 それならば今の私にできる精一杯ことをしよう。

 せめて最後くらいは貴族の令嬢らしく、胸を張って優雅に微笑んでお別れすればいい。


 私は軽く深呼吸してから、ありったけの感謝の気持ちを込めて微笑むと、ドレスの裾を軽く持ち上げて淑女の礼をとった。

 別れの挨拶として些か味気ない気もするが、これが今の私に出来ることだ。

 私は未練を絶ち切るようにして踵を返すと、振り返ることなくカイル様の待っているエセルバート公爵家の馬車へと乗り込んだのだった。

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