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2巻

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   第一章 またしても王宮


「ここがしばらくのあいだ、君に滞在してもらうことになる王太子宮だ」

 なんだかどこかで聞いたことのあるような台詞だな、なんてぼんやりと思いながら、薄暗い廊下をドルマキアの王太子であるクラウス・ネイサン・ドルマキアと肩を並べて歩く。
 その三歩ほど後ろにいるのは、近衛騎士団の白い制服を身にまとったユリウス。
 すっかり仕事モードになってるせいなのか、それともここに来ることになった事情のせいか。
 最近一緒にいる時に見せてくれていた柔らかい表情や甘い雰囲気は微塵みじんもなく、出会ったばかりの頃のような険しい表情のまま、ピリピリした空気をかもし出している。
 王太子殿下にしても、穏やかな笑みを口元に浮かべてはいるが、そこに疲れの色が見え隠れするのは気のせいじゃないだろう。
 かくいう俺も、あまりに急すぎる展開と、最悪としか言いようのない状況のせいで、愛想笑いすらする気になれない。
 もともと王宮に足を運ばなきゃならない事情があったとはいえ、まさか王太子宮なんていう滅茶苦茶プライベートな空間に足を踏み入れることになるとは、数時間前の俺には想像もつかなかったことだ。しかもこんなとこまで来てるのに、本来の目的がいつ達成できるかわからないっていうオマケつき。
 正直言ってこの状況、マジで憂鬱ゆううつでたまらないし、できることなら今すぐにでもなかったことにしてもらいたい。
 ――まあ、そうできない事情があるからこそ、俺は今ここにいるんだけどさ……


   ◇


 俺、ジェイドことジェラリア・セレナート・リンドバルは、今はマレニセン帝国の一領土となっている旧リンドバル王国の第三王子だった。
 王子と言っても国王の実子ではなく、国王の妹ファウスティーナ王女が未婚のまま産んだ子供。
 そのファウスティーナ王女は、俺を産んですぐに、女神が生まれたという伝説が残る湖に身を沈めて自ら命を絶った。
 俺が生まれた旧リンドバル王国は古い慣習が残る、閉鎖的な風潮がある国で、婚前交渉は忌避きひされることであり、未婚のまま子供を産むことは罪とされていた。
 さらに父親が誰かもわからなかった俺は、妹姫を溺愛できあいしていた国王にとって罪のかたまりのような存在だったらしく、表向きは国王夫妻の実子として公表されたものの、その存在はないも同然のものとして扱われていたのだ。
 そんな生まれた時からケチがついたような俺の人生は、平穏なんてものとは縁がなく、常に波乱がつきまとうものだった。
 十三歳の時。俺は祖国リンドバルを守るために、大国ドルマキア王国の王太子の側室として差し出された。
 しかしドルマキアで待っていたのは愛のない結婚生活どころか、人間の扱いすらしてもらえない過酷な生活。
 結婚相手である王太子とは顔を合わせることもなく、俺は俺の存在が気に入らなかったらしい王妃の手によって、常に死と隣り合わせの生活をいられた。
 そんな日々が一年半ほど続いたある日。ほとんど死にかけていた俺は、突如侵入してきた何者かによって、監禁されていた場所から連れ出され、過酷を極めた結婚生活に終止符を打った。
 その時、虫の息で森の中に放置された俺を発見し、介抱してくれたのが、『グリーデン歌劇団』という旅芸人一座。
 彼らのおかげで一命を取り留めた俺は、ジェラリアという名前も過去も捨て、『ジェイド』と名乗り、グリーデン歌劇団の一員としての人生をスタートさせたのだ。
 それからの約五年間。俺は人気劇団として大きく成長したグリーデン歌劇団のいち劇団員であるジェイドとして生きてきた。
 ジェイドになった俺は、舞台で華々しく活躍する役者ではなかったが、グリーデン歌劇団が裏でやっている『身代わり屋』という仕事を担当し、天才とまで言われるほどの演技力を発揮しつつ、普段は母親譲りの優れた容姿を活かしてヒモまがいの生活を送りながら、俺という人間にしては穏やかな日々を過ごしていた。
 身代わり屋の仕事は、時に危険と隣り合わせ。
 でも俺は、スリル満点の仕事にも、他人から見たらいい加減としか思えない生活にも満足していたし、なによりもう二度とジェラリアに戻ることはないということに安堵あんどすら覚えていた。
 ジェイドとしての生き方が定着し、そろそろジェラリアの影も薄れてきたある日。
 いつものように適当な暮らしをしていた俺のもとに、ユリウス・ヴァンクレールと名乗る男が現れた。
 なんとユリウスは、天才身代わり屋として名をせていた俺に、王太子の行方不明になった側室ジェラリア王子の身代わりを依頼してきたのだ。
 身代わり屋として、過去の自分を演じることになってしまった俺は、なんとか本人だとバレずに依頼を成功させようと頑張った。
 でも結局、過去の幻影にとらわれ身体に不調をきたした上に、肝心の依頼も達成できず。しかも最初から身バレしてたっていう恥ずい事実まで発覚し。
 挙げ句にドルマキア国内の陰謀渦巻く宮廷事情に巻き込まれて大ケガを負い、俺は意識のないまま、かつてのリンドバルの王子であり今はマレニセン帝国で要職にいている兄たちに連れられて、ドルマキア王国を去ることになったのだった。
 そんなわけで俺はまたジェラリアに戻り、兄上たちと一緒にマレニセン帝国で暮らしながら、ジェイドの時とあまり代わり映えしないダラダラした生活を送っていたんだけど……
 兄上たちの上司であるマレニセン皇帝ブルクハルトに発破をかけられ一念発起。
 自分の出生にまつわる真実を知り、気持ちに整理をつけるために訪れた旧リンドバルで、なぜか俺を迎えに来たというユリウスに告られ。
 俺はこの時になって初めて、自分がユリウスのことをどう思ってるのかということを真剣に考えはじめて、今に至る。
 ……ちなみに答えはまだ出ていない。
 告白される前に成り行きで身体の関係を持ったことはあったし、気持ちはハッキリしないままでも、なんやかんや現在進行系でセックスしちゃってるし。
 まだぼんやりとしたものしかないけど、俺の中で徐々に育っていっている(であろう)ユリウスへの気持ちを大事にしていきたいな、なんて思いはじめた矢先だったんだけどさー。
 正直、それどころじゃなくなったっていうか。そんな場合じゃないっていうか。
 もともと二度と戻ってくることはないと思っていたドルマキアを、ユリウスと一緒に訪れることになったのは、ドルマキア王族の血を引くことが判明した俺に、王太子殿下が王位継承権なんてものを勝手に持たせてくれちゃったから。
 その放棄の手続きのためにわざわざドルマキアまで来ただけで、ユリウスとの関係云々うんぬんはともかく、それが終わり次第、俺はまたマレニセン帝国に戻るつもりでいた。
 なのに、その手続きを行う直前になってそれどころじゃない事態が起こり、俺も無関係ってわけにはいかなくなって。
 解決の目途がつくまで下手に身動きがとれなくなってしまったのだ。
 なんでこんなことに……
 やっぱり俺の人生っていうのは、波乱ってヤツと縁が切れないものなんだなと、思わずにはいられない。


   ◇


 深夜に近い時間帯。不自然すぎるほどに静まり返っている王太子宮。
 次代の国王が暮らす場所だけあって、豪華な造りの建物ではあるものの、俺が以前滞在していたウィステリア宮同様、どこか寒々とした印象が拭えない。
 これも旧体制の弊害へいがいだと思うと余計に嫌な感じがして、俺は勝手に震え出しそうになる身体を必死に誤魔化しながら、なんとか平静を装って歩いていた。
 これまでさんざん権勢をふるい、王宮内で好き勝手してきた王妃と、その後ろ盾となっていた王妃派と呼ばれる一派に対し、実の息子である王太子殿下は大規模な粛清しゅくせいを行った。
 その結果、王宮内はだいぶ風通しがいい状態になったらしい。
 ユリウスからも、無用な人員を一掃できたことはよかったが、今度は深刻な人手不足になったとは聞いていたから、ある程度は覚悟してたけど……
 正直ここまで閑散としているとは思わなかっただけに、この状況を実際目の当たりにすると、あの王妃の影響力の大きさを目の前に突きつけられた気がして、さっきから寒気に似た不快な感覚が止まらない。
 すんでのところで勝手に漏れ出そうだった溜息は堪えたものの、めっきり重くなった足取りはどうにもできなかった。
 そんな俺の様子を見て、王太子殿下が気遣わしげな視線を向けているのがわかったが、俺はそれに気づかなかったふりをして真っ直ぐに前だけを見据えた。
 ――俺はもう、あの頃みたいな無力な子供じゃない。
 無抵抗のまま理不尽な暴力に耐え続けなきゃならない理由もないし、ヒステリックなオバサンのひとりくらい、やすやすとねじ伏せるだけの力もある。
 でもかつてさんざん味わった恐怖や痛みの記憶は、身体と心の奥底に染みついていて、ふとした拍子に顔を出しては、いつまでも俺をさいなみ続けるってことが、今回のことであらためてよくわかった。
 一歩進むたび、なにかが足元から這い上がってきて、俺の身体を雁字搦がんじがらめにした挙げ句、意識さえも奪い取っていきそうな錯覚に襲われる。
 俺は慌てて素の自分の感情にふたをすると、最近めっきりご無沙汰だった『虚構の自分』を演じることに思考を切り替え、以前王太子殿下と対面した時のように、いかにも王子様らしい表情と口調を心がけながら、当たり障りのない言葉を口にした。
 話すことで少しは気がまぎれることを期待して。

「……あらかじめ伺ってはおりましたが、本当に静かですね」
「驚いただろう? 普段私は王宮にある自分の執務室のほうで寝泊まりしているから、今のところ特に不自由は感じていないんだけど……。たまにここへ戻ってくると、ちょっと思い切りよくやりすぎたかなと思わなくもないよ」

 王太子殿下はさりげなく気を遣ってくれているのか、あくまでも自然な調子で答えてくれたことに少しだけホッとする。
 初めて会った時は、笑顔が胡散臭うさんくさくていけ好かないとまで思ったし、目的のためなら非情な判断も下せる人だってことは、以前俺を遠慮なくおとりに使ってくれた経験からもわかってるけど、今俺に対して向けてくれている気遣いは本物だと思いたい。……信用したわけじゃないけどな。
 王太子殿下は基本腹黒だからさー。なんて思ってたら。

「それにね。ここはじきに私の住まいではなくなるわけだし、体面だけを取り繕って無能な人間をそろえても無駄なだけだから、『次に住む人』が決まってから、あらためて人員をそろえても遅くはないと思ってね」

 やっぱりというか、なんというか。
『次に住む人』なんて、さりげなく含みを持たせたような言い方をしてきたのだ。
 俺はそれにあえてなにも答えず、口元に形ばかりの笑みを浮かべておいた。
 王太子殿下もこれ以上この会話を掘り下げる気はないらしく、すぐに口調をあらためて、話を再開する。

「そういうわけだから、君が滞在するのにもってこいの環境だと思ったんだ。人の出入りはほとんどないから、君がここにいることを外部の人間に知られる危険は少ないし、城下にいるよりも警護がしやすいからね。外部との接触を制限させてもらうことになるから多少不自由かもしれないけれど、基本的には君の好きに過ごしてもらって構わないよ」
「……お気遣いいただきありがとうございます」
「礼には及ばない。むしろこちらは君に謝らないといけないことばかりだし。今回のことも完全にこちらの不手際が招いたことだから」

 ほんの一瞬だけ王太子殿下の表情が悔しそうにゆがんだ気がした。それだけ今回のことは不本意だったってことだろう。
 俺もいろいろと思うところはあるけれど、事情はわかってるつもりだし、今のところこれが最善の対策だっていうのはわかってるから、ほかに言える言葉はない。
 今俺にできることは、王太子殿下とユリウスのかせにならないよう、息を潜めながら自分の身を守りつつ大人しく過ごすことだけだ。
 それが難しい状況だってことはわかってるけどさ。
 本当は誰も住んでいないんじゃないかと思うほど生活感のない空間を抜けた先にあったのは、った造りの装飾が施された豪華な扉。
 最奥にあるこの場所が、王太子殿下の部屋であり、俺がこれからしばらくのあいだ過ごす場所らしい。
 ――他人の部屋って絶対落ち着かなそう……
 なにも考えずダラダラ過ごすのは得意だけど、緊迫した状況がすぐ近くにあるのに、その緊張感を持ちながら自分だけなにもせずに過ごすって、嫌なことばかり考えてしまいそうで、逆にキツいんじゃないかと思うんだ。
 前回ウィステリア宮で過ごした三カ月も精神的にキツかったけど、今回は別の意味でキツそうな気がする。
 せめてなにか役柄を演じてないと、さっきのように得体の知れない闇にあっさり呑み込まれそうで……。正直不安でたまらない。
 さて、どうするかな……

「じゃあ、私はこの辺で。あとはユリウスに任せるよ。なにかあったら、後から来る侍従に言って。自分の住まいだと思って気楽に過ごしてくれていいから」

 ひとり思案していると、王太子殿下に声をかけられ、我に返る。
 そして、今思いついたばかりのことに考えを巡らせつつも、なにごともなかったかのような顔で王太子殿下に礼を述べた。

「……ご案内いただきありがとうございました」
「ユリウス、後は頼んだよ。護衛はほかの者に頼んであるから、しばらくここでゆっくりするといい。夜が明けたら息つく暇もないくらい忙しくなるだろうからね」
「……ありがとうございます」

 ユリウスがうやうやしく頭を下げながら王太子殿下を見送る。
 俺も笑顔を保ったまま王太子殿下を見送った。しかし。

「ああ、そうだ」

 きびすを返したはずの王太子殿下が、歩みを止めて俺たちのほうに振り返る。
 え? なに?

「好きに過ごしてもいいとは言ったけれど、絶対に無茶はしないでね。君になにかあったら、今度こそ本当にドルマキア王国が滅んでしまうから」

 俺のほうをしっかりと見据えながら、優しくさとすような口調でくぎをさしてきた。
 まだなにをすると決めたわけじゃないのに、こんなこと言われるなんて……
 俺ってそんなに無茶する人間だと思われてるってことなのか、それともよほどマレニセンにいる兄上たちが恐ろしいのか。
 俺はあえてハッキリした返事はせず、曖昧あいまいに微笑むだけにとどめておいた。
 王太子殿下の姿が見えなくなるまで見送ってから、ユリウスに扉を開けてもらって室内に足を踏み入れる。
 扉がパタンと音を立てて閉まった直後。

「ジェイド」

 不意に名前を呼ばれたと思ったら、そっと後ろから抱き締められた。さわやかな柑橘かんきつ系の香りが俺の鼻孔をくすぐる。
 しばらくこの香りを感じることもないんだな……
 ほんの数時間前までこの香りに包まれてまどろんでいたのが嘘みたいだ。
 そう思うと急に寂しさが込み上げてきて。俺はユリウスの腕の中で身体を反転させると、向かい合わせの体勢でそっと背中に手を回し、鍛え上げられた男らしい体躯に身体を預けた。

「こんな時に、そばにいられなくてすまない」

 表情は見えないものの、その声からは後悔のようなものがにじんでいるのがわかる。
 ユリウスは王位継承権こそ放棄したもののドルマキア王国の第二王子で、近衛騎士団の団長でもある。
 国の大事だというのに俺のことばかりにかまけているわけにはいかないし、なにより俺自身がそんな真似されたら戸惑ってしまうから、そんなことは端から望んでない。それにさ。
 最近ユリウスと一緒にいることに慣れつつあったけど、王位継承権の放棄の手続きが終われば、俺のドルマキア滞在も終わるわけだし。
 ……ずっと一緒にいられないことくらいは、わかってたから。

「俺は大丈夫。だってこの部屋にいるだけじゃん。状況的には宿にいる時とあんまり変わんないし。ユリウス様のほうがはるかに大変な状況なんだから、俺のことは気にしないでいいよ」

 胸の中に渦巻く不安を隠すように、なるべく自然な口調でそう告げた。


   ◇


 なんで俺が王太子宮で過ごす羽目になったかというと、事の発端は数時間前にさかのぼる。
 王位継承権放棄の手続きのために再びドルマキアに戻ってきて一週間が経った頃。
 ようやく旅の疲れやらなんやらによる体調不良から脱却し、そろそろドルマキア訪問の目的を達成しなきゃな、なんて考えていた矢先のことだった。
 そもそも、俺がもう二度と足を踏み入れることはないと覚悟していたドルマキアに来ることになったのは、ドルマキア王弟の血を引く俺に対して、王太子殿下が勝手に王位継承権なんてものを持たせてくれたせい。
 しかも知らない間にユリウスが継承権の放棄を宣言していたせいで、現在俺は王太子殿下に次ぐ王位継承権第二位というまったく嬉しくない地位にのぼってしまったのだ。
 俺はその事実をリンドバルまで会いに来てくれたユリウスから聞かされ、すぐにでもそんな厄介なものから解放されたいという思いから、ユリウスと一緒にドルマキアを訪れたわけだけど……
 すっかり体力が落ちていた俺は、マレニセンからリンドバル、リンドバルからドルマキアという長距離移動に身体がついていかず、ここ一週間、ユリウスと出会った時に連れ込まれた高級宿のあの部屋に宿泊し、体力の回復に努めていた。
 でも本当に旅の疲れでヘロヘロだったのは最初の一日だけで、後はほとんどユリウスとの情事に由来するものだったりする。
 ユリウスに対する俺の気持ちが完全に固まったわけじゃないし、ユリウスにもそう話してはいるけれど、セックスは別物っていうか、むしろこんな風に肌を合わせることで、今まで知らなかった感情が少しずつ芽吹いていくような気すらして興味深いっていうか。
 とにかく、ユリウスに抱かれることで、快感だけじゃないなにかを得られる気がするし、そういうことをしなくてもユリウスの肌の感触と香りを感じていると穏やかな気持ちで眠れる自分がいることに、ちょっと喜びを感じていたりするのだ。
 これまでの俺は、他人と接する時は常になにかの役柄を演じていて、心の底から安心感を得られたことなんてなかったはずなのに……
 早く本題を済ませてマレニセンに戻らなければ、という気持ちはもちろんある。
 でも最近。なんとなく離れがたいと思ってしまう自分もいて。
 これってちょっとマズい傾向かもなって思いはじめている。
 ベッドに横たわり、浴室かられ髪のまま寝室に入ってきたユリウスを見つめる。
 日がな一日部屋でゴロゴロしてるだけの俺とは違って、ついさっきまで王宮に出仕していたユリウス。
 わざわざ毎日ここまで戻ってくるのは手間だろうし、疲れてないはずはないのに、一緒に過ごす間は俺のことを第一に気遣ってくれる。
 それになにより、リンドバルで再会して以降、本当はよく似た別人なんじゃないかと疑いたくなるほど優しいし、言動がいちいち甘いのだ。
 だからこそ、本格的に自分の気持ちに結論を出す前に、一度距離をおいてこの気持ちを冷静に見つめ直してみるべきだと思っているんだけど……
 ――ちょうどタイミングよく、離れなきゃならない理由もできたことだしさ。

「どうした? そんなじっと見つめて。なにかあったのか?」

 無造作に髪を拭きながらそう尋ねてくるユリウスに、俺はちょっとだけ後ろめたい気持ちになりながらも、不意に話を切り出した。

「あのさぁ。実は俺、そろそろマレニセンに戻ろうかと思ってるんだけど……。今日の昼間、兄上たちからも早く帰国するようにっていう手紙が届いたことだし、ちょうどいい機会かなって。例の手続きの件、どうなってんの?」

 なんと今日の昼間、この宿にいる俺のもとにマレニセン帝国にいる兄上たちから手紙が届いたのだ。一体どこから情報を仕入れているのか。
 そこには帰国を促す言葉とともに、気になる一文があった。

『ジェラリアがマレニセンを発ってすぐに、ダンガイト王国からジェラリアに関する問い合わせがあった』

 ダンガイト王国はドルマキアの南側に位置する国で、国の規模としては大国とまではいかないものの、南側諸国の中では一二を争う国力を持つ国だ。
 ドルマキアの大陸侵攻の際に真っ先に恭順の意を示し、南側諸国攻略の拠点となっていたことのある国だったりもする。
 そんなドルマキアとは浅からぬ縁がある国からの問い合わせ。
 実は俺、一年ほど前に身代わり屋の依頼であの国に滞在していたことがあるんだよな……
 その時の人物の正体がジェラリアだとバレたわけじゃないとは思うけど、俺に関する問い合わせだなんて、なんとなく嫌な感じが拭えない。
 ――その部分をユリウスに話すつもりはないけど。
 俺の問いかけに、ユリウスは難しい顔で黙り込む。そして。

「……お前の体調が万全になってから、と考えていたんだが、お前が望むのなら、明日出仕した際に兄上に伝えておこう」

 まるで感情を無理やり抑えこんでるかのように平坦な調子でそう言ったのだ。
 そんなユリウスの様子に、俺の胸はズキリと痛んだ。
 ドルマキアに来た目的はあくまで王位継承権を放棄するためだし、べつに当たり前のことを言ってるだけなのに、まるで悪いことをしているような気にさせられる。

「気遣ってくれてありがとう。俺はもう平気だよ。むしろこれ以上ここで悠々自適な生活を満喫しすぎて、マレニセンに戻りたくなくなるほうが困るからさー」

 本音を織り交ぜながら、わざと明るい調子で答えてみせる。
 離れがたい気持ちはあるけれど、俺たちにはそれぞれの立場ってもんがある。いつまでもこうしてはいられない。そう思ってるのに。

「俺は、お前がマレニセンに戻りたくないと言ってくれたほうが嬉しい。もっと欲を言うなら、俺と離れがたいと思っていてくれたら、と」

 以前のユリウスじゃ絶対に口にしなかったであろう言葉に、心が揺れた。

「……そんな顔するな。お前のおかげでドルマキアは国の存続を許されたようなものだ。恩をあだで返すような真似はしない」

 苦い笑みを浮かべたユリウスがベッドに上がり、横たわったままの俺にそっと口づける。
 俺は腕を伸ばすと、まだ少し湿しめりけを帯びているユリウスの黒髪に触れながら、それ以上の行為を誘うように薄く唇を開いた。
 ユリウスはその意図をちゃんと理解してくれたらしく、すぐに唇が重なる。どちらからともなく舌を絡ませ、吐息さえも奪われていくような激しい口づけ。
 ただ純粋にお互いを求め合う行為に、ここ数日ですっかりユリウスの手管てくだに慣らされた俺の身体は顕著けんちょな反応を見せはじめた。

「……俺、自分じゃ性欲薄いほうだと思ってたんだけど、ユリウス様と一緒にいると、ものすごくイヤらしい人間になったような気持ちにさせられる」
「それだけ俺を欲しいと思ってくれてるってことだろう? 離れていても俺のことを思い出してもらえるように、この身体に俺のやり方をしっかり刻みつけておかないとな」
「あのさ、そもそも俺はユリウス様のやり方しか知らないから刻みつけるもなにもないんだけど、ちょっと手加減してもらわないとさ、今後ひとりじゃ対処できなくなりそうで……」

 思わず不安を口にした俺に、ユリウスはなにかを考え込む素振りを見せた。
 もしかして、今の発言。誤解を招く言い方だったかな……?
 ひとりじゃ対処できないってことは、誰かとしちゃうかもって宣言してるようなもんだし。

「かといって、誰かをユリウス様の代わりにしようとか思ってないから」

 慌てて言葉を付け足すと、ユリウスはフッと口元をゆるませた。
 その時。
 たった今まで甘い雰囲気をかもし出していたユリウスの気配が一気に変わる。
 なにかを警戒するような鋭い眼差し。

「ここから動くな」

 そう言い残して寝室を出ていったユリウスは、さっきまでとは別人のように見えた。
 扉の向こうから、誰かと話しているらしいユリウスの声が聞こえる。
 内容まではわからないものの、かなり緊迫した状況であることだけは推察できた。
 こんな時間にわざわざこの宿まで訪ねてくるような用事なんて……
 ――嫌な予感しかしない。
『波乱』というものが標準装備になってる俺の人生だけに、残念ながらこの手の予感はよく当たるのだ。

「ジェイド」

 硬い表情をしたユリウスに、俺の察知能力の優秀さを思い知った。

「どうしたの?」
「王宮から緊急の知らせが来た」
「……うん」
「国王が亡くなったそうだ」

 国王が病にせっていて、もう長くはなかったのは周知の事実だ。とはいえ、こんなにすぐ容態が急変するような状態じゃないとも聞いていた。
 だから驚きはしたけれど、ユリウスがこんな顔をすることに、ちょっと違和感がある。
 なんて思っていたら。

「それだけじゃない。……ジェイド、落ち着いて聞いてくれ。王都から遠く離れたところに幽閉していたはずの王妃が、姿を消したという報告だ」
「え……」
「力を失った王妃に今さらなにかできるとは思えない。しかし万が一ということもある。――兄上からの要請だ。俺と一緒に王宮に来てほしい」

 想像以上に深刻な事態を聞かされ、俺は勝手に浅くなっていく呼吸を必死に整えながら、なんとか意識を保っていた。


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