『霧の中の約束』

11話

霧の中で、僕はただ一人、立ち尽くしていた。周りの風景は、どんどんぼやけていき、視界の隅に浮かび上がる一朗太の姿も、まるで夢のように消えていった。彼が微笑んだ顔も、霧の中に溶け込み、すぐに見失った。

「待っていてくれ、一朗太……」僕は心の中で繰り返し、彼の名前を呼び続けた。

その瞬間、宗一郎が僕の肩に手を置いた。「もうすぐだ、お前が決めた通りに進む時が来た。」

宗一郎の声は静かでありながらも、深い意味を含んでいるように感じられた。彼の言葉には、僕がこれから向かう道が、単なる試練ではなく、恐ろしいほどの重要性を持つことを伝えようとする重みがあった。

「でも、どうすれば…？」僕は心の中で、答えが見つからず、口に出すことすらできなかった。霧の中にひしめくように立つ僕の足元が、まるで揺らいでいるかのような不安感に包まれていた。

宗一郎はしばらく黙っていたが、やがて一歩踏み出すと、僕に向かって言った。「あの本は、単なる物理的なものではない。お前の心にある暗い部分、恐怖、後悔、そして未練――それらすべてが絡み合って、あの本の力を増している。だから、あの本を封じるためには、まず自分の心と向き合う必要がある。」

その言葉に、僕は硬直した。心の中に深く潜んでいた恐れが、まるで手を伸ばしてきたかのように感じられた。宗一郎の言う通りだった。僕は、あの本を封じるために、どうしても向き合わなければならないものがある。それは、一朗太との関係、彼との思い出、そしてあの本に対する未練や恐れだった。

僕は一歩前に進み、深く息を吸い込んだ。霧の中で、時間がまた止まったかのように感じられた。その冷たさが、僕の胸の中に染み込んでいく。しかし、その冷たさを感じながらも、僕は決して後ろを振り返らない。

「一朗太……僕が君を救う。これ以上、君をあの本に支配されることは許さない。」

その言葉を胸に、僕はさらに前へと歩みを進めた。すると、突然、空気がひどく重く感じられるようになった。まるで、僕の意志に反応するかのように、霧が渦を巻き始めた。

その時、僕の目の前に一枚の扉が現れた。それは、非常に古びた木の扉で、ところどころ腐敗した跡が見受けられた。周りには一切の音がなく、その扉が突然現れたことに、僕は驚きのあまり、足を止めた。

「これは…？」僕はその扉を見つめながら、宗一郎に尋ねた。

宗一郎は冷静に答える。「それは、試練の扉だ。この扉の向こうに進むためには、お前が心の中で最も恐れているものに向き合わなければならない。」

僕の胸に圧し掛かるような恐怖が広がった。最も恐れているもの――それが何なのか、瞬時に理解した。それは、あの本を封じられなかった場合、僕自身があの本の力に飲み込まれること。僕が失敗し、一朗太が永遠に戻らないこと。その恐れが、僕を支配しようとしていることに気づいた。

「でも…どうすれば？」僕は心の中でその恐怖を打ち消したくて、必死に言葉を探した。

宗一郎は無言で扉に向かって歩き出し、その手を扉の取っ手にかけた。「お前が恐れを乗り越えたとき、この扉は開く。」

僕はそれを見て、深く息を吐いた。彼が恐れを乗り越えて進んでいくその姿が、どこか僕に力を与えるような気がした。だからこそ、僕も進むしかないと、決意を固めた。

「僕も、進む。」僕は呟き、足を前に踏み出した。

その瞬間、扉がギギギと音を立てて開き始めた。霧が扉の向こうに吸い込まれ、真っ暗な空間が広がっていた。その空間の中から、かすかな音が聞こえてきた。それは、まるで誰かが低く呟いているような、囁き声だった。

僕はその声に耳を澄まし、足を踏み入れると、突然、目の前に一朗太の姿が現れた。彼は立ち尽くしていたが、その目はどこか空虚で、僕を見ても何の感情も感じていないようだった。

「一朗太…？」僕はその名前を呼んだ。

一朗太は、ゆっくりと振り向いた。その表情には、何か深い闇が潜んでいた。その闇が、彼を包み込み、彼を僕から引き離しているように感じた。

「お前は、もう僕のことを救えない。」一朗太は冷たく言った。「あの本の力は、もう俺を解放しない。」

その言葉に、僕は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。しかし、同時に心の中で湧き上がったのは、強い決意だった。もし一朗太が言うように、本当にその力に支配されているとしても、僕は諦めない。彼を取り戻すためには、何でもする覚悟があった。

「僕は諦めない。一朗太、君を救うために戦うんだ。」僕は強い声で言い放った。

その言葉を聞いた一朗太の目に、ほんの一瞬だけ、かすかな輝きが宿った。その瞬間、空間が激しく揺れ、霧がまた巻き起こった。あたりの景色が歪んでいく中で、僕は一朗太に向かって駆け出した。そして、その手を取ろうとしたとき――

空間が完全に崩れ落ち、僕は無力感に包まれた。