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91話
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徐晃が興味津々な様子で聞いてくる。
その言葉を聞いて曹操軍の面々も劉備の存在に気付いたらしく一斉に視線を向けるとやはり皆一様に同じ反応を示した。
そして曹操が一歩前に出ると劉備に向かって話しかけてきた。
「貴女が噂の劉備さんね。私は曹孟徳と言うわ。よろしくお願いするわね」
曹操が手を差し出すと劉備も笑顔を見せて応じる。
しかし曹操の手を握った瞬間、劉備の目つきが変わる。それは曹操に対する警戒心の表れであり同時に嫌悪感を表したものだった。
それを感じた曹操も笑みを止めて真面目な表情になると劉備に声をかける。
「貴方が徐州の太守をしていると言う話は聞いた事があるけど、それ以上の事は知らないのよ。それにしてもなかなか美人じゃない。私の妻にならないかしら?」
曹操の誘いに対して劉備は露骨に嫌そうな顔をした。
曹操は相変わらずの調子だったが、それでもさすがに空気を読んでそれ以上何かを言うことはなかった。
曹操軍はここで撤退すべきところではあるが、曹操はこのままでは納得がいかないと考え呂布との一騎討ちを要求する。
それに対し呂布は了承したが、高順が反対した。呂布と互角に渡り合える武将など曹操以外にいないと高順は思っていたが為に呂布の身を案じたのである。
「いや、ここは俺が行くべきだ。あの男とは一度戦ってみたいと思っていた」
呂布は高順にそう言い残して劉備と共に城を出て行った。呂布と曹操の戦いは凄まじく両者共に一歩も譲らない戦いを繰り広げていた。
この時曹操は焦っていた。曹操にはこの戦いは負けるとわかっていたからだ。この戦いは呂布と曹操の一騎打ちではなく呂布と徐栄の二対二の一騎打ちだったのだ。
呂布と徐栄は共に四天王と言われるほどの猛将であるが実力的には徐栄の方が上である。その事実を曹操は見抜いていたが故に呂布を倒すためには自分が出るしかないと判断し自ら名乗りを上げたのである。
徐栄は呂布の武勇に感服していた。
その勇名は知っていたものの実際に対峙してみると想像以上の人物だったのだ。
並みの武将であればすでに勝敗は決していただろう。
だが、相手が悪い。呂布奉先という男は並の者ではなかった。
呂布の繰り出す戟の一撃を受け止めた時、徐栄は驚愕と同時に歓喜に打ち震えた。
これほどの男がいるのかと思うと嬉しくて仕方なかったのだ。だが、いつまでもこうしてはいられない。この勝負は呂布軍を打倒するための決戦なのだから。
徐栄は呂布と対峙しながらも意識は常に曹操軍に向けられていた。呂布軍は徐栄隊の背後から攻撃を仕掛けてくる気配はなく、むしろ城へ戻ろうとしているようだった。
呂布の狙いは最初から曹操だったのだ。
その事を知った徐栄は呂布との戦いに集中しながらも呂布軍に指示を出す。
呂布軍の伏兵によって徐栄隊は大きく崩れたが呂布自身もかなりの深手を負った。
呂布は何とか劉備の元へ向かおうとするのだが、そこに曹操軍の精鋭が立ち塞がる。
呂布はその者達を打ち倒すために力を振り絞った。
その時、呂布が張遼を討ち取ったことで空いた城壁の穴を通って徐栄の援軍が押し寄せてきたのだ。
それによって形勢は一気に逆転し、曹操軍が勝利を掴んだ。
だが、呂布と徐栄はお互いに重傷ではあったが命に関わる程のものではなかった。
そして劉備の援護もあり呂布は城を脱出する事に成功する。
そこで呂布は徐栄と別れ、呂布達は徐州の街へと戻ってきた。
呂布が街に入るとそこには徐州の民達が大勢集まっていて呂布達を出迎えた。
呂布は驚きながら周りを見回すと街の外にも大勢の人々が呂布を待ち構えているではないか。
そこには劉備の姿もあった。
「これは一体どういうことだ?」
呂布は驚いてそう言うが、答えられる者は誰もいなかった。
そんな中、陳宮だけが冷静に状況を分析、説明してくれた。
どうやら先の徐州侵攻の際、呂布は多くの民衆を助けており、その事が呂布の人気を大きく高める事となったらしい。
特に劉備を助けた事は呂布が漢の忠臣であると言う事を印象付ける事になった。
さらに劉備は呂布の妻と言う事で知名度も上がり、結果として徐州の太守としての評判も上がっていた。
呂布は徐州の太守とまで呼ばれていたのである。
呂布としてはそんなつもりは全く無かったため、この事態に戸惑いを隠せなかった。しかしこうなってしまえばもはや後戻りは出来ない。
呂布は覚悟を決めて徐州の太守となる事を決めた。
その後、曹操は呂布との約束通り降伏勧告の使者を送ってきた。
呂布はそれを拒否して徹底抗戦の構えを見せる。
曹操はそれ以上何も言わず、呂布はいよいよ曹操と戦う事となった。
曹操の率いる軍勢は四万、それに対してこちらは一万人。数の上では圧倒的に不利ではあるが、こちらには呂布と言う最大の戦力がある。
それを上手く利用すれば勝機はあると考えていた矢先の事だった。曹操が劉備と密約を交わし、劉備が曹操に寝返ったと言う知らせが届いたのは。
曹操は呂布軍との直接対決を避け劉備軍の到着を待ってから呂布を攻め立てると言う策に出たのである。
これにはさすがの呂布も頭を抱えた。
劉備と曹操が手を組んでいる以上、呂布と劉備の連合軍で曹操軍と対抗しなければいけないが、劉備が裏切ったとあってはそれもままならない。
呂布が悩んでいるところに劉備がやってきた。
「呂布将軍、曹操は私の裏切りにより呂布将軍の心が乱れているはずです。そこを突いて曹操を討つべきでしょう」
劉備はそう言うが、呂布はすぐに返事をすることは出来なかった。
劉備の言葉は確かに正論である。
劉備が曹操についた事は紛れもない事実であり、曹操に騙されたとは言え劉備も曹操の敵である事は間違いない。
しかし、呂布は劉備と戦いたくはなかった。
呂布はしばらく考えたが、結局のところ劉備の提案を受け入れる事にした。
曹操軍を迎え撃つ準備をしていると、そこに徐晃がやって来た。
「呂布将軍、お話があります」
徐晃は真剣な表情で言う。
「どうかしたのか?まさか曹操がまた何か仕掛けてくるとか?」
「いえ、違います」
徐晃は首を振って否定する。
「実は曹操殿より文を預かって参りました」
徐晃はそう言って書簡を差し出す。
呂布はそれを受け取るとその場で開き読み始める。
それは曹操からの謝罪と劉備との和睦について書かれていた。曹操は呂布との一騎討ちにおいて敗れた時点で敗北を認めた。
だが、劉備が裏切ってくれたおかげで曹操と呂布の戦いは引き分けとなり、結果的には呂布が勝った事になるのでこれ以上戦う意味はないと判断したらしい。
曹操としても呂布が相手では勝ち目がない事もわかっているので、ここは一度退いて体勢を立て直すつもりだった。
呂布はそれに同意の旨を返信し、曹操軍は撤退していった。
呂布は徐州の民に厚く礼を言われ、徐州の民からも英雄扱いされたが、呂布は複雑な心境だった。
呂布が徐州の太守となってから三ヶ月、呂布は日々の仕事に追われていた。
徐州の治安は良いとは言えないものの大きな問題も起きておらず、呂布は民と共に畑仕事や狩りに出かける事もあった。
相変わらず徐州城には呂布の家族が集まってきてはいたが、徐州の民とも打ち解け始めていた。
呂布は毎日忙しく働きながらも、どこか満たされていた。
戦いの無い平和な日常こそが自分の望んでいたものだったのではないか、と思うようになっていた。
そんなある日、呂布は街の郊外に呼び出された。
呼びに来たのは張遼だった。張遼に連れられて呂布は郊外の原っぱへと来ていた。
呂布はそこで意外な人物と出会う事となる。
そこには劉備がいたのだ。
劉備は呂布の姿を見つけると笑顔を浮かべて呂布に向かって駆け寄ってくる。
劉備は呂布の前で止まると深々と頭を下げた。
呂布は訳がわからず目を白黒させるが、劉備は顔を上げると呂布に話しかけてくる。
「呂布将軍、これまでの数々の無礼をお許し下さい。私は貴男に嫉妬していたのです。天下無双の豪傑でありながら武勇だけでなく仁義の心も兼ね備え、さらに太守としての才覚もある。私とは比べ物にならないほど優れた方だと。だからこそ、そんな方の側に居るのが辛かった。だから、卑劣にも呂布将軍を罠に嵌めようとしたのです。全ては私が招いた結果です。本当に申し訳ありません!」
劉備はそう言うと再び深々と頭を下げる。
呂布は突然の出来事に困惑していたが、ふと周囲を見回してみる。
すると劉備の後ろには関羽、張飛、趙雲、黄忠、魏延などと言った、劉備を支えている面々が並んでいた。その全員も劉備同様に呂布に頭を下げている。
その光景を見て呂布は全てを理解する。
つまり劉備達は曹操と呂布の戦いで呂布が曹操との一騎打ちに敗れてから、こうして呂布に詫びる機会を設けようと奔走してくれていたと言うわけだ。
それを聞いて呂布も慌てて頭を下げる。
「いや、俺の方こそ皆さんの厚意を踏みにじる様な事をしてしまい、本当にすみませんでした。これから仲良くやっていきましょう」
呂布は劉備達に向かってそう言った。
呂布の言葉を聞くと、劉備達の表情は一斉に明るくなり全員が笑顔になった。
その光景を遠くから眺めていた者がいた。
陳宮である。彼女はあの日以来、ずっと劉備を観察し続けていた。
この結末を予想していなかったと言えば嘘になるだろう。
もし劉備が呂布を討ち取ったなら、それはそれで良かった。
呂布と言う脅威さえなくなれば劉備には十分すぎるほどの勢力があり、徐州の太守として劉備は確固たる地位を得る事が出来る。
そして呂布が劉備に討たれれば、その時は呂布軍の壊滅を以って呂布の名声は完全に地に落ちるはずだった。
しかし、呂布は生き延びた。
呂布は劉備を憎んでも恨むことはなく、劉備もまた呂布を討とうとはしなかった。
結果としては呂布と劉備は和解したと言う事になるのだが、これはただの結果論でしかない。
呂布は劉備を許し、劉備は呂布を許した事で全てが丸く収まった。だが、それは本来あり得ない出来事なのだ。
劉備は漢王朝復興の旗印であり、呂布はその旗下の武将の一人に過ぎない。
劉備が呂布を許す事は、劉備自身の評価を大きく下げる事に繋がる。
そうでなくても劉備は人徳だけで勢力を保ってきたところがある。
そこに呂布まで加わってしまったら、劉備の勢力基盤は崩壊してしまう。
呂布は劉備にとって、どうしようもない弱点になりかねない。
呂布と劉備が戦えば、必ず劉備が勝つ。
だが、そうなった時劉備が勝てる保証は無い。劉備は呂布と対するに当たって呂布に対して弱みを見せてしまったのである。
呂布が本気で攻めてきた場合、劉備は呂布に抗う術を持たない。
だからこそ、呂布は劉備を許さなかったはずなのである。陳宮はそれを見越した上で、策を練っていた。
呂布が勝てば、呂布は英雄となり曹操と互角に渡り合える武将である事が証明される。
だが、劉備は英雄ではなく奸雄であった。
曹操と手を組んだのは、呂布と戦う為ではない。曹操の力を借りてでも呂布を倒そうとしたのである。
曹操を利用して呂布を潰すつもりだったのだ。それが失敗に終わった今、劉備が曹操と結ぶ理由は無くなったと言える。
曹操は袁紹軍残党との争いで苦戦している様で、曹操自身はまだ大きな動きを見せていない。
曹操の留守を狙って、呂布は徐州を攻めた。
結果は失敗だったものの、それでも曹操は油断出来ない相手となった。曹操がどれほどの兵力を有しているのかは分からないが、徐州の兵だけでも十分な戦力となる。曹操が徐州に攻め込んでくる前に、呂布は徐州をまとめ上げる必要があった。
その為に呂布は徐州の太守となってから働き詰めで、やっとの思いで呂布の元に平穏が訪れた。
そこへ現れたのが劉備だった。
劉備は呂布の前に頭を下げた。
呂布の手腕を認めてくれたからなのか、それとも徐州の太守の座を狙うつもりなのか。
いずれにせよ、このままではまずい事だけは確かだった。
陳宮は急ぎ対策を考える。
劉備は呂布に頭を下げると、その場を離れていった。
それを見て関羽や張飛も呂布に頭を下げた後、劉備の後を追う。
残された黄忠や魏延なども頭を下げてから去って行った。
呂布と徐晃だけがその場に残され、しばらく沈黙が続く。やがて、徐晃が口を開いた。
「……なんとも不思議な方ですね、劉備殿は」
「そうだな」
呂布も同感だったので、素直に答える。
「曹操さんや袁紹さんの配下でありながら、呂布将軍とは戦わずに許されて、しかも呂布将軍の為に謝りに来た。どういう方なのでしょうか?」
「俺にもよくわからん」
呂布がそう言うと、徐晃も苦笑しながら答えた。
「俺にもわかりません」
「まあ、悪い方ではないと思うぞ。あれほど慕われているんだからな」
呂布はそう言って、劉備が去っていった方を見る。
劉備は呂布に対する恐怖心が無いらしく、呂布と一緒に居てもまったく怯える様子は無かった。むしろ自ら進んで呂布に近付いてきていた様に思える。
その辺りの感覚の違いが、呂布には理解出来なかった。
劉備が去った後、呂布は徐州城に戻って張遼に尋ねる。
「張飛はいつもああ言う感じなのか? 俺が思っていたより遥かに良い奴みたいだが、それにしても無防備過ぎる気がするが」
張飛は劉備の弟で、兄に比べて腕っぷしが強くて粗暴だと言う評判だったが、実際に会ってみるとそうでもない。
張飛に限らず、劉備の周りの連中は何かしら問題を抱えている印象なのだが、張飛の場合はその問題すら愛敬に感じるほどである。
「張飛ですか? あいつは確かに粗野ですけど、意外と繊細なところもあるんですよ」
張飛を知る張遼は、そう答える。
「そうか。関羽もかなりいい男だし、劉備も人徳はあるようだな」
呂布はそう言いながら、徐州城の中庭を歩いていた。
相変わらず徐州城は閑散としている。そのせいもあって、呂布の足音はよく響く。
ふと気になって城壁の方を見てみると、そこには人影があった。
見慣れない顔なので、おそらく新入りだろう。
呂布はそちらに向かって声をかける。
「そこで何をしている?」
呂布の声に、人影は慌ただしく動き出す。
どうも緊張しているらしい。
「何もしないなら、こっちに来てもいいんじゃないか? せっかくだから少し話をしようじゃないか。俺は呂布奉先と言う。君は?」
呂布がそう話しかけると、ようやく落ち着きを取り戻したのか人影が呂布の元へとやってきた。
「申し訳ありません。怪しい者ではありませんので、どうかお許し下さい!」
男は両手を上げて降参の体勢を取りつつ、慌てて弁明する。
「いや、別に怒っているわけじゃないよ。ただ、何をしていたのか聞きたかっただけだ。それより、君の名前は?」
呂布はそう言ったのだが、人影は警戒心を解こうとしなかった。
よく見ると、この人影はかなり背が高い。
と言う事は、かなりの大男になるのだが、そんな男が何故こんなところにいるのか。
不思議に思って眺めてみると、男の着ている服に見覚えがある事に気づいた。
それは徐州城にやって来た時、劉備が身に着けていた鎧である。
つまり、目の前の大男は劉備本人だったのだ。
言われなければ、とても劉備だとは思えなかった。
身長が二メートル近くあり、体重も百キロ近いと思われる巨漢なのだが、肌の色艶が良く引き締まった肉体をしている。髪は短く刈り込まれているが、髭は綺麗に剃られており、眉毛も整えられていて清潔感がある。
身なりもきちんとしていて、帯剣こそしていないものの胸当てを着けていた。
体格に似合わず物腰は柔らかく、笑顔も爽やかな好青年である。
これが本当にあの劉備なのか、と呂布の方が疑ってしまう程だった。だが、劉備は間違いなく呂布の元までやって来て、こうして対面している。
「これは失礼しました。私は姓は劉、名は備、字は玄徳と言います。徐州の太守を務めているのですが、不肖の身ではありますが呂布将軍のお噂はかねがね伺っておりました」
劉備はそう言って頭を下げる。
「呂布奉先で間違いないか、確認したかったんです」
劉備はそう言って笑う。
たしかに、これほどの偉丈夫であれば呂布の噂を聞いていてもおかしくはない。
「それで、俺に会いに来たのか?」
「えぇ、まぁ、そうなります」
劉備は照れ臭そうに言う。
呂布は劉備の事をあまり知らないが、少なくともこのような性格ではなかったはずだ。
「さっきは城内を見て回っていたのか?」
呂布は劉備に尋ねる。
「はい。呂布将軍のお力により豊かになったと聞いていますので、ぜひ見ておきたいと思いまして」
劉備の言葉に嘘は無いと思う。
実際、呂布が太守になってから徐州は随分と変わってきた。まず、治安がよくなった事が挙げられる。それまでは街は荒れ果てていた上に、賊や山賊が横行して、夜に出歩く事も出来ないほどだった。それが呂布が太守となってからは、街の秩序が守られ、街道も整備されて旅人や行商人が安全に往来出来る様になり、さらに市場が大きくなって賑わいを見せてきた。
その活気に惹かれて、徐州にやってくる人も増えた。他にも農耕地の開発や治水工事なども行った為、田畑の収穫量は増え、農民の生活水準も向上した。
その事もあってか、徐州には人が溢れている。
また、徐州城でも呂布に対しての忠誠心が高まり、呂布の為ならば命を投げ出しても良いと考える者も増えている。
もちろん呂布の武威によって、と言う事もあるのだろうが、それだけではない。呂布の人柄や人望が、徐州を良い方向へ導いている。
だからこそ、この徐州城には劉備のような豪傑がやって来ているのだろう。
「劉備殿のお陰でもあるでしょう。徐州城はまだ出来たばかりですから」
呂布が言うと、劉備は首を横に振る。
「私一人の力では何も出来ません。呂布将軍がいてくださらねば、今の徐州城は無かったはずです。それに、私がここにいるのは私の意志によるもの。天下万民の為に働くのが私の務めであり、その為に徐州を治めようと思った次第です」
劉備は心からそう言っているらしく、言葉に淀みがない。
この男なら、あるいは自分の夢も叶えてくれるかもしれない。呂布はそんな予感を抱いた。
「ところで、呂布将軍はどちらへ? よろしければご一緒させていただけないでしょうか? 実は少し道に迷ってしまっていて……」
劉備は困ったような顔をして言う。
どうもこの劉備は表情が豊かなようで、見ていると飽きない。
「ああ、それなら案内しよう。今日は天気もいいことだし、ちょっと外を歩いてみるか?」
「是非お願いします!」
呂布の提案に、劉備は嬉しそうに答える。
呂布は張遼に留守を任せ、劉備を連れて城を出ようとした時、一人の女性が駆け寄ってきた。
「兄上! どこに行ってたんですか? 探しましたよ!」
そう言いながら女性は劉備に飛びついてくる。
「いや、だから呂布将軍のところにだな。もう大丈夫だから、離れてくれ。ほら、呂布将軍の前だから恥ずかしいだろ?」
劉備はそう言って女性を引き離そうとするのだが、女性はまったく離れようとしない。
女性の方を見ると、やはり見覚えのある鎧を身につけていた。
「あなたはもしや、関羽殿?」
呂布が訊くと、女性はようやく劉備から離れ、呂布に向かって深々と頭を下げた。
「はい、左慈先生より軍師としてお仕えせよと仰せつかりました、関雲長と申します」
「いや、そんなにかしこまられると恐縮してしまいますよ」
劉備は苦笑いしながら言う。
この女性こそ、劉備の弟にして義兄弟の契りを結んだと言われる、関雲長である。
そして、関羽が徐州に来たのも、元々は劉備を頼っての事だったらしい。
劉備はこの二人を従えるだけでなく、一騎当千の猛将である関羽と、智謀に長けた知勇兼備の才女である趙雲も従えている事になる。
劉備自身がこの三人を率いれば、まさに向かうところ敵無しと言える。劉備が徐州城に来た頃、関羽と趙雲は劉備の元にはいなかった。二人は呂布に仕官する事を希望していた。
しかし、その頃の呂布は袁術の配下である張勲の謀略により、徐州を追われる事になっていた。
呂布は袁術の手を逃れるために徐州を離れ、徐州城に身を寄せていたのだ。
そこで呂布は劉備と出会い、劉備もまた呂布の実力を見込んでくれた。呂布は劉備に降参する形となり、こうして呂布は劉備に仕える事になった。
「では、呂布将軍。行きましょうか」
劉備がそう言った時、呂布の耳は馬の蹄の音を聞きつけた。
すぐに呂布は劉備の襟首を掴み、馬上から引きずり下ろすと同時に腰に差してある剣を抜き放ち、そのまま地面に突き刺した。
次の瞬間、呂布が立っていた場所に矢が飛んできて、土煙が上がる。
「えぇっ!?」
突然の事に劉備は驚きの声を上げるが、呂布は気にせず辺りの様子を窺う。
「呂布将軍、これは?」
「刺客だよ。おそらく、さっき城内にいた時から狙われていたんだろう。俺が一人で外出しようとしたので、好機と見たのだと思う」
呂布は警戒しながらも、冷静に状況を分析していた。
城内で劉備を見た時に感じたが、明らかに雰囲気が変わっている。以前はもっと覇気の無い、頼りなさげな雰囲気だったが、今は自信に満ち溢れている様に見える。
見た目にも変化があった。以前も長身で細身ではあったが、今ほど筋肉質ではなかったはずだ。それに、髭も剃られていた。
だが、今の劉備は体格が良くなり、髪も短く整えられていて、いかにも精強そうな武将になっている。
これこそが本来の劉備の姿なのだとしたら、もしかすると劉備の狙いは徐州を乗っとる事ではなく、自分を殺しに来る敵を返り討ちにする事なのかも、と呂布は思った。
「刺客だと? おい、呂布将軍。それは本当か?」
「あぁ、間違い無い。しかもかなりの手練れだぞ、あの弓使いは。並みの腕前じゃない」
呂布は言う。
「こんなところで死ぬわけにはいかないんでね。劉備殿はどこかに隠れていてください」
呂布はそう言うと、地面から剣を抜いて構える。
「待て、呂布将軍。貴公一人に任せてはおけん」
そう言うと関羽が槍を手にして前に出ようとする。
「兄上、ここは私に」
趙雲は戟を持って前に出る。
この二人を戦力に加えられるのであれば、確かに呂布一人よりも勝算は高い。
しかし、呂布は劉備に視線を向ける。
「劉備殿、あなたも危険です。どうかお隠れ下さい」
「何を言っているんです。私はあなたを守る為にここへ来たのです。私も戦いますよ」
劉備は笑顔を浮かべながら言うと、背負っていた荷物の中から大きな旗を取り出した。
「この大龍の刺繍が施された真紅の大旗こそ我が家の家宝、赤兎馬の旗です。私が必ずやこの刺客を倒して見せましょう」
劉備は誇らしげに言い、その言葉に偽りが無い事を行動で示す様に、呂布の目の前に立つ。
関羽と趙雲もそれぞれ自分の得物を構え、刺客に備える。
「……呂布将軍。どうもこの人達は戦う気みたいだけど?」
張飛は不安そうに尋ねる。
その言葉を聞いて曹操軍の面々も劉備の存在に気付いたらしく一斉に視線を向けるとやはり皆一様に同じ反応を示した。
そして曹操が一歩前に出ると劉備に向かって話しかけてきた。
「貴女が噂の劉備さんね。私は曹孟徳と言うわ。よろしくお願いするわね」
曹操が手を差し出すと劉備も笑顔を見せて応じる。
しかし曹操の手を握った瞬間、劉備の目つきが変わる。それは曹操に対する警戒心の表れであり同時に嫌悪感を表したものだった。
それを感じた曹操も笑みを止めて真面目な表情になると劉備に声をかける。
「貴方が徐州の太守をしていると言う話は聞いた事があるけど、それ以上の事は知らないのよ。それにしてもなかなか美人じゃない。私の妻にならないかしら?」
曹操の誘いに対して劉備は露骨に嫌そうな顔をした。
曹操は相変わらずの調子だったが、それでもさすがに空気を読んでそれ以上何かを言うことはなかった。
曹操軍はここで撤退すべきところではあるが、曹操はこのままでは納得がいかないと考え呂布との一騎討ちを要求する。
それに対し呂布は了承したが、高順が反対した。呂布と互角に渡り合える武将など曹操以外にいないと高順は思っていたが為に呂布の身を案じたのである。
「いや、ここは俺が行くべきだ。あの男とは一度戦ってみたいと思っていた」
呂布は高順にそう言い残して劉備と共に城を出て行った。呂布と曹操の戦いは凄まじく両者共に一歩も譲らない戦いを繰り広げていた。
この時曹操は焦っていた。曹操にはこの戦いは負けるとわかっていたからだ。この戦いは呂布と曹操の一騎打ちではなく呂布と徐栄の二対二の一騎打ちだったのだ。
呂布と徐栄は共に四天王と言われるほどの猛将であるが実力的には徐栄の方が上である。その事実を曹操は見抜いていたが故に呂布を倒すためには自分が出るしかないと判断し自ら名乗りを上げたのである。
徐栄は呂布の武勇に感服していた。
その勇名は知っていたものの実際に対峙してみると想像以上の人物だったのだ。
並みの武将であればすでに勝敗は決していただろう。
だが、相手が悪い。呂布奉先という男は並の者ではなかった。
呂布の繰り出す戟の一撃を受け止めた時、徐栄は驚愕と同時に歓喜に打ち震えた。
これほどの男がいるのかと思うと嬉しくて仕方なかったのだ。だが、いつまでもこうしてはいられない。この勝負は呂布軍を打倒するための決戦なのだから。
徐栄は呂布と対峙しながらも意識は常に曹操軍に向けられていた。呂布軍は徐栄隊の背後から攻撃を仕掛けてくる気配はなく、むしろ城へ戻ろうとしているようだった。
呂布の狙いは最初から曹操だったのだ。
その事を知った徐栄は呂布との戦いに集中しながらも呂布軍に指示を出す。
呂布軍の伏兵によって徐栄隊は大きく崩れたが呂布自身もかなりの深手を負った。
呂布は何とか劉備の元へ向かおうとするのだが、そこに曹操軍の精鋭が立ち塞がる。
呂布はその者達を打ち倒すために力を振り絞った。
その時、呂布が張遼を討ち取ったことで空いた城壁の穴を通って徐栄の援軍が押し寄せてきたのだ。
それによって形勢は一気に逆転し、曹操軍が勝利を掴んだ。
だが、呂布と徐栄はお互いに重傷ではあったが命に関わる程のものではなかった。
そして劉備の援護もあり呂布は城を脱出する事に成功する。
そこで呂布は徐栄と別れ、呂布達は徐州の街へと戻ってきた。
呂布が街に入るとそこには徐州の民達が大勢集まっていて呂布達を出迎えた。
呂布は驚きながら周りを見回すと街の外にも大勢の人々が呂布を待ち構えているではないか。
そこには劉備の姿もあった。
「これは一体どういうことだ?」
呂布は驚いてそう言うが、答えられる者は誰もいなかった。
そんな中、陳宮だけが冷静に状況を分析、説明してくれた。
どうやら先の徐州侵攻の際、呂布は多くの民衆を助けており、その事が呂布の人気を大きく高める事となったらしい。
特に劉備を助けた事は呂布が漢の忠臣であると言う事を印象付ける事になった。
さらに劉備は呂布の妻と言う事で知名度も上がり、結果として徐州の太守としての評判も上がっていた。
呂布は徐州の太守とまで呼ばれていたのである。
呂布としてはそんなつもりは全く無かったため、この事態に戸惑いを隠せなかった。しかしこうなってしまえばもはや後戻りは出来ない。
呂布は覚悟を決めて徐州の太守となる事を決めた。
その後、曹操は呂布との約束通り降伏勧告の使者を送ってきた。
呂布はそれを拒否して徹底抗戦の構えを見せる。
曹操はそれ以上何も言わず、呂布はいよいよ曹操と戦う事となった。
曹操の率いる軍勢は四万、それに対してこちらは一万人。数の上では圧倒的に不利ではあるが、こちらには呂布と言う最大の戦力がある。
それを上手く利用すれば勝機はあると考えていた矢先の事だった。曹操が劉備と密約を交わし、劉備が曹操に寝返ったと言う知らせが届いたのは。
曹操は呂布軍との直接対決を避け劉備軍の到着を待ってから呂布を攻め立てると言う策に出たのである。
これにはさすがの呂布も頭を抱えた。
劉備と曹操が手を組んでいる以上、呂布と劉備の連合軍で曹操軍と対抗しなければいけないが、劉備が裏切ったとあってはそれもままならない。
呂布が悩んでいるところに劉備がやってきた。
「呂布将軍、曹操は私の裏切りにより呂布将軍の心が乱れているはずです。そこを突いて曹操を討つべきでしょう」
劉備はそう言うが、呂布はすぐに返事をすることは出来なかった。
劉備の言葉は確かに正論である。
劉備が曹操についた事は紛れもない事実であり、曹操に騙されたとは言え劉備も曹操の敵である事は間違いない。
しかし、呂布は劉備と戦いたくはなかった。
呂布はしばらく考えたが、結局のところ劉備の提案を受け入れる事にした。
曹操軍を迎え撃つ準備をしていると、そこに徐晃がやって来た。
「呂布将軍、お話があります」
徐晃は真剣な表情で言う。
「どうかしたのか?まさか曹操がまた何か仕掛けてくるとか?」
「いえ、違います」
徐晃は首を振って否定する。
「実は曹操殿より文を預かって参りました」
徐晃はそう言って書簡を差し出す。
呂布はそれを受け取るとその場で開き読み始める。
それは曹操からの謝罪と劉備との和睦について書かれていた。曹操は呂布との一騎討ちにおいて敗れた時点で敗北を認めた。
だが、劉備が裏切ってくれたおかげで曹操と呂布の戦いは引き分けとなり、結果的には呂布が勝った事になるのでこれ以上戦う意味はないと判断したらしい。
曹操としても呂布が相手では勝ち目がない事もわかっているので、ここは一度退いて体勢を立て直すつもりだった。
呂布はそれに同意の旨を返信し、曹操軍は撤退していった。
呂布は徐州の民に厚く礼を言われ、徐州の民からも英雄扱いされたが、呂布は複雑な心境だった。
呂布が徐州の太守となってから三ヶ月、呂布は日々の仕事に追われていた。
徐州の治安は良いとは言えないものの大きな問題も起きておらず、呂布は民と共に畑仕事や狩りに出かける事もあった。
相変わらず徐州城には呂布の家族が集まってきてはいたが、徐州の民とも打ち解け始めていた。
呂布は毎日忙しく働きながらも、どこか満たされていた。
戦いの無い平和な日常こそが自分の望んでいたものだったのではないか、と思うようになっていた。
そんなある日、呂布は街の郊外に呼び出された。
呼びに来たのは張遼だった。張遼に連れられて呂布は郊外の原っぱへと来ていた。
呂布はそこで意外な人物と出会う事となる。
そこには劉備がいたのだ。
劉備は呂布の姿を見つけると笑顔を浮かべて呂布に向かって駆け寄ってくる。
劉備は呂布の前で止まると深々と頭を下げた。
呂布は訳がわからず目を白黒させるが、劉備は顔を上げると呂布に話しかけてくる。
「呂布将軍、これまでの数々の無礼をお許し下さい。私は貴男に嫉妬していたのです。天下無双の豪傑でありながら武勇だけでなく仁義の心も兼ね備え、さらに太守としての才覚もある。私とは比べ物にならないほど優れた方だと。だからこそ、そんな方の側に居るのが辛かった。だから、卑劣にも呂布将軍を罠に嵌めようとしたのです。全ては私が招いた結果です。本当に申し訳ありません!」
劉備はそう言うと再び深々と頭を下げる。
呂布は突然の出来事に困惑していたが、ふと周囲を見回してみる。
すると劉備の後ろには関羽、張飛、趙雲、黄忠、魏延などと言った、劉備を支えている面々が並んでいた。その全員も劉備同様に呂布に頭を下げている。
その光景を見て呂布は全てを理解する。
つまり劉備達は曹操と呂布の戦いで呂布が曹操との一騎打ちに敗れてから、こうして呂布に詫びる機会を設けようと奔走してくれていたと言うわけだ。
それを聞いて呂布も慌てて頭を下げる。
「いや、俺の方こそ皆さんの厚意を踏みにじる様な事をしてしまい、本当にすみませんでした。これから仲良くやっていきましょう」
呂布は劉備達に向かってそう言った。
呂布の言葉を聞くと、劉備達の表情は一斉に明るくなり全員が笑顔になった。
その光景を遠くから眺めていた者がいた。
陳宮である。彼女はあの日以来、ずっと劉備を観察し続けていた。
この結末を予想していなかったと言えば嘘になるだろう。
もし劉備が呂布を討ち取ったなら、それはそれで良かった。
呂布と言う脅威さえなくなれば劉備には十分すぎるほどの勢力があり、徐州の太守として劉備は確固たる地位を得る事が出来る。
そして呂布が劉備に討たれれば、その時は呂布軍の壊滅を以って呂布の名声は完全に地に落ちるはずだった。
しかし、呂布は生き延びた。
呂布は劉備を憎んでも恨むことはなく、劉備もまた呂布を討とうとはしなかった。
結果としては呂布と劉備は和解したと言う事になるのだが、これはただの結果論でしかない。
呂布は劉備を許し、劉備は呂布を許した事で全てが丸く収まった。だが、それは本来あり得ない出来事なのだ。
劉備は漢王朝復興の旗印であり、呂布はその旗下の武将の一人に過ぎない。
劉備が呂布を許す事は、劉備自身の評価を大きく下げる事に繋がる。
そうでなくても劉備は人徳だけで勢力を保ってきたところがある。
そこに呂布まで加わってしまったら、劉備の勢力基盤は崩壊してしまう。
呂布は劉備にとって、どうしようもない弱点になりかねない。
呂布と劉備が戦えば、必ず劉備が勝つ。
だが、そうなった時劉備が勝てる保証は無い。劉備は呂布と対するに当たって呂布に対して弱みを見せてしまったのである。
呂布が本気で攻めてきた場合、劉備は呂布に抗う術を持たない。
だからこそ、呂布は劉備を許さなかったはずなのである。陳宮はそれを見越した上で、策を練っていた。
呂布が勝てば、呂布は英雄となり曹操と互角に渡り合える武将である事が証明される。
だが、劉備は英雄ではなく奸雄であった。
曹操と手を組んだのは、呂布と戦う為ではない。曹操の力を借りてでも呂布を倒そうとしたのである。
曹操を利用して呂布を潰すつもりだったのだ。それが失敗に終わった今、劉備が曹操と結ぶ理由は無くなったと言える。
曹操は袁紹軍残党との争いで苦戦している様で、曹操自身はまだ大きな動きを見せていない。
曹操の留守を狙って、呂布は徐州を攻めた。
結果は失敗だったものの、それでも曹操は油断出来ない相手となった。曹操がどれほどの兵力を有しているのかは分からないが、徐州の兵だけでも十分な戦力となる。曹操が徐州に攻め込んでくる前に、呂布は徐州をまとめ上げる必要があった。
その為に呂布は徐州の太守となってから働き詰めで、やっとの思いで呂布の元に平穏が訪れた。
そこへ現れたのが劉備だった。
劉備は呂布の前に頭を下げた。
呂布の手腕を認めてくれたからなのか、それとも徐州の太守の座を狙うつもりなのか。
いずれにせよ、このままではまずい事だけは確かだった。
陳宮は急ぎ対策を考える。
劉備は呂布に頭を下げると、その場を離れていった。
それを見て関羽や張飛も呂布に頭を下げた後、劉備の後を追う。
残された黄忠や魏延なども頭を下げてから去って行った。
呂布と徐晃だけがその場に残され、しばらく沈黙が続く。やがて、徐晃が口を開いた。
「……なんとも不思議な方ですね、劉備殿は」
「そうだな」
呂布も同感だったので、素直に答える。
「曹操さんや袁紹さんの配下でありながら、呂布将軍とは戦わずに許されて、しかも呂布将軍の為に謝りに来た。どういう方なのでしょうか?」
「俺にもよくわからん」
呂布がそう言うと、徐晃も苦笑しながら答えた。
「俺にもわかりません」
「まあ、悪い方ではないと思うぞ。あれほど慕われているんだからな」
呂布はそう言って、劉備が去っていった方を見る。
劉備は呂布に対する恐怖心が無いらしく、呂布と一緒に居てもまったく怯える様子は無かった。むしろ自ら進んで呂布に近付いてきていた様に思える。
その辺りの感覚の違いが、呂布には理解出来なかった。
劉備が去った後、呂布は徐州城に戻って張遼に尋ねる。
「張飛はいつもああ言う感じなのか? 俺が思っていたより遥かに良い奴みたいだが、それにしても無防備過ぎる気がするが」
張飛は劉備の弟で、兄に比べて腕っぷしが強くて粗暴だと言う評判だったが、実際に会ってみるとそうでもない。
張飛に限らず、劉備の周りの連中は何かしら問題を抱えている印象なのだが、張飛の場合はその問題すら愛敬に感じるほどである。
「張飛ですか? あいつは確かに粗野ですけど、意外と繊細なところもあるんですよ」
張飛を知る張遼は、そう答える。
「そうか。関羽もかなりいい男だし、劉備も人徳はあるようだな」
呂布はそう言いながら、徐州城の中庭を歩いていた。
相変わらず徐州城は閑散としている。そのせいもあって、呂布の足音はよく響く。
ふと気になって城壁の方を見てみると、そこには人影があった。
見慣れない顔なので、おそらく新入りだろう。
呂布はそちらに向かって声をかける。
「そこで何をしている?」
呂布の声に、人影は慌ただしく動き出す。
どうも緊張しているらしい。
「何もしないなら、こっちに来てもいいんじゃないか? せっかくだから少し話をしようじゃないか。俺は呂布奉先と言う。君は?」
呂布がそう話しかけると、ようやく落ち着きを取り戻したのか人影が呂布の元へとやってきた。
「申し訳ありません。怪しい者ではありませんので、どうかお許し下さい!」
男は両手を上げて降参の体勢を取りつつ、慌てて弁明する。
「いや、別に怒っているわけじゃないよ。ただ、何をしていたのか聞きたかっただけだ。それより、君の名前は?」
呂布はそう言ったのだが、人影は警戒心を解こうとしなかった。
よく見ると、この人影はかなり背が高い。
と言う事は、かなりの大男になるのだが、そんな男が何故こんなところにいるのか。
不思議に思って眺めてみると、男の着ている服に見覚えがある事に気づいた。
それは徐州城にやって来た時、劉備が身に着けていた鎧である。
つまり、目の前の大男は劉備本人だったのだ。
言われなければ、とても劉備だとは思えなかった。
身長が二メートル近くあり、体重も百キロ近いと思われる巨漢なのだが、肌の色艶が良く引き締まった肉体をしている。髪は短く刈り込まれているが、髭は綺麗に剃られており、眉毛も整えられていて清潔感がある。
身なりもきちんとしていて、帯剣こそしていないものの胸当てを着けていた。
体格に似合わず物腰は柔らかく、笑顔も爽やかな好青年である。
これが本当にあの劉備なのか、と呂布の方が疑ってしまう程だった。だが、劉備は間違いなく呂布の元までやって来て、こうして対面している。
「これは失礼しました。私は姓は劉、名は備、字は玄徳と言います。徐州の太守を務めているのですが、不肖の身ではありますが呂布将軍のお噂はかねがね伺っておりました」
劉備はそう言って頭を下げる。
「呂布奉先で間違いないか、確認したかったんです」
劉備はそう言って笑う。
たしかに、これほどの偉丈夫であれば呂布の噂を聞いていてもおかしくはない。
「それで、俺に会いに来たのか?」
「えぇ、まぁ、そうなります」
劉備は照れ臭そうに言う。
呂布は劉備の事をあまり知らないが、少なくともこのような性格ではなかったはずだ。
「さっきは城内を見て回っていたのか?」
呂布は劉備に尋ねる。
「はい。呂布将軍のお力により豊かになったと聞いていますので、ぜひ見ておきたいと思いまして」
劉備の言葉に嘘は無いと思う。
実際、呂布が太守になってから徐州は随分と変わってきた。まず、治安がよくなった事が挙げられる。それまでは街は荒れ果てていた上に、賊や山賊が横行して、夜に出歩く事も出来ないほどだった。それが呂布が太守となってからは、街の秩序が守られ、街道も整備されて旅人や行商人が安全に往来出来る様になり、さらに市場が大きくなって賑わいを見せてきた。
その活気に惹かれて、徐州にやってくる人も増えた。他にも農耕地の開発や治水工事なども行った為、田畑の収穫量は増え、農民の生活水準も向上した。
その事もあってか、徐州には人が溢れている。
また、徐州城でも呂布に対しての忠誠心が高まり、呂布の為ならば命を投げ出しても良いと考える者も増えている。
もちろん呂布の武威によって、と言う事もあるのだろうが、それだけではない。呂布の人柄や人望が、徐州を良い方向へ導いている。
だからこそ、この徐州城には劉備のような豪傑がやって来ているのだろう。
「劉備殿のお陰でもあるでしょう。徐州城はまだ出来たばかりですから」
呂布が言うと、劉備は首を横に振る。
「私一人の力では何も出来ません。呂布将軍がいてくださらねば、今の徐州城は無かったはずです。それに、私がここにいるのは私の意志によるもの。天下万民の為に働くのが私の務めであり、その為に徐州を治めようと思った次第です」
劉備は心からそう言っているらしく、言葉に淀みがない。
この男なら、あるいは自分の夢も叶えてくれるかもしれない。呂布はそんな予感を抱いた。
「ところで、呂布将軍はどちらへ? よろしければご一緒させていただけないでしょうか? 実は少し道に迷ってしまっていて……」
劉備は困ったような顔をして言う。
どうもこの劉備は表情が豊かなようで、見ていると飽きない。
「ああ、それなら案内しよう。今日は天気もいいことだし、ちょっと外を歩いてみるか?」
「是非お願いします!」
呂布の提案に、劉備は嬉しそうに答える。
呂布は張遼に留守を任せ、劉備を連れて城を出ようとした時、一人の女性が駆け寄ってきた。
「兄上! どこに行ってたんですか? 探しましたよ!」
そう言いながら女性は劉備に飛びついてくる。
「いや、だから呂布将軍のところにだな。もう大丈夫だから、離れてくれ。ほら、呂布将軍の前だから恥ずかしいだろ?」
劉備はそう言って女性を引き離そうとするのだが、女性はまったく離れようとしない。
女性の方を見ると、やはり見覚えのある鎧を身につけていた。
「あなたはもしや、関羽殿?」
呂布が訊くと、女性はようやく劉備から離れ、呂布に向かって深々と頭を下げた。
「はい、左慈先生より軍師としてお仕えせよと仰せつかりました、関雲長と申します」
「いや、そんなにかしこまられると恐縮してしまいますよ」
劉備は苦笑いしながら言う。
この女性こそ、劉備の弟にして義兄弟の契りを結んだと言われる、関雲長である。
そして、関羽が徐州に来たのも、元々は劉備を頼っての事だったらしい。
劉備はこの二人を従えるだけでなく、一騎当千の猛将である関羽と、智謀に長けた知勇兼備の才女である趙雲も従えている事になる。
劉備自身がこの三人を率いれば、まさに向かうところ敵無しと言える。劉備が徐州城に来た頃、関羽と趙雲は劉備の元にはいなかった。二人は呂布に仕官する事を希望していた。
しかし、その頃の呂布は袁術の配下である張勲の謀略により、徐州を追われる事になっていた。
呂布は袁術の手を逃れるために徐州を離れ、徐州城に身を寄せていたのだ。
そこで呂布は劉備と出会い、劉備もまた呂布の実力を見込んでくれた。呂布は劉備に降参する形となり、こうして呂布は劉備に仕える事になった。
「では、呂布将軍。行きましょうか」
劉備がそう言った時、呂布の耳は馬の蹄の音を聞きつけた。
すぐに呂布は劉備の襟首を掴み、馬上から引きずり下ろすと同時に腰に差してある剣を抜き放ち、そのまま地面に突き刺した。
次の瞬間、呂布が立っていた場所に矢が飛んできて、土煙が上がる。
「えぇっ!?」
突然の事に劉備は驚きの声を上げるが、呂布は気にせず辺りの様子を窺う。
「呂布将軍、これは?」
「刺客だよ。おそらく、さっき城内にいた時から狙われていたんだろう。俺が一人で外出しようとしたので、好機と見たのだと思う」
呂布は警戒しながらも、冷静に状況を分析していた。
城内で劉備を見た時に感じたが、明らかに雰囲気が変わっている。以前はもっと覇気の無い、頼りなさげな雰囲気だったが、今は自信に満ち溢れている様に見える。
見た目にも変化があった。以前も長身で細身ではあったが、今ほど筋肉質ではなかったはずだ。それに、髭も剃られていた。
だが、今の劉備は体格が良くなり、髪も短く整えられていて、いかにも精強そうな武将になっている。
これこそが本来の劉備の姿なのだとしたら、もしかすると劉備の狙いは徐州を乗っとる事ではなく、自分を殺しに来る敵を返り討ちにする事なのかも、と呂布は思った。
「刺客だと? おい、呂布将軍。それは本当か?」
「あぁ、間違い無い。しかもかなりの手練れだぞ、あの弓使いは。並みの腕前じゃない」
呂布は言う。
「こんなところで死ぬわけにはいかないんでね。劉備殿はどこかに隠れていてください」
呂布はそう言うと、地面から剣を抜いて構える。
「待て、呂布将軍。貴公一人に任せてはおけん」
そう言うと関羽が槍を手にして前に出ようとする。
「兄上、ここは私に」
趙雲は戟を持って前に出る。
この二人を戦力に加えられるのであれば、確かに呂布一人よりも勝算は高い。
しかし、呂布は劉備に視線を向ける。
「劉備殿、あなたも危険です。どうかお隠れ下さい」
「何を言っているんです。私はあなたを守る為にここへ来たのです。私も戦いますよ」
劉備は笑顔を浮かべながら言うと、背負っていた荷物の中から大きな旗を取り出した。
「この大龍の刺繍が施された真紅の大旗こそ我が家の家宝、赤兎馬の旗です。私が必ずやこの刺客を倒して見せましょう」
劉備は誇らしげに言い、その言葉に偽りが無い事を行動で示す様に、呂布の目の前に立つ。
関羽と趙雲もそれぞれ自分の得物を構え、刺客に備える。
「……呂布将軍。どうもこの人達は戦う気みたいだけど?」
張飛は不安そうに尋ねる。
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