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58話

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が、それに反発したのが、李粛だった。
李粛はこのまま撤退するのではなく、このまま攻めてくる曹操軍と戦うべきだと訴えたのだ。
それを聞いた瞬間に呂布の顔色が変わり、怒りと悲しみに満ちた形相になる。もちろん、それに気づいた者はほとんどいなかったが、付き合いの長い高順は呂布が激怒していることを感じ取っていたし、呂布自身もそれを隠すつもりはなかった。
今さら何を言ってくれるのか。曹操と戦い、討ち果たし、漢王朝復興の為の道を切り開くと言う言葉に乗せられ、天下万民の為に命を捧げよとまで言われ、さらには妻を人質同然に差し出したにも関わらず、それに対する報いがコレか。呂布の心の中で様々な感情が入り乱れ、それを抑えつけようと努力する。そうして出来た冷静な表情を見て、高順が耳打ちしてきた。
呂布を落ち着かせる為に、高順が言うには今の自分の心の内をそのまま吐き出した方が良いらしい。そんな事は出来るはずもないと思いつつも、高順に言われるまま呂布は自分の心を素直に見つめなおす。
正直なところを言うと呂布は疲れ切っており、今すぐにでも休息したいと思っていた。しかしその一方で心のどこかでは、戦わなければならないと言う思いが燻っている。おそらくそのせいだろう。この心の中にある何かに駆り立てられ、このまま何もしなければ後悔するという想いがあった。
その正体までは掴めていないのが辛いところだが、今こうして対峙するこの男はそんな呂布にとっての弱みに付け込もうとしたのかもしれない。
呂布は小さく溜め息をつくと、目の前にいる男に向き合う。
相変わらずの柔和な雰囲気で、それがまた呂布には苛立たしく感じられた。
しかし今はそれを堪え、真っ直ぐに相手の目を見る。その視線を受けて、今度は李粛の方も一瞬気圧された様に仰け反った。しかしそれもほんの僅かで、すぐに立ち直ると先程よりも少し声のトーンを上げて訴えかけ始める。呂布がいかに無能であるかを説くと共に、このまま退いても曹操軍との戦いで勝つことはほぼ不可能だと力説するがそれを最後まで聞いてやる必要も無いので呂布は黙って首を振る。
ここで引き下がるならば見逃すと伝え、その上で退くようにと重ねて伝える。それでも首を縦に振らない場合は斬らなければならないとも。呂布としては、さすがの李粛でもそこまでのバカではないと考えていたのだが、意外な答えを聞く事になった。
「私は貴殿に敗れた。ここで死んでも良い!」
そう言いながら抜刀しようとしたところを、張遼が押さえつけたのだ。
いくら腕力で優れているとはいえ、相手は武将である。それに対して女性であり武芸に秀でているとは言えない張遼はあっさり組み付かれてしまう。
「放せ! あの時に言ったではないか、必ず私を超える者と会う事になるぞ、それまで死ぬことは許さんとな。その相手が呂布奉先だ」
呂布は李粛の言葉を聞いて驚いた。
それは曹操に捕らえられた時の事だろうか? まさに呂布自身が考えていた事を、まさか他の者に言われた事があるとは思わなかったのだ。そしてその言葉で呂布の中に眠っていた熱を呼び覚ますには十分過ぎるものだったらしく、彼は自らの槍を取って馬に乗る。
すでに李粛の声など呂布の耳には全く入ってこなかったのだが、彼がこれから戦うのだということは誰の目にも明らかであり、高順を始めとした精鋭達が呂布の元へ駆け寄っていく。陳宮も呂布の横に並んだものの特に言葉をかける事はせず、高順や張遼、曹性が武器を手に呂布の後に付く。陳宮にしてみればこれ以上の被害拡大を抑える為のやむを得ない行動だったが、結果として李粛の挑発に乗ってしまった形になってしまったのは事実だった。
徐州城を出る呂布軍を曹操軍はすぐに追撃に移る。さすがに精鋭揃いと言えるが、それ以上に曹操軍は呂布軍を警戒していた。数において劣勢に立たされながらも徐州城を簡単に落としてのけただけでなく、さらに多くの兵を引き連れての強行軍である。呂布軍が本気であると知っている以上、一刻の猶予も無く徐州を攻め滅ぼさなければいけなくなると言う事も承知しており、だからこそ徐州攻略を諦めてでも即座に攻撃に出たのだ。
が、それでも呂布軍の速度はそれほど早いと言うわけではなかった。それと言うのも李粛の率いていた兵が極端に少ない事が大きな要因である。元々、李粛はこの作戦に加わるにあたって徐州城の留守居役を買って出ていて兵を同行させていなかったのだ。そのため彼は手勢と呼べるほどの戦力しか持ち合わせておらず、しかもその多くは負傷兵であった。それに加え曹操軍から逃げ出した者達も多いので数はさらに少なくなり、行軍に支障が出るほどにまで減少していると言うのだから恐れ入るしかない。
そんな状況なので、呂布軍の速度は曹操軍の足を止めさせるほどでもなかった。
むしろ李粛の兵が少ない分だけ曹操軍の追撃の方が早かったくらいなのだが、曹操軍はここで思わぬ罠にかかる事となる。
それは陳宮によって用意された策謀だった。敵将李粛が自ら先頭に立ち、その身を危険に晒しているとあれば呂布を討つ絶好の機会と見て襲い掛かってくるのは曹操としても織り込み済みだろう事は陳宮は予想していたが、その手段についてはまったく想定外だったと言えよう。
曹操軍としては、陳宮率いる呂布軍の主力部隊に対して少数精鋭の急襲部隊をけしかけると言う事で対応してきた。呂布軍は呂布を頭に曹操軍を蹂躙するだろうと思われていたが、曹操軍にとって計算違いだったのは陳宮がそれに対応して来た事だ。大軍による力押しでは陳宮が対抗してくると踏んでいた曹操軍にしてみたら、まさに裏をかいたと言って良いだろう。
ただでさえ曹操は呂布討伐に失敗したという風評が流れており、それもあってか全軍の指揮が下がっている部分もある。もちろん士気は高い方だが、それが必ずしも万全に発揮されているとは限らない。それがまた更に悪い方向に働く。陳宮はそんな心理を突いてきた。
呂布は李粛の裏切りを知って激怒したのと同時に、自分がこの場にいればこんな事態にはならないだろうと言う自責の念にも駆られた。
それというのも、そもそものきっかけは劉備なのである。もし劉備が呂布の天下統一の為に協力していれば、今頃この戦場にいるはずの無かったのは劉備本人であろう。そして、そんな状況を打破したのは曹操だ。もしも曹操がいなかったなら呂布にとってもっともっと不利な形で曹操と戦って、今ここにこうして立ってはいなかったはずだ。
そんな事を考えながら、呂布はひたすら逃げる李粛の軍を追って行った。この追撃は曹操に対する報復でもあったのだが、それは高順達の狙いでしかなかったのは間違いない。
李粛の逃げ方は見事と言えば見事なもので、曹操の目を盗んでの逃避行となったのである。そのせいで呂布も高順に言われるまで気付かなかったが、その逃走先に曹操はまんまと誘い込まれたのだ。曹操はここでようやく自分の過ちに気付いた。
おそらくこれは囮だと言う事に気付いて、すぐさま迎撃態勢を整えようとしたが時すでに遅し。完全に包囲されてしまったので引き返すにも戻れない状態だった。こうなってしまえば呂布も、あえて退く事はしなかった。李粛を討ち取れば全てが丸く収まると信じて。
それにしても李粛の動きは不自然過ぎた。いくら何でもここまで無能だとしたら曹操は見殺しにしていたはずである。にも関わらず、ここまで追い詰められる直前まで生き残ってみせたのだから無能どころか相当な切れ者なのは確かであり、そこに疑問を感じずにはいられなかった。
曹操を陥れる為だけに、これだけ周到に罠を張ってみせる手腕の持ち主がこれほどの無為であるはずが無いと呂布には思えてならなかったのだ。ただ、そうなると曹操にとっても厄介な事になるのではないか? と言う不安が過ったが、それはそれで仕方の無い事だと思い直した。少なくとも自分はこれまで曹操に散々に煮え湯を飲ませられてきたと言う事だ。ならばこれからもそうやって苦しめられ続けるのも当然ではないか。その相手が曹操でなければ文句は無かったかもしれないが、呂布にしてみればこれ以上なく納得のいく相手でもある。呂布が考え事をしている間に戦闘状態に入る事になり、そこで呂布は李粛を見つけた。彼の顔を見て一瞬ためらいを覚えたものの、すぐに迷いを捨てて呂布は彼に斬りかかる。呂布の振り下ろした剣戟は、意外なほどすんなり李粛を捉える事が出来ていた。しかし次の瞬間、李粛は自らの刀を呂布に投げつけてきたので慌てて回避する。どうやら李粛も武人、命が助かるとは端から期待していなかったようだ。
一騎討ちで勝負を決められるのが武将であり武芸者であり武勇であり、一騎討ちに敗れてしまうともはや為す術は無い。
いかに歴戦の豪傑であろうとも敗北を認めざるを得ないのが戦であると言う事が理解出来たのは、やはりあの徐州城攻略の折だろう。
その時はまだ呂布も勝利する事を前提としていた為にあまり気にせず済んだのだったが、今度は違う。負けてしまっては、せっかく手に入れた徐州を手に入れる事が出来ない。
李粛はその呂布の心中を読んだ上での行動なのか、はたまたま偶然かは呂布が知る由も無いがとにかくこれで呂布の頭の中には一騎討ちしか選択肢が残らなくなった。他の兵に任せても勝てる可能性はあったが、一騎討ちとなると確実に自分が勝ちに行く方が得策だと考えたのは呂布のこれまでの行動による経験と実績があったからだった。
呂布はこの世界に来てからまともに人を斬った事が無かったのだが、それも呂布軍の面々からすれば信じられないようである。もちろん呂布としては、この世界に召喚されて以来常に戦場に出て来たと
いうのだから無理もない事ではあった。呂布からしてみてもそれ程特別な事でもなく、戦いには常に生死の危険を伴うものだと思っていたからなのだが、その考え方はこの世界でも少数派らしい。呂布軍でも李粛にしろ陳宮にしろ呂布に対して恐れを抱いていたのでそんな事は出来なかったというのが実情だが、呂布としては戦う以上相手を死なす覚悟を持って戦った結果なので、むしろ自分が怖かったのではないかと思えるほどだったりするのだが。
ともあれ呂布は李粛との一騎討ちに臨んだのだった。
李粛は意外と強かった……と言って良いのか悩むところではあるが、陳宮率いる呂布軍はそれなりに強者揃いではあるものの、李粛もまたかなりの手練れの武将として名を残し、呂布相手に何度も互角に渡り合った。もちろん一騎討ちに持ち込まれたと言う事もあるが、それだけの実力者を相手にして五分に近い戦いを繰り広げたのであれば十分に強いと言えるだろう。
「天下無双の名将! それがこんなにも弱卒の大軍を率いた雑魚に敗れるなど、恥さらしめ!」
李粛は呂布を罵倒しつつ切り込んでくる。確かにその通りかもしれない。
曹操の伏兵を看破出来ずにいた事はもちろんの事ながら、それに合わせての呂布本隊による急襲。しかも陳宮が指揮を取っていたと言うだけでなく、李粛自身ですら陳宮の計略の内に囚われてしまっていた。そして李粛に気取られず包囲網が完成していればそれで良かったはずだったのだろうが、それを呂布自身が台無しにしてしまった。呂布が戦場に出る事無く全軍を掌握し、そして李粛との戦いが一騎討ちとなった事もまた李粛に味方する形になっていた。もし一騎討ちにならず全軍が李粛を討ち取る事に集中していさえいれば結果は違っていたかもしれないが、その選択ができなかった時点で李粛にとっては最悪の展開であると言えた。
そして李粛にとって最大の誤算となったのが、それでもまだ呂布には勝ち目があると思われた事である。呂布と言う男は、おそらく常識的に考えるなら天性のものを持っていると言うより積み重ねでその実力を伸ばして来た男であり、また積み上げられたものが簡単に瓦解しないという事でもある。
もし一騎討ちの結果だけを見ていて、そのまま戦を続けていたならば今頃李粛の首級は高順の手にあったはずだ。しかし、そうならなかったのは単に曹操もそこまで愚かではなかったと言うだけの話である。
そもそも、この状況そのものが李粛には見えていなかったのかもしれない。曹操が呂布を討つつもりでいた事は疑いようが無く、それは当然呂布にも分かる事であった。
そこで李粛にとって最も恐るべき事は、今曹操に討たれるわけにもいかず一騎討ちを続けなければ呂布と戦う事ができなくなる事である。つまりは呂布と戦いたくない為に李粛は逃げ出した訳であり、この時点で彼は自分の命ではなく曹操の命を助ける事が最重要であると判断した事になる。曹操が生きていなければ李粛が生き残る理由も無く、李粛が死んでしまえば結局呂布が曹操を殺す事になるのだから、そう言う意味で曹操に助かる見込みが無ければ呂布も一騎討ちを続ける事に執着する事はないだろうと言う事だ。
曹操は自分一人で逃げ出せる状況にあったが、そこはやはり李粛である。李粛にしてみれば曹操も共に助け出して一蓮托生、となれば李粛は呂布軍に対し優位な立場となるのである。そう思って逃げる事を躊躇しなかったはずなのだが、その考えすら曹操も読んでいる事を李粛は知らなかった。
曹操も李粛の心情が分からなかった訳ではないが、彼も李粛と同じ事を考えて逃亡を決意したのだ。その為にあえて囮となり、わざと敵に捕まった上で敵の中に飛び込み呂布の目をそちらに向けさせ李粛が自由に動かせる様に誘導したのである。陳宮が呂布の気質をよく理解していたからこそ出来た芸当で、陳宮からすればあの時に自分が見極められなかったら負けていた可能性が高い。それほどギリギリの勝負であり、陳宮も運だけで生き残ったようなものだと思えていた。しかし実際に呂布の首を狙えたかと言われれば怪しいものであり、やはり勝負は呂布の軍師としての才能の片鱗を見せてくれた張勲の勝利であろう。
ともあれ、結果として呂布と陳宮の目論みは外れてしまった。
そしてこの時李粛に付き従っていた兵はわずか五十人ほどでしかなく、それを率いて逃げる事になった李粛だったが、これもまた彼にとって計算外の展開と言えるだろう。いくら精鋭と言ってもたかが五十六人である。本来であれば李粛が率いる百二十人から比べて戦力として劣るはずがない。
だが李粛は焦り、冷静さを失っていた為、自分がどこにいるのか分からないままに逃走を開始した事が大きな失敗となって返って来た。
「……李粛殿?」
呂布から逃げ出そうと必死だった李粛に呼びかけたのは陳宮の弟、陳登だった。この辺りは元々陳留を領地とする袁紹の一族が勢力争いを行っていた土地であり、呂布軍と董卓軍が戦った際は主戦場とはならなかった為被害も少なく徐州攻略の際真っ先に陳氏一族の協力を得て制圧している。その時はまだ子供だった陳珪と陳紀もこの時には大人となっており、特に陳紀はこの戦で呂布軍の副将として活躍する事が多かった。
陳珪・陳昭の兄弟については、陳宮からその存在を聞かされていない。この二人の存在は陳宮にとっては頭痛の種だったらしいのだが、呂布としては別に構わないと思っていたし何より今は孫観と共に黄巾賊対策の為の策を考えるので忙しかったので後回しにされていたと言うのが実情である。
もっとも、陳珪や陳宮としては李粛よりもよほど重要視したい人物だったので陳公台と二人で何か企んでいた様子ではあったものの、それがなんなのかまでは不明のままである。一方、声をかけられた李徽は振り返った途端驚きの声を上げる事となった。そこにいた人物があまりに意外な相手で驚いてしまったからだ。まさかと言う思いの方が強かったが、目の前の人物が自分の事を知っているはずはないと思い至ると彼は平静を取り戻す。
「これは驚いた。李将軍のお兄さんですか」
それは李克であった。
「あぁ、そうですよ。弟の事でご足労いただいたそうですね」
呂布の言葉に李厳が頭を下げる。
李儒によって李家兄弟が捕縛されている事が知れ渡ると、すぐに呂布の元へやってきた李家の三人であったが、呂布はその姿を見て意外に思った。
それは彼らが人質となっていたはずの弟である李祥の姿が無かった事でもあるが、もっと大きな問題があった。その問題こそが李徽であった。兄の李克は呂布を警戒するあまり、武器を持ってやって来たのに対し、彼の方は明らかに敵意を向けていなかったからである。それはむしろ好意的ですらあったが、そう言う訳にはいかない事情がある。
まず第一に、李家が降伏した場合の問題として李靖と董承の二人が呂布の元に下るというのは難しいと思われる。と言うよりは、難しいどころか不可能であると言うべきで、彼らはあくまでも反旗を上げた形でありそれを鎮めると言う形で降すと言う事が必要だった。
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