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39話
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夏侯淵が叫ぶが、呂布は無言のまま目を開く。
呂布はゆっくりと目を開き、迫り来る呂布に突撃してくる敵兵の方を見る。
そこには百人の弓の名手がいたはずなのだが、今やその数は半分以下に減っていた。
それでも尚、敵の士気は高く、呂布に対して次々と矢を放っていく。
その攻撃の中、呂布は一人だけ立っていた。
無傷で、だ。
「貴様、本当に人間なのか!?」
ついに一人の武将がそう叫んだ。
呂布は小さくため息をつくと、無造作に剣を振る。すると次の瞬間、たった一振りで数百本の矢が全て地に落ちる。
「ば、馬鹿な……」
誰もがその奇跡の様な光景に呆然としていると、いつの間にか呂布の姿が消えていた。
そして再び姿を現した時には、敵陣深く切り込んでいる。
そこから繰り広げられた一方的な戦いは、まさに蹂躙と言って良かった。戟の一閃で十人が斬り捨てられ、一太刀で三人の首が飛ぶ。しかもそれを成したのはいずれも一騎当千の名を持つ猛将であり、一万の敵軍はたちまち三千の兵にまで討ち減らされてしまったのである。
だが、そこまで来てもなお、曹操軍も簡単に諦めようとはしなかった。呂布の攻撃に耐えきった一部の武将達は、一斉に呂布を取り囲む。
だが、その行動は無駄に終わった。
「うっ」
ある者は胸を押さえて膝をつき、またある者は自分の喉を掻きむしるようにしながら倒れ込む。
それは突然の事で、誰も反応出来なかった。
気付いたらそうなっていて、倒れた後でも身体が痙攣していた。呂布の仕業だった。
呂布の一撃は一人の武将を捉え、さらにその後ろにいた数人をまとめて薙ぎ払う。
だが、その一瞬を見逃さなかった曹操軍は、一気に呂布に攻めかかる。
こうなっては呂布といえども、ただでは済まない。そう思われた時、曹操軍が動きを止める。
曹操軍の目の前には、血に濡れた長剣を持った男が立っていた。その男はもちろん呂布なわけだが、その手に持つ剣にはまったく返り血を浴びていない事に曹操軍は驚く。その異様な雰囲気に気圧されて曹操軍は動く事が出来ずにいたのだが、その隙を逃すほど陳宮軍ではない。すぐさま伏兵が一斉に現れ、曹操軍に襲いかかる。こうなると数に劣る曹操軍はひとたまりもない。
曹操軍は完全に浮き足立ち、総崩れとなった。
そこへ張飛率いる関羽軍が合流すると、いよいよ曹操軍にとっては絶望的で不利な状況となる。
「よし、頃合いだな」
呂布は言うと、曹操軍に背を向ける。
関羽達もまた、呂布と共にその場を離れる準備を始めた。
「逃げるのか!」
呂布に向かって曹操軍の兵士が矢を放つが、それもやはり呂布の眉間を貫く事は出来ない。
「お前達相手に、こんなところで体力を使う必要は無いからな」
呂布は振り返る事なく、その場を離れた。
戦場からかなり離れた山の上に、曹操軍と呂布の旗印が並んでいる。
曹操は呂布に向かい合う様にして座ると、徐に口を開いた。
「奉先よ、何故逃げなかった?」
「ここで曹操を討つのは、我々にとって重要ですから」
呂布の言葉に、曹操ではなく曹性が答えた。
曹性は呂布に説明していく。
呂布達が逃げた事によって、曹操軍は追撃を余儀なくされた。
呂布達が陣を敷いた場所の反対側にある山の麓まで曹操軍を追い詰める事は出来たものの、そこはまだ険しい山岳地帯であった。当然、大軍が進軍できる様な地形ではなく、さらに呂布達が布陣した平野部との間には深い渓谷があった。
これなら追ってきた曹操軍を返り討ちに出来る。
曹操軍は勝利に沸くが、そこに思わぬ事態が発生した。
突如として曹操軍の兵糧が次々と襲われ始めたのである。
その犯人は劉備だった。
劉備は呂布達と一緒にいると思っていた曹操だったが、呂布と袁紹が交戦を開始したという報告を受けた劉備は慌てて徐州城に戻る事を決意。
曹操の誘いに乗ったフリをして徐州城に帰り、呂布軍を待ち構えていたのである。
その目的はただ一つ。
呂布の退路を絶つ為。
さらにもう一つ目的があって、それは呂布の妻子を救出する為でもあった。
袁術が徐州城へ攻め入った際、呂布の妻や子供も捕らわれていると言う情報がもたらされた。
その為、劉備は自ら兵を率いて助けに行く事を決めていたのだ。
それを知った呂布も、家族を守る為に戦う事を決断する。しかし、今の状態で呂布が戦いに出る事はない。呂布が表立って戦えば、呂布を討とうとする者達は必ず出て来る。そうすると今度は家族の安全が脅かされてしまうのだ。そこで呂布は、自分が討たれたように見せかけて退却する事にした。その偽装の為にも曹操が邪魔になると考えた呂布は、わざと負けるような戦い方をしたのである。
呂布はあえて一騎討ちに応じたりせず、あえて敵陣深く切り込んで夏侯淵に矢を射させるような事もしなかった。あくまでも自分は安全な場所にいて、一方的に敵を蹂躙するような戦い方で勝つ事で、自分を討ち取った、または討ち取れなかった、という評価を相手に与えようとしたのである。
「あの時曹操軍の主力を引きつけておかなければ、我々は全滅していただろう」
呂布は淡々と告げる。
「だからと言って、わざわざ自ら危険に飛び込む事もあるまいに」
曹操は呆れた様に言ったが、それでも曹操軍にとっては命がけの行動だったはずで、曹操自身この策を考えついた時には身震いしていた。
「それで、曹操殿。俺の家族達は無事なんですか? 曹操軍の中に見かけませんでしたが」
「安心せよ。無事に救出できた。お主がいなくなってからの騒動で手違いがあり、徐州城の門を開ける事が出来なかった。そこで、城内に侵入していた私の部下に呂布将軍の家族を連れてくるように命じたのだが、その時すでに呂布将軍が偽者だと気付かれていてな。その兵達に阻まれていたところを、我らの伏兵が襲って全員捕らえた」
「そうか、よかった」
曹操の説明を聞いて、呂布は胸を撫で下ろす。
もし本当に家族が捕らえられているとしたら、呂布は自らの首を差し出してでも取り戻すつもりだった。その点、曹操軍の手落ちは運良く呂布達の行動の裏をかく形となり、結果的に家族を救い出す事にも成功したのだった。
これで呂布と家族の問題は片付いた事になる。
後は、曹操軍の問題だ。
曹操軍が撤退してからというもの、劉備軍は連戦連勝だった。
呂布との戦いで受けた被害は大きいものの、それ以上の戦果を上げた事により曹操軍は大打撃を受けてしまった。その噂を聞き付けた近隣の諸侯の援軍もあり、曹操軍はいよいよ追い詰められていった。
このまま曹操軍にとどめをさす事が出来るのかと誰もが思っていたある日、ついに呂布と曹操が一騎打ちをするという噂が流れてきた。
その話を聞いた時、呂布と関羽は顔をしかめる。
呂布と曹操の実力差は明白であり、それは曹操自身も承知しているはずだと呂布は考えている。だが、その曹操がここまで苦戦し続けているのは、おそらく自分の力では呂布には勝てないと分かっているからこそ、より優れた人物に任せようとする考えがあるからなのではないか。
であれば、その期待に応えようとしない武将がいた場合、曹操は失望して見限る可能性だってある。
その事に関羽が気付き、すぐに曹操の元へと向かっていった。
一方その頃、張飛が関羽を追って徐州城に向かって行った。
曹操の元には関羽の弟である張飛がいたが、これは劉備にとって好都合と言える。
呂布と戦うには劉備の兵力では心許なく、しかも張飛は豪傑ではあるが頭が悪い。つまり、曹操から劉備に寝返る可能性がある、と思われても仕方がない存在だった。
それを証明するかのように、曹操の態度は冷たかった。張飛に曹操への忠誠が無いのは劉備の目から見ても明らかだったが、さすがに劉備達に対してまで同じ対応を取るとは思ってもいなかった。
「お前が劉備玄徳だな」
「そうだ」
劉備は短く答える。
いかにも武人らしい堂々たる風貌の曹操と比べると、劉備はかなり華奢に見えるのに、劉備は物怖じせずに曹操に対峙する。
「私は貴様が気に入らない。兄者はこんな小物に騙されて、呂布などと手を組んでしまった。呂布など、武勇に優れるだけで何も分かっていない男ではないか。そんな男が、天下の義兄弟であった私の兄の命を奪ったのだぞ」
張飛は激昂しながら言う。
「曹操殿は素晴らしい人物で、呂布が何か悪さをしたという証拠でもあるのか?」
劉備の言葉を受けて、曹操は笑う。
確かに曹操は優秀な人物であり、劉備の事を悪く思っているかもしれないが、劉備が思う程悪い人間ではない。曹操が呂布討伐を命じたのは、劉備の理想を実現する為に協力しようとしてくれたからだ。それを勘違いし、呂布の力を過大評価した挙句に、その呂布の力を利用する事で曹操を利用しようとして返り討ちにあったのだ。
これに関しては、呂布自身が劉備達の前に出ていって説明すべき事だった。しかし、それが出来ないのも劉備のせいである。劉備のせいではない。
だから劉備は曹操に肩入れするつもりは無いのだが、今の呂布の立場は非常に危ういものなのだ。今呂布を失う事は、曹操にとっても避けたいところであるはず。そう考えていたのだが、やはり甘かった。
呂布は劉備達と共に行動していない事が既に曹操の耳に入っているのなら、呂布に対する処分はすでに下されたと考えていい。
ここで呂布が死ねば、それで呂布は曹操軍の脅威では無くなるだけでなく、家族の安全を確保する事も出来る。それは呂布の家族に限らず、劉備の妻や子供達も同様で、そうなれば今呂布の妻や子供を助けようとしている曹操軍を邪魔する者はいないという事にもなる。
曹操としては今呂布を失っては痛手になるので、必ず助けに来る。助けに来てくれるという事は、呂布は生きていると言う事になる。曹操軍が撤退してもまだ戦闘が続いていたのは、呂布が戦っていたという事が大きな理由になっていたからである。曹操軍の主力は呂布によって退けられたとは言えず、その主力を退ける事に成功したとしてもその後で戦う事が出来るかどうかは、また別の話になる。
「我が軍の武将でありながら、勝手に兵を退いたり家族を攫ったりした不届き者を放置しておくわけにはいかん」
「……それは本当に呂布将軍だったのか? その情報には根拠はあるのか? 呂布将軍の身柄は確保出来ているのか? 曹操殿は呂布将軍の家族を保護したと言っていたが、それも事実なのか? もし曹操殿の言っている事が本当ならば、曹操軍は何をもって呂布将軍に疑いを持った? それに呂布将軍には徐州城内へ通じる秘密の抜け道があるので、呂布将軍はそこに潜んでいた可能性も考えられる。そして今も、そこに閉じ込められているのでは? もしそうであれば、曹操軍は誤解したまま呂布将軍を討つ結果になってしまうが、それで良いのか? もしそうでなければ、曹操軍とてただ無駄な被害を出すだけだ。曹操軍の諸将にも、呂布将軍の妻子を救出する様に言ってくれないか。そうすれば俺達は何もしない。もし、救出に向かうのが無理だというのであれば、このまま曹操軍に呂布を討たせる。そうして曹操軍が勝ったのであれば、俺達は曹操軍の傘下に入るつもりだ」
張飛はそう言うと曹操を睨みつける。
この場に関羽がいてくれたら、曹操の態度も少しは変わったかも知れないが、今はここにいない。
張飛は感情的になりやすい性格で、劉備もその事はよく知っているが、曹操は知らない。
だからこそ曹操はこの張飛に期待していた部分もあるだろうが、こうなっては致命的である。張飛は呂布と互角以上の武勇を持つ武将だが、曹操から見れば所詮は武人止まりであり文官気質が抜けたとは言えない人物だった。その張飛は、呂布との一騎打ちの前に劉備と結託してしまった。これではもはやどうしようもない。
張飛が言う様な事態になっていれば、呂布を助けるどころか、呂布の首を獲ろうとしている曹操とて黙っていないはずだ。呂布の処刑を止めて関羽と張飛を討ち、呂布に罪をかぶせて殺す、ぐらいの策は講じていてもおかしくない。
「関羽と張飛が呂布を追って城を出て行ったと聞いているが、お前はその二人から逃げていたのであろう?」
曹操は蔑むように張飛を見る。
関羽から聞いた話をそのまま張飛に告げては、劉備の思う壺だと分かっていた。
だが、張飛は感情的になっているのに加え、呂布に一騎打ちで敗れ、徐州の城から逃げ出した事で自尊心を傷つけられている。さらに言えば、劉備も張飛が思っているような聖人君子ではなく、自分の妻や子供を人質にとって脅してくる卑怯者だ。そう思われるに十分な行動を取っている。
「確かに私は逃げたが、それでもお前より強いぞ」
曹操の挑発に対して、張飛も言い返す。
「呂布如き、私でも勝てるわ!」
曹操の言葉に、張飛は怒りの形相を浮かべる。
「兄者は呂布などとは格が違う! お前ごとき小物が相手出来るほど、兄者は軽くはないぞ!」
張飛の怒りは曹操に向けられているが、劉備に対しても同様で、劉備もまた眉間にシワを寄せながら曹操に向かって行く。
さすがの曹操もこの劉備の行動は完全に予想外だったらしく、一瞬身構える。
いくら曹操が武芸の達人と言っても、劉備の方は素手で熊を殴り殺せそうな巨漢の怪力無双で、曹操の細腕でどうにか出来るとは思えない。
曹操は慌てて距離を取る。
張飛と違って曹操には余裕があるはずなのだが、さすがに無謀過ぎると思ったのかもしれない。
「曹操殿。お待ち下さい。私が間違っていました。申し訳ありません。どうか、私の妻と子供達だけでも返して頂けませんでしょうか?」
劉備も曹操の前で土下座をする。
この場で曹操と戦っても良いのだが、そんな事をしたら呂布の妻子を助けられないばかりか、呂布の名誉も回復できない。
それに劉備としても呂布と戦う理由が無い以上、曹操と戦いたくはなかった。
呂布との戦いに敗れた事で、劉備の名声はかなり落ちてしまった。これからの事は分からないが、ここで下手な騒ぎを起こしてしまっては、それこそ呂布の妻や子供達を助け出す事すら出来なくなってしまうかもしれない。
今呂布の妻や子供達を人質に取られている状態で、それを見捨てて戦いになるわけがない。曹操軍は呂布の妻や子供達を救ってくれる事になるが、それが目的ではない。あくまで、呂布の妻や子供達を解放する事が第一の目的である。その辺りを曹操に上手く伝え、その上で呂布の妻や子供達を解放してもらえればそれで良い。その為なら、頭を下げる事に躊躇いは無い。
「その件については考えておく」
曹操としては呂布の妻達を解放せずにこのまま劉備の家族を捕らえ続けるという選択肢もあるが、今劉備の妻達が殺されてしまうと呂布の家族を救い出そうという計画そのものが無意味になってしまう。曹操としても、呂布の妻達の生命を奪う事は避けたいところだった。
呂布が家族思いの人物だという事も理由の一つだったが、何よりも劉備がこの家族を守ろうとしているからだ。劉備と呂布は共に戦ってきた盟友である。曹操はどちらかと言えば董卓の配下であった時の呂布に嫌悪感を抱いている方ではあったが、劉備にとっては親友であり家族とも言える存在であるらしい。
呂布に対する劉備の愛情は、家族への愛にも劣らないものを持っている。
だからこそ、曹操としては呂布の妻達を見殺しには出来ない。
それは劉備が呂布に負けて妻を失う事になったら、家族を守る者も失う事になるから、というのも大きな理由ではある。
呂布と互角の猛将として知られる関羽はともかく、張飛まで一緒になって劉備一家の命を狙っているというのは、それだけ張飛が冷静さを欠いている証でもある。呂布と戦ったせいなのか、それとも他に原因があったのかはわからないが、このままでは劉備の家族が全員危険に晒されかねない。
曹操は呂布に、劉備が自分に対して謀反を企てていると告げている。しかし、張飛に呂布を襲わせた理由は、曹操の側から見ても理解に苦しむものがあった。いくら何でも劉備にそこまでの事を考える能力があるとは思えないのだ。
ただ、もしこれが張飛と関羽を劉備から引き離す為の策だとすれば、十分に効果はあるだろう。
曹操の読み通り関羽と張飛は別々に行動する様になり、その結果呂布軍の中核を担う二人を分断する事に成功したと言える。後は曹操軍が呂布軍の戦力を削いでいく中で、曹操がいかに巧妙に劉備を追い詰めていくかで、今回の勝利が決まる。
劉備の罪を明らかにする為にも、呂布との決戦において劉備と直接相対するのは曹操でなければ務まらないだろう。曹操はそう考えている。
呂布はゆっくりと目を開き、迫り来る呂布に突撃してくる敵兵の方を見る。
そこには百人の弓の名手がいたはずなのだが、今やその数は半分以下に減っていた。
それでも尚、敵の士気は高く、呂布に対して次々と矢を放っていく。
その攻撃の中、呂布は一人だけ立っていた。
無傷で、だ。
「貴様、本当に人間なのか!?」
ついに一人の武将がそう叫んだ。
呂布は小さくため息をつくと、無造作に剣を振る。すると次の瞬間、たった一振りで数百本の矢が全て地に落ちる。
「ば、馬鹿な……」
誰もがその奇跡の様な光景に呆然としていると、いつの間にか呂布の姿が消えていた。
そして再び姿を現した時には、敵陣深く切り込んでいる。
そこから繰り広げられた一方的な戦いは、まさに蹂躙と言って良かった。戟の一閃で十人が斬り捨てられ、一太刀で三人の首が飛ぶ。しかもそれを成したのはいずれも一騎当千の名を持つ猛将であり、一万の敵軍はたちまち三千の兵にまで討ち減らされてしまったのである。
だが、そこまで来てもなお、曹操軍も簡単に諦めようとはしなかった。呂布の攻撃に耐えきった一部の武将達は、一斉に呂布を取り囲む。
だが、その行動は無駄に終わった。
「うっ」
ある者は胸を押さえて膝をつき、またある者は自分の喉を掻きむしるようにしながら倒れ込む。
それは突然の事で、誰も反応出来なかった。
気付いたらそうなっていて、倒れた後でも身体が痙攣していた。呂布の仕業だった。
呂布の一撃は一人の武将を捉え、さらにその後ろにいた数人をまとめて薙ぎ払う。
だが、その一瞬を見逃さなかった曹操軍は、一気に呂布に攻めかかる。
こうなっては呂布といえども、ただでは済まない。そう思われた時、曹操軍が動きを止める。
曹操軍の目の前には、血に濡れた長剣を持った男が立っていた。その男はもちろん呂布なわけだが、その手に持つ剣にはまったく返り血を浴びていない事に曹操軍は驚く。その異様な雰囲気に気圧されて曹操軍は動く事が出来ずにいたのだが、その隙を逃すほど陳宮軍ではない。すぐさま伏兵が一斉に現れ、曹操軍に襲いかかる。こうなると数に劣る曹操軍はひとたまりもない。
曹操軍は完全に浮き足立ち、総崩れとなった。
そこへ張飛率いる関羽軍が合流すると、いよいよ曹操軍にとっては絶望的で不利な状況となる。
「よし、頃合いだな」
呂布は言うと、曹操軍に背を向ける。
関羽達もまた、呂布と共にその場を離れる準備を始めた。
「逃げるのか!」
呂布に向かって曹操軍の兵士が矢を放つが、それもやはり呂布の眉間を貫く事は出来ない。
「お前達相手に、こんなところで体力を使う必要は無いからな」
呂布は振り返る事なく、その場を離れた。
戦場からかなり離れた山の上に、曹操軍と呂布の旗印が並んでいる。
曹操は呂布に向かい合う様にして座ると、徐に口を開いた。
「奉先よ、何故逃げなかった?」
「ここで曹操を討つのは、我々にとって重要ですから」
呂布の言葉に、曹操ではなく曹性が答えた。
曹性は呂布に説明していく。
呂布達が逃げた事によって、曹操軍は追撃を余儀なくされた。
呂布達が陣を敷いた場所の反対側にある山の麓まで曹操軍を追い詰める事は出来たものの、そこはまだ険しい山岳地帯であった。当然、大軍が進軍できる様な地形ではなく、さらに呂布達が布陣した平野部との間には深い渓谷があった。
これなら追ってきた曹操軍を返り討ちに出来る。
曹操軍は勝利に沸くが、そこに思わぬ事態が発生した。
突如として曹操軍の兵糧が次々と襲われ始めたのである。
その犯人は劉備だった。
劉備は呂布達と一緒にいると思っていた曹操だったが、呂布と袁紹が交戦を開始したという報告を受けた劉備は慌てて徐州城に戻る事を決意。
曹操の誘いに乗ったフリをして徐州城に帰り、呂布軍を待ち構えていたのである。
その目的はただ一つ。
呂布の退路を絶つ為。
さらにもう一つ目的があって、それは呂布の妻子を救出する為でもあった。
袁術が徐州城へ攻め入った際、呂布の妻や子供も捕らわれていると言う情報がもたらされた。
その為、劉備は自ら兵を率いて助けに行く事を決めていたのだ。
それを知った呂布も、家族を守る為に戦う事を決断する。しかし、今の状態で呂布が戦いに出る事はない。呂布が表立って戦えば、呂布を討とうとする者達は必ず出て来る。そうすると今度は家族の安全が脅かされてしまうのだ。そこで呂布は、自分が討たれたように見せかけて退却する事にした。その偽装の為にも曹操が邪魔になると考えた呂布は、わざと負けるような戦い方をしたのである。
呂布はあえて一騎討ちに応じたりせず、あえて敵陣深く切り込んで夏侯淵に矢を射させるような事もしなかった。あくまでも自分は安全な場所にいて、一方的に敵を蹂躙するような戦い方で勝つ事で、自分を討ち取った、または討ち取れなかった、という評価を相手に与えようとしたのである。
「あの時曹操軍の主力を引きつけておかなければ、我々は全滅していただろう」
呂布は淡々と告げる。
「だからと言って、わざわざ自ら危険に飛び込む事もあるまいに」
曹操は呆れた様に言ったが、それでも曹操軍にとっては命がけの行動だったはずで、曹操自身この策を考えついた時には身震いしていた。
「それで、曹操殿。俺の家族達は無事なんですか? 曹操軍の中に見かけませんでしたが」
「安心せよ。無事に救出できた。お主がいなくなってからの騒動で手違いがあり、徐州城の門を開ける事が出来なかった。そこで、城内に侵入していた私の部下に呂布将軍の家族を連れてくるように命じたのだが、その時すでに呂布将軍が偽者だと気付かれていてな。その兵達に阻まれていたところを、我らの伏兵が襲って全員捕らえた」
「そうか、よかった」
曹操の説明を聞いて、呂布は胸を撫で下ろす。
もし本当に家族が捕らえられているとしたら、呂布は自らの首を差し出してでも取り戻すつもりだった。その点、曹操軍の手落ちは運良く呂布達の行動の裏をかく形となり、結果的に家族を救い出す事にも成功したのだった。
これで呂布と家族の問題は片付いた事になる。
後は、曹操軍の問題だ。
曹操軍が撤退してからというもの、劉備軍は連戦連勝だった。
呂布との戦いで受けた被害は大きいものの、それ以上の戦果を上げた事により曹操軍は大打撃を受けてしまった。その噂を聞き付けた近隣の諸侯の援軍もあり、曹操軍はいよいよ追い詰められていった。
このまま曹操軍にとどめをさす事が出来るのかと誰もが思っていたある日、ついに呂布と曹操が一騎打ちをするという噂が流れてきた。
その話を聞いた時、呂布と関羽は顔をしかめる。
呂布と曹操の実力差は明白であり、それは曹操自身も承知しているはずだと呂布は考えている。だが、その曹操がここまで苦戦し続けているのは、おそらく自分の力では呂布には勝てないと分かっているからこそ、より優れた人物に任せようとする考えがあるからなのではないか。
であれば、その期待に応えようとしない武将がいた場合、曹操は失望して見限る可能性だってある。
その事に関羽が気付き、すぐに曹操の元へと向かっていった。
一方その頃、張飛が関羽を追って徐州城に向かって行った。
曹操の元には関羽の弟である張飛がいたが、これは劉備にとって好都合と言える。
呂布と戦うには劉備の兵力では心許なく、しかも張飛は豪傑ではあるが頭が悪い。つまり、曹操から劉備に寝返る可能性がある、と思われても仕方がない存在だった。
それを証明するかのように、曹操の態度は冷たかった。張飛に曹操への忠誠が無いのは劉備の目から見ても明らかだったが、さすがに劉備達に対してまで同じ対応を取るとは思ってもいなかった。
「お前が劉備玄徳だな」
「そうだ」
劉備は短く答える。
いかにも武人らしい堂々たる風貌の曹操と比べると、劉備はかなり華奢に見えるのに、劉備は物怖じせずに曹操に対峙する。
「私は貴様が気に入らない。兄者はこんな小物に騙されて、呂布などと手を組んでしまった。呂布など、武勇に優れるだけで何も分かっていない男ではないか。そんな男が、天下の義兄弟であった私の兄の命を奪ったのだぞ」
張飛は激昂しながら言う。
「曹操殿は素晴らしい人物で、呂布が何か悪さをしたという証拠でもあるのか?」
劉備の言葉を受けて、曹操は笑う。
確かに曹操は優秀な人物であり、劉備の事を悪く思っているかもしれないが、劉備が思う程悪い人間ではない。曹操が呂布討伐を命じたのは、劉備の理想を実現する為に協力しようとしてくれたからだ。それを勘違いし、呂布の力を過大評価した挙句に、その呂布の力を利用する事で曹操を利用しようとして返り討ちにあったのだ。
これに関しては、呂布自身が劉備達の前に出ていって説明すべき事だった。しかし、それが出来ないのも劉備のせいである。劉備のせいではない。
だから劉備は曹操に肩入れするつもりは無いのだが、今の呂布の立場は非常に危ういものなのだ。今呂布を失う事は、曹操にとっても避けたいところであるはず。そう考えていたのだが、やはり甘かった。
呂布は劉備達と共に行動していない事が既に曹操の耳に入っているのなら、呂布に対する処分はすでに下されたと考えていい。
ここで呂布が死ねば、それで呂布は曹操軍の脅威では無くなるだけでなく、家族の安全を確保する事も出来る。それは呂布の家族に限らず、劉備の妻や子供達も同様で、そうなれば今呂布の妻や子供を助けようとしている曹操軍を邪魔する者はいないという事にもなる。
曹操としては今呂布を失っては痛手になるので、必ず助けに来る。助けに来てくれるという事は、呂布は生きていると言う事になる。曹操軍が撤退してもまだ戦闘が続いていたのは、呂布が戦っていたという事が大きな理由になっていたからである。曹操軍の主力は呂布によって退けられたとは言えず、その主力を退ける事に成功したとしてもその後で戦う事が出来るかどうかは、また別の話になる。
「我が軍の武将でありながら、勝手に兵を退いたり家族を攫ったりした不届き者を放置しておくわけにはいかん」
「……それは本当に呂布将軍だったのか? その情報には根拠はあるのか? 呂布将軍の身柄は確保出来ているのか? 曹操殿は呂布将軍の家族を保護したと言っていたが、それも事実なのか? もし曹操殿の言っている事が本当ならば、曹操軍は何をもって呂布将軍に疑いを持った? それに呂布将軍には徐州城内へ通じる秘密の抜け道があるので、呂布将軍はそこに潜んでいた可能性も考えられる。そして今も、そこに閉じ込められているのでは? もしそうであれば、曹操軍は誤解したまま呂布将軍を討つ結果になってしまうが、それで良いのか? もしそうでなければ、曹操軍とてただ無駄な被害を出すだけだ。曹操軍の諸将にも、呂布将軍の妻子を救出する様に言ってくれないか。そうすれば俺達は何もしない。もし、救出に向かうのが無理だというのであれば、このまま曹操軍に呂布を討たせる。そうして曹操軍が勝ったのであれば、俺達は曹操軍の傘下に入るつもりだ」
張飛はそう言うと曹操を睨みつける。
この場に関羽がいてくれたら、曹操の態度も少しは変わったかも知れないが、今はここにいない。
張飛は感情的になりやすい性格で、劉備もその事はよく知っているが、曹操は知らない。
だからこそ曹操はこの張飛に期待していた部分もあるだろうが、こうなっては致命的である。張飛は呂布と互角以上の武勇を持つ武将だが、曹操から見れば所詮は武人止まりであり文官気質が抜けたとは言えない人物だった。その張飛は、呂布との一騎打ちの前に劉備と結託してしまった。これではもはやどうしようもない。
張飛が言う様な事態になっていれば、呂布を助けるどころか、呂布の首を獲ろうとしている曹操とて黙っていないはずだ。呂布の処刑を止めて関羽と張飛を討ち、呂布に罪をかぶせて殺す、ぐらいの策は講じていてもおかしくない。
「関羽と張飛が呂布を追って城を出て行ったと聞いているが、お前はその二人から逃げていたのであろう?」
曹操は蔑むように張飛を見る。
関羽から聞いた話をそのまま張飛に告げては、劉備の思う壺だと分かっていた。
だが、張飛は感情的になっているのに加え、呂布に一騎打ちで敗れ、徐州の城から逃げ出した事で自尊心を傷つけられている。さらに言えば、劉備も張飛が思っているような聖人君子ではなく、自分の妻や子供を人質にとって脅してくる卑怯者だ。そう思われるに十分な行動を取っている。
「確かに私は逃げたが、それでもお前より強いぞ」
曹操の挑発に対して、張飛も言い返す。
「呂布如き、私でも勝てるわ!」
曹操の言葉に、張飛は怒りの形相を浮かべる。
「兄者は呂布などとは格が違う! お前ごとき小物が相手出来るほど、兄者は軽くはないぞ!」
張飛の怒りは曹操に向けられているが、劉備に対しても同様で、劉備もまた眉間にシワを寄せながら曹操に向かって行く。
さすがの曹操もこの劉備の行動は完全に予想外だったらしく、一瞬身構える。
いくら曹操が武芸の達人と言っても、劉備の方は素手で熊を殴り殺せそうな巨漢の怪力無双で、曹操の細腕でどうにか出来るとは思えない。
曹操は慌てて距離を取る。
張飛と違って曹操には余裕があるはずなのだが、さすがに無謀過ぎると思ったのかもしれない。
「曹操殿。お待ち下さい。私が間違っていました。申し訳ありません。どうか、私の妻と子供達だけでも返して頂けませんでしょうか?」
劉備も曹操の前で土下座をする。
この場で曹操と戦っても良いのだが、そんな事をしたら呂布の妻子を助けられないばかりか、呂布の名誉も回復できない。
それに劉備としても呂布と戦う理由が無い以上、曹操と戦いたくはなかった。
呂布との戦いに敗れた事で、劉備の名声はかなり落ちてしまった。これからの事は分からないが、ここで下手な騒ぎを起こしてしまっては、それこそ呂布の妻や子供達を助け出す事すら出来なくなってしまうかもしれない。
今呂布の妻や子供達を人質に取られている状態で、それを見捨てて戦いになるわけがない。曹操軍は呂布の妻や子供達を救ってくれる事になるが、それが目的ではない。あくまで、呂布の妻や子供達を解放する事が第一の目的である。その辺りを曹操に上手く伝え、その上で呂布の妻や子供達を解放してもらえればそれで良い。その為なら、頭を下げる事に躊躇いは無い。
「その件については考えておく」
曹操としては呂布の妻達を解放せずにこのまま劉備の家族を捕らえ続けるという選択肢もあるが、今劉備の妻達が殺されてしまうと呂布の家族を救い出そうという計画そのものが無意味になってしまう。曹操としても、呂布の妻達の生命を奪う事は避けたいところだった。
呂布が家族思いの人物だという事も理由の一つだったが、何よりも劉備がこの家族を守ろうとしているからだ。劉備と呂布は共に戦ってきた盟友である。曹操はどちらかと言えば董卓の配下であった時の呂布に嫌悪感を抱いている方ではあったが、劉備にとっては親友であり家族とも言える存在であるらしい。
呂布に対する劉備の愛情は、家族への愛にも劣らないものを持っている。
だからこそ、曹操としては呂布の妻達を見殺しには出来ない。
それは劉備が呂布に負けて妻を失う事になったら、家族を守る者も失う事になるから、というのも大きな理由ではある。
呂布と互角の猛将として知られる関羽はともかく、張飛まで一緒になって劉備一家の命を狙っているというのは、それだけ張飛が冷静さを欠いている証でもある。呂布と戦ったせいなのか、それとも他に原因があったのかはわからないが、このままでは劉備の家族が全員危険に晒されかねない。
曹操は呂布に、劉備が自分に対して謀反を企てていると告げている。しかし、張飛に呂布を襲わせた理由は、曹操の側から見ても理解に苦しむものがあった。いくら何でも劉備にそこまでの事を考える能力があるとは思えないのだ。
ただ、もしこれが張飛と関羽を劉備から引き離す為の策だとすれば、十分に効果はあるだろう。
曹操の読み通り関羽と張飛は別々に行動する様になり、その結果呂布軍の中核を担う二人を分断する事に成功したと言える。後は曹操軍が呂布軍の戦力を削いでいく中で、曹操がいかに巧妙に劉備を追い詰めていくかで、今回の勝利が決まる。
劉備の罪を明らかにする為にも、呂布との決戦において劉備と直接相対するのは曹操でなければ務まらないだろう。曹操はそう考えている。
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