恋愛ノスタルジー

友崎沙咲

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あなたがわからない

《2》

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*****

その、裸婦。
私が?!
眼を見開いた私を立花さんは意地悪な顔で眺めた。

「あなた、凌央が好きなんでしょ?隠したって無駄よ。私の目は誤魔化せないわ」

そう言うと、彼女は私に一歩近付いた。

「アシスタントは画家を助けるものでしょう?早く脱ぎなさいよ」

その射抜くような眼が怖くて思わず一歩下がった私に、立花さんは尚も距離を詰めた。

「脱ぎなさいよ、早く」
「……待ってください、わ、私、」
「私は卑怯な人間が嫌いなのよ。あなたみたいに何の不自由なくぬくぬくと育った常識はずれのお嬢様なんて」

立花さんがギュッと眉を寄せて私を睨んだ。

「きゃあっ!」

心臓が止まるかと思った。
彼女が私のブラウスを掴んだかと思うと、グッと引き寄せて次の瞬間には突き飛ばしたからだ。
華奢な彼女がまさかこんなに乱暴な行動に出るとは予想していなくて、私は大きく体勢を崩した。
後頭部と背中にガツンと衝撃が走り、本能的に眼を閉じる。

「凌央の為よ。早く脱いで裸婦のモデルになりなさい」

言うなり立花さんはテーブルの上の布を私に投げつけた。
……凌央さんの為に、裸婦のモデルに……。
なんの心構えも出来ていなくて、心細くて恐かった。
でも凌央さんの頼みなら断れない。
だって私は凌央さんのアシスタントだもの。

「早くしてよね。これは凌央が望んだことなんだから」

凌央さんが、望んだこと……。
震える指先で、私はブラウスのボタンに手をかけた。
ボタンを一つ二つと外したのを確認すると、立花さんは踵を返して出入り口へと向かう。
その途中、彼女は吐き捨てるように続けた。

「金に守られて家柄に守られて、何の取り柄もないくせに大した努力もしてないクセに良いものを食べて良い暮らしをする。甘やかされて育ったせいで人の気持ちを踏みにじる。大嫌いよ!」

その時だった、ドアが勢いよく開いたのは。
立花さんが開けるよりも早く開いたドアの向こうを見て私は息を飲んだ。

「っ……!」

立ちはだかるその人物に、私よりも立花さんが大きく驚き、身体を仰け反らせる。
信じられない。
どうして?どうしてここに?!
開け放たれたドアで生まれた風が、ギルティオムの香りを運ぶ。
そしてその向こうに、何と圭吾さんが立っていたのだ。
僅かに息を乱し、これ以上ないと言ったような軽蔑の眼差しを立花さんに向けながら。

「嫌な予感がして来てみれば……これは一体どういう事だ?」

怒気を含んだ低い声で、圭吾さんは立花さんに言葉を放った。

「な……なによ」

立花さんの声を圭吾さんがかき消す。

「とんだ夢見る少女なんだな、君は」

一旦言葉を切ると、再び圭吾さんは口を開く。

「その歳まで知らなかったのか?世の中ってのが不条理で溢れ返っていることを」

圭吾さんはスラックスのポケットに手を突っ込むと一歩部屋の中へと踏み込んだ。

「妬む前に自分のそのどす黒い根性でも正すんだな。じゃないと」

圭吾さんは立花さんの目の前まで歩を進めると至近距離から彼女を見下ろしてニヤリと笑った。

「男が君なんかを好きになるわけないだろう?」

硬直する立花さんの脇を通ると、圭吾さんは私に近づいて口を開いた。

「帰るぞ」
「あの、でも」
「ああそういえば」

圭吾さんは私から視線をそらせて再び立花さんに話しかけた。

「君の会社の社長は……この事をご存知なのかな?」

ギクリとしたように立花さんがこちらを振り返った。

「俺の婚約者……峯岸グループの令嬢を突き飛ばした上に服を脱がそうとした狼藉を」

みるみる立花さんの顔が蒼白に変わる。

「なんなら、今すぐ確認してもいいが」
「や、やめて……」

そんな彼女に圭吾さんは容赦なく次の言葉を放った。

「そういえば義理父は…オフィスの絵画を御社で発注しているらしいが……この件が明るみに出ると、間違いなく契約は解除だろうな」

立花さんが眼を見開いた。
胸の前で組まれた彼女の両手が小刻みに震えている。

「なんだ。震えてるのか?自分のしたことだろう。今更遅い」
「ゆ、許して……凌央だけには、言わないで」

……今まで強気で恐かった立花さんが、急になんの力も持たないか弱い存在に見えた。
それから思った。
ああ、こんな行動を取ってしまうほど、彼女は凌央さんを好きなんだって。
何だか頭がズキズキと痛む。それから……胸も。
圭吾さんは力なく項垂れた立花さんを一瞥したあと、私に視線を移した。

「……帰るぞ、彩」
「……はい」

とうとう床に座り込んでしまった立花さんに、私はどうすることも出来なかった。


*****

「なに考えてるんだ?!」
「ごめんなさい!」

家に着くなりクルリとこちらを振り返り、腰に両手を当てた圭吾さんが私を見据えた。
ダイニングテーブルに乱暴に置かれた車のキーが、カシャンと尖った音を立てる。

「……」
「あの、どうして私の行き先が分かったんですか?」

今聞くのもどうかなと思ったけど案の定、圭吾さんは益々ムッとしたように顎をしゃくった。

「ここにメモを置きっぱなしにしていたからに決まってるだろう。僕は魔法使いじゃない」
「あっ……」
「電話にも出ないし」
「あ、電話……バッテリー切れみたいです……」

バッグの中から慌てて取り出したスマホは完全に動かなかった。

「なんのための携帯なんだ」

そう言われると元も子もない。

「重ね重ねほんとにすみません」
「……」

まだ怒り足りないのか圭吾さんは相変わらずムッとしている。

「あの、取り敢えず先にお風呂に入ります?今から準備しますね」

だって、これ以上グズグズ怒られたくなかったんだもの。
いや、助けてもらっておいてグズグズなんて表現はよくないけど、とにかく私はもう圭吾さんと険悪な雰囲気になるのは嫌で……。

少しでも雰囲気を良くしようとして圭吾さんを見上げて笑うと、彼は驚いたように一瞬眼を見開いた。
それから呆れたようにわざとらしく両目を細めると、

「よくもまあこの状況でヘラヘラ笑っていられるものだな。何が風呂だ。来い」
「……わっ」

圭吾さんが乱暴に私を抱き寄せた。

「圭吾さん?!」

がっしりした身体が私に密着し、何事かと思った私は咄嗟に彼の名前を呼ぶ。
そんな私に圭吾さんは小さく呟いた。

「脱ごうとするなんて……裸婦のモデルになろうとするなんて、そんなにあの男がいいのか」

少しだけ身を起こして私を見た圭吾さんが、苦し気に眉を寄せる。

「どれだけ心配したと思ってるんだ」
「圭……」

最後まで呼べなかった。
傾いた圭吾さんの顔が近づいてきて、その唇が私の口を塞いだから。

柔らかくて熱い圭吾さんの唇に、鼓動が跳ね上がる。
何も出来ない私の唇を圭吾さんは離さず、角度を変えて更に深く包み込もうとする。

次第に芽生える罪の痛みが私の全身を駆け巡った時、僅かに離れた唇の隙間から、圭吾さんが殆ど息だけで言う。

「彩……もうあの男を想うのはやめろ。どうせ結ばれない」

グサリと心臓に、尖った何かが突き刺さった。
なんで、どうして。
半ば伏せられた切れ長の眼が悲しそうで、私はコクンと喉を鳴らした。

「彩、もうアイツの事は諦めろ」

それだけ言うと、圭吾さんは再び私にキスをして両腕に力を込めた。

……逞しい圭吾さんの身体は私を飲み込むように覆い被さり、その重みを利用した彼が、私の背中を壁に押し付けた。


「彩、お前を抱きたい」
「やめてください!」

私の胸元のボタンに手をかけた圭吾さんを両手で押しながら、私は顔を背けた。

「どうして?!どうして、圭吾さん!花怜さんがいるのに……酷いです」

涙声で私は叫んだ。

「彩、」

小刻みに圭吾さんがかぶりを振る。

どうして。どうして?!
花怜さんがいるのに。
これを知ったら、花怜さんはきっと悲しむ。
未だ見ぬ花怜さんの泣き顔が胸に浮かんで、私は圭吾さんを見上げた。

「悲しい思いをさせないで……花怜さんを、もっと大切にしてあげてください」

このキスが、いつかの凌央さんと立花さんのキスと重なり、胸がえぐられる思いがした。
その痛みが、何も知らない花怜さんにも牙を剥くのが耐えられない。

「花怜さんは圭吾さんにとって大切な人でしょう?なら、たとえ彼女が見ていなくても気付かなかったとしても、裏切らないであげてください」

圭吾さんが信じられないといった風に眼を見開く。
それから、彼の両手が力なく私から滑り落ちた。
もうこの場にいたくなかった。
花怜さんに酷いことをしてしまったという思いが辛くて、私は涙を止めることが出来なかった。

*****

「ほお~……それでそんなぶっ細工な顔で出勤しちゃったんだ」

酷い……。
泣いたのと寝不足が合体し、確かにいつもより不細工だけれども。
でも、それに反論する気力が私にはなかった。

「成瀬さんー、私は罪人です」

十時のブレイクルームで、私はガックリと項垂れた。

「罪人はあんたじゃなくて旦那でしょうよ。恋人がいながらあんたに手を出したんだから。それともなにか?恋人と破局してあんたに鞍替えしようとしたとか」

私はその言葉を聞いてブンブンと頭を振った。

「ないです、絶対。圭吾さんは私みたいなタイプ、嫌いなんです」
「ははは!やっぱり?」
「ちょっと!成瀬さん!」

恨めしそうに私が睨むと、成瀬さんは更に笑った。

「あんたって、人を疑う事をまずしないじゃん?あんたといるとたまに自分が酷く汚れてる気がすんのよね」

え。
私は驚いて首を横に振った。

「そんなことありませんよ。私はズルい人間です」

だって元に、婚約者がいながら他の人に恋をしたもの。
私は涙を拭きすぎて水分を含み、小さくなったティッシュを目頭に押し当てながら言った。

「それに私、圭吾さんはそういうことしない人だと思ってたのに……ショックです」

そんな私を見つめていた成瀬さんは、優しく微笑んでテーブルから新しいティッシュを取ってくれた。

「何でもどんな事にも、理由が存在するのよ。彼に聞いてみなさい」
「圭吾さんに?そんなの出来ない。だって恐いです」
「なんで恐いのよ」
「……色々……です」

……そうだ。私は色々……恐い。

「一つ教えてあげる」

曖昧な言葉を返した私に、成瀬さんは優しい眼差しで笑った。

「あんたは、悪くない!」

また泣きそうになる。
成瀬さんの微笑みが嬉しいのに申し訳なくて、私は小さく頭を下げた。
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