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vol.5
あなたにspark joy
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****
私は篠宮さんに乗せられたタクシーの中で、どうして彼が怒っているのかを考えてみたけど、全く心当たりがなかった。
……佐伯さんを泣かしちゃった事以外は。
「あのー……」
「なに」
男っぽい頬を窓の方に傾けて、篠宮さんは低い声で私に返事を返した。
「佐伯さんが泣いちゃって早退したからですか?俺の麻耶を泣かせやがって的な感じで、怒ってるとか」
だとしたら私のこの恋は、本当に粉々だ。
「は?」
篠宮さんが狐につままれたような顔をした。
……違うの?
じゃあもう分かんない。だって私は今、酔っ払ってるし考えるのも面倒だし。
だから私は手っ取り早く謝ることにした。
「篠宮さんがどうして怒ってるのか分かんないけど、取り敢えずごめんなさい」
瞬間、篠宮さんが素早く私の方に身を乗り出した。
右肩と腕が彼に密着してドキッとした私の気持ちなんて知りもしない彼は、ムッとしたような低い声を出した。
「分からないのに謝るのかよ」
切り込んだような二重の綺麗な眼が、イライラしたように私を見据えた。
「……」
……なにこれ。
なんで怒りながらクイズ形式なんだろう。
「あの申し訳ないですけど、はっきり言ってもらった方がいいような気がするんですけど……何故なら私、熱燗飲んで酔っ払ってるんで、思考がうま」
「じゃあ言うけど」
篠宮さんは少し息を吸ってから私の耳に唇を寄せた。
「俺が君にしたキスだけど」
ビクンと身体が震えた。
……酔った頭で真剣に考える。
初対面のあの日、噴水の中で篠宮さんは私にキスをした。
私も嫌じゃなくて……あ、でも、噴水のライトアップが終わった途端、なんかそんな自分が軽い女みたいでそれが嫌で、それで……。
いや、ちょっと待てよ。
あれから再会した時、彼女と別れたっつってたよね?
でも、おかしくない?じゃあなんで佐伯さんは私を目の敵にするのよ。
それに昨日だって、マンション近くで抱き合ってたよね?
……よく考えたら……別れてないじゃん。付き合ってるじゃん。
なのに、篠宮さんは私にキスをした。
しかも、初対面のあの日に。
……ひどい。
ムッとした眼差しを向けている篠宮さんを、私はキッと睨み返した。
「ガッカリさせないでください」
篠宮さんが、少し眉をあげた。
「……佐伯さんに失礼じゃないですか。別れてなかったのに私とキスするなんて。あなたは彼女の気持ちを踏みにじったのよ。最低だわ」
ほんともう、最後の最後まで私は惨めな女だ。
なんで私、嫌われてるのに佐伯さんの為に篠宮さんに怒ってるんだろう。
バカみたいだ。
とてもじゃないけどもう、この狭い空間に二人でいたくなかった。
それによく考えたら、今だっていけないことをしている。
だって、私が佐伯さんなら嫌だもの。
降りなきゃ、早く。
胸が握り潰されるように痛くて、これが失恋の痛みだって私には分かっていた。
泣きそうになって視線をあげて、ようやく気づく。
信号待ちで停まったそこは、見慣れた風景だった。
皮肉な事に、篠宮さんと初めて出会ったあの公園の近くだったのだ。
「運転手さん、私だけ降ります!ドア開けてください!」
「あっ、おい!」
構うもんか、もう知るかっ。
好きな相手から運良く好かれて恋人同士になれるのって、どれくらいの確率なんだろう。
私は、ゆっくりと歩く恋人達に眼をやりながら、漠然とそんな事を思った。
いや、考えないでおこう。だって惨めすぎるもの。
急いで左右を確認すると、道路を素早く横切りながら思った。
今日は思いきり泣こう。
……あの時……抱き合う篠宮さんと佐伯さんに遭遇したあの日、ちゃんと泣いていればよかった。
あの時涙は出なかったけど今思うと、心のどこかで泣くまいと頑張っていたんじゃないだろうか。
あの時思いきり泣いてスッキリしていれば、早く立ち直れたかも知れないのに。
道路を渡りきり、公園を迂回しようとした瞬間、鼻がツンと痛くなった。
まだだ、まだ泣くな、私。
やっぱり、公園を突っ切って近道しよう。公園を突っ切れば最短で部屋に着くもの。
それまで頑張れ、私。
歯を食いしばって公園に足を踏み入れたら、眼の端に噴水が写った。
ここで、あの夜……。
泣くな、まだ泣くな。
その時、慌ただしい靴音が背後から響いた。
見ると街灯の明かりを次々に身に受けながら、スタイルのいい男性がこちらに向かって駆け寄ってくるところだった。
「待てって!」
「うわっ」
「うわっ、じゃねえよ」
わ、わざわざ追いかけてこなくても……。
瞬く間に捕まってしまい、背中が篠宮さんの身体に小さくぶつかる。
私が眼を見張る中、彼が一瞬だけ噴水に視線を送った。
その後再び視線が絡む。
「……」
「……」
凄く嫌な予感がした。
「……ちょっと……もしかして、私を噴水に突き落とす気なんじゃ……」
私がこう言うと篠宮さんはポカンとした後、呆れたように言った。
「俺はそんなに凶暴じゃないよ、君と違って」
な……なんですって?!
余計な一言に驚きつつも、私は敢然と言い返した。
「篠宮さんだって十分凶暴だと思うけど。大体私は高広と飲みに行って店出たところだったのに、無理矢理連れ去るなんて、きゃあっ!」
言い終わらないうちに、強く腕の中に抱き締められた。
篠宮さんの温かい身体と彼の香りに包まれて、息が止まりそうになる。
……これは……これって、その……。
「あの、ちょっと篠宮さん、苦し……」
「それから……好きだよ」
勢い良く噴き出る水の音と、私の耳元で響く篠宮さんの低く柔らかな声。
「すごく好きだよ」
『好きだよ』
多分……生まれてから一番鼓動が跳ねた。
硬直する私を抱き締めたまま、篠宮さんは続けた。
「佐伯さんとは本当に別れてるし、もう何もない。あの日はずっとほったらかしになっていた荷物を引き取りに来てもらっただけだよ」
……え……それって……そうなの?私はてっきり……。
「だ、だって抱き合ってたし」
私がそう言うと、篠宮さんは少しだけ身を起こして私を見下ろした。
「彼女が『最後にサヨナラのハグをさせて』って言うなり抱き着いてきて……そこに真優ちゃんが来て」
私は真剣な眼差しで真っ直ぐにこちらを見下ろす篠宮さんを見上げた。
「本当だよ」
私はコクンと頷いた。
それを見た篠宮さんが小さく咳払いをした後、意を決したように続ける。
「俺多分、ここで君にキスをした時にはもう、好きになってたんだと思う」
「……え……」
驚きのあまりかすれてしまって、私の言葉は恐らく声になっていなかったと思う。
「生意気だなって思ったけど……でもあの時から好きになってたんだって今なら分かるんだ。それに関われば関わる程、その気持ちがどんどん強くなって」
真剣な口調で話す篠宮さんの姿が、徐々に歪んでいく。
篠宮さんは一旦言葉を切って、困ったように笑った。
「ごめん……泣かせるつもりはなかったんだけど」
私も……泣くつもりじゃなかった。でも、だけど、涙が勝手に。
「……高広に怒られるよな、こんなことして」
……え?
篠宮さんがハンカチを取り出して私の涙を拭いてくれた後、淋しそうに笑った。
「秋彦にも恋愛偏差値が低すぎるって言われたし、高広にもいつもダメ出しされてるんだ。今更好きだなんて言ってごめん」
ゆっくりと篠宮さんが私に回した腕を解いた。
「送るよ」
身体に新しい空気が触れて、私はその冷たさに思わず息を飲んだ。
それを感じた途端、瞬間的に身体が動く。
嫌だ、ずっと感じていたい、篠宮さんの温もりを。
離れていこうとする篠宮さんの背中に、私は思いきり抱きついた。
「うわっ……」
「うわっ、じゃないよっ」
「真優ちゃん……?」
「篠宮さんってバカなんじゃないの?なんで分かんないの!?なんで、自分だけ言いたいこと言って帰ろうとするの?私だって、私だって高広とは別れたし、もう一回付き合ってって言われたけどそんな気ないよっ」
篠宮さんの身体が小さくビクンとしたけど、私は続けた。
「あの夜、佐伯さんといた篠宮さんを見て諦めようとしたけど、高広に眼を向けようとしたけど……やっぱりどっちも無理だったよ」
「真優ちゃん」
私はしゃくり上げながら続けた。
「今思えばだけど、噴水の中でキスしたのだって嫌じゃなかった。そりゃビックリしたし思わずあんな態度をとっちゃったけど、相手が篠宮さんだったから嫌じゃなかった」
私がここまで言った時、噴水がピタリと止まった。
ライトアップが始まる前の合図だ。
「私、篠宮さんが好きです」
「……っ!」
言い終えた後、身体がカアッと熱くなった。
泣きすぎたから顔が熱いのか、恥ずかしいからかは分からないけど、こんなにも胸がときめく理由はちゃんとわかってる。
「篠宮さん、大好きです」
篠宮さんが私の腕を解いてこちらに向き直った。
その瞳が驚いたように私を見ている。
それから、唇がゆっくりと動いた。
「ヤバい。嬉しい……スゲー嬉しい、俺」
その時、パステルカラーの水が勢い良く夜空に向かって噴き上がった。
明るい街灯と、キラキラ跳ねる、甘い色の水しぶき。
弾けるようなそれは、私の全身に染み渡るように伝染する。
「真優ちゃん」
篠宮さんが優しく私を呼んだ。
「はい」
ふわりと篠宮さんに包まれて、私は今、極上の幸せの中だ。
「大切にするよ。だから俺と付き合ってください」
真っ直ぐな篠宮さんの眼差しに、また涙が出そうになる。
「……はい」
「やったあ!」
ああ、最初のあの、胸で弾けたような感覚は、きっとあなただから。
この堪らない気持ちは、きっと恋の相手があなただから。
嬉しくて嬉しくて、私は篠宮さんを見上げると、にっこりと笑った。
「じゃあもう、吹っ飛んだハイヒール返そうかな」
「……あのハイヒール、一番のお気に入りなんです」
そう言った私を見て、篠宮さんはクスリと笑った。
ライトアップはいつのまにか終わり、いつもの噴水に戻っていたのに、私達は暫くの間、手を繋いでそれを見ていた。
****
翌朝。
「おはようございます」
いつもは一番早く出社している課長がまだみたいだったから、私は誰もいないと思い、小さな声で挨拶しながら肩のバッグを下ろした。
「おはよう。私辞めるけど後はよろしく」
え?
パーテーションから姿を見せた佐伯さんの言葉に驚いて、私は眼を見開いて彼女を見つめた。
そんな私にチラリと視線を送った後、佐伯さんは続けた。
「私を振った男の会社より、兄の会社の力になりたいのよ」
「……」
「あなたのせいじゃないわよ。三ヶ月前から心の中で決めてた事だから」
まだ誰も来ていないオフィスの天井を仰いだ佐伯さんは、何だか少しだけ幼い表情だ。
それが凄く意外で、私は彼女を見つめた。
「私、あなたみたいな人間、大嫌いよ。誰にでもニコニコして媚売ってるみたいで。でもね、上山に言われたわ」
「上山……さんですか」
「あいつ、高校の同級生なの。異性の中で唯一、私が絶対の信頼をおいてる奴」
佐伯さんが小さく笑った。
「アイツだけなのよね。私が佐伯グループの娘って色眼鏡で見ない男は。それから潔くて、最終的にしっかりと見極める『眼』を持ってるのは」
佐伯さんは、何かを思い出しているのか、遠い眼をして続けた。
「めちゃくちゃ気に入らないけど、アイツがあなたを褒めるから……もういいかなって。慶太の相手があなたでいいかなって」
佐伯さんがツンと横を向いた。
「なにも言わないで。あなただけには何も言われたくないわ。惨めになりたくないから。この話はもう終わりよ」
言い終えた佐伯さんは、もういつもの佐伯さんに戻っていて、その横顔は相変わらずクールだった。
美しい横顔を見つめながら、私は彼女が泣きながら言った言葉の意味が分かった気がした。
『最悪よ、あなたは。挑みもしないで思いを封じ込めるなんて。私がどんな気持ちで……!』
……佐伯さんは多分……可能性を捨てない人なんじゃないだろうか。
いつでも、ほんの一筋でも希望があるとしたなら傷付く事を恐れず、それにかけて突き進んでいく強い心の持ち主なんじゃないだろうか。
私は佐伯さんを眩しく思った。
私にはない、強い信念を持って行動できる佐伯さんが眩しかったのだ。
こんな風に出会わず、もっと別の出会い方だったら、私と佐伯さんはどんな関係だったのだろう。
「なによ、その顔」
佐伯さんが、私を見て浅く笑った。
「さあ、仕事の準備するわよ」
「はい。今日も一日、よろしくお願いします」
それからはいつも通り、彼女と私は必要以上に言葉を交わすことはなく、ただ黙々と仕事を続けた。
****
その日の夜。
「どうぞ」
「ありがとうございます!もしかしてハイヒール、クリーニングに出してくださったんですか?」
篠宮さんのお宅の広い玄関でハイヒールを受け取りながら、私は彼を見上げた。
「うん。だってあの日、昼過ぎまで雨だっただろ?真優ちゃんは噴水に落ちた後走って帰っちゃったけど、あの後この靴、可哀想に左右とも泥水の中に」
「ちょっと、篠宮さん」
「ん?」
篠宮さんが少し眉をあげて私を見下ろした。
いつもは切れ長の眼が、今は少し無邪気にみえる。
「可哀想なのは、ハイヒールよりもドロドロになってた私の両足じゃないですか?」
「じゃあ、重量級のバッグで殴られた俺の頭は?」
あ……!
そう言えば、キスした後に思いきり遠心力を付けたバッグで……。
「それはその……大丈夫でしたか?」
テヘッと可愛く笑ってみたけど、篠宮さんは一瞬驚いた顔をした後、どこか呆れたような眼差しを向けた。
「なにを今更」
「……」
数々の女らしくない自分の行動に冷や汗が出る思いで少し眼をそらすと、篠宮さんは私の二の腕を掴んで引き寄せた。
「それに昨日だって」
「……っ……!」
篠宮さんがわざと両目を細めて身を屈め、至近距離から私を見つめた。
「一緒にいたいです、なんて言って部屋によんでくれたのはいいけど、シャワー浴びた途端にグースカ寝ちゃうし」
グ、グースカ!そこはスヤスヤでしょう!
心の中ですかさず突っ込んだものの、これ以上行儀の悪い女だと思われたくなくて、私はモゴモゴと言い訳をした。
「そ……れは……熱燗が思いの外効いてて……」
「熱燗で思い出したけど、高広にはちゃんと説明したから。もう真優ちゃんは俺のものだって」
「……」
篠宮さんが頬を斜めに傾けた。
「真優」
その艶やかな声に、ドキドキと心臓が騒ぎ出す。
お互いの頬がふれ合った時、篠宮さんが甘く囁いた。
「あの、篠宮さ……」
「慶太って、言ってみ」
いつの間にか胸のトキメキが全身に広がっていて、私は観念した。
「慶……太」
「もう一回」
「慶太」
「真優、今日は帰す気ないから。それから」
篠宮さん……慶太……が、悪戯っぽく微笑んで私を見た。
「寝かす気もない」
ああ、きっとこのトキメキはこれからも続くだろう。
「うん、慶太」
私は大好きな彼のキスを受けながら、ゆっくりと眼を閉じた。
『あなたにspark joy』
end
私は篠宮さんに乗せられたタクシーの中で、どうして彼が怒っているのかを考えてみたけど、全く心当たりがなかった。
……佐伯さんを泣かしちゃった事以外は。
「あのー……」
「なに」
男っぽい頬を窓の方に傾けて、篠宮さんは低い声で私に返事を返した。
「佐伯さんが泣いちゃって早退したからですか?俺の麻耶を泣かせやがって的な感じで、怒ってるとか」
だとしたら私のこの恋は、本当に粉々だ。
「は?」
篠宮さんが狐につままれたような顔をした。
……違うの?
じゃあもう分かんない。だって私は今、酔っ払ってるし考えるのも面倒だし。
だから私は手っ取り早く謝ることにした。
「篠宮さんがどうして怒ってるのか分かんないけど、取り敢えずごめんなさい」
瞬間、篠宮さんが素早く私の方に身を乗り出した。
右肩と腕が彼に密着してドキッとした私の気持ちなんて知りもしない彼は、ムッとしたような低い声を出した。
「分からないのに謝るのかよ」
切り込んだような二重の綺麗な眼が、イライラしたように私を見据えた。
「……」
……なにこれ。
なんで怒りながらクイズ形式なんだろう。
「あの申し訳ないですけど、はっきり言ってもらった方がいいような気がするんですけど……何故なら私、熱燗飲んで酔っ払ってるんで、思考がうま」
「じゃあ言うけど」
篠宮さんは少し息を吸ってから私の耳に唇を寄せた。
「俺が君にしたキスだけど」
ビクンと身体が震えた。
……酔った頭で真剣に考える。
初対面のあの日、噴水の中で篠宮さんは私にキスをした。
私も嫌じゃなくて……あ、でも、噴水のライトアップが終わった途端、なんかそんな自分が軽い女みたいでそれが嫌で、それで……。
いや、ちょっと待てよ。
あれから再会した時、彼女と別れたっつってたよね?
でも、おかしくない?じゃあなんで佐伯さんは私を目の敵にするのよ。
それに昨日だって、マンション近くで抱き合ってたよね?
……よく考えたら……別れてないじゃん。付き合ってるじゃん。
なのに、篠宮さんは私にキスをした。
しかも、初対面のあの日に。
……ひどい。
ムッとした眼差しを向けている篠宮さんを、私はキッと睨み返した。
「ガッカリさせないでください」
篠宮さんが、少し眉をあげた。
「……佐伯さんに失礼じゃないですか。別れてなかったのに私とキスするなんて。あなたは彼女の気持ちを踏みにじったのよ。最低だわ」
ほんともう、最後の最後まで私は惨めな女だ。
なんで私、嫌われてるのに佐伯さんの為に篠宮さんに怒ってるんだろう。
バカみたいだ。
とてもじゃないけどもう、この狭い空間に二人でいたくなかった。
それによく考えたら、今だっていけないことをしている。
だって、私が佐伯さんなら嫌だもの。
降りなきゃ、早く。
胸が握り潰されるように痛くて、これが失恋の痛みだって私には分かっていた。
泣きそうになって視線をあげて、ようやく気づく。
信号待ちで停まったそこは、見慣れた風景だった。
皮肉な事に、篠宮さんと初めて出会ったあの公園の近くだったのだ。
「運転手さん、私だけ降ります!ドア開けてください!」
「あっ、おい!」
構うもんか、もう知るかっ。
好きな相手から運良く好かれて恋人同士になれるのって、どれくらいの確率なんだろう。
私は、ゆっくりと歩く恋人達に眼をやりながら、漠然とそんな事を思った。
いや、考えないでおこう。だって惨めすぎるもの。
急いで左右を確認すると、道路を素早く横切りながら思った。
今日は思いきり泣こう。
……あの時……抱き合う篠宮さんと佐伯さんに遭遇したあの日、ちゃんと泣いていればよかった。
あの時涙は出なかったけど今思うと、心のどこかで泣くまいと頑張っていたんじゃないだろうか。
あの時思いきり泣いてスッキリしていれば、早く立ち直れたかも知れないのに。
道路を渡りきり、公園を迂回しようとした瞬間、鼻がツンと痛くなった。
まだだ、まだ泣くな、私。
やっぱり、公園を突っ切って近道しよう。公園を突っ切れば最短で部屋に着くもの。
それまで頑張れ、私。
歯を食いしばって公園に足を踏み入れたら、眼の端に噴水が写った。
ここで、あの夜……。
泣くな、まだ泣くな。
その時、慌ただしい靴音が背後から響いた。
見ると街灯の明かりを次々に身に受けながら、スタイルのいい男性がこちらに向かって駆け寄ってくるところだった。
「待てって!」
「うわっ」
「うわっ、じゃねえよ」
わ、わざわざ追いかけてこなくても……。
瞬く間に捕まってしまい、背中が篠宮さんの身体に小さくぶつかる。
私が眼を見張る中、彼が一瞬だけ噴水に視線を送った。
その後再び視線が絡む。
「……」
「……」
凄く嫌な予感がした。
「……ちょっと……もしかして、私を噴水に突き落とす気なんじゃ……」
私がこう言うと篠宮さんはポカンとした後、呆れたように言った。
「俺はそんなに凶暴じゃないよ、君と違って」
な……なんですって?!
余計な一言に驚きつつも、私は敢然と言い返した。
「篠宮さんだって十分凶暴だと思うけど。大体私は高広と飲みに行って店出たところだったのに、無理矢理連れ去るなんて、きゃあっ!」
言い終わらないうちに、強く腕の中に抱き締められた。
篠宮さんの温かい身体と彼の香りに包まれて、息が止まりそうになる。
……これは……これって、その……。
「あの、ちょっと篠宮さん、苦し……」
「それから……好きだよ」
勢い良く噴き出る水の音と、私の耳元で響く篠宮さんの低く柔らかな声。
「すごく好きだよ」
『好きだよ』
多分……生まれてから一番鼓動が跳ねた。
硬直する私を抱き締めたまま、篠宮さんは続けた。
「佐伯さんとは本当に別れてるし、もう何もない。あの日はずっとほったらかしになっていた荷物を引き取りに来てもらっただけだよ」
……え……それって……そうなの?私はてっきり……。
「だ、だって抱き合ってたし」
私がそう言うと、篠宮さんは少しだけ身を起こして私を見下ろした。
「彼女が『最後にサヨナラのハグをさせて』って言うなり抱き着いてきて……そこに真優ちゃんが来て」
私は真剣な眼差しで真っ直ぐにこちらを見下ろす篠宮さんを見上げた。
「本当だよ」
私はコクンと頷いた。
それを見た篠宮さんが小さく咳払いをした後、意を決したように続ける。
「俺多分、ここで君にキスをした時にはもう、好きになってたんだと思う」
「……え……」
驚きのあまりかすれてしまって、私の言葉は恐らく声になっていなかったと思う。
「生意気だなって思ったけど……でもあの時から好きになってたんだって今なら分かるんだ。それに関われば関わる程、その気持ちがどんどん強くなって」
真剣な口調で話す篠宮さんの姿が、徐々に歪んでいく。
篠宮さんは一旦言葉を切って、困ったように笑った。
「ごめん……泣かせるつもりはなかったんだけど」
私も……泣くつもりじゃなかった。でも、だけど、涙が勝手に。
「……高広に怒られるよな、こんなことして」
……え?
篠宮さんがハンカチを取り出して私の涙を拭いてくれた後、淋しそうに笑った。
「秋彦にも恋愛偏差値が低すぎるって言われたし、高広にもいつもダメ出しされてるんだ。今更好きだなんて言ってごめん」
ゆっくりと篠宮さんが私に回した腕を解いた。
「送るよ」
身体に新しい空気が触れて、私はその冷たさに思わず息を飲んだ。
それを感じた途端、瞬間的に身体が動く。
嫌だ、ずっと感じていたい、篠宮さんの温もりを。
離れていこうとする篠宮さんの背中に、私は思いきり抱きついた。
「うわっ……」
「うわっ、じゃないよっ」
「真優ちゃん……?」
「篠宮さんってバカなんじゃないの?なんで分かんないの!?なんで、自分だけ言いたいこと言って帰ろうとするの?私だって、私だって高広とは別れたし、もう一回付き合ってって言われたけどそんな気ないよっ」
篠宮さんの身体が小さくビクンとしたけど、私は続けた。
「あの夜、佐伯さんといた篠宮さんを見て諦めようとしたけど、高広に眼を向けようとしたけど……やっぱりどっちも無理だったよ」
「真優ちゃん」
私はしゃくり上げながら続けた。
「今思えばだけど、噴水の中でキスしたのだって嫌じゃなかった。そりゃビックリしたし思わずあんな態度をとっちゃったけど、相手が篠宮さんだったから嫌じゃなかった」
私がここまで言った時、噴水がピタリと止まった。
ライトアップが始まる前の合図だ。
「私、篠宮さんが好きです」
「……っ!」
言い終えた後、身体がカアッと熱くなった。
泣きすぎたから顔が熱いのか、恥ずかしいからかは分からないけど、こんなにも胸がときめく理由はちゃんとわかってる。
「篠宮さん、大好きです」
篠宮さんが私の腕を解いてこちらに向き直った。
その瞳が驚いたように私を見ている。
それから、唇がゆっくりと動いた。
「ヤバい。嬉しい……スゲー嬉しい、俺」
その時、パステルカラーの水が勢い良く夜空に向かって噴き上がった。
明るい街灯と、キラキラ跳ねる、甘い色の水しぶき。
弾けるようなそれは、私の全身に染み渡るように伝染する。
「真優ちゃん」
篠宮さんが優しく私を呼んだ。
「はい」
ふわりと篠宮さんに包まれて、私は今、極上の幸せの中だ。
「大切にするよ。だから俺と付き合ってください」
真っ直ぐな篠宮さんの眼差しに、また涙が出そうになる。
「……はい」
「やったあ!」
ああ、最初のあの、胸で弾けたような感覚は、きっとあなただから。
この堪らない気持ちは、きっと恋の相手があなただから。
嬉しくて嬉しくて、私は篠宮さんを見上げると、にっこりと笑った。
「じゃあもう、吹っ飛んだハイヒール返そうかな」
「……あのハイヒール、一番のお気に入りなんです」
そう言った私を見て、篠宮さんはクスリと笑った。
ライトアップはいつのまにか終わり、いつもの噴水に戻っていたのに、私達は暫くの間、手を繋いでそれを見ていた。
****
翌朝。
「おはようございます」
いつもは一番早く出社している課長がまだみたいだったから、私は誰もいないと思い、小さな声で挨拶しながら肩のバッグを下ろした。
「おはよう。私辞めるけど後はよろしく」
え?
パーテーションから姿を見せた佐伯さんの言葉に驚いて、私は眼を見開いて彼女を見つめた。
そんな私にチラリと視線を送った後、佐伯さんは続けた。
「私を振った男の会社より、兄の会社の力になりたいのよ」
「……」
「あなたのせいじゃないわよ。三ヶ月前から心の中で決めてた事だから」
まだ誰も来ていないオフィスの天井を仰いだ佐伯さんは、何だか少しだけ幼い表情だ。
それが凄く意外で、私は彼女を見つめた。
「私、あなたみたいな人間、大嫌いよ。誰にでもニコニコして媚売ってるみたいで。でもね、上山に言われたわ」
「上山……さんですか」
「あいつ、高校の同級生なの。異性の中で唯一、私が絶対の信頼をおいてる奴」
佐伯さんが小さく笑った。
「アイツだけなのよね。私が佐伯グループの娘って色眼鏡で見ない男は。それから潔くて、最終的にしっかりと見極める『眼』を持ってるのは」
佐伯さんは、何かを思い出しているのか、遠い眼をして続けた。
「めちゃくちゃ気に入らないけど、アイツがあなたを褒めるから……もういいかなって。慶太の相手があなたでいいかなって」
佐伯さんがツンと横を向いた。
「なにも言わないで。あなただけには何も言われたくないわ。惨めになりたくないから。この話はもう終わりよ」
言い終えた佐伯さんは、もういつもの佐伯さんに戻っていて、その横顔は相変わらずクールだった。
美しい横顔を見つめながら、私は彼女が泣きながら言った言葉の意味が分かった気がした。
『最悪よ、あなたは。挑みもしないで思いを封じ込めるなんて。私がどんな気持ちで……!』
……佐伯さんは多分……可能性を捨てない人なんじゃないだろうか。
いつでも、ほんの一筋でも希望があるとしたなら傷付く事を恐れず、それにかけて突き進んでいく強い心の持ち主なんじゃないだろうか。
私は佐伯さんを眩しく思った。
私にはない、強い信念を持って行動できる佐伯さんが眩しかったのだ。
こんな風に出会わず、もっと別の出会い方だったら、私と佐伯さんはどんな関係だったのだろう。
「なによ、その顔」
佐伯さんが、私を見て浅く笑った。
「さあ、仕事の準備するわよ」
「はい。今日も一日、よろしくお願いします」
それからはいつも通り、彼女と私は必要以上に言葉を交わすことはなく、ただ黙々と仕事を続けた。
****
その日の夜。
「どうぞ」
「ありがとうございます!もしかしてハイヒール、クリーニングに出してくださったんですか?」
篠宮さんのお宅の広い玄関でハイヒールを受け取りながら、私は彼を見上げた。
「うん。だってあの日、昼過ぎまで雨だっただろ?真優ちゃんは噴水に落ちた後走って帰っちゃったけど、あの後この靴、可哀想に左右とも泥水の中に」
「ちょっと、篠宮さん」
「ん?」
篠宮さんが少し眉をあげて私を見下ろした。
いつもは切れ長の眼が、今は少し無邪気にみえる。
「可哀想なのは、ハイヒールよりもドロドロになってた私の両足じゃないですか?」
「じゃあ、重量級のバッグで殴られた俺の頭は?」
あ……!
そう言えば、キスした後に思いきり遠心力を付けたバッグで……。
「それはその……大丈夫でしたか?」
テヘッと可愛く笑ってみたけど、篠宮さんは一瞬驚いた顔をした後、どこか呆れたような眼差しを向けた。
「なにを今更」
「……」
数々の女らしくない自分の行動に冷や汗が出る思いで少し眼をそらすと、篠宮さんは私の二の腕を掴んで引き寄せた。
「それに昨日だって」
「……っ……!」
篠宮さんがわざと両目を細めて身を屈め、至近距離から私を見つめた。
「一緒にいたいです、なんて言って部屋によんでくれたのはいいけど、シャワー浴びた途端にグースカ寝ちゃうし」
グ、グースカ!そこはスヤスヤでしょう!
心の中ですかさず突っ込んだものの、これ以上行儀の悪い女だと思われたくなくて、私はモゴモゴと言い訳をした。
「そ……れは……熱燗が思いの外効いてて……」
「熱燗で思い出したけど、高広にはちゃんと説明したから。もう真優ちゃんは俺のものだって」
「……」
篠宮さんが頬を斜めに傾けた。
「真優」
その艶やかな声に、ドキドキと心臓が騒ぎ出す。
お互いの頬がふれ合った時、篠宮さんが甘く囁いた。
「あの、篠宮さ……」
「慶太って、言ってみ」
いつの間にか胸のトキメキが全身に広がっていて、私は観念した。
「慶……太」
「もう一回」
「慶太」
「真優、今日は帰す気ないから。それから」
篠宮さん……慶太……が、悪戯っぽく微笑んで私を見た。
「寝かす気もない」
ああ、きっとこのトキメキはこれからも続くだろう。
「うん、慶太」
私は大好きな彼のキスを受けながら、ゆっくりと眼を閉じた。
『あなたにspark joy』
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この世のしがらみというものは、20代後半女子であっても放っておいてはくれないものだ。
彼氏なんていなくても。結婚なんてしてなくても。楽しければいいじゃない。仕事が楽しくて趣味も充実してればそれで私の人生は満足だった。
私の人生に彩りをくれる、その人。
その人に、私はどうやら巡り合わないといけないらしい。
⭐︎素敵な表紙は仲良しの漫画家さんに描いて頂きました。著作権保護の為、無断転載はご遠慮ください。
⭐︎この作品はエブリスタでも投稿しています。
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