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③ゴミな私の生きる価値

最終話

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「……遅くなってごめんなさっ」

 最後まで言い切る前に、母は手首を強く掴んで無理やり私をリビングへと引っ張っていく。そして、近所に怒鳴り声が聞こえないようにするために扉を閉めてから、私を床に投げた。

 私は、立って耐えることもできず、そのまま床に転がる。でも、いつまでも転がっていたら、またあの時みたいに、道端に落ちているごみのように蹴られてしまう。これ以上痛いのは嫌だから、どうにかふるえる足をおさえて立ち上がった。

「掃除も洗濯の取り込みも終わってないのにどこほっつき歩いていたの? お母さんはお兄ちゃんの絵画教室の送り迎えで忙しいの。知ってるでしょう」

 母は何の才能も持たない私には教育を施す価値を見出していない。私に家事をさせることで時間を作り、絵の才能を持つ兄により多くの時間をかけている。

 私は、母の怒鳴り声に体がすくんで弁解も反論もできず、ただうつむいて説教が終わることを待っていた。

「やることなすこと手際が悪いあなたが遊んでいる暇がないことぐらいわかるでしょ。……何か言ったらどうなの?! 話、ちゃんと聞いてるの?!」

 反応のない私に、さらに母は腹を立てたようだ。手を大きく振りかぶって、私の頬をはたいた。耳元でバチンという大きな音がした後、衝撃に耐えられずまた床に転がってしまった。

「お兄ちゃんみたいな才能はない。普通の子ができることすらできない。お母さんの邪魔ばかりしてくる。死んだら? 生きている価値もないくせに他人の足引っ張らないでよ」

 道路の端でカラスに荒らされた生ゴミでも見るような目で、母は私を睨みつける。そして八つ当たりで転がっている私を踏みつけてくる。

 何度も、何度も。手加減なんかない。今ここで私は、悪意を持って殺されそうになっているのかもしれない。この場から消されそうになっているのかもしれない。

 以前の私なら、黙って受け入れただろう。でも今の私は、生きる価値も意味もなかったあの頃の自分とはほんの少しだけ違う。

「嫌だ! 私は、私は……っ!」

 宮崎さんが示してくれた。こんな欠陥品である私と話すことが楽しいと言ってくれた。私に救われたと言ってくれた。これは宮崎さんが示してくれた私の価値になるのだろう。

「……っ」

 「死にたくない」とも「生きたい」とも言えなかった。だけど、私の体は容赦なく蹴り付けてくる母親の足を押し退けて、家から飛び出した。

 私の体は、ただ踏み躙られ、この世から消されることを全身で否定した。初めて親に逆らった瞬間だった。

 行き先はない。誰が助けてくれるのか、誰に助けを求めればいいのか。そんなことも考えられない。けれど、私に価値はないと決めつけて、勝手に廃棄しようとする者から逃げる足は止まらない。

 結局帰る場所は、私を否定するあの家しかないだろう。親に養わなければ生きていけない子供に、逃げ場などないに等しい。それでも走った。

 大人になるまで生きていられる可能性は、一般的な家庭の子供よりも低いかもしれない。どうせ家に帰るしかないのだ。そこで激昂した親に殺されることも否定できない。

 そこを生き延びても厳しい環境に心が壊れてしまうこともあるだろう。自分が生きている意味も、その価値も自分ではまだ見出せない。示してもらうばかりだ。

 それでも「生きたい」と。暗く荒れ果てた心の中に、消えかけの焚き火のように小さく弱々しい、すぐにでも消えてしまいそうなものが、初めて希望と言えるであろうものが生まれた。
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