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6月
第2帖。ダシ巻き卵。
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まぶしい。慧太は布団をかぶった。まだ眠い。今日は日曜日だ。
――起きなくてもいい日だし、大学に行く用事もないし。
前者は、休学を決めたから本当だとしても、後者はちょっと違う。学生課に休学届を出さねばならない。そうしないと「君は在学中でしょ」となる。
単に大学に行きたくないので適当な理由をつける慧太だった。
「おーい。けいた。お主、まだ寝足りないのか」
女の子の声が降ってくる。聞き間違えることはない。けーこだ。
「え? けーこ? なんで部屋の中に?」
「起きたか。もう11時じゃぞ」
見る。ベッドの脇にけーこが立っていた。相変わらずの制服で、腰に手を当て偉そうにしている。
慧太はむくりと起き、あくびと伸びをする。
「うあーあ」
「なんじゃけーた。昼も近いのに眠いか」
「昨日寝たのは4時なんだ」
「でっかいアクビじゃの。4時? 朝の4時か? そんな時間まで勉強とは恐れ入る」
「そんなことするもんか。というかけーこ、どうやって僕の部屋に入った!」
「いきなり大声を出すでない。ゴキンジョメイワクじゃぞ。鍵なら昨日いただいておいたからの。いつでもお主の家に入れるわい」
「まあ別にいいけど。……今何時? 11時か。まだ早い」
「早い? ワシは起きてからもう6時間たっておるのじゃぞ!」
「6時間! そんなに早起きなのか。ランニングでもしてるの?」
「川原を走るようにしておる。健康に良いぞ。一緒にやるか?」
「いや、朝は苦手だから」
「そんな気がしたわい。昼まで寝ているようなもんじゃからのう。せっかくお昼ご飯を作るために来てやったのだぞ。アリガタク思え」
「そうなのか。ありがとう」
「うむ。最初から素直にそう言うのじゃぞ」
徹頭徹尾偉そうな口をきくけーこ。でもけーこだから、どんな横柄だろうと慧太は許してしまう。
「で、どんなお昼ご飯を作ってくれるの?」
「それはともかくけいた。顔だけでも洗うて来い。目ヤニだらけれではないか」
けーこにうながされ、洗面所で顔を洗う慧太。さっぱりして出てくると、けーこは冷蔵庫をのぞいて渋い顔をしている。
「けいた。食材らしいものがゼロじゃぞ。昨日から状況が変わっておらん。新ジャガと新タマが玄関に転がっておったが……、あとはえーと、卵じゃな。これ昨日ワシが買っておいた高級品じゃろ」
以前、一緒に買い物に言ったとき買った卵だ。普段なら1パック318円もする高級卵がなんと98円だったので買ってしまっていたけーこである。10個入りで98円。卵の底値と言っていい。その値で高級卵が買えるのならば買うしかない。
しかもそんじょそこらの卵ではない。ヨード卵に匹敵する高級卵。元値なら絶対買っていない雲の上の存在だった。
完全栄養食の名をほしいままにしているこの焦げ茶色どもは、昔ならコレステロールの塊だと避けられていた。1日1個が上限。それが昨今では1日2個か3個なら大丈夫とされている。
同じ食材なのに扱いが変わるのはよくある話で、例えば40年前は「野菜は農薬が付いているから洗剤で洗うもの」で、わざわざ野菜用の洗剤が売られていた。また20年前は「イカはコレステロールの塊だからむやみに食うな」と言われていた。
今聞けばどちらもバカバカしい話だ。でも当時は本気だったのである。
けーこは「うーん」と頭をひねるのだった。やがて1つ、ひらめいたらしい。頭の上に電球がピコンと点る。
「卵とダシ汁が余っておる。それではダシ巻きを作ろうぞ」
「ダシ巻き? 卵焼きってことか?」
「卵にダシを混ぜて焼くのじゃ。卵焼きよりもふっくらするぞ。うん、決定じゃ。ダシ巻き卵じゃ。ワシの世界では卵は高級品じゃぞ。それが10個も並んでいるのが珍しいのに……卵焼きなんぞ卵をたくさん使わねば作れん。ぜいたくに過ぎるんじゃよ」
「けーこ、卵好きなのか。口調が滑らかだ」
「大好きじゃ! でも風邪を引いたりいいことがあったりしないと食えん。それだけが生前の未練じゃったのう」
生前、と来たか。そうか、中世では卵は高級品だったのか。そう言われれば日本でも昔は籾殻の木箱に丁重に保管していた。滋養ある食べ物とされ、そうそう食べるものではなかった。
「ダシ巻き卵を作るのはいいとしてものう」
「何か不都合が?」
「うむ。やっぱり買い物に行かねばならんのう。行くぞけーた!」
「お、おー!」
こうして今日も一緒に買い物に行く2人だった。
◆
スーパーに行くまでの道すがら、慧太は言う。
「けーこ、今日学校はどうした?」
「けいた、今日は日曜日じゃ。休みぞ」
「そうだった。今日は日曜日か。引きこもっていると曜日の感覚がなくなる」
「けいたはもう学校に行かぬのか。大学に?」
「行くよ。休学届を出しにどこかのタイミングで行く。けーこはこうなるなよ。ちゃんと毎日学校に行くんだ。ってまあ僕が言えた義理じゃないけども」
「そういえば昨今さっそく試験があったわ。ま、適当に去なしてやったがの」
「成績いいのか、けーこ」
「ふふふ、まあ見とれ。今度の中間考査の結果をな。いま続々と返却されておる」
不遜な笑みのけーこ。考査。懐かしいと慧太は思う。
そうだ、もう忘れかけているが、高校でのテストは中間考査、期末考査があった。各学期に1回ずつ。当時は考査のたびに苦しかったと思うが、今では戻りたいと思ってしまう。
こんな留年しまくるボサボサ頭、どう考えても世間のつまはじきでしかない。あのときに戻れたら。
「難しい顔しておるが何を考えておるのだ?」
けーこが顔をのぞき込んで来るのだった。顔が近い。
「おわっ、何でもないよ」
「そうやってすぐ否定するのう、けーたは。しかし当時はさぞかしモテんかったろう。かわいそうに」
「なっ!」
「おや図星かの? どうせ今も彼女なんぞおるまい。んー?」
「ドヤ顔やめろ。そういうけーこはどうなんだ」
「え、う、の、ノーコメント。黙殺じゃ」
「あ、そ。ま、どっちだって僕にはどうでもいいけどね」
「そうかの。うむ。仮にけいたに彼女がいたとしてワシはどうだって良いがの」
「そう?」
「うむ!」
けーこは言い切ったのだった。でも慧太には、けーこが強がっているように見えた。
スーパーに着いて生鮮食品コーナーに立ち寄る。
「何を買うの?」
「大根があればよいのじゃが……。あった。しかしヤハリ高いの」
「高いということは旬ではないからだな。さては大根は冬の野菜だな」
「そうじゃ。ズバリ大根は冬の野菜じゃ。おや、オツトメヒン置き場に大根があるぞ。小振りのが1本68円か、それは安い! 買いだな。珍しいこともあるもんだ。この時期だともう売ってないのも普通なのに。お、その隣のシソも安くなってるな。根元がちょっと腐りかけか。まー今日使っちゃうしいいか、これも買いじゃ」
「なんか急に元気になったなあ、けーこ」
「むっ、何を申す! ワシはいつだって元気じゃぞ。けいたが元気ないのではないか?」
「それは否定できない」
「ではワシの作った飯で元気を出すが良いぞ。さ、次は魚でも見にゆこうぞ」
鮮魚コーナーの隅っこのアジの開きが安い。アジも今まさに旬の魚だ。1枚89円なので4枚ほど買うことにしたのだった。
◆
帰宅してすぐけーこが「しくじったな」という顔になる。
「しまったのう。米を炊いてから買い物に行けば良かったわい」
「? あー、それなら時間の節約になるんだ」
「しかり。よし、ワシは今から飯を作ってしんぜる。お主はマンガでも読んでおれ」
「またそのパターン。はーい、了解。あとはお願いします」
「うむ。待っておれ」
けーこは髪をたばね、エプロンを着る。
昨日と同じように米を研ぎ、炊飯器にセットする。これでご飯はオーケーだ。
次いで金属ボウルを用意する。ダシ巻き卵の卵を割り入れるためであるが、「いや待てよ」と、けーこは作業を中止する。
「まず味噌汁からじゃな」
けーこは言って、小鍋にダシをつぐ。料理は順序。今ダシ巻き卵を作ると、その他を完成させるまでに冷めてしまう。だからなるべく最後まで作らずにおく。
小鍋を火にかける。沸くまでの間に新ジャガを軽く洗い、皮付きのまま一口大に切る。新タマを昨日と同じく扇状に切り、両者を鍋に投入した。
乾燥ふえるワカメちゃんをひとつまみコップの中でふやかしておく。半分残った豆腐パックを取り出す。コトコトとダシ汁が鍋の中で音を立てている。ふたを開けるとダシの香りが台所にただよう。
「いいにおいじゃのう、ふふ」
台所で料理にあたるけーこは楽しそうである。本当に娯楽の1つとしてあたっているみたいだった。ときおりリズムなんか刻んで鼻歌混じりなあたり、それを裏付けている。
慧太はふと思う。
――一緒に作ったら楽しいのかな、料理って。
さてジャガイモとタマネギが半透明になった頃、けーこは、冷凍庫に入れておいた刻み油揚げを入れる。凍り付いた油揚げを入れたので沸いたダシ汁はいったん下火になった。
このスキにけーこは赤味噌と白味噌を準備する。昨日は赤のみ味噌汁だった。おたまに赤味噌を1人分すくい取り、ザルに入れ、とく。
それからひと煮立ちさせ、今度は白味噌をおたまで取り、ザルでとく。合わせ味噌汁になった。
白味噌は煮立たせると香りも味も飛んでしまう。けーこは火をギリギリまで弱め、豆腐とワカメを優しく入れた。そして30秒もしないうちに火を止めた。
アジの開きを4枚、まな板に乗せる。ゼイゴと呼ばれるウロコその他を切り取ると、今から食べる2枚を残し、あとはラップに巻いて冷凍庫行き。
残った2枚をひっくり返す。腹の部分にレモン果汁を塗った。我ながら芸が細かいとけーこは思う。
アジを焼くべく、グリルに火を入れる。アジの開き2枚分の銀紙を置く。腹側を上にして、けーこはグリルを閉じた。しばらくはこのままだ。
冷蔵庫から残っているパイナップルを取り出す。思ったよりもパイナップルは量がある。それなのに今日新たにグレープフルーツを買い足してしまった。皮をむき、薄皮を剥ぎ、中身だけをガラスの器に盛る。2つを盛りつけ、デザートいっちょ上がり。
そうしているうちにグリルから魚の焼けるにおいが立ち上ってくる。引き開けると、ぷつぷつと腹の部分で脂が立っている。換気扇をオンにする。食欲を誘うにおいだった。
ぐう。
台所から聞こえてきた異音に、慧太は反応した。
「ん? けーこ、何の音?」
「……さい」
「え? 何だって?」
「うるさいのー、ワシの腹が鳴ったのじゃよ!」
「ああ、ごめん。いいにおいだね。魚の? 脂が乗ってるのがにおいで分かる。はぜているみたい音がするぞ。大丈夫か?」
「何ともないぞ。はぜるのは脂の乗っとる証拠じゃよ。これをひっくり返して反対側も焼かないといかん。まだしばらくマンガ読んでおるのじゃ」
「はーい。はいはい」
けーこはひっくり返さんとして気付く。アジのシッポが焦げてしまっている。こういうのを防ぐため、銀紙でシッポだけ包むべきだった。
さても、いよいよダシ巻き卵を作る。
けーこは金属ボウルに卵を割ろうとして、ストップ。食器棚からぐい呑みを出してきて、卵を1個割り入れる。黄身は濃い。春の日のタンポポみたいに鮮やかな黄色だった。ふっくら盛り上がっている。白身も段差が出来ている。卵は新鮮そのものだった。
きれいに割れていることを確認して、けーこはほくそ笑む。ヨシ、きれいに割れたぞ。殻はなし。カラザもなし。けーこは満足して金属ボウルに入れた。これを全部で3回。金属ボウルには都合3個の卵が入った。
ここにダシを2分の1カップと、みりん大さじ3、薄口醤油大さじ1、砂糖大さじ1を入れ、菜箸で混ぜる。ダマが出来ぬよう、まず黄身と白身をひと突きし、下から持ち上げるようにかき混ぜる。空気を入れてふわりとした感じに仕上げるのが目標だった。
四角のフライパンを用意する。ダシ巻き卵を作るにはちょうどいい形だ。火にかけ、しばし待つ。菜箸の先に付けた卵をトン、とフライパンに当てる。ジュワッと音がして卵は白く焼ける。
すっかり温まっている。
そこでけーこはフライパンを火からおろし、あらかじめ丸めておいた、湿らせたふきんにフライパンを置いたのだった。
じゅう……と水分の蒸発する音。
これで卵がコゲつきにくくなる。理屈は知らない。ただの料理の知恵である。
再びフライパンを火にかけ、けーこは油を敷いた。今しがた混ぜ終えたダシ入り卵を一層、とても薄く、フライパンに伸ばした。じゅわわわ、ぴちぴちと甲高く心地よい焼き音色。
「けーこ、何の音? 雨?」
「卵の焼ける音じゃ」
「へー」
フライ返しを柄から遠い辺にあてがい、手前に向かい、くるりと半分に折り返す。
うん、よし。焼き色は着いておらず、鮮やか。菜の花のような焼き具合。けーこは火をやや弱めた。じっくり焼くのがいい。
それからフライパン空いたところに卵をまた流す。これを繰り返し、ダシ巻き卵はたちまち成長する。
完成した。ふっくらホカホカ、ダシ巻き卵。けーこはまな板の上にそっ……とダシ巻き卵を乗せる。包丁できれいに5等分する。
それからシソを一枚々々水流で洗う。ペーパータオルで一枚々々挟み水気を取る。ダシ巻き卵の一切れを、真っ青なシソでくるりと包む。4切れともシソで巻き、れた。
水分をなくした大根オロシの形を丁寧に整え、ダシ巻き卵のそばに添える。それ皿に盛った。
続いて大根を金オロシでおろす。早くおろすと辛くなるのでゆっくり、しかしなるべく素早くおろす。完成した大根オロシを手でしぼる。しぼり汁は味噌汁鍋に入から焼き終えたアジのたもとへも添えたのだった。
「よし、出来た」
けーこは言って、エプロンのすそで手をぬぐう。出来たよーと声をかけながらご飯、味噌汁をよそうとき麩を数個コロリと転がし入れた。
出来上がった昼飯はおととい、昨日と同じくコタツ机に配膳された。
「これはまた、ウマそうな食事だ」
「じゃろう。いや、我ながらきれいじゃぞ、この料理たちは。ご飯の白、味噌汁の淡い赤。紅白というのか。なんとも美しいのう」
自分で作っておいてけーこはベタ褒めしている。
けーこは目を白黒させながら昼食を眺めるのだった。キラキラと目を輝かせ、まるで生まれて初めてオーロラを見た小学生のようだ。純粋無垢な瞳で見つめている。
実際、コタツ机の上に並ぶ料理たちは美しい。
「このダシ巻き卵は春の菜の花よりも鮮やかな黄色じゃろ! それを緑のシソで巻いておる。大根オロシのピラミッドもいいのう。うふふ、自分でやっておいて満点じゃー。うーむ。黄、緑、白の3色が揃っておる。食べ物は盛り付けひとつでかくも変わるものか……? ワシの世界とはまるで違う」
「中世か? 見た目が悪いのか?」
「うむ。ここと比べれば天と地じゃ。アジも見事な焼き具合じゃぞ。ワシらの世界で魚といえば、長持ちさせるためのカチコチしたものオンリーじゃ。パンも保存のために岩と間違ごうほど固い。魚や鳥も焼いたら皿に置くだけ。彩りなんぞ誰も考えん」
コタツ机の上は確かにキレイな配膳がなされている。
ご飯は真っ白。味噌汁は合わせ味噌の淡い紅。皿のダシ巻き卵は1切れずつが濃緑のシソで巻かれ、添えられた大根オロシの白と相まって織り成す3色は目に楽しい。アジもちゃんと作法に従って腹を上に乗せられ、添え物にシソと大根オロシ。彩りが良いと言えば確かに良い。あたかもフランス国旗のように、複数の色が自己主張することなくテーブルの上で身を横たえているように映った。
デザートにパイナップルとグレープフルーツの剥いたのを準備してある。
「イタダキマス」
またもやけーこは慧太よりも早く、箸をつける。
けーこは味噌汁をひと口。ダシがよく効いていた。昆布と煮干しのダシが合わせ味噌の優しい味と混ざり、熟成されたように感じる。ここにご飯を一口。ぱくり。相変わらずウマい米だ、とけーこは感動した。香りは上々。ご飯はねっとりと上品で噛むほどに甘い。
続いてアジに箸を伸ばす。腹を上に置かれたアジの切れっ端を口に入れた。ほのかに柑橘系……レモンが香った。これだけで食欲を増す。それなのに間髪容れず、脂の乗ったアジと混ざる。レモンのおかげで脂くささは打ち消され、のみならず食欲を増す。けーこはご飯を2口パクつく。アジの旨味が白米で薄まる。心地よい。ここで味噌汁をゴクリ。
「ウマい」
「うん、ウマいね。味噌汁ってやっぱりウマんだなあ」
「じゃろ? 何しろワシが作ったのであるからな」
けーこは嬉しそうに言うのだった。
「慧太、アジはのう、目のまわりの肉が一番ウマいのぞ」
「そうなの? なんで?」
「一番動かすのが目じゃからの。だからそこの肉がウマくなる」
「へー」
「あと目玉を食べると目が良くなるって言うぞ」
けーこは豆知識を披露しつつ、ダシ巻き卵の一切れを箸でつまみ、まじまじと見る。たおやかにしなるダシ巻き卵。見るほどにきれいだった。ほんのり甘く香るのはみりんだろうか。薄黄色のダシ巻き卵は無数の層状を為し、同じ薄黄色でも箇所によって色が違う。目に楽しい、とはこのことだろうとけーこは口の端をゆるめた。けーこが一向に食べずにいるので、閉じ込められていたダシ汁が箸をつたってポタリポタリともれてきてしまった。透明な黄色。
「見よ、けいた、汁が出て来た」
「本当だ
「これが普通の卵焼きとダシ巻き卵との違いぞ。ダシがタップリ含まれておる。じゃからすぐ食べないと汁気が漏れ出てしまう」
しっとりしたダシ巻き卵は、それだけで芸術品だった。けーこは1切れ、ぱくり。もぐもぐ。
「ああ、至福ぞ。甘い。プラスしてシソのわずかに苦み。それに大根オロシのシャリシャリした感触。すべてが有機的に結びついておるわ。口の中は創世記ぞ」
「ん? どういういこと?」
「ぱくもぐ。つまり新世界が創られるそうなくらいウマいということじゃ」
「な、なるほど」
相変わらず大げさなたとえだ、と慧太は思った。しかしそれだけウマいということなのだ。
けーこはご飯のおかわりを連発している。味噌汁のおかわりもまた連発する。
またしてもあっという間に炊飯器も鍋もカラッポになったのだった。けーこは小さなゲップを1つ。下品だがけーこがやるとそれほど悪いものに見えない。満腹の意を示したけーこはデザートを平らげにかかっていた。
「うむ。どれを食べても甘いぞ。それに色や形も良い。日本はいい国じゃのう。地味豊かで滋養も恵まれておる。それに天候も良い。素晴らしい」
やたらほめるけーこ。中世の果物はそんなにヒドいのか。品種改良が為されていないのならば、よく言えば自然そのまま。悪くいえばマズい果物しかないのだろうか。そういえばバナナだって自然のものは甘くないし、中には巨大な種が入っているものなのだ。
「そんな世界でウマい食事が出来るのか?」
「無いならば無いなりに工夫をするのが人間じゃ。されど工夫には限界がある。しかも食うや食わずの世界じゃからのう。食えるだけでシアワセなのじゃ。従って多様な料理方法は生まれようもない」
「そういう世界なのか」
「さよう。ゴチソウサマデシタ」
それから洗い物をするけーこ。もはや至れり尽くせりである。
慧太はたずねた。
「けーこ、午後は何をするんだ」
「んー? 部屋の片付けじゃ。引っ越したばっかじゃから。段ボールで部屋が狭いのでな」
「手伝おうか?」
「大丈夫。間に合ってる」
「そうか」
「うむ。それよりも残り物を冷蔵庫に入れておくからシッカリ食えよ。ワシは夕餉を友達と食うてくるゆえおらんでな」
「へー」
慧太は思う。うらやましい。友達がいるなんて。
しかし、残り物? と言われて違和感が残る。だってけーこはすべて平らげたのではないのか。冷蔵庫をのぞく。ダシ巻き卵が1人前、残っている。けーこはダシ巻き卵を奇数に切り、うち1切れをちゃんと残しておいてくれたのだった。
◆
夜が来た。
6月の頭なのにもう暑い。6月でこの暑さなら夏はどうなっちまうんだ。慧太はウチワであおぐ。これはかえって暑くなるから非効率であると専ら言われる。
窓を網戸にして玄関をちょっと開けてある。風は通る。だが湿度があるから不快指数が高い。
エアコンは早くても7月から、というのがマイルールの慧太である。冷房はつけないぞ、と自己暗示をかける。時計を見た。まだ寝るには早い。そもそも今日はお昼に起きたのだから寝られるはずもなかった。
「……よし、飲もう」
飲んで寝てしまおう。そうと決まればツマミ作りだ。慧太も全く料理をしないわけではない。酒のツマミを作るために包丁を握ることが以前はよくあった。それが次第に面倒になっていたものが、けーこの料理姿を見てまた作ろうと思ってきたのだった。
台所に立つ。新ジャガをごろごろとシンクに転がし、表面を軽く洗う。どれもこれも小振りだった。それをさらに包丁で半分に切った。横から見ると半月に見えた。新タマも半分を5ミリの輪切りにした。
フライパンにやや多めの油を敷く。温まったところで新ジャガを入れ、焼く。皮がパリッとした頃、つまようじを突き刺してみる。スッ……と入るものは皿に引き上げる。刺さらなければまだ焼く。すべて引き上げたあと、塩をふりかけた。
よし、と慧太は次にガラスのコップに氷を入れた。入れすぎない。下から3分の1くらいにとどめ、そこに水を入れた。氷水は3分の2に達した。慧太は台所の下扉からウイスキー瓶を取り出した。角張った独特の瓶。慧太はふたを開け、注いだ。マドラーはない。菜箸を一本、マドラー代わりにしてかき混ぜた。
ハイボール片手にツマミの新ジャガ素揚げをデスクトップの前に置いた。お気に入りの動画を再生する。そこで忘れ物に気付いて台所に戻った。おつとめ品のレモンを縦に4つ切りにし、ハイボールにしぼり入れた。
飲む。レモンのスカッとした香りが鼻に抜け、同時にウイスキーの苦み。酒の善し悪しは分からない。だがウイスキーが苦いのくらいは分かる慧太だった。ツマミの新ジャガを一口。皮はパリッと、身はホクホク。塩気が味を引き締め、舌の上で3者が一体になる。ハイボールをごくり。うん、合っている……たぶん。
風がカーテンを揺らした。熱気のこもった室内にそよぐ。カランと氷が鳴った。新タマを食べる。シャキッと噛み切る。甘い。噛むほどに甘い。たらした醤油の香りが引き立ち、たかがタマネギも今夜ばかりは主役だった。
「ふう」
飲むペースが早い。いつもならコップ1杯飲みきるのに講義1コマ分は時間をかけるのに。酔った。頭がグワングワンなる。パソコンの中で動画の音が大きくなったり小さくなったりする。内容が頭に入らない。
引き出しからタバコを出し、1本くわえ、火をつける。酔ったときだけ何となく吸いたくなるのだった。2、3口吸って、グラスの中に突っ込んだ。火元には気をつけているつもりである。
トイレに行こうと立ったら足元がふらつき、危うくコタツ机につまずくところだった。トイレを済ませてそのまま、パソコンの電源を落とした。ベッドに倒れ込む。うとうとまどろんだと思うや、慧太は寝息を立て始めた。
――起きなくてもいい日だし、大学に行く用事もないし。
前者は、休学を決めたから本当だとしても、後者はちょっと違う。学生課に休学届を出さねばならない。そうしないと「君は在学中でしょ」となる。
単に大学に行きたくないので適当な理由をつける慧太だった。
「おーい。けいた。お主、まだ寝足りないのか」
女の子の声が降ってくる。聞き間違えることはない。けーこだ。
「え? けーこ? なんで部屋の中に?」
「起きたか。もう11時じゃぞ」
見る。ベッドの脇にけーこが立っていた。相変わらずの制服で、腰に手を当て偉そうにしている。
慧太はむくりと起き、あくびと伸びをする。
「うあーあ」
「なんじゃけーた。昼も近いのに眠いか」
「昨日寝たのは4時なんだ」
「でっかいアクビじゃの。4時? 朝の4時か? そんな時間まで勉強とは恐れ入る」
「そんなことするもんか。というかけーこ、どうやって僕の部屋に入った!」
「いきなり大声を出すでない。ゴキンジョメイワクじゃぞ。鍵なら昨日いただいておいたからの。いつでもお主の家に入れるわい」
「まあ別にいいけど。……今何時? 11時か。まだ早い」
「早い? ワシは起きてからもう6時間たっておるのじゃぞ!」
「6時間! そんなに早起きなのか。ランニングでもしてるの?」
「川原を走るようにしておる。健康に良いぞ。一緒にやるか?」
「いや、朝は苦手だから」
「そんな気がしたわい。昼まで寝ているようなもんじゃからのう。せっかくお昼ご飯を作るために来てやったのだぞ。アリガタク思え」
「そうなのか。ありがとう」
「うむ。最初から素直にそう言うのじゃぞ」
徹頭徹尾偉そうな口をきくけーこ。でもけーこだから、どんな横柄だろうと慧太は許してしまう。
「で、どんなお昼ご飯を作ってくれるの?」
「それはともかくけいた。顔だけでも洗うて来い。目ヤニだらけれではないか」
けーこにうながされ、洗面所で顔を洗う慧太。さっぱりして出てくると、けーこは冷蔵庫をのぞいて渋い顔をしている。
「けいた。食材らしいものがゼロじゃぞ。昨日から状況が変わっておらん。新ジャガと新タマが玄関に転がっておったが……、あとはえーと、卵じゃな。これ昨日ワシが買っておいた高級品じゃろ」
以前、一緒に買い物に言ったとき買った卵だ。普段なら1パック318円もする高級卵がなんと98円だったので買ってしまっていたけーこである。10個入りで98円。卵の底値と言っていい。その値で高級卵が買えるのならば買うしかない。
しかもそんじょそこらの卵ではない。ヨード卵に匹敵する高級卵。元値なら絶対買っていない雲の上の存在だった。
完全栄養食の名をほしいままにしているこの焦げ茶色どもは、昔ならコレステロールの塊だと避けられていた。1日1個が上限。それが昨今では1日2個か3個なら大丈夫とされている。
同じ食材なのに扱いが変わるのはよくある話で、例えば40年前は「野菜は農薬が付いているから洗剤で洗うもの」で、わざわざ野菜用の洗剤が売られていた。また20年前は「イカはコレステロールの塊だからむやみに食うな」と言われていた。
今聞けばどちらもバカバカしい話だ。でも当時は本気だったのである。
けーこは「うーん」と頭をひねるのだった。やがて1つ、ひらめいたらしい。頭の上に電球がピコンと点る。
「卵とダシ汁が余っておる。それではダシ巻きを作ろうぞ」
「ダシ巻き? 卵焼きってことか?」
「卵にダシを混ぜて焼くのじゃ。卵焼きよりもふっくらするぞ。うん、決定じゃ。ダシ巻き卵じゃ。ワシの世界では卵は高級品じゃぞ。それが10個も並んでいるのが珍しいのに……卵焼きなんぞ卵をたくさん使わねば作れん。ぜいたくに過ぎるんじゃよ」
「けーこ、卵好きなのか。口調が滑らかだ」
「大好きじゃ! でも風邪を引いたりいいことがあったりしないと食えん。それだけが生前の未練じゃったのう」
生前、と来たか。そうか、中世では卵は高級品だったのか。そう言われれば日本でも昔は籾殻の木箱に丁重に保管していた。滋養ある食べ物とされ、そうそう食べるものではなかった。
「ダシ巻き卵を作るのはいいとしてものう」
「何か不都合が?」
「うむ。やっぱり買い物に行かねばならんのう。行くぞけーた!」
「お、おー!」
こうして今日も一緒に買い物に行く2人だった。
◆
スーパーに行くまでの道すがら、慧太は言う。
「けーこ、今日学校はどうした?」
「けいた、今日は日曜日じゃ。休みぞ」
「そうだった。今日は日曜日か。引きこもっていると曜日の感覚がなくなる」
「けいたはもう学校に行かぬのか。大学に?」
「行くよ。休学届を出しにどこかのタイミングで行く。けーこはこうなるなよ。ちゃんと毎日学校に行くんだ。ってまあ僕が言えた義理じゃないけども」
「そういえば昨今さっそく試験があったわ。ま、適当に去なしてやったがの」
「成績いいのか、けーこ」
「ふふふ、まあ見とれ。今度の中間考査の結果をな。いま続々と返却されておる」
不遜な笑みのけーこ。考査。懐かしいと慧太は思う。
そうだ、もう忘れかけているが、高校でのテストは中間考査、期末考査があった。各学期に1回ずつ。当時は考査のたびに苦しかったと思うが、今では戻りたいと思ってしまう。
こんな留年しまくるボサボサ頭、どう考えても世間のつまはじきでしかない。あのときに戻れたら。
「難しい顔しておるが何を考えておるのだ?」
けーこが顔をのぞき込んで来るのだった。顔が近い。
「おわっ、何でもないよ」
「そうやってすぐ否定するのう、けーたは。しかし当時はさぞかしモテんかったろう。かわいそうに」
「なっ!」
「おや図星かの? どうせ今も彼女なんぞおるまい。んー?」
「ドヤ顔やめろ。そういうけーこはどうなんだ」
「え、う、の、ノーコメント。黙殺じゃ」
「あ、そ。ま、どっちだって僕にはどうでもいいけどね」
「そうかの。うむ。仮にけいたに彼女がいたとしてワシはどうだって良いがの」
「そう?」
「うむ!」
けーこは言い切ったのだった。でも慧太には、けーこが強がっているように見えた。
スーパーに着いて生鮮食品コーナーに立ち寄る。
「何を買うの?」
「大根があればよいのじゃが……。あった。しかしヤハリ高いの」
「高いということは旬ではないからだな。さては大根は冬の野菜だな」
「そうじゃ。ズバリ大根は冬の野菜じゃ。おや、オツトメヒン置き場に大根があるぞ。小振りのが1本68円か、それは安い! 買いだな。珍しいこともあるもんだ。この時期だともう売ってないのも普通なのに。お、その隣のシソも安くなってるな。根元がちょっと腐りかけか。まー今日使っちゃうしいいか、これも買いじゃ」
「なんか急に元気になったなあ、けーこ」
「むっ、何を申す! ワシはいつだって元気じゃぞ。けいたが元気ないのではないか?」
「それは否定できない」
「ではワシの作った飯で元気を出すが良いぞ。さ、次は魚でも見にゆこうぞ」
鮮魚コーナーの隅っこのアジの開きが安い。アジも今まさに旬の魚だ。1枚89円なので4枚ほど買うことにしたのだった。
◆
帰宅してすぐけーこが「しくじったな」という顔になる。
「しまったのう。米を炊いてから買い物に行けば良かったわい」
「? あー、それなら時間の節約になるんだ」
「しかり。よし、ワシは今から飯を作ってしんぜる。お主はマンガでも読んでおれ」
「またそのパターン。はーい、了解。あとはお願いします」
「うむ。待っておれ」
けーこは髪をたばね、エプロンを着る。
昨日と同じように米を研ぎ、炊飯器にセットする。これでご飯はオーケーだ。
次いで金属ボウルを用意する。ダシ巻き卵の卵を割り入れるためであるが、「いや待てよ」と、けーこは作業を中止する。
「まず味噌汁からじゃな」
けーこは言って、小鍋にダシをつぐ。料理は順序。今ダシ巻き卵を作ると、その他を完成させるまでに冷めてしまう。だからなるべく最後まで作らずにおく。
小鍋を火にかける。沸くまでの間に新ジャガを軽く洗い、皮付きのまま一口大に切る。新タマを昨日と同じく扇状に切り、両者を鍋に投入した。
乾燥ふえるワカメちゃんをひとつまみコップの中でふやかしておく。半分残った豆腐パックを取り出す。コトコトとダシ汁が鍋の中で音を立てている。ふたを開けるとダシの香りが台所にただよう。
「いいにおいじゃのう、ふふ」
台所で料理にあたるけーこは楽しそうである。本当に娯楽の1つとしてあたっているみたいだった。ときおりリズムなんか刻んで鼻歌混じりなあたり、それを裏付けている。
慧太はふと思う。
――一緒に作ったら楽しいのかな、料理って。
さてジャガイモとタマネギが半透明になった頃、けーこは、冷凍庫に入れておいた刻み油揚げを入れる。凍り付いた油揚げを入れたので沸いたダシ汁はいったん下火になった。
このスキにけーこは赤味噌と白味噌を準備する。昨日は赤のみ味噌汁だった。おたまに赤味噌を1人分すくい取り、ザルに入れ、とく。
それからひと煮立ちさせ、今度は白味噌をおたまで取り、ザルでとく。合わせ味噌汁になった。
白味噌は煮立たせると香りも味も飛んでしまう。けーこは火をギリギリまで弱め、豆腐とワカメを優しく入れた。そして30秒もしないうちに火を止めた。
アジの開きを4枚、まな板に乗せる。ゼイゴと呼ばれるウロコその他を切り取ると、今から食べる2枚を残し、あとはラップに巻いて冷凍庫行き。
残った2枚をひっくり返す。腹の部分にレモン果汁を塗った。我ながら芸が細かいとけーこは思う。
アジを焼くべく、グリルに火を入れる。アジの開き2枚分の銀紙を置く。腹側を上にして、けーこはグリルを閉じた。しばらくはこのままだ。
冷蔵庫から残っているパイナップルを取り出す。思ったよりもパイナップルは量がある。それなのに今日新たにグレープフルーツを買い足してしまった。皮をむき、薄皮を剥ぎ、中身だけをガラスの器に盛る。2つを盛りつけ、デザートいっちょ上がり。
そうしているうちにグリルから魚の焼けるにおいが立ち上ってくる。引き開けると、ぷつぷつと腹の部分で脂が立っている。換気扇をオンにする。食欲を誘うにおいだった。
ぐう。
台所から聞こえてきた異音に、慧太は反応した。
「ん? けーこ、何の音?」
「……さい」
「え? 何だって?」
「うるさいのー、ワシの腹が鳴ったのじゃよ!」
「ああ、ごめん。いいにおいだね。魚の? 脂が乗ってるのがにおいで分かる。はぜているみたい音がするぞ。大丈夫か?」
「何ともないぞ。はぜるのは脂の乗っとる証拠じゃよ。これをひっくり返して反対側も焼かないといかん。まだしばらくマンガ読んでおるのじゃ」
「はーい。はいはい」
けーこはひっくり返さんとして気付く。アジのシッポが焦げてしまっている。こういうのを防ぐため、銀紙でシッポだけ包むべきだった。
さても、いよいよダシ巻き卵を作る。
けーこは金属ボウルに卵を割ろうとして、ストップ。食器棚からぐい呑みを出してきて、卵を1個割り入れる。黄身は濃い。春の日のタンポポみたいに鮮やかな黄色だった。ふっくら盛り上がっている。白身も段差が出来ている。卵は新鮮そのものだった。
きれいに割れていることを確認して、けーこはほくそ笑む。ヨシ、きれいに割れたぞ。殻はなし。カラザもなし。けーこは満足して金属ボウルに入れた。これを全部で3回。金属ボウルには都合3個の卵が入った。
ここにダシを2分の1カップと、みりん大さじ3、薄口醤油大さじ1、砂糖大さじ1を入れ、菜箸で混ぜる。ダマが出来ぬよう、まず黄身と白身をひと突きし、下から持ち上げるようにかき混ぜる。空気を入れてふわりとした感じに仕上げるのが目標だった。
四角のフライパンを用意する。ダシ巻き卵を作るにはちょうどいい形だ。火にかけ、しばし待つ。菜箸の先に付けた卵をトン、とフライパンに当てる。ジュワッと音がして卵は白く焼ける。
すっかり温まっている。
そこでけーこはフライパンを火からおろし、あらかじめ丸めておいた、湿らせたふきんにフライパンを置いたのだった。
じゅう……と水分の蒸発する音。
これで卵がコゲつきにくくなる。理屈は知らない。ただの料理の知恵である。
再びフライパンを火にかけ、けーこは油を敷いた。今しがた混ぜ終えたダシ入り卵を一層、とても薄く、フライパンに伸ばした。じゅわわわ、ぴちぴちと甲高く心地よい焼き音色。
「けーこ、何の音? 雨?」
「卵の焼ける音じゃ」
「へー」
フライ返しを柄から遠い辺にあてがい、手前に向かい、くるりと半分に折り返す。
うん、よし。焼き色は着いておらず、鮮やか。菜の花のような焼き具合。けーこは火をやや弱めた。じっくり焼くのがいい。
それからフライパン空いたところに卵をまた流す。これを繰り返し、ダシ巻き卵はたちまち成長する。
完成した。ふっくらホカホカ、ダシ巻き卵。けーこはまな板の上にそっ……とダシ巻き卵を乗せる。包丁できれいに5等分する。
それからシソを一枚々々水流で洗う。ペーパータオルで一枚々々挟み水気を取る。ダシ巻き卵の一切れを、真っ青なシソでくるりと包む。4切れともシソで巻き、れた。
水分をなくした大根オロシの形を丁寧に整え、ダシ巻き卵のそばに添える。それ皿に盛った。
続いて大根を金オロシでおろす。早くおろすと辛くなるのでゆっくり、しかしなるべく素早くおろす。完成した大根オロシを手でしぼる。しぼり汁は味噌汁鍋に入から焼き終えたアジのたもとへも添えたのだった。
「よし、出来た」
けーこは言って、エプロンのすそで手をぬぐう。出来たよーと声をかけながらご飯、味噌汁をよそうとき麩を数個コロリと転がし入れた。
出来上がった昼飯はおととい、昨日と同じくコタツ机に配膳された。
「これはまた、ウマそうな食事だ」
「じゃろう。いや、我ながらきれいじゃぞ、この料理たちは。ご飯の白、味噌汁の淡い赤。紅白というのか。なんとも美しいのう」
自分で作っておいてけーこはベタ褒めしている。
けーこは目を白黒させながら昼食を眺めるのだった。キラキラと目を輝かせ、まるで生まれて初めてオーロラを見た小学生のようだ。純粋無垢な瞳で見つめている。
実際、コタツ机の上に並ぶ料理たちは美しい。
「このダシ巻き卵は春の菜の花よりも鮮やかな黄色じゃろ! それを緑のシソで巻いておる。大根オロシのピラミッドもいいのう。うふふ、自分でやっておいて満点じゃー。うーむ。黄、緑、白の3色が揃っておる。食べ物は盛り付けひとつでかくも変わるものか……? ワシの世界とはまるで違う」
「中世か? 見た目が悪いのか?」
「うむ。ここと比べれば天と地じゃ。アジも見事な焼き具合じゃぞ。ワシらの世界で魚といえば、長持ちさせるためのカチコチしたものオンリーじゃ。パンも保存のために岩と間違ごうほど固い。魚や鳥も焼いたら皿に置くだけ。彩りなんぞ誰も考えん」
コタツ机の上は確かにキレイな配膳がなされている。
ご飯は真っ白。味噌汁は合わせ味噌の淡い紅。皿のダシ巻き卵は1切れずつが濃緑のシソで巻かれ、添えられた大根オロシの白と相まって織り成す3色は目に楽しい。アジもちゃんと作法に従って腹を上に乗せられ、添え物にシソと大根オロシ。彩りが良いと言えば確かに良い。あたかもフランス国旗のように、複数の色が自己主張することなくテーブルの上で身を横たえているように映った。
デザートにパイナップルとグレープフルーツの剥いたのを準備してある。
「イタダキマス」
またもやけーこは慧太よりも早く、箸をつける。
けーこは味噌汁をひと口。ダシがよく効いていた。昆布と煮干しのダシが合わせ味噌の優しい味と混ざり、熟成されたように感じる。ここにご飯を一口。ぱくり。相変わらずウマい米だ、とけーこは感動した。香りは上々。ご飯はねっとりと上品で噛むほどに甘い。
続いてアジに箸を伸ばす。腹を上に置かれたアジの切れっ端を口に入れた。ほのかに柑橘系……レモンが香った。これだけで食欲を増す。それなのに間髪容れず、脂の乗ったアジと混ざる。レモンのおかげで脂くささは打ち消され、のみならず食欲を増す。けーこはご飯を2口パクつく。アジの旨味が白米で薄まる。心地よい。ここで味噌汁をゴクリ。
「ウマい」
「うん、ウマいね。味噌汁ってやっぱりウマんだなあ」
「じゃろ? 何しろワシが作ったのであるからな」
けーこは嬉しそうに言うのだった。
「慧太、アジはのう、目のまわりの肉が一番ウマいのぞ」
「そうなの? なんで?」
「一番動かすのが目じゃからの。だからそこの肉がウマくなる」
「へー」
「あと目玉を食べると目が良くなるって言うぞ」
けーこは豆知識を披露しつつ、ダシ巻き卵の一切れを箸でつまみ、まじまじと見る。たおやかにしなるダシ巻き卵。見るほどにきれいだった。ほんのり甘く香るのはみりんだろうか。薄黄色のダシ巻き卵は無数の層状を為し、同じ薄黄色でも箇所によって色が違う。目に楽しい、とはこのことだろうとけーこは口の端をゆるめた。けーこが一向に食べずにいるので、閉じ込められていたダシ汁が箸をつたってポタリポタリともれてきてしまった。透明な黄色。
「見よ、けいた、汁が出て来た」
「本当だ
「これが普通の卵焼きとダシ巻き卵との違いぞ。ダシがタップリ含まれておる。じゃからすぐ食べないと汁気が漏れ出てしまう」
しっとりしたダシ巻き卵は、それだけで芸術品だった。けーこは1切れ、ぱくり。もぐもぐ。
「ああ、至福ぞ。甘い。プラスしてシソのわずかに苦み。それに大根オロシのシャリシャリした感触。すべてが有機的に結びついておるわ。口の中は創世記ぞ」
「ん? どういういこと?」
「ぱくもぐ。つまり新世界が創られるそうなくらいウマいということじゃ」
「な、なるほど」
相変わらず大げさなたとえだ、と慧太は思った。しかしそれだけウマいということなのだ。
けーこはご飯のおかわりを連発している。味噌汁のおかわりもまた連発する。
またしてもあっという間に炊飯器も鍋もカラッポになったのだった。けーこは小さなゲップを1つ。下品だがけーこがやるとそれほど悪いものに見えない。満腹の意を示したけーこはデザートを平らげにかかっていた。
「うむ。どれを食べても甘いぞ。それに色や形も良い。日本はいい国じゃのう。地味豊かで滋養も恵まれておる。それに天候も良い。素晴らしい」
やたらほめるけーこ。中世の果物はそんなにヒドいのか。品種改良が為されていないのならば、よく言えば自然そのまま。悪くいえばマズい果物しかないのだろうか。そういえばバナナだって自然のものは甘くないし、中には巨大な種が入っているものなのだ。
「そんな世界でウマい食事が出来るのか?」
「無いならば無いなりに工夫をするのが人間じゃ。されど工夫には限界がある。しかも食うや食わずの世界じゃからのう。食えるだけでシアワセなのじゃ。従って多様な料理方法は生まれようもない」
「そういう世界なのか」
「さよう。ゴチソウサマデシタ」
それから洗い物をするけーこ。もはや至れり尽くせりである。
慧太はたずねた。
「けーこ、午後は何をするんだ」
「んー? 部屋の片付けじゃ。引っ越したばっかじゃから。段ボールで部屋が狭いのでな」
「手伝おうか?」
「大丈夫。間に合ってる」
「そうか」
「うむ。それよりも残り物を冷蔵庫に入れておくからシッカリ食えよ。ワシは夕餉を友達と食うてくるゆえおらんでな」
「へー」
慧太は思う。うらやましい。友達がいるなんて。
しかし、残り物? と言われて違和感が残る。だってけーこはすべて平らげたのではないのか。冷蔵庫をのぞく。ダシ巻き卵が1人前、残っている。けーこはダシ巻き卵を奇数に切り、うち1切れをちゃんと残しておいてくれたのだった。
◆
夜が来た。
6月の頭なのにもう暑い。6月でこの暑さなら夏はどうなっちまうんだ。慧太はウチワであおぐ。これはかえって暑くなるから非効率であると専ら言われる。
窓を網戸にして玄関をちょっと開けてある。風は通る。だが湿度があるから不快指数が高い。
エアコンは早くても7月から、というのがマイルールの慧太である。冷房はつけないぞ、と自己暗示をかける。時計を見た。まだ寝るには早い。そもそも今日はお昼に起きたのだから寝られるはずもなかった。
「……よし、飲もう」
飲んで寝てしまおう。そうと決まればツマミ作りだ。慧太も全く料理をしないわけではない。酒のツマミを作るために包丁を握ることが以前はよくあった。それが次第に面倒になっていたものが、けーこの料理姿を見てまた作ろうと思ってきたのだった。
台所に立つ。新ジャガをごろごろとシンクに転がし、表面を軽く洗う。どれもこれも小振りだった。それをさらに包丁で半分に切った。横から見ると半月に見えた。新タマも半分を5ミリの輪切りにした。
フライパンにやや多めの油を敷く。温まったところで新ジャガを入れ、焼く。皮がパリッとした頃、つまようじを突き刺してみる。スッ……と入るものは皿に引き上げる。刺さらなければまだ焼く。すべて引き上げたあと、塩をふりかけた。
よし、と慧太は次にガラスのコップに氷を入れた。入れすぎない。下から3分の1くらいにとどめ、そこに水を入れた。氷水は3分の2に達した。慧太は台所の下扉からウイスキー瓶を取り出した。角張った独特の瓶。慧太はふたを開け、注いだ。マドラーはない。菜箸を一本、マドラー代わりにしてかき混ぜた。
ハイボール片手にツマミの新ジャガ素揚げをデスクトップの前に置いた。お気に入りの動画を再生する。そこで忘れ物に気付いて台所に戻った。おつとめ品のレモンを縦に4つ切りにし、ハイボールにしぼり入れた。
飲む。レモンのスカッとした香りが鼻に抜け、同時にウイスキーの苦み。酒の善し悪しは分からない。だがウイスキーが苦いのくらいは分かる慧太だった。ツマミの新ジャガを一口。皮はパリッと、身はホクホク。塩気が味を引き締め、舌の上で3者が一体になる。ハイボールをごくり。うん、合っている……たぶん。
風がカーテンを揺らした。熱気のこもった室内にそよぐ。カランと氷が鳴った。新タマを食べる。シャキッと噛み切る。甘い。噛むほどに甘い。たらした醤油の香りが引き立ち、たかがタマネギも今夜ばかりは主役だった。
「ふう」
飲むペースが早い。いつもならコップ1杯飲みきるのに講義1コマ分は時間をかけるのに。酔った。頭がグワングワンなる。パソコンの中で動画の音が大きくなったり小さくなったりする。内容が頭に入らない。
引き出しからタバコを出し、1本くわえ、火をつける。酔ったときだけ何となく吸いたくなるのだった。2、3口吸って、グラスの中に突っ込んだ。火元には気をつけているつもりである。
トイレに行こうと立ったら足元がふらつき、危うくコタツ机につまずくところだった。トイレを済ませてそのまま、パソコンの電源を落とした。ベッドに倒れ込む。うとうとまどろんだと思うや、慧太は寝息を立て始めた。
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よろしくお願い申し上げます。平成27年7月14日、タイトルを変えました。旧称『落ちぶれ大学生と転生JKとは並んで台所に立つ。』新称『制服エプロン。』突然です。申し訳ありません。
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