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6月
第1帖・うえ。ダシをとる。ご飯、味噌汁。
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春爛漫の桜並木も、6月に入ると葉さえ落ち、枯れ木に近い。
正門からキャンパスまでまっすぐ伸びるこの道は、この大学自慢の道である。春風とともに桜吹雪が起こっていたのも先月までの話になる。ほの桃色の花びらが飛び、かぐわしい薫りで新入生たちを歓迎していた。
それが今はただの木である。
市ヶ谷慧太は時計を確認する。10時をわずかに回っている。バス停で降りて正門から走れば2コマ目の講義にギリギリ間に合う、重大な時刻。
遅刻するまいと走り去る学生たちがいる中、慧太は逆行している。ノタノタした足取り。猫背。死んだような目をしている。無精髭も手伝い、とても20歳には見えない風貌である。そして他の在校生たちの流れと真逆に進み、正門に向かっている。帰宅せんとしている。
ボサボサ頭の慧太は頭をかくと、ちょっとのフケを卯月の風に乗せ、あくびを1つ。
――2年前は僕も新入生みたいに若かったなあ……。
慧太は走り過ぎ去る学生たちを懐かしく見るのだった。もはや達観の感さえある。
入学当初、慧太もこの道で桜吹雪に見とれたものだった。
しかしさすがに3回目ともなると飽きる。それもみな同じ学年で迎えればなおさらだった。慧太は留年生。そして今年、3回目の大学1年生が開始されたのであった。達観もしようものだった。
3回目の大学1年生。それ「だけ」だったらまだ気持ちは軽い。今日、慧太は凄まじいことに気付く。進級に絶対必要な科目の履修登録を忘れていた。どうあがいても今年の進級は不可。
――4回目の1年生が決定です、ってか?
慧太はあきらめたように笑うのだった。6月。この梅雨手前の蒸し暑い時期に、すでにして留年決定。
もはや笑わざるを得ない慧太だった。ここまで回数を重ねるとかえって清々しい。むしろ慧太は、そんな駄目な自分自身を絶賛せざるを得ない。
下宿に戻った慧太。ドアを締め、鍵をかける。
台所に置かれた冷蔵庫から冷やしたお茶を取り出す。冷蔵庫の中はほとんどカラッポだった。自炊はこのところしていない。
慧太はパソコン前の椅子に座り、お茶を飲んだ。気分は不思議なほど落ち着いていた。慣れっこなせいかも知れない。
万年カーテンが閉め切られた部屋。以前カーテンを開けたのは何年前だったか慧太は覚えていない。陽光が薄いカーテン生地を通して部屋に届いている。家具の配置がかろうじて分かる。8畳1間の部屋は簡素そのものだった。およそ生活観が感じられない。
「ふう」
慧太はかばんをベッドに投げた。万年布団の布かれたベッドから、もわん、とほこりが浮く。それを見て空気清浄機の電源を入れ、流れるような動作でパソコンの主電源を入れるのだった。起動音とともにパソコンが起動し始める。
――いくら何でも決定が早すぎるぞ、僕。
慧太は頭をガシガシかいた。
気分をごまかし、現実から目をそむける手法に出た。パソコンが立ち上がりきってデスクトップが表示される。慧太はさっそくブラウザから書き込み専用掲示板を開き、書き込みを始めようとして、
ぴんぽーん
と、ジャストなタイミングで鳴ったチャイムに不愉快な気持ちにさせられるのだった。
慧太に友達はいない。じゃ、誰だ? 新聞の勧誘か。あるいは宗教か。もしくはテレビ視聴費の徴収員か。それならば無視しようと決め込んだ。
まさか大学関係者ではあるまい。今どき、大事なことならメールや電話で連絡が来るはずだし、留年決定と同時に学生を訪問し、なぐさめてくれるほど大学は優しくない。
カメラ付きインターホンだから相手の顔はすぐ知れた。
「女の子?」
しかも制服を着ている。女子高生だった。JKだった。JKが僕に何の用だろうと慧太は首をひねる。妹などいない。親戚に、あの年頃がいた記憶はない。となればこのJKは部屋番号の間違いをしているのだ。
妙な女の子だった。
カメラに向かって首をかしげたかと思うや、次の瞬間には遭難者が救助隊を見つけたときみたいに両手をぶんぶん振った。もしかして僕に存在をアピールしている? それもかなり大げさに。慧太はそんな気がした。居留守を使われまいと必死な様子がカメラ越しに伝わってくる。
慧太は通話ボタンを押した。
「はい、どなた?」
『おおぅ、ようやっと返事があったわい。えーともしもし? って言えばいいんだっけ? えっへん。ワシじゃワシ。開けられよ』
「ん? どなた?」
いやに古めかしい喋り方だった。そして調子に乗った感じ。中二病なのだろうか、この人は。画面の中で見知らぬJKはなおも自分の存在を訴えかけて来る。
『おーい、ワシじゃったらワシ。入れてよー』
「あー。えー。部屋が間違っていますよ。切りますから。それじゃ」
『あー、待った待った! けいた、待った!』
慧太は驚く。JKは自分の名前を知っていた。なぜだろう。引っ越して来てから近所付き合いは1度もないし、血のつながらない妹がいたという話も聞かない。ではこの女の子は何者だ。
慧太は怪しさ半分、期待半分でモニターのJKを見るのだった。
『ねー、けいたったら! 聞いてるんでしょー? 入れてよー。ワシじゃよー』
「ワシって言われても……」
『けーこじゃよー』
「けーこ?」
ハッとなる。
思い出す。近所の女の子。幼なじみ。そうだ、そういえばそんなのがいた気がする。小学校のときだったか、それ以前か、近所に住んでいた女の子とよく遊んでいた。というより近所に年齢の近い子がその子しかいなかったし、それでもかなり年下だった覚えがある。遊んであげていた、という言い方が正しいのかもしれない。だが名前はちゃんと覚えている。
「けーこ? もしかして松輪野けーこ?」
『そうじゃそうじゃ! ワシワシ! けーこじゃ! 開けてー』
「お、おう。ちょちょちょっと待ってて」
『どのくらい?』
「えーと、5分いや10分!」
『しょうがないのう。早くな』
インターホンを切る慧太。慌てて室内の換気を始めるのだった。引きこもり留年生にも見栄というものがある。部屋を汚いと言われてもしょうがない。けど臭いと言われたら立ち直れない。女の子に。JKに。ただでさえ今日は気分がすさんでいるのに、可愛い子にそんなこと言われたたちまち失禁して泣き出してしまう。
この部屋に人が来るのは数年ぶりだった。最初で最後の訪問者は親だったが、とまれ、カーテンを開ききる。ガラス戸を開け、網戸にして空気の通りをよくする。それから空気清浄機のスイッチをひねり、機能を最大にした。トイレの掃除を軽くやる。小便線があったら恥なので便器掃除の柄付きスポンジで便座をこすっておいた。
「どうぞ」
ひと通りの掃除を終え、9分55秒で玄関をガチャリと開けた慧太だった。
カメラ越しで見たときよりJKは幼く見えた。
肩まで達する黒髪を耳元で束ねている。これはツインテールと呼べばいいのだろうか。お肌はスベスベ。化粧っ気ないのにほっぺたはプルプルしている。引きこもってビタミンDの合成が不足している慧太とはまるで対照的だった。
ぱっちりとした目。整った顔立ち。けーこはこんなにカワイらしかったかなと慧太は思ってしまった。昔のことだし当時は女の子という概念がなかった。ただ男とは違う相手。その程度の認識だった。
けーこは思い悩む慧太と裏腹にハツラツとした笑みで語りかけてくるのだった。
「おう。久し振りじゃのう。けいた。元気にしとったか?」
「おー。久し振りだなあ。うん、まあまあね。会うのは何年振りだ?」
「その話もおいおいの。入るぞ、よいか? というか入るぞ」
慧太が「いい」とも「イエス」とも言わないのに、けーこは勝手に闖入するのだった。家主の許可を取らぬけーこにびっくりする慧太だったが、すぐに苦笑する。
――そうだ、けーこは昔からこんな風だったっけ。
ずかずかと部屋に入ってきたけーこは室内を見回すのだった。背後から様子を見る慧太は心臓バクバク。心拍数がハネ上がる。汚いとか臭いとか言われたらもうその時点で腹を切る覚悟だった。
「ふーん。広いのう。前の部屋よりも」
いたって普通の感想だったので慧太は内心ホッとした。
気を遣って言ったのではないことは分かる。けーこは昔からそうなのだから。思ったことがすぐ口に出る、口から生まれたような少女。言い方を良くすれば裏表のない女の子。
「そう? 前の部屋って僕が小学校のときの部屋のことか? よく覚えてるなあ」
「まーねまーね。どっか座っても良いか? イイヨー。よし、じゃあ座ろう」
一人芝居をしてけーこはベッドのふちにどかりと腰を下ろす。へりに両手を付いて足をぷらぷらさせている。天真爛漫である。
そしてけーこは言うのだった。
「けいたよ。やっと会えたな。お主は家に全然帰って来なかったのう。風の便りでここに下宿しておると聞いての。はるばるやって来たのじゃ。やれやれ骨が折れたわい」
「あーうん。大学に入ったから下宿を始めてね。よく来た。何しに来たんだ」
「うむ。その、ヒマじゃからの」と目をそらすようにけーこは言った。
これは悪いことをしている顔である。けーこのクセも変わっていない。いろいろなことが思い出されてくるが、当時はこんな妙な口調はしていなかったはずだ。しばらく会わなかった間に、けーこに何かあったのだろうか。
ふととあることに気付く。
「あれ? 今日は平日だよな。けーこ、学校はどうしたんだ」
「ぎくり」
「ん? ぎくりって……? まさかサボ」
「行っとる行っとる! もちろん行っとるぞ! だがそんな話はこの際、置いといての、ワシの話を聞いてほしいんじゃよ。いいか?」
「媚びるような目をしなくたって聞くよ。で、どんな話だ」
「おお! けいた。ワシの話を聞いてくれるのか。痛み入るぞ。実はじゃのう」と、けーこはマジメに話を切り出すのだった。
6000年前、地上に出現した史上初の地上統一国家シヴィライ帝国。皇帝を頂点に戴く集中強権国家は統一から何千年もの長期にわたり興隆の極みにあった。ところが皇帝の世襲が何世代も続くうち、皇帝の血筋が途絶える危機に遭遇するのだった。男系が皇帝を継ぐと典範に記され、それを遵守することで帝国は繁栄してきた。ところが前帝は1人の女を生んで他界したのだった。側室にも子はない。このままでは帝統が絶える。時の宰相バームーはこれを憂い、全土から皇帝の血筋を探し出すのだった。正妻の子にしても側室の子にしても、皇帝の座に就けなければ帝都を離れ、在野で暮らす。典範ではそう決めてきた。つまり直系でなくとも何世代か前の皇帝を祖に持つ者が必ずいる。ところがここで近衛師団長レンツゥが反逆行為を起こす。レンツゥは前帝に1人生まれた姫を、亡き皇帝の子ではないと全土に吹聴し、軍を率いて王宮に攻め込んだのだった。帝国はその時、姫を仮帝としていた。これをレンツゥが不満に思ったのか、それとも私心のために軍を起したか。それは分からない。しかしレンツゥは皇帝を守る近衛師団を統べている。一にも二にも仮帝は逃げねばならなかった。間一髪、仮帝……姫は居城を逃げ出した。以後、泥をすすり草を喰む生活を送り追っ手の目をごまかし続ける。そしてとうとう、縁戚にあたる在野の貴族の居城に逃げ込んだのだった。しかしそこにも追っ手はやって来る。姫はやむなく逃亡生活を続け、在野の奥の奥。奥深い僻地に逃れんとする。そこには初代皇帝の墓があり、墓守という名目で駐屯する兵たちがいる。土地柄、皇帝への忠義は厚い人々の里があるのだ。姫はそこを目指した。しかしレンツゥもそれを知っている。レンツゥは姫の山越えを恐れ、仮帝の保護を名目に山間の道の守備を強化した。それは盤石そのもの。まさしくアリの這い出る隙間もない。水も漏らさぬ封鎖に姫はとうとう気力も果てたのだった。そしてお供の占い師に問うた。ワシはこの世で生きられるのか、と。占い師は答えた。この世では恵まれなくも来世においてきっと救われ、それを以てシヴィライ帝国の血統もまた保たれる。反逆者には正義の鉄槌が下され世にはびこる悪は光の前にメクラとなるであろう。占い師は言うや魔方陣を描き、姫をこの世から別の世界に飛ばした。時来るまで御身大事にと。かくして姫は異世界こと地球において生を享けた。転生先は松輪野けーこという日本人少女。当初は普通の日本人の少女なるも、いよいよ高校生となるのを機にけーこに前世の記憶が目覚め、自分はこの異世界こと地球に転生したことを知った……。
「そういうわけでワシはこっちの世界に転生したのじゃ。生まれは日本でも本当の故郷はここではない。だから帰らねばならん。戻って帝国を悪魔の手から救い出さねば、ワシは帝祖帝宗の祖に面目が立たん。じゃがのう、ワシひとりではどうにも戻れん。力が足りぬので困っとる。助けてはくれんかの……って、なんで家から追い出そうとするんじゃ! 押すな押すな!」
「よく分からないからお引き取り願うんだよ! じゃ、またね!」
「むー! 大声あげるぞ! セクハラじゃぞ!」
「転生したとか言う割には現代語に詳しいな! 普通に日本語しゃべってるし! ウソつくんならもっとマシなウソ……を……?」
けーこの肩が震えていた。華奢な方が震える。強く握れば、安い割り箸よりも簡単にポキリと折れそうだった。
「もしかして泣いてる?」
「泣いてはおらん。ただウソと言われたのがショックなだけじゃ」
けーこの目が若干うるんでいる。泣く寸前である。
「だってあんまりにも突飛すぎて。内容がまるっきりラノベやなろうの世界の話だ」
「うー。でも本当のことじゃ」
「はいはい」
「お主は信じとらんな! 昔っからけーたはそうじゃ! ワシの話をロクに聞かん! そのクセワシをウソ呼ばわりする!」
「そういやそんなこともあったな。よく覚えてるな」
「ふふ、思い人のことなら5億年経っても覚えとるぞ」
「お、思い人ォ?」
「どうした赤面して。ははあ、嬉しいか? ワシがお主に好きと言ったとき、そうじゃった。赤かったのう。嬉しいのじゃなー?」
「う、うるさい。追い出すぞ」
卒爾、真顔になるけーこ。
「それは困る」
「そうか。……じゃ、追い出さない」
「優しいのう、けいた。お主は昔から」
「ふり仮名がおかしくないか? ていうか転生したんだったらけーこはどこに行ったんだよ」
「ん? どういう意味じゃ? けーこはワシじゃぞ」
「そうだけど。いや違う、そうじゃない。さっき言ってたろ。えーと、異世界からこっちの世界に転生してきたんだろ。つまりそのときけーこの肉体に乗り移ったんだろ。だったら昔、僕と遊んだけーこはどこに行った? お前はけーこを乗っ取ったってことだろうが」
「イマイチ要領を得んぞ。ワシはワシじゃよ。けーこじゃよ。生まれたときからけーこじゃ。もともとは異世界の生まれだったのじゃが、転生してこっちの世界に生まれ直したんじゃー。そして日本人の赤ん坊からやり直したのじゃ。そんでちょっと前に記憶がよみがえったんじゃ。前世の記憶がな。そして現在に至る」
「な、なるほど。分からん」
「むう……。これ以上なく簡潔な説明なのに。つまり上書きされたのではない。〝ハッ〟と昔のことがフラッシュバックした。そんな感じじゃ。じゃからワシはけーこじゃ」
ぷうとほっぺたを膨らませるけーこ。何だかやること為すことが幼く、子供っぽいなと慧太は思った。そして同時に思う。何しに僕の家に来たのだろうか。
正門からキャンパスまでまっすぐ伸びるこの道は、この大学自慢の道である。春風とともに桜吹雪が起こっていたのも先月までの話になる。ほの桃色の花びらが飛び、かぐわしい薫りで新入生たちを歓迎していた。
それが今はただの木である。
市ヶ谷慧太は時計を確認する。10時をわずかに回っている。バス停で降りて正門から走れば2コマ目の講義にギリギリ間に合う、重大な時刻。
遅刻するまいと走り去る学生たちがいる中、慧太は逆行している。ノタノタした足取り。猫背。死んだような目をしている。無精髭も手伝い、とても20歳には見えない風貌である。そして他の在校生たちの流れと真逆に進み、正門に向かっている。帰宅せんとしている。
ボサボサ頭の慧太は頭をかくと、ちょっとのフケを卯月の風に乗せ、あくびを1つ。
――2年前は僕も新入生みたいに若かったなあ……。
慧太は走り過ぎ去る学生たちを懐かしく見るのだった。もはや達観の感さえある。
入学当初、慧太もこの道で桜吹雪に見とれたものだった。
しかしさすがに3回目ともなると飽きる。それもみな同じ学年で迎えればなおさらだった。慧太は留年生。そして今年、3回目の大学1年生が開始されたのであった。達観もしようものだった。
3回目の大学1年生。それ「だけ」だったらまだ気持ちは軽い。今日、慧太は凄まじいことに気付く。進級に絶対必要な科目の履修登録を忘れていた。どうあがいても今年の進級は不可。
――4回目の1年生が決定です、ってか?
慧太はあきらめたように笑うのだった。6月。この梅雨手前の蒸し暑い時期に、すでにして留年決定。
もはや笑わざるを得ない慧太だった。ここまで回数を重ねるとかえって清々しい。むしろ慧太は、そんな駄目な自分自身を絶賛せざるを得ない。
下宿に戻った慧太。ドアを締め、鍵をかける。
台所に置かれた冷蔵庫から冷やしたお茶を取り出す。冷蔵庫の中はほとんどカラッポだった。自炊はこのところしていない。
慧太はパソコン前の椅子に座り、お茶を飲んだ。気分は不思議なほど落ち着いていた。慣れっこなせいかも知れない。
万年カーテンが閉め切られた部屋。以前カーテンを開けたのは何年前だったか慧太は覚えていない。陽光が薄いカーテン生地を通して部屋に届いている。家具の配置がかろうじて分かる。8畳1間の部屋は簡素そのものだった。およそ生活観が感じられない。
「ふう」
慧太はかばんをベッドに投げた。万年布団の布かれたベッドから、もわん、とほこりが浮く。それを見て空気清浄機の電源を入れ、流れるような動作でパソコンの主電源を入れるのだった。起動音とともにパソコンが起動し始める。
――いくら何でも決定が早すぎるぞ、僕。
慧太は頭をガシガシかいた。
気分をごまかし、現実から目をそむける手法に出た。パソコンが立ち上がりきってデスクトップが表示される。慧太はさっそくブラウザから書き込み専用掲示板を開き、書き込みを始めようとして、
ぴんぽーん
と、ジャストなタイミングで鳴ったチャイムに不愉快な気持ちにさせられるのだった。
慧太に友達はいない。じゃ、誰だ? 新聞の勧誘か。あるいは宗教か。もしくはテレビ視聴費の徴収員か。それならば無視しようと決め込んだ。
まさか大学関係者ではあるまい。今どき、大事なことならメールや電話で連絡が来るはずだし、留年決定と同時に学生を訪問し、なぐさめてくれるほど大学は優しくない。
カメラ付きインターホンだから相手の顔はすぐ知れた。
「女の子?」
しかも制服を着ている。女子高生だった。JKだった。JKが僕に何の用だろうと慧太は首をひねる。妹などいない。親戚に、あの年頃がいた記憶はない。となればこのJKは部屋番号の間違いをしているのだ。
妙な女の子だった。
カメラに向かって首をかしげたかと思うや、次の瞬間には遭難者が救助隊を見つけたときみたいに両手をぶんぶん振った。もしかして僕に存在をアピールしている? それもかなり大げさに。慧太はそんな気がした。居留守を使われまいと必死な様子がカメラ越しに伝わってくる。
慧太は通話ボタンを押した。
「はい、どなた?」
『おおぅ、ようやっと返事があったわい。えーともしもし? って言えばいいんだっけ? えっへん。ワシじゃワシ。開けられよ』
「ん? どなた?」
いやに古めかしい喋り方だった。そして調子に乗った感じ。中二病なのだろうか、この人は。画面の中で見知らぬJKはなおも自分の存在を訴えかけて来る。
『おーい、ワシじゃったらワシ。入れてよー』
「あー。えー。部屋が間違っていますよ。切りますから。それじゃ」
『あー、待った待った! けいた、待った!』
慧太は驚く。JKは自分の名前を知っていた。なぜだろう。引っ越して来てから近所付き合いは1度もないし、血のつながらない妹がいたという話も聞かない。ではこの女の子は何者だ。
慧太は怪しさ半分、期待半分でモニターのJKを見るのだった。
『ねー、けいたったら! 聞いてるんでしょー? 入れてよー。ワシじゃよー』
「ワシって言われても……」
『けーこじゃよー』
「けーこ?」
ハッとなる。
思い出す。近所の女の子。幼なじみ。そうだ、そういえばそんなのがいた気がする。小学校のときだったか、それ以前か、近所に住んでいた女の子とよく遊んでいた。というより近所に年齢の近い子がその子しかいなかったし、それでもかなり年下だった覚えがある。遊んであげていた、という言い方が正しいのかもしれない。だが名前はちゃんと覚えている。
「けーこ? もしかして松輪野けーこ?」
『そうじゃそうじゃ! ワシワシ! けーこじゃ! 開けてー』
「お、おう。ちょちょちょっと待ってて」
『どのくらい?』
「えーと、5分いや10分!」
『しょうがないのう。早くな』
インターホンを切る慧太。慌てて室内の換気を始めるのだった。引きこもり留年生にも見栄というものがある。部屋を汚いと言われてもしょうがない。けど臭いと言われたら立ち直れない。女の子に。JKに。ただでさえ今日は気分がすさんでいるのに、可愛い子にそんなこと言われたたちまち失禁して泣き出してしまう。
この部屋に人が来るのは数年ぶりだった。最初で最後の訪問者は親だったが、とまれ、カーテンを開ききる。ガラス戸を開け、網戸にして空気の通りをよくする。それから空気清浄機のスイッチをひねり、機能を最大にした。トイレの掃除を軽くやる。小便線があったら恥なので便器掃除の柄付きスポンジで便座をこすっておいた。
「どうぞ」
ひと通りの掃除を終え、9分55秒で玄関をガチャリと開けた慧太だった。
カメラ越しで見たときよりJKは幼く見えた。
肩まで達する黒髪を耳元で束ねている。これはツインテールと呼べばいいのだろうか。お肌はスベスベ。化粧っ気ないのにほっぺたはプルプルしている。引きこもってビタミンDの合成が不足している慧太とはまるで対照的だった。
ぱっちりとした目。整った顔立ち。けーこはこんなにカワイらしかったかなと慧太は思ってしまった。昔のことだし当時は女の子という概念がなかった。ただ男とは違う相手。その程度の認識だった。
けーこは思い悩む慧太と裏腹にハツラツとした笑みで語りかけてくるのだった。
「おう。久し振りじゃのう。けいた。元気にしとったか?」
「おー。久し振りだなあ。うん、まあまあね。会うのは何年振りだ?」
「その話もおいおいの。入るぞ、よいか? というか入るぞ」
慧太が「いい」とも「イエス」とも言わないのに、けーこは勝手に闖入するのだった。家主の許可を取らぬけーこにびっくりする慧太だったが、すぐに苦笑する。
――そうだ、けーこは昔からこんな風だったっけ。
ずかずかと部屋に入ってきたけーこは室内を見回すのだった。背後から様子を見る慧太は心臓バクバク。心拍数がハネ上がる。汚いとか臭いとか言われたらもうその時点で腹を切る覚悟だった。
「ふーん。広いのう。前の部屋よりも」
いたって普通の感想だったので慧太は内心ホッとした。
気を遣って言ったのではないことは分かる。けーこは昔からそうなのだから。思ったことがすぐ口に出る、口から生まれたような少女。言い方を良くすれば裏表のない女の子。
「そう? 前の部屋って僕が小学校のときの部屋のことか? よく覚えてるなあ」
「まーねまーね。どっか座っても良いか? イイヨー。よし、じゃあ座ろう」
一人芝居をしてけーこはベッドのふちにどかりと腰を下ろす。へりに両手を付いて足をぷらぷらさせている。天真爛漫である。
そしてけーこは言うのだった。
「けいたよ。やっと会えたな。お主は家に全然帰って来なかったのう。風の便りでここに下宿しておると聞いての。はるばるやって来たのじゃ。やれやれ骨が折れたわい」
「あーうん。大学に入ったから下宿を始めてね。よく来た。何しに来たんだ」
「うむ。その、ヒマじゃからの」と目をそらすようにけーこは言った。
これは悪いことをしている顔である。けーこのクセも変わっていない。いろいろなことが思い出されてくるが、当時はこんな妙な口調はしていなかったはずだ。しばらく会わなかった間に、けーこに何かあったのだろうか。
ふととあることに気付く。
「あれ? 今日は平日だよな。けーこ、学校はどうしたんだ」
「ぎくり」
「ん? ぎくりって……? まさかサボ」
「行っとる行っとる! もちろん行っとるぞ! だがそんな話はこの際、置いといての、ワシの話を聞いてほしいんじゃよ。いいか?」
「媚びるような目をしなくたって聞くよ。で、どんな話だ」
「おお! けいた。ワシの話を聞いてくれるのか。痛み入るぞ。実はじゃのう」と、けーこはマジメに話を切り出すのだった。
6000年前、地上に出現した史上初の地上統一国家シヴィライ帝国。皇帝を頂点に戴く集中強権国家は統一から何千年もの長期にわたり興隆の極みにあった。ところが皇帝の世襲が何世代も続くうち、皇帝の血筋が途絶える危機に遭遇するのだった。男系が皇帝を継ぐと典範に記され、それを遵守することで帝国は繁栄してきた。ところが前帝は1人の女を生んで他界したのだった。側室にも子はない。このままでは帝統が絶える。時の宰相バームーはこれを憂い、全土から皇帝の血筋を探し出すのだった。正妻の子にしても側室の子にしても、皇帝の座に就けなければ帝都を離れ、在野で暮らす。典範ではそう決めてきた。つまり直系でなくとも何世代か前の皇帝を祖に持つ者が必ずいる。ところがここで近衛師団長レンツゥが反逆行為を起こす。レンツゥは前帝に1人生まれた姫を、亡き皇帝の子ではないと全土に吹聴し、軍を率いて王宮に攻め込んだのだった。帝国はその時、姫を仮帝としていた。これをレンツゥが不満に思ったのか、それとも私心のために軍を起したか。それは分からない。しかしレンツゥは皇帝を守る近衛師団を統べている。一にも二にも仮帝は逃げねばならなかった。間一髪、仮帝……姫は居城を逃げ出した。以後、泥をすすり草を喰む生活を送り追っ手の目をごまかし続ける。そしてとうとう、縁戚にあたる在野の貴族の居城に逃げ込んだのだった。しかしそこにも追っ手はやって来る。姫はやむなく逃亡生活を続け、在野の奥の奥。奥深い僻地に逃れんとする。そこには初代皇帝の墓があり、墓守という名目で駐屯する兵たちがいる。土地柄、皇帝への忠義は厚い人々の里があるのだ。姫はそこを目指した。しかしレンツゥもそれを知っている。レンツゥは姫の山越えを恐れ、仮帝の保護を名目に山間の道の守備を強化した。それは盤石そのもの。まさしくアリの這い出る隙間もない。水も漏らさぬ封鎖に姫はとうとう気力も果てたのだった。そしてお供の占い師に問うた。ワシはこの世で生きられるのか、と。占い師は答えた。この世では恵まれなくも来世においてきっと救われ、それを以てシヴィライ帝国の血統もまた保たれる。反逆者には正義の鉄槌が下され世にはびこる悪は光の前にメクラとなるであろう。占い師は言うや魔方陣を描き、姫をこの世から別の世界に飛ばした。時来るまで御身大事にと。かくして姫は異世界こと地球において生を享けた。転生先は松輪野けーこという日本人少女。当初は普通の日本人の少女なるも、いよいよ高校生となるのを機にけーこに前世の記憶が目覚め、自分はこの異世界こと地球に転生したことを知った……。
「そういうわけでワシはこっちの世界に転生したのじゃ。生まれは日本でも本当の故郷はここではない。だから帰らねばならん。戻って帝国を悪魔の手から救い出さねば、ワシは帝祖帝宗の祖に面目が立たん。じゃがのう、ワシひとりではどうにも戻れん。力が足りぬので困っとる。助けてはくれんかの……って、なんで家から追い出そうとするんじゃ! 押すな押すな!」
「よく分からないからお引き取り願うんだよ! じゃ、またね!」
「むー! 大声あげるぞ! セクハラじゃぞ!」
「転生したとか言う割には現代語に詳しいな! 普通に日本語しゃべってるし! ウソつくんならもっとマシなウソ……を……?」
けーこの肩が震えていた。華奢な方が震える。強く握れば、安い割り箸よりも簡単にポキリと折れそうだった。
「もしかして泣いてる?」
「泣いてはおらん。ただウソと言われたのがショックなだけじゃ」
けーこの目が若干うるんでいる。泣く寸前である。
「だってあんまりにも突飛すぎて。内容がまるっきりラノベやなろうの世界の話だ」
「うー。でも本当のことじゃ」
「はいはい」
「お主は信じとらんな! 昔っからけーたはそうじゃ! ワシの話をロクに聞かん! そのクセワシをウソ呼ばわりする!」
「そういやそんなこともあったな。よく覚えてるな」
「ふふ、思い人のことなら5億年経っても覚えとるぞ」
「お、思い人ォ?」
「どうした赤面して。ははあ、嬉しいか? ワシがお主に好きと言ったとき、そうじゃった。赤かったのう。嬉しいのじゃなー?」
「う、うるさい。追い出すぞ」
卒爾、真顔になるけーこ。
「それは困る」
「そうか。……じゃ、追い出さない」
「優しいのう、けいた。お主は昔から」
「ふり仮名がおかしくないか? ていうか転生したんだったらけーこはどこに行ったんだよ」
「ん? どういう意味じゃ? けーこはワシじゃぞ」
「そうだけど。いや違う、そうじゃない。さっき言ってたろ。えーと、異世界からこっちの世界に転生してきたんだろ。つまりそのときけーこの肉体に乗り移ったんだろ。だったら昔、僕と遊んだけーこはどこに行った? お前はけーこを乗っ取ったってことだろうが」
「イマイチ要領を得んぞ。ワシはワシじゃよ。けーこじゃよ。生まれたときからけーこじゃ。もともとは異世界の生まれだったのじゃが、転生してこっちの世界に生まれ直したんじゃー。そして日本人の赤ん坊からやり直したのじゃ。そんでちょっと前に記憶がよみがえったんじゃ。前世の記憶がな。そして現在に至る」
「な、なるほど。分からん」
「むう……。これ以上なく簡潔な説明なのに。つまり上書きされたのではない。〝ハッ〟と昔のことがフラッシュバックした。そんな感じじゃ。じゃからワシはけーこじゃ」
ぷうとほっぺたを膨らませるけーこ。何だかやること為すことが幼く、子供っぽいなと慧太は思った。そして同時に思う。何しに僕の家に来たのだろうか。
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よろしくお願い申し上げます。平成27年7月14日、タイトルを変えました。旧称『落ちぶれ大学生と転生JKとは並んで台所に立つ。』新称『制服エプロン。』突然です。申し訳ありません。
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