そして彼らは伝説へ―異世界転移英雄譚―

長月十六夜

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第3章 誰かが死ぬということ

この世で唯一、正しいこと

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 鷹介は限界まで引き絞った弦から漆黒の矢を解き放った。豪速の矢は煌めく軌跡を描きながら直進運動を続け、微動だに出来ないマハの脇を掠める。

 鈴の音のような澄んだ高音の直後、マハの王国の周囲に広がる森が不穏な鳴動を生じさせる。円周上に響き渡る怪物の呻き声のようなそれは、子ども達に不安を、鷹介には手応えを、マハには驚愕を与えた。鷹介の矢はマハの王国を守護し、秘匿する結界そのものを撃ち抜き、“破界”したのである。

 神働術によって生み出された神秘の御業にすらも干渉し、完膚なきまでに打ち砕いた鷹介の力に、マハは愈々いよいよ戦意を喪失した。糸の切れた人形のように、力なくその場にへたり込む。

「……なるほど、剣臣の伝説は真であったか」

「まだ加減が利かないんだ。周りを滅茶苦茶にして悪かった」

「よい。どうせ仮初かりそめの領地じゃ」

 マハは自分の口から衝いて出た言葉に驚きを隠せないようだった。鷹介はその眼差しに一瞬の憐れみを閃かせた。

「……なぁマハ、気付いてるんだろう? アンタの待ち人達は、もうここには戻ってこないって」

「そんなことはない。皆、帰ってくる。わらわを置いて、彼らがいなくなってしまうことなどありえない」

「そう信じ続けて何年経つ? 何故長い期間、この王国を留守にする? アンタの家臣は定期的な連絡すら寄越さない不忠者なのか?」

 マハは恨めしそうに鷹介を睨みつける。

「いくら剣臣と雖も、わらわの臣下を侮辱するならば、この身命を賭してでも一矢報いてくれようぞ」

「……悪いな、口が悪くて。けど、帰ってこない連中を待ち続ける虚しさと寂しさに耐えかねて、無差別に子ども達をさらうのは、誇り高きエッヘの王族にふさわしい行いなのかよ」

「知った風な口を利くな。わらわはぬしらを救ってやろうと思っただけじゃ。決して私利私欲のためではない」

 鷹介は溜息を吐いて、うんざりするように頭を掻いた。

「何で俺の周りには強情な奴が多いんだろうな。救う側が救われる側と出会って泣き出すなんて本末転倒だ。結局、本当に救われたいのはアンタ自身だろう?」

 マハは鷹介の言葉に聞く耳を持つ気はないらしかった。それでも鷹介は続ける。

「アンタの家臣に何があったかは俺も知らない。でも、家臣の顔も、声も、一緒に過ごした記憶も覚えていないんじゃないか? それはマハの怠慢じゃないし、時の流れの残酷さでもない。みんな、“いなくなった”――死んだんだよ」

 マハは鷹介を仰ぎ見た。大きく見開かれた灰色の瞳には、驚愕の感情がありありと刻み込まれていた。『死』という概念を忘れようとも、生きとし生ける者の魂そのものに圧し掛かるような得体の知れない重みを、マハは直感的に感じ取っていた。

「……何じゃ、『死』とは何じゃ⁉ ぬしは何を知っておる⁉」

 鷹介は答えない。『死』の存在は言葉のみで軽々に語り尽くせないことは彼も肌感覚で弁えていた。だから黙して語らない。ただ、マハがまやかしの希望のためにこの土地に縛られ、自分を偽ってまで悪事に手を染める現状を見るに耐えず、残酷な事実を突きつけるのみだ。

 マハの双眸が大きく揺らぐ。大粒の涙が彼女の頬を伝い、大地へと流れ落ちる。マハは震える両手で濡れた土を握りしめる。

「耐えてきたのじゃ……ずっと独りで耐えてきたのじゃ! 目覚めたとき、側にいるべき者がおらず、いるべき者のことも思い出せず……その気持ちがぬしに分かるか! この心の喪失が、理由わけも分からぬ苦しさが、悲しさがぬしに分かるか!」

 長い時の中で、誰にも吐露できずに溜め込んできた感情と弱音が堰を切って溢れ出す。マハは高ぶった感情そのままに、嗚咽を漏らしながら鷹介に言葉をぶつけ続けた。

「記憶はなくとも、心が、身体が覚えている。傍にいる温もり、共に在る嬉しさや心強さ……わらわの希望を奪うな。わらわは王女じゃ。王女は臣下を見捨てない、この王国のために、彼らのために生きる者。導く民無くして、わらわに生きる理由などなくなってしまう。彼らが帰ってくることを諦めてしまったら、独りでいる寂しさに、苦しさに、絶望に押し潰されてしまう――」

 鷹介の目の前で両肩を震わせて泣きじゃくるマハは、もはや王女ではなかった。まして子ども達を誘拐した悪党でも、鷹介と戦った敵でもない。ただ、心許せる誰かの帰りを待ち侘びて、不安と寂しさに耐え続ける憐れな一人の女。

 ふと、あの夏の夕暮れに出会った女子高生の寂しげな姿がマハに重なる。鷹介は通り物のように襲い来る気掛かりに心がざわつくのを感じた。

 ――彼女は、帰るべき場所に戻れただろうか。あの寂しげな背中を、小さな肩を、愛情や友情とともに抱き留める誰かのもとへ帰ることができただろうか。

 きっと彼女は死に場所を求めていた。崖から堕ちそうになるあの細い手を掴まなければならなかったのは、最後に出会った自分だったかもしれない、と。

 気にはなったが、感慨はない。名前も知らない誰かの人生なんて、垂れ流しのテレビ番組と同じくらい印象に残らない。自分勝手に人生の愛憎やら喜劇やらを見せつけていくだけで、こちらの感情などお構いなしだ。共感などしたところで無意味なのである。

 あの女子高生も、マハも、鷹介にとってはどうなろうが知ったことではない。死にたいのなら死ねばいい。己の命は不要だと信じている者に、他人の言葉が届きようはずもない。

 ――だがそれでも。

 生きているだけで感謝されることも、救われる誰かがいることもある。だから、進んで死を選ぶのは間違っている。誰も彼も皆、考え過ぎなのだ。一人で苦悩して思いつく結果は、いつだって絶望的で、暗澹として、陰惨だから。

「……マハ。絶望なんて自販機と同じだ」

 自分と同じ気持ちを、余すところなく他人が共感することなどありえない。それを弁えてなお、鷹介は、マハとマハの背後に蟠る女子高生の幻影に語り掛けるように呟く。

「あの日の夜、喉が渇いて、自販機を探したんだ。こんな田舎にあるのかってかなり不安になったけど、すぐに見つかった。いつもは気にも留めないのに、探せば案外見つかるもんなんだよな。
 その時さ、ふと思ったんだ。絶望も似たようなもので、道すがら幾つも出会うけど、自分が欲しいもの、求める時じゃなきゃ目にも入らない、その程度のもんだ。だからさ、やっぱり世界なんてくだらない。自分から生きることを放り出すに見合うような理由なんてないんだ。意味とか価値とか必要性とか、そんなもの気にせずに、ただ生き続ければいい」

 あの日言えなかった言葉が流れるように溢れ出す。鷹介はマハを通して、自身の過去と向き合っていた。後悔も後ろめたさもない。ただ、ずっと納得できていなかったのだ。心の深いところで蟠るそれは、吐き出す機会をずっと待ち侘びていたに違いない。もう、あの女子高生には届かないけれど、あの日の納まりの悪い思いに決別の意を込めて、ようやく鷹介は言葉にすることができた。

「きっと、この世で唯一正しいことは、誰もが生きていることだけなんだ。何かの、誰かの所為にして、生きることを諦めるなよ」

 鷹介は初めて感情らしい感情をマハに対して見せた。弱音を吐くなと、最大の敵である自分自身の弱さに負けるなと、静かに叱咤するような響きと微かな熱を帯びた口調。

 マハは再び鷹介を仰ぎ見ようとする。だが彼女の眼差しは鷹介に向けられることはなく、鷹介の背後の何者かに釘付けになっていた。

 マハの視線の先を追い、鷹介も眼を瞠った。
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