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第3章 誰かが死ぬということ
マハの王国
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視線の先に小さな宮殿があった。緑生い茂る森の中にあってはアンバランスではあったが、石造りの外観は壮麗で、繊細な装飾が随所に施されている。宮殿の四方は澄んだ池に囲まれていて、陽光を反射して煌めいていたために、まるで光の中に浮かんでいるかのような錯覚すら抱かせた。
「どうじゃ、圧巻じゃろう? 感激じゃろう?」
とくとくとした口調で胸を張るマハとは対照的に、鷹介は開いた口が塞がらなかった。
「……センスが爆発しているな」
「ぬしは正直者じゃて。褒めてつかわす」
無邪気な笑顔に鷹介は顔を顰めずにはいられない。
「皮肉の通じねぇ女。だが、まぁよくこんな建物を拵えたもんだ。アンタ独りで造ったのか?」
マハは鷹介の腹部を指で軽く突いた。
「ヨースケは正直者で“愛い”奴じゃが、口の利き方がなっとらんの。わらわのことは崇敬と親愛を込めてマハ様と呼ぶのじゃ下等種族」
上目遣いで艶笑を見せるマハにときめきではなく苛立ちを覚えた鷹介は、憮然として改めて問い直す。
「……マハ様がお造りになったんですか?」
「わらわは命令しただけじゃ。労働は臣下の仕事ゆえな」
歩き出すマハから少し離れて、鷹介も“マハの王国”に足を踏み入れる。宮殿を囲むように、煉瓦造りの古めかしい人家がいくつか建てられていたが、人の息遣いが感じられないことに違和感を覚えた。
その違和感は、驚きと不気味さに取って代わられる。全身は薄汚れた包帯で覆われた人型の何かが、人家の戸口から出てきたからだ。緩慢な動きで軒先の農具を抱え、人家の裏手に広がる畑に向かっていく。
人型は王国のあちこちで見受けられた。宮殿の入口を警備する者もいれば、薪を背負って森から帰ってくる者もいる。この王国の労働力らしい。
「もしかして、アレがマハ様の家来?」
「うむ。わらわが造った『土塊人形』じゃ」
「『土塊人形』……初めて見た。あれってマハ様が操ってるんだろ? あんなにたくさんを動かせるなんて、マハ様はすごいな」
鷹介の素直な感心振りに、マハは鼻高々だった。
「じゃろう。エッヘの一族では神働術と呼ばれておってな、わらわは誰よりもその才がある。救世主アルテミシア様が授けてくださった我が一族の誉れじゃ」
「けど、何でこんな場所で土塊人形と暮らしてるんだ? マハ様は王女なんだろ? そのリーネ・エッヘ国とやらには帰らないのか?」
フッと、マハの表情から明朗さが失われる。代わりに現れたのは、憂いに翳る虚ろさだった。
「……帰らん。わらわはここで待たねばならん」
「待つ? 何を?」
「国元から連れてきた臣下達じゃ。故あって今は離れておるからな。誰一人置き去りにはせぬ。臣下の主たるものそれが当たり前じゃ」
マハが初めて見せるどこか寂しげな雰囲気に、鷹介は考えを巡らさずにはいられない。
――きっと、臣下とやらはもう長い年月戻ってきていない。これだけ多くの土塊人形を従えて、これだけの規模の集落を維持している点からもそれは明白だ。
そして、おそらく臣下達はもう戻ってこない。そのことをマハも薄々感じている。
臣下達が戻らない理由は何だろう。愛想を尽かされた王女、騙されて捨てられた王女、命を懸けて守られた王女……何にせよ、戻らぬ者達の帰るべき場所を守るという幻想を抱いて、マハはこれからも生きていくのか。もはや存在しない役割と責務に縛られた生き方は、なんと哀れで、虚しいのか。
物思いに耽りながらも器用に歩みを止めない鷹介は、いつの間にか宮殿内部にいることに気付いた。マハの後を追って大階段を上り、玉座の据えられた広間に辿り着く。狭く、小振りながら洗練された意匠の内装は、王族であるマハを満足させる秀麗さだった。
玉座の手前で、幼い黒髪の少女が深々と頭を垂れている。マハと同じ系統の民族服に身を包んでいるものの、獣耳や尻尾は見受けられない。どうやら自分と同じく、マハに“招待”された別種族の子どもなのだろうと鷹介は推量した。
「ま、マハ様。お帰りなさいませ」
まだ緊張が抜けきらない様子で、少女はマハと鷹介を仰ぎ見た。少し怯えた様子で鷹介を見る濃い色の瞳は、黒髪も相まって彼に望郷の念を抱かせた。懐かしさに自然と笑みが漏れる。
「出迎えご苦労じゃブルーナ。これは新入りのヨースケ。こやつに仕事を教えてやってくれるかの」
「は、はい」
「仕事?」
マハは段差を上り、玉座にゆったりと腰掛けて鷹介を見下ろした。
「言ったじゃろう? わらわはぬしにふさわしい場所と役割を与える、と。
わらわの国には、生きる上での苦悩や恐怖はない。優れたわらわの統治に不公正も不公平もありえぬ。ぬしら下等種族は明日の不安に怯えることなく、考えることなく、わらわのために生き、従い、奉仕すればよい。それがぬしらの役割となり、それに殉じる幸福を得ることになるのじゃ。わらわはわらわを信じ敬うものを決して裏切ることはない。それは高貴なるものの義務であり、果たさねばならぬ責務であるからな」
無垢の驕傲、とでも言えばよいのか。無邪気な屈託ない笑顔から発せられる高圧的で独善的な価値観に、しかし鷹介は反抗心を抱き切れなかった。それはマハの憎めない人となりを知ったからではない。“がらんどう”と揶揄される彼の心の深奥に、ある一つの考えが芽生えつつあったからだ。
――何も悩むことなく、盲信する対象や信念を得て、ただ必要とされるから生き続ける。それはきっと、幸福なんだろう、と。
生きる意味。存在する価値。生きがいを与え、保証してくれる絶対者の実在。それは人類の集団理想だ。
社会は価値や意味で溢れている。それだけ人の世界は、無慈悲な自然から距離を取って、人固有の世界を作らずにはいられない。全ての命は生まれ、やがて死ぬし、その一生は大して意味はないという、あまりにも単純で残酷な事実を直視して生きていくことは、多くの人にとって耐えられないものだからだ。
価値や意味に殉じて生きることができた時代は幸せだったろう。遥か遠い理想であっても、誰かの創り出した幻想であっても、信じて殉じることができれば幸福なのだ。信じる者は確かに救われていた。
けれど時代が進むにつれて、その価値や意味を実感できず、生きることが難しくなった。誰も生きる目的を教えてくれないのに、自分達で考えろと社会はいう。それが賢さだ、生きる力だと、大人達は声高に嘯く。
だが、そんなものは初めから存在しない。彼らの生きがい――がらんどうの張りぼてがどうやって生み出されたか知ることもなく、知ろうともせず、自分達と同じ生き方を次の世代にも無意識に強要する。子ども達は信じる振りをし続ける。道化のように、肌感覚で馬鹿馬鹿しいと知りながらも、踊らされ続ける。
でも唐突に、信じる振りができなくなる瞬間がある。くだらないと吐き捨てたくなる時が来る。一度気付いてしまえば、もう心の底から信じ切ることができなくなる。世界のつま弾き者は斯くて生まれるのだ。
それが、皆戸鷹介という少年だった。そんな彼だからこそ、マハの言葉に心惹かれる。彼女の示す生き方ができるのであれば、こんなにもがらんどうな心を抱えることもないのだから。
本人さえも気づいていない一縷の期待は、マハの王国からの脱出を消極的にさせる要因となっていた。もっとも、当の本人としては、慎重に事を運ぼうとマハの王国に関する情報収集を徹底していただけだったが。
鷹介はブルーナに案内されて、マハの王国の辺縁部まで足を伸ばしていた。王国は宮殿を中心に円形の領域を形成していて、スピッツベルゲン山側の境界付近には湧き水が小さな泉となって地表に現れていた。
「あの……ヨースケさんは、力持ち?」
ブルーナは探るように、恐る恐る長身の鷹介を見上げる。華奢で背丈も低い彼女にとっては、初対面の、しかも壁か書割りのような圧迫感を抱かせる大柄な男性に怯えてしまうのは無理からぬことだった。
そんなブルーナの心境も知ってか知らずか、相変わらず飄々とした口振りで鷹介は答える。
「たぶん、そこいらの大人よりはあるんじゃないか?」
「じゃあ……ここのお水、運んでくれますか?」
「お安い御用だ」
鷹介は持ち運んできた二つの木桶に目一杯水を汲んだ。軽々と持ち上げる様子を見て、ブルーナは目を丸くした。
「どこまで運べばいい?」
「……あ、宮殿まで。できますか?」
「軽いし、距離も近いから問題ないと思うぞ」
「すごい……一度にそんなにたくさん運べるなんて」
「だよなぁ。俺自身も驚いてる」
重みという重みを感じない自らの両手に、鷹介は不気味さすら感じた。剣臣としての強すぎる力は、慣れ親しんだ自分の身体の生の感覚を麻痺させてしまっていたのだ。この違和感は、すぐに慣れそうもなかった。
鷹介の言葉の意味を理解できず、ブルーナは小首を傾げる。鷹介は何でもないと呟き、泉の向こう側の鬱蒼とした森林に視線を転じた。
「この先には他にも何かあるのか?」
「分かりません。泉の向こう側に行くと、迷ってしまうから行ってはいけないとマハ様に言われています」
「……なるほど」
鷹介は得心した。マハの人となりからして、嘘を吐けるような器用さはない。ということは、マハの結界は王国を秘匿する境界と、その外側にあって侵入者を選別するもう一枚の境界の二段構造になっているのだろう。鷹介が無限ループに陥ったのは一番外側の境界を越えた先、王国の境界の手前であり、王国への道筋を知らない闖入者は、まやかしの迷宮で彷徨い続けることになるのだ。
何故、鷹介やブルーナが結界の内部に迷い込んでしまったかは不明だが、マハはそういった不運な遭難者を、彼女なりの善意から王国へ連れ帰っているということになる。他種族の子どもに、ふさわしい居場所と役割を与えると嘯いてまで、ここに留めようとしている。
(つまり、マハも内心、気付いているんだろう。待ち人はもう帰ってこないと。だから、自分やブルーナを半ば強引に王国に連れてきた。心細さを、寂しさを埋め合わせるために)
憐れだと思う。気の毒だとも思う。だがマハのやり様を認めることはできないし、フィリネのためにも一刻も早く玲士朗達のもとに戻らなければならない。鷹介は静かに自分を奮い立たせたが、空腹を感じて、一度は昂揚した意気も下降線を辿りつつあった。
「腹が減ってはなんとやら、だな。朝飯はもう食べた?」
ブルーナは頭を振った。
「これから、みんなで一緒に食べます」
「友達がいるのか?」
「ヨースケさんみたいに、マハ様に連れられてきた子達がいるんです」
「そうか。なら早いとこ仕事を終わらせよう。これ、あと何杯運べばいい?」
ブルーナは言いにくそうに視線を逸らしながら小さく呟いた。
「マハ様の水浴びに使うので、たくさん……」
「たくさんね、任せろ、あっという間に終わらせてやる。ブルーナは俺の朝飯の用意をしてくれるか?」
「は、はい。じゃあ、あそこのお家で待ってます」
「どうじゃ、圧巻じゃろう? 感激じゃろう?」
とくとくとした口調で胸を張るマハとは対照的に、鷹介は開いた口が塞がらなかった。
「……センスが爆発しているな」
「ぬしは正直者じゃて。褒めてつかわす」
無邪気な笑顔に鷹介は顔を顰めずにはいられない。
「皮肉の通じねぇ女。だが、まぁよくこんな建物を拵えたもんだ。アンタ独りで造ったのか?」
マハは鷹介の腹部を指で軽く突いた。
「ヨースケは正直者で“愛い”奴じゃが、口の利き方がなっとらんの。わらわのことは崇敬と親愛を込めてマハ様と呼ぶのじゃ下等種族」
上目遣いで艶笑を見せるマハにときめきではなく苛立ちを覚えた鷹介は、憮然として改めて問い直す。
「……マハ様がお造りになったんですか?」
「わらわは命令しただけじゃ。労働は臣下の仕事ゆえな」
歩き出すマハから少し離れて、鷹介も“マハの王国”に足を踏み入れる。宮殿を囲むように、煉瓦造りの古めかしい人家がいくつか建てられていたが、人の息遣いが感じられないことに違和感を覚えた。
その違和感は、驚きと不気味さに取って代わられる。全身は薄汚れた包帯で覆われた人型の何かが、人家の戸口から出てきたからだ。緩慢な動きで軒先の農具を抱え、人家の裏手に広がる畑に向かっていく。
人型は王国のあちこちで見受けられた。宮殿の入口を警備する者もいれば、薪を背負って森から帰ってくる者もいる。この王国の労働力らしい。
「もしかして、アレがマハ様の家来?」
「うむ。わらわが造った『土塊人形』じゃ」
「『土塊人形』……初めて見た。あれってマハ様が操ってるんだろ? あんなにたくさんを動かせるなんて、マハ様はすごいな」
鷹介の素直な感心振りに、マハは鼻高々だった。
「じゃろう。エッヘの一族では神働術と呼ばれておってな、わらわは誰よりもその才がある。救世主アルテミシア様が授けてくださった我が一族の誉れじゃ」
「けど、何でこんな場所で土塊人形と暮らしてるんだ? マハ様は王女なんだろ? そのリーネ・エッヘ国とやらには帰らないのか?」
フッと、マハの表情から明朗さが失われる。代わりに現れたのは、憂いに翳る虚ろさだった。
「……帰らん。わらわはここで待たねばならん」
「待つ? 何を?」
「国元から連れてきた臣下達じゃ。故あって今は離れておるからな。誰一人置き去りにはせぬ。臣下の主たるものそれが当たり前じゃ」
マハが初めて見せるどこか寂しげな雰囲気に、鷹介は考えを巡らさずにはいられない。
――きっと、臣下とやらはもう長い年月戻ってきていない。これだけ多くの土塊人形を従えて、これだけの規模の集落を維持している点からもそれは明白だ。
そして、おそらく臣下達はもう戻ってこない。そのことをマハも薄々感じている。
臣下達が戻らない理由は何だろう。愛想を尽かされた王女、騙されて捨てられた王女、命を懸けて守られた王女……何にせよ、戻らぬ者達の帰るべき場所を守るという幻想を抱いて、マハはこれからも生きていくのか。もはや存在しない役割と責務に縛られた生き方は、なんと哀れで、虚しいのか。
物思いに耽りながらも器用に歩みを止めない鷹介は、いつの間にか宮殿内部にいることに気付いた。マハの後を追って大階段を上り、玉座の据えられた広間に辿り着く。狭く、小振りながら洗練された意匠の内装は、王族であるマハを満足させる秀麗さだった。
玉座の手前で、幼い黒髪の少女が深々と頭を垂れている。マハと同じ系統の民族服に身を包んでいるものの、獣耳や尻尾は見受けられない。どうやら自分と同じく、マハに“招待”された別種族の子どもなのだろうと鷹介は推量した。
「ま、マハ様。お帰りなさいませ」
まだ緊張が抜けきらない様子で、少女はマハと鷹介を仰ぎ見た。少し怯えた様子で鷹介を見る濃い色の瞳は、黒髪も相まって彼に望郷の念を抱かせた。懐かしさに自然と笑みが漏れる。
「出迎えご苦労じゃブルーナ。これは新入りのヨースケ。こやつに仕事を教えてやってくれるかの」
「は、はい」
「仕事?」
マハは段差を上り、玉座にゆったりと腰掛けて鷹介を見下ろした。
「言ったじゃろう? わらわはぬしにふさわしい場所と役割を与える、と。
わらわの国には、生きる上での苦悩や恐怖はない。優れたわらわの統治に不公正も不公平もありえぬ。ぬしら下等種族は明日の不安に怯えることなく、考えることなく、わらわのために生き、従い、奉仕すればよい。それがぬしらの役割となり、それに殉じる幸福を得ることになるのじゃ。わらわはわらわを信じ敬うものを決して裏切ることはない。それは高貴なるものの義務であり、果たさねばならぬ責務であるからな」
無垢の驕傲、とでも言えばよいのか。無邪気な屈託ない笑顔から発せられる高圧的で独善的な価値観に、しかし鷹介は反抗心を抱き切れなかった。それはマハの憎めない人となりを知ったからではない。“がらんどう”と揶揄される彼の心の深奥に、ある一つの考えが芽生えつつあったからだ。
――何も悩むことなく、盲信する対象や信念を得て、ただ必要とされるから生き続ける。それはきっと、幸福なんだろう、と。
生きる意味。存在する価値。生きがいを与え、保証してくれる絶対者の実在。それは人類の集団理想だ。
社会は価値や意味で溢れている。それだけ人の世界は、無慈悲な自然から距離を取って、人固有の世界を作らずにはいられない。全ての命は生まれ、やがて死ぬし、その一生は大して意味はないという、あまりにも単純で残酷な事実を直視して生きていくことは、多くの人にとって耐えられないものだからだ。
価値や意味に殉じて生きることができた時代は幸せだったろう。遥か遠い理想であっても、誰かの創り出した幻想であっても、信じて殉じることができれば幸福なのだ。信じる者は確かに救われていた。
けれど時代が進むにつれて、その価値や意味を実感できず、生きることが難しくなった。誰も生きる目的を教えてくれないのに、自分達で考えろと社会はいう。それが賢さだ、生きる力だと、大人達は声高に嘯く。
だが、そんなものは初めから存在しない。彼らの生きがい――がらんどうの張りぼてがどうやって生み出されたか知ることもなく、知ろうともせず、自分達と同じ生き方を次の世代にも無意識に強要する。子ども達は信じる振りをし続ける。道化のように、肌感覚で馬鹿馬鹿しいと知りながらも、踊らされ続ける。
でも唐突に、信じる振りができなくなる瞬間がある。くだらないと吐き捨てたくなる時が来る。一度気付いてしまえば、もう心の底から信じ切ることができなくなる。世界のつま弾き者は斯くて生まれるのだ。
それが、皆戸鷹介という少年だった。そんな彼だからこそ、マハの言葉に心惹かれる。彼女の示す生き方ができるのであれば、こんなにもがらんどうな心を抱えることもないのだから。
本人さえも気づいていない一縷の期待は、マハの王国からの脱出を消極的にさせる要因となっていた。もっとも、当の本人としては、慎重に事を運ぼうとマハの王国に関する情報収集を徹底していただけだったが。
鷹介はブルーナに案内されて、マハの王国の辺縁部まで足を伸ばしていた。王国は宮殿を中心に円形の領域を形成していて、スピッツベルゲン山側の境界付近には湧き水が小さな泉となって地表に現れていた。
「あの……ヨースケさんは、力持ち?」
ブルーナは探るように、恐る恐る長身の鷹介を見上げる。華奢で背丈も低い彼女にとっては、初対面の、しかも壁か書割りのような圧迫感を抱かせる大柄な男性に怯えてしまうのは無理からぬことだった。
そんなブルーナの心境も知ってか知らずか、相変わらず飄々とした口振りで鷹介は答える。
「たぶん、そこいらの大人よりはあるんじゃないか?」
「じゃあ……ここのお水、運んでくれますか?」
「お安い御用だ」
鷹介は持ち運んできた二つの木桶に目一杯水を汲んだ。軽々と持ち上げる様子を見て、ブルーナは目を丸くした。
「どこまで運べばいい?」
「……あ、宮殿まで。できますか?」
「軽いし、距離も近いから問題ないと思うぞ」
「すごい……一度にそんなにたくさん運べるなんて」
「だよなぁ。俺自身も驚いてる」
重みという重みを感じない自らの両手に、鷹介は不気味さすら感じた。剣臣としての強すぎる力は、慣れ親しんだ自分の身体の生の感覚を麻痺させてしまっていたのだ。この違和感は、すぐに慣れそうもなかった。
鷹介の言葉の意味を理解できず、ブルーナは小首を傾げる。鷹介は何でもないと呟き、泉の向こう側の鬱蒼とした森林に視線を転じた。
「この先には他にも何かあるのか?」
「分かりません。泉の向こう側に行くと、迷ってしまうから行ってはいけないとマハ様に言われています」
「……なるほど」
鷹介は得心した。マハの人となりからして、嘘を吐けるような器用さはない。ということは、マハの結界は王国を秘匿する境界と、その外側にあって侵入者を選別するもう一枚の境界の二段構造になっているのだろう。鷹介が無限ループに陥ったのは一番外側の境界を越えた先、王国の境界の手前であり、王国への道筋を知らない闖入者は、まやかしの迷宮で彷徨い続けることになるのだ。
何故、鷹介やブルーナが結界の内部に迷い込んでしまったかは不明だが、マハはそういった不運な遭難者を、彼女なりの善意から王国へ連れ帰っているということになる。他種族の子どもに、ふさわしい居場所と役割を与えると嘯いてまで、ここに留めようとしている。
(つまり、マハも内心、気付いているんだろう。待ち人はもう帰ってこないと。だから、自分やブルーナを半ば強引に王国に連れてきた。心細さを、寂しさを埋め合わせるために)
憐れだと思う。気の毒だとも思う。だがマハのやり様を認めることはできないし、フィリネのためにも一刻も早く玲士朗達のもとに戻らなければならない。鷹介は静かに自分を奮い立たせたが、空腹を感じて、一度は昂揚した意気も下降線を辿りつつあった。
「腹が減ってはなんとやら、だな。朝飯はもう食べた?」
ブルーナは頭を振った。
「これから、みんなで一緒に食べます」
「友達がいるのか?」
「ヨースケさんみたいに、マハ様に連れられてきた子達がいるんです」
「そうか。なら早いとこ仕事を終わらせよう。これ、あと何杯運べばいい?」
ブルーナは言いにくそうに視線を逸らしながら小さく呟いた。
「マハ様の水浴びに使うので、たくさん……」
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