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第1章 幕引きは唐突に

戦いの傷跡

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 ゴブリン達が潰走かいそうした後の丘陵には夜半の静けさが戻りつつあった。もっとも、玲士朗達の鼓動の高鳴りはすぐには治まらず、静謐な夜への帰還を実感するには程遠かった。

 乱れた呼吸を整えながら、玲士朗は地面に膝をついたままのメーネに近寄り、手を差し出した。

「メーネ、立てるか?」

 多少面食らいながらも、メーネはおずおずとその手を取った。玲士朗達にとって自分は得体の知れない存在だ――そう自分を卑下していたメーネは、こういった気遣いがなされることを予期していなかったのだ。

「ありがとう……ございます」

「礼を言うのはこっちの方だよ。おかげで助かった」

「いえ……皆さんを守ると言っておきながら、情けない限りです」

「そんなこと言うなよ。とにかく、無事でよかった」

 自然と零れた玲士朗の穏やかな笑みに、メーネも釣られるように表情を和らげた。座り込む颯磨に玲士朗が手を貸していると、蒼褪めた柚希が慌てた様子で駆けてくる。

「玲士朗! ち、血が出てるよ!」

 幼馴染の動転振りを目の当たりにして、玲士朗はたじろいだ。

「お、落ち着け柚希、大丈夫だ。これはゴブリンの血だよ。俺自身、怪我はない」

「そ、そっか……それならいいんだけど。本当に痛いところとかない?」

 身体に触れられる照れ臭さも相まって、玲士朗は歯切れの悪い応答しかできない。念入りに玲士朗の五体満足を確かめてから、柚希は颯磨とメーネに視線を転じる。

「颯磨は? メーネは?」

 二人を慎重に検め無事を確認すると、柚希の顔色に薔薇色の生気が徐々に戻っていく。

「よかった……」

 安堵と共に気も抜けて、その場にへたり込もうとする柚希の身体を玲士朗が支える。やれやれと小さく溜息を吐きながらも、柚希の横顔を眺めて玲士朗は微笑を零した。

 天真爛漫に見えて、実は他人の気持ちに人一倍敏感で、いつも自分をのことを二の次に考えて行動してしまう柚希。変わってしまった日常の中であっても、変わらない彼女の在り方がとても貴重なもののように感じられて、玲士朗は思わず嬉しさが込み上げてきたのだった。

 身体こそ無傷だった高校生達だったが、これまで遭遇することのなかった命の危険と想像すらもしなかった戦いの恐怖に心は傷つき、疲弊し切っていた。特に重傷だったのは、未だ泣き腫らし続ける梢――ではなく、沈鬱な眼差しで制服の裾に付いた血を見つめる玲士朗だったかもしれない。

 染み込んだゴブリンの血は赤黒く変色し、鉄じみた異臭が鼻をついた。不快さから逃れようと転じた視線の先には、玲士朗が斬り落としたゴブリンの右腕が地面に打ち捨てられて、生々しい命の残滓を垂れ流し続けている。

 無我夢中のことで実感がなかったが、紛れもなく自分の行いだという確信が玲士朗にはあった。身体にこびりつく血、鼓膜に残る叫声、視界に焼きつく苦悶に満ちた形相は、加害者でなければ感じ得ないものだからだ。

 ――正当防衛だった、自分と仲間を守るためには仕方がなかった。大義があれば暴力だって正義足り得ると思いたいのは人情だろう。だが、理屈では自分以外の誰かを説得できても、自分を納得させることはできない。

 暴力は、どんな形であれ悪なのだと玲士朗は教えられたし、真実、そう考えていた。如何に崇高な理念や大義名分で着飾ったとて、その覆いの下に隠れている本質は、いつの時代も身勝手で醜いエゴでしかない。

 だから、誰かを傷つけることは、翻って自分の良心にも傷跡を残す。自覚的な傷跡は、いつまでも今日の自責と苦痛をふとした弾みで訴える。それがきっと、社会に裁かれない暴力に対する罰なのだ。他の誰でもない、自分自身に赦されないからこそ、癒えることはない傷。畢竟ひっきょう、ゴブリンとの死闘の末、武器を振るい、流血を見た事実は、玲士朗に自己正当化と罪悪感のせめぎ合いという解消し得ない懊悩おうのうをもたらしてしまったのだ。

 悄然とする玲士朗の後ろ姿をメーネは見つめていた。誰であれ、本人でさえ、心の傷を見ることはできない。だから感じるのみである。玲士朗の苦悩と苦痛に共感して、メーネは憂いに翳った瞳を微かに潤ませたようだった。感傷を断ち切るように、長い睫毛まつげに縁取られた端正な双眸をゆっくりと閉じる。

「皆さん、ここは危険です。またいつゴブリンが襲ってくるかも分からない。この丘の麓に村があります。ひとまずそちらに移動しましょう」

「賛成だ。早くここから離れようぜ」

 メーネの提案に鷹介は一も二もなく同意の声を上げる。他の幼馴染達は彼の肯定的な反応に意外そうな視線を向けた。異世界の存在にもメーネの素性にも懐疑的な態度だった鷹介だけに、驚きは一入ひとしおだったのだ。

「何だよ、当初の予定通りだろ、村に行ってみるってのは。メーネが口利きしてくれるんならスムーズで尚良しじゃねぇか」

 鷹介の楽観さとは裏腹に、涼風は表情を曇らせた。

「でも、私達みたいな……得体の知れない人間を受け入れてくれるのかしら。それに、後を追って最前のゴブリン達が村を襲ったら……」

「大丈夫です。村の人々は私達に好意的ですし、周辺一帯はエルフの一族が守ってくれていますので」

 詩音が驚きのあまり、思わず口を挟んだ。

「エルフって、まさかあの……まぁいいわ。詳しいことは安全な場所に行ってから聞かせてもらいましょう」

 詩音達は足早に丘を下り始める。不安は拭い切れないが、一刻も早くこの場を離れたいという焦燥が彼らの去就を決定づけていた。

「柚希、歩けるか?」

「う、うん。ごめんね。私、玲士郎に助けてもらってばっかりだね」

「気にするな。俺は気にしてないぞ。お前って手がかかるから」

「手がかかるって……子どもじゃないんだから――メーネ?」

 気恥ずかしさに視線を漂わせていた柚希は、立ち尽くすメーネを眼に留める。柚希の視線を追った玲士朗は、メーネの小さな背中から再び危うさを感じ取っていた。まるで世界に彼女一人しか生き残っていないかのように寂寥として、静かな絶望を背負っている重々しさに思わず息を呑む。

 振り返ったメーネは、どこか寂し気な印象の笑みを見せた。

「すみません。少し呆としてしまって。村に急ぎましょう」

 三人は無言で丘を下り始めた。メーネの瞳は哀しみと愁いを帯びて、どこか遠くを見つめるようだった。玲士朗も柚希も、そんなメーネの雰囲気を気掛かりに思いつつも、何も言葉をかけられなかった。

 意を決したように、柚希が努めて陽気な声でメーネに尋ねる。

「あの綺麗な空のカーテン、無憂の天蓋ペール・ヴェールって言うんだよね? この世界の人達にとって、どういう存在なの?」

 思いがけない質問に、メーネは一瞬、眼を大きく張って柚希を見返した。それから夜空を見上げ、耽美な神秘の創成伝説に思いを馳せる。

無憂の天蓋ペール・ヴェールは、かつてテルマテルを襲った災禍に立ち向かい、救世主となった女性が、世界の安寧と平和を願い、その思いが形となって現れ出たものと伝わっています。以来、テルマテルに暮らす人々を守護する覆いとなり、悲しみや苦しみ、憎しみや寂しさを断ち切る加護の結晶と信じられています」

「本当、綺麗だよね。こんなに綺麗なものを作っちゃった救世主さんって、きっと心がすごく清らかで、純粋だったんだね」

 柚希の嘘偽りない感動に、メーネも柔和な微笑を向ける。無憂の天蓋ペール・ヴェールは、地上の血生臭さや少年達の苦悩とは無縁で、穏やかな月光に彩られてゆったりと音もなくたなびいていた。
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