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前編
前編-1
しおりを挟む序章一 前夜
D‐1 二一〇五時
見上げると、明日の快晴を約束するような鮮やかな星空であった。
そんな空の下、男は足早に進む。
三十路街道に突入していよいよという風体の男は、ほくほく顔で快活に歩いていた。
変である。
まことに変であった。
何しろ今夜は暑い。熱帯夜の空気は、陽が落ちた後でさえ肌にじんわりと汗を滲ませ、鬱陶しいほどだ。こんな夜は、布団に入っても寝苦しくて、何度も何度も寝返りを打ってしまう。エアコンのリモコンに手を伸ばし、翌月の電気代のことを思い煩いつつも、冷房をガンガン効かせてようやく眠りに入ることが出来る。そんな暑さなのだ。にもかかわらず男の足取りは軽かった。
しかも男の両手には、ズシリと重そうな紙袋がぶら下がっている。その重さはなかなかのもののはずだが、男は指に食い込むヒモの苦痛すらも心地好く感じているかのようだった。
仕事帰りのビジネスマンは背を丸め、足を引きずるようにして家路を急いでいるというのに。
夏休みの今日を元気いっぱいに遊び呆けた学生や子供達ですら、とぼとぼと溜息交じりに歩いているというのに。
なのにこの男と来たら、鼻歌すら聞こえてきそうな足取りなのだ。
世の中には、罵られながら鞭で打たれたり、溶けた蝋を肌に垂らされたり、ハイヒールで踏まれたりすることをご褒美として受け止める者がいると聞くが、おそらくきっと、この男もその類いの人間ではあるまいか――そんな風に思ってしまう。
だが、よくよく見れば、この男が着ているTシャツにはアニメキャラクターのイラストがプリントされている。両手にぶら下げている紙袋には、可愛らしくはあるけれど、一部の描写が攻撃的女権拡張運動家からヒステリックな抗議を受けそうなイラストが大写しされている。
そしてその中に入っている重さの根源が、大小様々な薄い冊子の束であり、かつ今日という日が、毎年夏と冬に催される同人誌即売会の初日であったとなれば、理解の前提条件も変わってくる。
しかも、この男の名が伊丹耀司だと聞けば、大抵の者は「ま、奴ならばおかしくあるまい」と納得するに違いない。
仮に彼の名を知らぬ者でも、左記のように紹介すればきっと理解の一助となるだろう。
『この男はオタクである』と。
そう、伊丹耀司(三十二歳)はオタクである。
『オタク』といっても、自分でファンフィクション小説や漫画を描いたり、あるいはフィギュアや球体関節人形を作って愛でたりするという、クリエイティブなオタクではない。
もちろん、某・音声合成技術を用いて歌わせたりもしない。他人が創ったり描いたりしたものへの批評や評価を掲示板に投稿するという、アクティブなオタクでもない。
誰かの書いた漫画や小説をただひたすらに読み漁るという、パッシブな消費者としてのオタクであり、斜陽化しつつある現代日本の経済を陰で支える中心的な存在なのである。
この物語は、伊丹耀司という主人公が、同人誌即売会初日をしっかり堪能し尽くし、上機嫌で帰宅して、自宅アパートのドアの前に立ってドアノブを握った瞬間から始まるのである。
* *
さて、伊丹はドアノブを握ると、開けるのを一瞬だけ躊躇った。
扉を開いた直後、目に入ってくる光景がどのようなものか概ね予想できていたからだ。
腐乱死体が床に転がっていて、甘酸っぱい腐臭を漂わせている――なんてことはないのだが、ある意味腐乱死体よりもタチの悪い、腐りきった怪物めいた存在がいることは確信をもって断言できた。そのためにちょっとばかり勇気を奮い起こす必要があったのだ。
「ただいま」
案の定と言うべきか。
部屋の中心に置かれたテーブル、その上に置かれたパソコンモニターを一人の女性が親の仇がごとく睨み付けていた。
睨み付けているというよりは、真っ赤な目をして、落ちそうになってくる瞼を持ち上げるのに眼瞼挙筋の力では足りないので、眉を持ち上げる皺眉筋や額の筋肉である前頭筋も総動員し、必死になってこじ開けているといった感じだ。
顔色は墓の下から這い出てきたかのごとく悪く、髪はぼさぼさに乱れ、服もしばらくは替えていないだろうなと傍目でも分かるほどに薄汚れてしまっていた。
頬はこけ、唇は乾いてカサカサ。そしてその隙間からは、何やらブツブツと言葉にならぬ音声が常時漏れ出ている。時折、「くくくふふふしゅしゅ」と薄ら笑みを浮かべながら不気味な笑いが零れることもあった。
動く死体とはこのような物体を言うに違いない。
このゾンビの名は、伊丹梨紗。
伊丹の幼なじみであり、オタク仲間であり、かつ嫁さんでもある。
そう、嫁だ。
ちゃんと結婚式も挙げたし、七号サイズのウェディングドレスに身を包んだ彼女と並んでひな壇に座った。披露宴の際には自分と彼女のオタク仲間達、そして伊丹の職業上の上司と同僚達という混成参列者達――一部は双方を兼ねる――によって盛大な祝福も受けた。
その際この女は、これまでの人生で一度たりとも見せたことがないと言ってもよいほどの最大限の美しさと愛らしさを纏っていたのだ。
なのに、なのにそれなのに。どうしてこんな酷い有り様になってしまったのか。
最良だったあの頃と、最悪とも言える今。その落差を見れば、知らぬ間にどこかの秘密結社か陰謀組織の手によって、彼の女房が偽者とすり替えられてしまった――などというカプグラ症候群めいた妄想のほうが納得しやすい。
しかし、伊丹は知っていた。
こちらこそが梨紗の本性にして、本体にして、正真正銘の姿なのだと。
あの日あの時のあの愛らしくも儚げで美しい姿こそが、化けの皮の上に猫の皮を幾重にも被った、仮初めの姿でしかなかったのである。
そのことを伊丹は長い付き合いで知っていたし、分かっていたし、納得すらしていた。
「………おかえりぃ」
帰宅を報せる伊丹の声に遅れること数秒、その存在はモニターから決して目を逸らすことなく作業を続けていた。
「早かったねー」
「いや、遅いよ。今何時だと思ってるんだ?」
「午後五時くらい?」
「違う。今日は国際展示場を出てから知り合いと晩飯食いながら駄弁ってたから、帰りが遅くなって今は二十一時過ぎだ。今日という一日の残りは三時間を切った。そして明日の同人誌即売会二日目の開催までおよそ十三時間。なのに梨紗は未だに作業中?」
「ううっ。まだ終わってないよーーーーー」
梨紗はモニターを睨みながら涙を滂沱と流す。漫画的表現ならば、その涙は蛇口から溢れ出る水のごとく描かれるに違いない。
「間に合うのか?」
「ううっ、ギリギリかもー」
梨紗は言いながらペンタブレットの表面を、綿棒を改造して作ったペン先で擦った。
モニターには、ク○トワ参謀が見たら『腐ってやがる。早過ぎたんだ』と罵りそうな怪しい映像が描かれていた。
「新刊のほうは出来あがってるんだろ? その上にコピー本まで出したいだなんて欲を掻くからだ。そんなことしなきゃ今日の初日だって一緒に行けたのに」
「でもさあ今回のは合同本だからさあ、出来れば個人誌も出したいなーって」
「それで自ら茨の道に向かって突き進んだわけね」
梨紗はううっと目を潤ませた。
「とりあえず三日連続徹夜して頑張ったんだけどダメでしたー何の成果も得られませんでしたー、じゃいけないの?」
「みんな期待してくれてるのにー? 裏切れないよー」
梨紗は皆の期待に応えたいという立派な建前を口にした。しかし伊丹は知っている。この類いの衝動は根源を追及しても意味はないのだと。
彼ら彼女らを突き動かすものの正体に具体的なものなど存在しない。彼ら彼女らは「ただそうしたい」という想いだけで動いているのだ。
もし理由を問い詰めて回答を得たとしても、それは大抵が後付けだ。だから別の方法ややり方でそれを満たすことは出来ない。従って伊丹に出来ることは、「そっか……」と頷いて優しく見守ることだけなのだ。
「そか、なら頑張れ」
「うん、頑張るう」
「初日の分は、買ってきてやったからな」
伊丹は片手の紙袋を持ち上げた。
彼の両手にぶら下がる紙袋の内、右手の分は全て梨紗が欲しいと言っていたものだ。
明日の準備で手の放せない梨紗に代わって、伊丹耀司は同人誌即売会の、あのだだっ広く大混雑する会場を文字通り東奔西走してきたのだ。
「ありがとー。そこに置いといて」
しかし梨紗は振り向きもしなかった。モニターを睨み、黙々と手を動かし続けていた。
仕方なく伊丹は荷物を置くと、椅子に腰掛けて、紙袋から本日の収穫物を取り出し、ページを捲り始めたのである。
薄い本を数冊読み終えたところで、伊丹はふと気になった。
「飯食った?」
伊丹の帰宅時間を十七時と勘違いしたくらいだ。時間の感覚は麻痺しているに違いない。
「食べたような……食べてないような……」
梨紗は上の空であった。
今している作業に全集中したいのだろう。脳のリソースの一パーセントも、この問いに答えるためには使いたくないといった感じだ。
仕方なく伊丹は梨紗周りを観察することにした。
「スキル『鑑定眼』を発動!」
伊丹の空想力が作り上げた脳内スカウターがピピピと反応を開始。すると伊丹の視界内で様々な数値が意味もなく表示されていった。
「戦闘力、たったの五か……ゴミめ」
屑籠の中身が五と表示されていた。
しかしその中の一つにコーションマークが表示される。それはカップ麺の残骸だ。『乾燥している』『四時間以上経過』といった文字が表示された。
梨紗はコピー本の作成作業を始めて三日間徹夜している。
昨日までの朝と晩の食事に関しては伊丹が都度都度食わせていたが、今日に関しては全く面倒を見てやれていない。
台所を見ても、『料理をした様子は見えない』と表示される。きっと梨紗は今日一日、このカップ麺を一個食べただけなのだ。
そこで伊丹は、同人誌即売会会場で売られていた焼きそばを紙袋から取り出した。
これは知り合いのいるサークルに差し入れようと購ったもの。ところがそのサークルスペースは最初から最後までパイプ椅子が置かれただけの状態だった。何らかの事情で来られなかったのだろう。そのため渡しそびれてしまった。そしてそれをそのまま持ち帰ってきていたのだ。
「これ食うか?」
「あ、食べたいかも」
早速伊丹は焼きそばを電子レンジで再加熱した。そしてそれを彼女の傍らに置いたのである。
その後、伊丹は同人誌を読み続けた。
読み終えて積み上がっていく同人誌が二十冊程度になった頃、梨紗が口を開いた。
「終わった。で、出来た……」
「そか、出来たか」
見れば焼きそばは、透明なプラスチックの容器から消え失せていた。僅かに青のりと紅ショウガの残滓が張り付いている程度だ。きっと作業しつつ食ったのだろう。
プリンターは、ページプリンター独特の音と共に原稿を次々と吐き出している。
梨紗はと言えば、緊張の糸が切れてしまったのかタブレット板に突っ伏している。まだ、作業は終わっていないというのに。
「せ、製本……」
梨紗が残された工程を呻く。
そう、これで完成とはいかないのだ。続いて原稿をコピーし、ページごとに束ねて、ステープラーを打ち込んで、製本テープを貼るという作業がまだ残っている。
伊丹家にはコピー機などという立派なものはないから、近くのコンビニまで行かねばならない。
しかし時計の針はあと数分でてっぺんの二十四時に達する。
徹夜続きの梨紗をこの深夜に出掛けさせる? 無理だ、やめておいたほうがよい。同人誌即売会は疲労困憊した状況で生き抜けるほど甘い世界ではない。明日のことを考えるなら、最低でも六時間の睡眠をとらせる必要がある。そう、休息は義務なのだ。
伊丹は命じた。
「お前はもう寝ろ。明日早いんだから。後のことは俺がやっておく」
梨紗はこの言葉の理解に、数秒ほどの時間を必要とした。
「分かった。寝ます。百部……おなしゃす、ふーわ」
梨紗は欠伸をしながらそう言い残すとベッドへと向かったのである。
「眠る用意!」
「ふぁい……」
伊丹の号令に応え、梨紗は着替えもせずに布団に潜り込む。
「三、二、一、眠れ!」
「すぴー……」
梨紗は本当に催眠術にかかったんじゃないかと思うくらい瞬く間に寝入った。
「コピー本で百部だって? 流石、壁際の常連……」
伊丹は小さく嘆息すると、彼女が今し方仕上げた原稿の枚数を数えながら束ねる。そして部屋を出た。コピー機のある近所のコンビニへと向かうのだ。
夜の住宅街をとぼとぼ歩く。
深夜だ。すでにどこの家の窓からも灯りは消えていて、街全体に夜の帳が下りている。街灯だけが伊丹の足下を薄く照らしていた。
だが、二十四時間営業のコンビニエンスストアは、そんな中でも闇の中に浮かぶ絶海の孤島がごとく輝きに包まれていた。
金魚鉢かはたまた水族館の水槽かと見紛うようなガラス窓には、昼も夜もなくあたかも時が止まったかのように燦然と輝くコンビニワールドが垣間見える。
扉を開いて入店音を上げながら中に入る。
伊丹はそこで一旦立ち止まって左右を見た。
左の奥のほうにATM、生鮮食料品、冷凍食品、パン、菓子類、正面にレジカウンター、右側に行くと日用雑貨、衛生用品、酒類とツマミ類、そしてソフトドリンク等の詰まった冷蔵庫がある。
窓に向かって雑誌の並ぶ本棚があり、その隣にはコピーのみならず、スキャン、ファックス、写真プリント、住民票や戸籍謄本、印鑑登録証明書の発行といった行政サービス、さらには各種イベントのチケット発行などなどの様々な機能を併せ持つマルチコピー機が置かれていた。
序章二 D‐DAY
〇〇〇四時(十一時間四十六分前)
『輝里は戸籍謄本、忘れちゃダメだからね』
『どうしてあたしに言うの? ちゃんともう用意してあるのに!』
『あんたが一番忘れそうだから。瞼を下ろすと見えてくるようだわ。机の上に置き忘れて、いざ提出となった時、手元にないと言って慌てふためくあんたの姿が!』
『ど、どうしてあたしにばっかり! なんで聡子には言わないのよー?』
『しっかり者の聡子が、忘れるはずないからよ‼ そうよね⁉』
沖田聡子は、職場の同僚にして友人達のメッセージ――チャット式アプリの文字列を読むと二重の意味で舌打ちした。
二重の意味の舌打ち――まずは『しっかり者』という言葉への不快感だ。
その言葉を一番初めに聡子に向けて放ったのが誰だったかはすでに忘れて久しいが、その言葉は幼い頃から呪いと化して聡子を長く縛り付けてきた。
聡子は皆が思うほどしっかりしていない。
偉くもないし、強くもない。本来の聡子はドジでお間抜けで気弱なのだ。
他の誰よりも助けてもらいたがり、内心では誰かに支えられたいと願っている弱虫でもある。
注意力は散漫で正確性に欠けミスも多い。だから絶えず注意を喚起し、自分を点検し続けていなければならない。ミスを素早く見つけてすぐさまフォローをするために。
しっかりして見えるのはそれが理由なだけなのだ。
自分に絶えず鞭打つのはキツくて辛い。けれど聡子は涙を堪え、歯を食い縛り、胸を張って背筋を伸ばして懸命に頑張ってきたのである。なのにその代償が優秀、優等生等々の評価であり、大人や教師連中からは「こいつらの面倒はお前が見てやれ」と言われて、気を張らねばならない対象がますます増えていくのだから皮肉としか言いようがないのだ。
正直、聡子は気を張ることに疲れ果てていた。
もし誰かから『もう大丈夫だよ。これからは頑張らなくてもいいぞ』なんて囁かれたら、力が抜けて身も心も委ねてしまいかねないほどだった。
けれどそんなことを囁いてくれる者はいたためしがない。きっとこれからも現れないだろう。そしてこんな毎日がずうっと続くのだ。聡子の中にある何かの容量が限界を超えてパンっと破裂するまで、絶えずひたすらに緊張を強いられ続けるのだ。
二重の意味の舌打ち――そのもう一つは、ミスをしたことへの慚愧だった。
今日もやっぱりミスをした。
近々、聡子の職場では海外への職員団体旅行がある。
聡子は海外が初めてだ。そのためパスポートの申請をしなければならない。
毎日が多忙な聡子達のために今回は旅行代理店が一括してそれを引き受けてくれることになっている。その締め切りは明日だ。なのに聡子は戸籍謄本の取得を完璧に失念していた。あのドジっ子の代名詞たる輝里ですら用意は済ませたと言っているのに!
時計の針を見る。すでに深夜二十四時を回っていた。
もし明日――いや、すでに今日だが――提出が出来なかったら、自分でパスポートセンターまで赴かなければならない。このままベッドに入って明日、仕事に行く途中で戸籍を取ることを失念したら、そうなってしまう。日頃のルーチンに含まれていないイレギュラーなことは脳みそメモリから消されやすいのだ。
「まいった、今行くしかないか」
すでにベッドに入るだけという格好になっていただけに億劫だった。
聡子は立ち上がると鏡に映った自分を見た。
ショートヘア。健康的に焼けた肌。
尖った顎、背丈は高くもなく低くもない。贅肉のない引き締まった身体付き。それでいて女らしい曲線もある。それらがコットンの生地で作られたゆるゆるとしたパジャマに柔らかく包まれているのだ。
実に扇情的だ。その気のない男であっても挑発しかねない危険な色香が匂い立っていた。
囮捜査でもあるまいし、流石にこの格好で外に出るわけにはいくまい。しかし今からきちんとした服装に着替えるのも面倒だ。
そこで数秒間考えた。手早く着られて手早く脱げるものがなかったか、と。
「あった」
そこでクローゼットの奥にぶら下がっていた、高校時代――今からおよそ三年前――に使っていた胸に南園学園高校と刺繍されたジャージへと手を伸ばしたのである。
家を出てコンビニエンスストアまでは数分の道のりだ。
コンビニは燦然と輝き、闇夜に浮かぶ誘蛾灯のよう。
絶海の孤島、砂漠のオアシスという表現も捨てがたい。DMZにコンビニ――なんていう漫画もあったっけか。
ドアを押し開けて中を見ると、深夜だというのに数名の人影があった。
コンビニは商品の配置が決まっているから、お目当てのものはすぐに見つかる。彼女の求めていたマルチコピー機もすぐに見つかった。
しかしところが、である。見ると先客が使用していた。
何やらガーコガーコとコピーをしている。
その男性は大量の原稿を抱えていて、彼の作業が終わるまでには相当の時間がかかることが予想された。アニメキャラのイラストがプリントされたTシャツを着ている。その上、コピーしているのは何かの漫画の原稿らしい。
まいった。こりゃオタクだわ。
聡子は、自分の中にあるオタクと呼ばれる人種へのイメージを思い浮かべた。
軟弱者。
それが偏見であることは十分に承知しているが、それでも彼女がこれまでの人生で溜め込んだ、オタクと称する人々へのイメージを総括するとそのようなものとなる。
彼ら彼女らには、克己心など欠片もない。
自己の欲求に忠実で、進んで法を破ることはないが、とはいえ公徳心もなく自己の権利の追求にのみ熱心。つまり他人の迷惑を顧みることがないのだ。
当然、コピー作業に長い時間がかかったとしても、自分のニーズを満たすことを最優先し、後ろに並んでいる者を待たせることに躊躇いはないだろう。というか、配慮の必要性など思い付きもしないのだ。
そんな生き方、聡子には到底できるものではなかった。全くもって羨ましくなるほどだ。そこまで緩く柔軟かつ自堕落になれたとしたら、聡子もきっと幸せな人生が送れるに違いない。
別のコンビニへ、という案が即座に浮かぶ。
しかしそこまでの距離を歩くことと、外に出ただけでじわっと汗の浮き出てくる暑さを思い返すと、冷房のよく効いた涼しい店内にいることのほうがマシに思えてきた。
そう。実に腹立たしく苛つくが、待つことのほうが正解なのだ。
さて、待っている間、何をするべきか。
致し方なく聡子は雑誌に手を伸ばした。
漫画雑誌、週刊誌、ファッション誌等々、様々な冊子がずらりと並んでいるが、可愛い色合いの目立つファッション誌を手に取ってその数ページに目を走らせた。
すると白髪交じりの年嵩の男がやってきて囁いた。
「こんな時間なんだ。もう、家に帰りなさいよ」
その初老の域に達した男性はよれよれにくたびれたスーツ姿であり、吐く息からは若干のアルコール臭が漂っていた。
「……」
思わず聡子は天を仰いだ。善意厨はどこにでもいるな、と。
彼らは日頃の鬱憤やストレスのはけ口として、他人の中に欠点や失敗、素行の不良といった弱点を見つけて論う。要らぬお節介をしないではいられないのだ。
「言うこと聞かないと警察呼ぶよ。君は未成年だろ?」
そして彼ら彼女らの行動は、往々にしてトラブルを呼ぶ。
どれほど言葉を慇懃に整えようとも、その指摘の裏にあるのは優越感を満たそうという欲求、他人を蔑むことで悦に入る蔑視感情、お前は俺より下なのだというマウンティングの追求だ。それらはしっかりと相手に伝わってしまうのだ。
否、それらの優越感情は言葉を上手く操れない人間、弁舌が巧みでない人間ほど敏感に感じ取る傾向がある。だからこそ反発を招いてしまう。
なのになのにそれなのに、指摘した側はこう考えてしまう。
え、どうして反発される?
どうして自分の善意が伝わらない?
「こっちを向いて話を聞きなさい!」
彼らは考える。自分は正しいことを言っている。だから相手はその言葉をありがたく受け取り、自分の親切に対しひれ伏すように感謝の態度を示すべきなのだ、と。
そう、そこにこそ問題の根源がある。
やっていることは善行のように見えるが、内実はカツアゲや辻斬りと全く変わらない、他人を用いて自分を満たそうというマスターベーション。強盗や痴漢ならぶん殴っても正当防衛になるが、こっちは善行の皮を被っているだけにタチが悪い。
こんな相手に言い返したら必ずトラブる。無視していてもトラブる。まるで罠にはまったようなものなのだ。
こりゃマズいよね。誰か助けて。
聡子が心の中で祈った瞬間、それまでコピー機を使っていたオタクが振り返った。
「先にコピーする? 俺、もうちょっとかかりそうだから」
そこには、人をほっとさせるような笑顔があった。
「あ、はい? ありがとうございます」
聡子はこのオタク、思ったよりいい奴じゃん、と評価を改めつつマルチコピー機の前に立った。
「おい、無視するな」
聡子はコピー機に向かったまま酔客に応えた。
「わたし、高校生じゃないんですよね」
「なんだと?」
「これでも成人なんです」
その証拠とばかりに、『住民基本台帳カード』を取り出すと、指で住所を隠しつつ生年月日部分を見せつける。そしてマルチコピー機に載せて戸籍謄本請求の操作を始めた。種別を選んで暗証番号を入力して……
「そ、それは高校のジャージだろ⁉ そんなもん着てるから!」
白髪交じりの男のほうは、羞恥によるものか怒りによるものかは知らないが顔を真っ赤にして言った。
他人の欠点を指摘して悦に入るタイプの人間は、自分が間違っていたとなかなか認められない。
誤りを認めると、自分が下になってしまうからだ。だからどんな方法を使ってでも自分の行為の正当化を図る。そう。善意を笠に着る者と、正義を建前にする者、そして警察官は、過ちを絶対に認めない人種なのだ。
聡子は嘆息しつつ言った。
「ええ、ですから勘違いなさったことは仕方ないと思って黙って聞いてました。が、これから先はただの迷惑行為なのでご遠慮ください」
「なんだと!」
「迷惑行為防止条例違反になりますよ」
「き、貴様! 俺は善意で!」
「待った」
その時、男が言った。
男といっても白髪交じりの酔客のことではない。先ほどまでコピーをしていたオタクのほうだ。それが一触即発状態の聡子と中年親父の間に割って入ると、コピー機の下にあるトレイに手を伸ばそうとしたのである。
しかしそこには聡子の戸籍謄本がすでに吐き出されようとしていた。それはプライベートな個人情報の塊だ。
「な、何するんですか、やめなさい!」
当然、奪われてはなるまいと、聡子はオタクの腕を押さえ付ける。軟弱者と思った男の腕が、触れてみると案外逞しいことに気付いた。
「いや、俺がさっきまでコピーしてた原稿がトレイに残ってるの忘れてて!」
「待って。それならわたしが取りますから、待ってください!」
「でも、それは新鮮な女性(腐ってないという意味)にはとても見せられ……」
聡子は男が言うのも聞かずにコピー機のトレイから紙束を取り出す。そして一番上の自分の戸籍謄本を素早く取り除いた。
当然、その下にあった二枚目以降の『腐りきったそれ』を間近で見ることになる。
「ひっ!」
聡子は『それ』を見た瞬間、悲鳴を上げた。
聡子は職業柄かあるいはもともとそういう性格なのか、一般に言う猥褻物には動揺しない傾向があった。男社会の職場にいると、セクハラ発言があちこちからポンポン飛んでくるが、だからどうしたんです? と平然と言い返せてしまう。押収品の猥褻図画を突然見せつけられるようなことがあっても、「ふーん、男ってこういうのが好きなんですねー」と肩を竦めるくらい余裕なのである。
そもそも女の裸なんか風呂に入れば毎日見るではないか。なのにたかだかオスとメスの交尾場面にどうして動揺するんだろうか?
とはいえ今回ばかりはその聡子をしても悲鳴を上げてしまうほどのショックを受けた。
大いに心を揺さぶられ平時七十回程度の心拍数が、二百近くにまで跳ね上がった。動揺してしまったのだ。
何しろそこには、見目麗しい裸の男が二人、淫らにも肢体を妖しく絡め合っているという、ベーコンレタスな光景が広がっていたからなのである。
〇七一五時(四時間三十五分前)
「ったく……あの馬鹿オタクを猥褻物陳列罪か、猥褻図画販売目的所持で逮捕してやればよかった」
身支度を終えた聡子はそう吐き捨てると、スチール製ロッカーの扉を力任せに閉じた。
当然のことながら甲高い音が響き渡る。すると更衣室内にいた女性達三人が手を止め、談笑を止め、何事が起きたのかと振り返った。
三人ともスポーティかつオシャレな下着姿で、Tシャツを纏い、その上から剣道着、袴を身に着けようとしている最中だったりする。どうやら制服を身に纏う仕事に就いていると、女性のオシャレ欲はその下に隠されているものに向かってしまうらしい。
「あ、ごめんなさい」
聡子は驚かせてすまないと皆に告げる。すると皆は中断した着替えと談笑を再開した。
「あんた警察官でしょ。そこまで言うならどうして逮捕しなかったのよ」
聡子なら出来たはずだと同期かつ同僚の長髪女性は言った。
「だって、そんなことしたら面倒臭いことになるじゃない! 『特練』だってあるのに!」
あのオタクをとっ捕まえて管轄の警察署から警官を呼んで引き渡したりしたら、当然ながら聡子は所轄署まで同行を迫られたはずだ。理由は調書を作成するためだ。
問題は、これがとにかく時間がかかるのである。
聡子自身も警察官となって三年、調書の作成には何度も携わったが、あれはちょっとやそっとでは終わらないのだ。
きっと解放されるのは朝になったはず。つまり聡子は徹夜する羽目に陥り、一睡も出来ないままこの辛く厳しい早朝特別練習に参加しなければならなかったのだ。
しかも今日という一日は稽古で終わりではない。その後の彼女には通常通りの交番勤務が待っている。
「徹夜して、そのまま剣道の朝稽古だなんてゾッとするわ」
「ま、非番中のことだったならほうっておいていいんじゃない」
「別に実害があったわけじゃないんでしょ?」
「何をもって猥褻とするかの判断はいろいろと難しいしねえ」
聡子の同僚達は口々に言った。
猥褻図画は基準が曖昧で面倒臭くて、担当者によっても判断が分かれるくらいだ。
最近だと大きな同人誌即売会は運営が自主規制しているため、多くの作品がその基準内に収まるように描かれている。ならば、担当者からも問題なしのお咎めなしと判断される可能性もあった。聡子個人が主観的に「猥褻物と感じました」ではダメなのだ。
「でも、男が裸で……」
聡子はその目に焼き付いた光景を思い浮かべて顔を赤らめた。
「そんなんで禁止してたらミケランジェロのダビデ像すらダメになっちゃうわよ」
「ミケランジェロは芸術でしょうが!」
「似たようなもんでしょ! さ、時間よ。モタモタしてると置いてくからね!」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
皆が聡子を残して更衣室から出ていってしまう。聡子も置いていかれまいと慌てふためいて後を追ったのだった。
築地警察署の剣道場では、こんな朝早くから竹刀同士がぶつかる軽快な音、打突時の掛け声、床を踏み撃つ音が響き渡っていた。
すでに防具を着けて地稽古に励んでいる者がいるのだ。天井の高い道場だが内部には彼らの放つ熱気が充満していた。
聡子と違い警察署の寮に住んでいる連中は、通勤時間を要さないので朝の六時くらいから始められる。もちろん聡子も警察官になりたての頃は寮に入った。しかし女子寮の部屋数が少ないこともあって、実家が近くにある者は二年かそこらで出ることが求められる。
聡子達はすぐに準備運動を始めた。
通常なら指導員から何をモタモタしていると叱咤の声を浴びせられるところだ。
しかしここではそれがない。
叱咤されなければ気合いが入らないような人間は、そもそも特練に招かれないからだ。ここに集まるのは警察剣道の全国大会への出場を狙う猛者達だけなのである。だから聡子は自分で自分を叱咤した。
「おらおら、もっと気合いを入れろ!」
身体を十分にほぐして筋を伸ばし、顔をぱしんと叩いて竹刀を握り、素振りをして防具を着けた。
面を着け籠手を嵌めると、挨拶もせずに道場中央の練習の列に加わる。
かかり稽古で面、胴、籠手をひたすら打ち続け、打たれ続けていく。そうして汗が一絞りほども流れると、ようやく身体が本調子になってくる。
練習に特別なものは存在しない。相手を変えつつ、ひたすら竹刀を構え、撃つ、打つ、撲つを繰り返すだけだ。
身体が動く限り撲ち、隙がなくても打つ。
早く、速く、疾く。相手の動きに、呼吸に、剣の先端の動きに注意を払い、爪先に力を込め、掛け声と、打突の音と、床を踏み打つ音の三つが見事に揃った瞬間の爽快感は、魂が震えるほどだ。
「突き!」
研ぎ澄まされた剣尖の一撃が、対戦相手の喉垂れに突き当たった。
その威力は小柄な彼女をして大男を大きく仰け反らせる。
時には相手が尻餅ついてぶっ倒れるほどだ。この瞬間、日頃の勤務で溜め込んだありとあらゆる種類の不平不満・ストレスがすっきりすっかり抜けていく。
「これだから剣道って辞められないのよね」
もやもやとした思考の滞りが薄れていく中、聡子は竹刀を振りながらそう考えていた。
〇八二五時(三時間二十五分前)
早朝の特練が終わると、シャワーで汗を流し、制服を身に着ける。
女性警官としての服装を整え終えた聡子は、所属する地域課へと向かった。
「よおっ、昨日はどうだった?」
「なかなか面白かったぜ」
見ると男性警官が二人、廊下で談笑している。
その姿を見た聡子は二人の距離の微妙な近さが気になった。二人の距離が不自然なまでに近く感じられたのだ。
互いに向かい合って微笑み合っているだけだというのに、それを見ている自分の身体が突如何やら熱くなってくる。昨夜、不意に見せつけられてしまった男同士の組んず解れつする漫画の一コマが何故か想起されてしまった。
「……」
そんな聡子に同僚達が声を掛ける。
「どうしたの聡子、顔が赤いわよ」
「もしかして熱中症? ちゃんと稽古が終わった後、水分取った?」
「流した汗の分だけ、水分を取っておきなさいよ」
三人はそれぞれ担当する課へと別れていった。
「聡子、行くわよ」
そして同じ課の同僚が早く行こうと誘う。
聡子が所属する地域課は、要するに交番にいるお巡りさん達がいる所だ。彼らは一旦ここに集合して、それから各交番へと赴くのである。
「本日は土曜日です。銀座中央通りは歩行者天国が予定されています。大勢の行楽客が予想されており、晴海通りとの交差点付近の交通整理は特に注意が必要かと思われ……」
朝、勤務の開始時刻になるとまず上長から指示を受ける。
「本日の夕方には、旅券申請をまとめますので、団体旅行に参加する者は申請の各書類を担当者まで提出すること」
課長補佐からは雑務についての連絡を受け、そして最後に課長からの訓示めいた言葉を受ける。
「天気予報によりますと、本日も気温が高くなりそうです。当然のことながら熱中症で倒れる行楽客も多く発生することでしょう。諸官は助ける側です。それが助けられる側に回っては恥だと思ってください。水分の補給等しっかり自己管理をして、職務に当たってください」
「はいっ!」
全員が声を合わせて返事をする。
「さ、行くよ」
聡子は同僚達の声に笑顔で応える。
こうして今日という一日が始まったのである。
昨日の築地警察署は、一昨日とほとんど同じであった。
ならば今日もまた昨日と同じような一日になるだろう。忙しなく働き、そして時間が来たら交代して一日を終える。
警察官を職業とした彼らは、そんな毎日を一年、三年、十年と続けていくことになる。
やがて時を経て定年の時を迎えるのだろうが……そこまで先のことはあまり深く考えてはいない。少なくとも今日という一日は、そんな遠くない過去から、そんな遠くない未来まで続くと約束された人生の中で、それほど大差のない連続した一コマに過ぎないはずなのだ。
聡子をはじめとするここにいる警察官の多くは、今日一日の始まりをそんな漠然とした感覚で捉えていたのである。
* *
道と道が交わる一点を、交差点ないし十字路、あるいは四つ辻と呼ぶ。
互いの往来を妨げ合いつつも、同時に、進むべき先を唯一無二の一つから三つへと広げる可能性の接点に、古の人々は様々な意味を見出し与えてきた。
その一つが「四つ辻は異界に通ずる」というものだ。
人々が往来し、賑わい、そこを起点に街が発展して賑やかになっていく。そんな人々を引き寄せ、富をもたらす道には、何か不思議な力が備わっていると昔の人は考えたのだろう。そのため葬列が四つ辻に差し掛かると銭を撒き、厄払いとして人々に拾わせた。
平安時代においては、陰陽師や、霊的に力があるとされる者が結界を張り、あるいは力士などが四つ辻で四股を踏んだ。それらは『辻』を起点に邪な何かが都へと侵入することを防ぐためだったのだ。
銀座中央通りの名で呼ばれる道がある。
地図で見れば、この通りは国道十五号線が北東部から南西へと向かっているに過ぎない。そんな通りならば日本全国どこにでもある。
しかし偶然かそれとも何かの目的あってのことか、この通りが鬼門から裏鬼門へと真っ直ぐに敷かれ、直交する道によって七つの四つ辻が構成されていることに気付くと、この通りが日本でも特別な存在になったのも然もありなんと思えてくる。
銀座とはそもそも江戸時代、銀を用いた貨幣の鋳造を行っていた場所、〈座〉のことだ。それが明治維新以降、人々の往来を妨げていた木戸が廃止されると、一躍繁華街の代名詞となるほどに発展し、現代日本で最も地価の高い場所となったのである。
銀座が本来の意味を離れて繁栄する商店街の象徴となり、その名を借用した街があちこちに作られることになったのも、この四つ辻の連なりに何か特別な力があったからだろう。
この七つの辻の連なりの中心、全ての中心に位置しているのが、銀座四丁目交差点であった。
この四つ辻は東西南北に位置する四つの建物によって構成されている。北に輪堂本館。東に越久百貨店。西に藍光ビル。南に銀座ビアホール・ビル。
この四つの建物によって作られた四つ辻こそが、銀座の重心点――異世界へと通じる接点なのである。
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