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外伝4白銀の晶姫編

外伝4白銀の晶姫編-2

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   02


 レディ・フレ・ランドールの人生は生まれた時から順風満帆じゅんぷうまんぱんであった。
 皇帝の一族。皇姪こうてつ
 皇弟こうていブレンデッド・ソル・ランドール公爵の娘。
 彼女に付随する様々なステータスが、その穏やかさを支えた。
 大人達からはちやほやされ、大勢のメイド達にはかしずかれる。喉がかわいたと訴えれば、美味しい果汁を満たした杯がたちまち運ばれて来たし、欲しいモノはすぐに手に入った。要するに欲を抑える、耐えるといったことを必要としない環境で育ってきたのだ。
 しかし、人間そんな育ち方をしたら、当然まともな人格を得るのは難しくなる。
 我慢や忍耐を知らないとなれば、いくら帝国貴族であっても、軽蔑けいべつされ、疎外そがいされてしまうものだ。
 そのため彼女の父は、レディの人格のとうに工夫をらした。しつけや基礎的な学問の教師を付けるばかりでなく、歌舞かぶ音曲おんぎょくに秀でている者を集め、彼らから高評価を得られるようにとレディに命じたのである。
 おそらくは厳しい指導と鍛錬とが、高邁こうまいかつ品位ある人格の基となることを期待したのだろう。
 そしてレディも父の希望に応えるよう努力した。ただし、その方向性は右斜め上、彼女の父が期待したものとはいささか異なるものとなった。


「お、お嬢様が悪いんです!」

 これぞと選んだはずの教師が、ことごとくレディに買収されてしまうのである。
 教師も人間であるからには虚栄心きょえいしん栄達欲えいたつよくがある。物欲ならなおさらだ。
 レディは相手が内心で欲している物を読み取る才にけていた。そしてそれらをほのめかし、あるいは実際に贈って、たちまち教師達を意のままに操るようになった。
 要するに、向上心や努力とは異なる方法で、高い評価を獲得することに成功したのである。
 もちろん実際の能力と評価との落差が大き過ぎれば、逆に自分の立場を失うことになると教師達も分かっている。だが、人間とはどうにも目先の欲に飛びついてしまう生き物である。加えて自分に対する過信も悪く働いたというべきだろう。
 教師達は、後から少し余計に頑張がんばれば(教師としては「頑張らせる」だろう)取り返しがつくという楽観論に立って、とりあえず目の前の小さな問題には目をつぶった。
 その結果、それらの累積るいせきが手に負えなくなるまで大きくなってから自分が破滅に向かって突き進んでいたことに気付くという、ある意味まじめな人間が転落するというか、はたまた好成績を挙げていたはずの企業がある日突然破綻はたんするといった道程の典型例に、皆が陥ったのだった。
 先のさけびは、馘首かくしゅを言い渡された教師達が決まってこぼす捨て台詞だ。教師達としても自分を破滅に導いた小悪魔について、そう発言せずにはいられなかったのだろう。

「その才覚と熱意をお稽古けいこにお向けになればよろしいのに」

 これは、そうした一部始終を見ていたランドール家の執事しつじヘンリーの呟きである。
 対する当時十歳のレディの返事は、「だってお稽古なんかよりよっぽど面白いんですもの」であった。レディはこの頃から他人を『手段』として操作する才覚の片鱗へんりんを見せていたのだ。
 そんなレディである。社交界にデビューしてからの彼女の活躍は、当然の如く皆の注目と関心を集めていくこととなる。自分より上と見るやおとしめて引きずり落とし、逆らう者は徹底的にいじめ抜いて見せしめにした。さらには権力や弁舌べんぜつ、その他様々な力を動員して周囲に心服しんぷくを強いたのである。
 こうしてレディは、同年代の女性貴族の間で着々と権力地盤を築いていった。
 ブレンデッド・ソル・ランドール公爵は、そんな娘にいつくしみとある種の諦念ていねんの混ざった複雑な視線を向けながらこう告げた。

「帝国を支配する我が一族の宿しゅくからは、女として生まれても逃れられないというわけか。よかろうレディ、お前がそういう生き方を望むのならばわしはもう何も言うまい。好きにやるがよい」

 そこで「絶対に越えてはいけない一線がある」とか「程度をわきまえよ」といった訓戒くんかいを与えないあたり、ブレンデッドも良い感じに宿痾患者かんじゃである。このような父の言葉に励まされたレディは、ますます自らの勢力拡充に力を入れていったのだった。


 レディは、長ずると共に自他共に認める帝都社交界のオピニオンリーダーとなった。
 彼女が認めるものが認められ、彼女が認めなければ皆がそれを受け容れない。そんな雰囲気が帝都の貴族社会に満たされていった。
 だがある日、彼女の手には負えない大嵐が吹き荒れた。
 ゾルザルという男の破壊的な暴力が、彼女の力など何の役にも立たないということを周囲に知らしめたのである。そして、その大嵐が過ぎ去った後に残った風景は、以前とはガラッと変わっていた。
 ピニャ・コ・ラーダという従姉妹いとこが率いる、レディから見ると風変わりな武張ぶばった女達が、帝国の貴族社会に一大勢力を築いていたのだ。


「パレスティー侯爵閣下、並びにご令嬢れいじょう入来にゅうらい!」

 ここは、シゴリス王国のエベレス王太子の婚約披露祝賀会場。そこにパレスティー侯爵と、その娘のボーゼス・コ・トミタが並び立って入場してきた。
 そんの座を得るであろうピニャの側近中の側近。そしてレディにまつろわぬ女達、すなわち薔薇騎士団ばらきしだんにおける代表格だ。
 人々の視線はそんなボーゼスに、否が応でも引き寄せられていった。

「ボーゼス様、前よりもいっそう美しくなられたのではなくって?」
「きっと神々の祝福をお受けになったからね。ああ、なんて素晴らしい!」

 出産し、結婚し、さらには神々の祝福を得て自信を深めた彼女のあでやかさは豪奢ごうしゃこの上なく、レディですらため息をついてしまうほどだった。

「明日には、アルヌスに戻られるらしいから、ご挨拶あいさつしてなんとしても名前を覚えて頂かないと」

 皆がパレスティー侯爵のところに行ってしまう。かつてパレスティーの名を聞いただけで顔をしかめていた人々は、もうどこにもいないようであった。
 レディの胸中に嫉妬しっとを代表とする不快感のカクテルが込み上げてくる。
 これまでのレディだったらこのようなことは決して許さない。ボーゼスをいじめるばかりか、パレスティー家を零落れいらくさせようと、あの手この手の誹謗ひぼうを試みただろう。
 だが、もう勝負はついていた。帝都に始まって、アルヌスで終わった彼女との戦いは、レディの完敗であった。レディは心にさざ波が立っていることを周囲に気取られないよう会場の壁際に引き下がり、皆に背を向けるしかなかった。


「ヴェスパー、うわさを聞いたかい?」
唐突とうとつになんだブザム? エベレス王太子の婚約者マスミ嬢が、実はクラ男爵の愛人だったという話なら知っているぞ」
「ち、違うよ! ってその話ホントかい?」
「若干の訂正がある。『だった』ではなく、現在進行形で愛人だ。二人とも別れるつもりはないようだ」

 彼らのそんな声が聞こえたのは、主役の座を奪われたレディが、くやまぎれに料理をぱくついていた時である。
 盗み聞くつもりはなかったが、二人の会話がつい耳に入ってしまった。
 ボーゼスと歓談しているエベレス王太子の屈託くったくのない笑顔を見て不愉快さを感じていたが、それを聞いてなんだか胸がすうっとした。王太子の隣にいるマスミの肩を叩いて、上手くやったわねと称賛しょうさんしたくなる。

「ふむ。その話でないとすると、貴公が気にしているのはピニャ殿下についての噂か?」
「そうだよ。皇帝陛下より皇太女府かいのお許しが出たと聞いた。陛下もとうとうご譲位じょういを決意なされたらしいね?」

 そうっと声の主を盗み見る。すると貴公子然とした黒髪の長身ヴェスパー・キナ・リレ男爵と、栗色の髪をした軽薄そうなブザム・フレ・カレッサー勲爵士くんしゃくしの姿が見えた。

「はっ、なげかわしい話だ!」
「まあ、そう声を荒らげるなよ、ヴェスパー。ゾルザル、ディアボの両殿下が皇位継承争いからご脱落遊ばされた今、帝位を継ぐに相応ふさわしいのはピニャ殿下しかいないんだから。もちろん僕とて、女性が至尊の座を占めることに思うことがないわけじゃないよ。けど殿下が先の内乱で示した手腕は、性別なんて要素をさっ引いたとしても、認めないわけにはいかないと思わないかい?」
「もちろん認める。あの方には軍才がある。だが私はピニャ殿下が帝位を継ぐことには反対だ」
「どうしてだい?」
「ピニャ殿下には、帝位を継ぐ正統性がないからだ」
「口をつつしんで欲しいよ、ヴェスパー。僕は友達を不敬罪で失いたくないんだ。その言葉は聞かなかったことにするから、君も言わなかったことにしておくれ」
「分かっている。聞いているのはお前だけだから言っている」

 わたくしもいるのですけれど……レディは思わずそう言って二人の肩を叩きたくなった。きっとさぞ青くなって、現皇帝の姪である自分に、口外しないで欲しいと頼んでくるに違いない。だが、ヴェスパーは、まるでレディに聞かせるかのように話を続け、レディに口を挟む隙を与えなかった。

「本来ならばモルトの後継はピニャ殿下ではなく、前皇帝グレーンの遺児いじにして皇帝正統の血筋直系のカティ殿下であるべきだ」
「そうだね。そもそも現皇帝モルト陛下の登極とうきょくは、グレーン陛下の死後、まだ幼かったカティに至尊しそんの座を引き渡すまでの、いわば中継ぎが目的だったわけだし」

 二人が話し始めたそれは、多くの者が帝国の近代史として教師から学ぶものだった。
 だが、レディにとっては親戚の内輪話として、父や様々な縁者から伝え聞いた内容でもある。それによればモルトは先代皇帝のグレーンの弟にあたり、帝位の次代継承者とは見なされていなかった。グレーンにはちゃくのカティがいたからだ。
 だがグレーンが早世そうせいしたことで状況が一変した。遺児のカティはまだ十四歳だったのだ。
 皇帝は元老院げんろういんから権限をしょくされて登極する存在だ。つまり他所よその王国のように、摂政せっしょうのような全権を代行する者を置くことは許されず、当人に統治能力が無いなら別の者を皇帝に立てるべきとされる。
 そして十四歳の若者には帝国の全てをになう力はないというのが、元老院議員や大臣達の一致した見解であった。
 しかしながら先代グレーンの業績は偉大いだい過ぎた。
 積極的に征服事業を展開して帝国のはんを最大にまで押し広げ、これまで敵対していた列国を属国あるいは同盟国として従えた。帝国の最大の栄光はまさにグレーンによって築き上げられたと言えるのである。
 世襲せしゅう制社会では、傑物けつぶつの気性や才覚は子孫にも受け継がれやすいと考えられている。
 日本人でも高名な歌舞伎かぶき役者の子弟ならば、名優に違いないと思われてしまうのと同じだ。先達の才能と薫陶くんとうよろしきを得ているからこそ、人々の期待と支持も集まりやすい。
 さらに、カティはその年代の若者らしい特有の思考形態により、責任感(と権利意識)が過剰なまでに旺盛おうせいであった。それゆえ、佞臣ねいしん共が父の遺産と帝位を奪うつもりだと騒ぎ、それを聞いた帝都の市民達が殺気をはらんだ顔つきで元老院を取り囲むまでに到ったのである。
 元老院はこの事態にきゅうした。いくら当人にやる気があろうとも、その小さな身体に国家という重荷を負わせるのは、虐待ぎゃくたいに等しい。
 そのため元老院はカティが成人し、重荷を背負うことができるようになるまでの間という条件で、継承順位でカティ以下であったモルトに皇位を託した。
 そしてカティが成長後に、モルトから円滑に権力の禅譲ぜんじょうが受けられるようにと、彼をモルトの養子とすることで市民達をなだめたのである。
 つまりモルトの立場はあくまでも一時的な中継ぎだった。それを確認する法律まで制定されたほどだ。

「けど、カティ殿下はご薨逝こうせい遊ばされたじゃないか。ならば皇帝の継承はモルト陛下の血筋に移るのが当然で……そういうのを死児のよわいを数えると言うのだよ」

 そう、カティは夭逝ようせいした。グレーン直系の男児はこれで途絶え、皇位はモルトとその子供に継承されていくこととなったのだ。

「カティ殿下は、モルトに謀殺ぼうさつされたという噂がある。権力の味を知ったモルトが、才能に溢れたカティ殿下に皇位を譲り渡すことを惜しんで責め殺したのだとな……」
「しっ……いくら何でもそれ以上は口にしてはいけない」
「いや、折角せっかくだ。私の思いを知っておけ。私は帝国の今の惨状さんじょうは、モルトの責にあると見ている。無茶な出兵や、内乱……全てモルトが正統性を欠くが故に起こった。つまり、そのことを自覚しているモルト自身が、功をあせって余計なことをして、帝国に害をもたらしたのだ。カティ殿下がご存命で、モルトが本来の役目通りにご譲位していたら決して起こらなかったことだ。そうは思わぬか?」
「聞かない。聞きたくない」

 ブザムは両耳を手で覆ってヴェスパーの話を拒絶した。

「分かった。ブザムがそこまで拒むなら話題を変えよう。貴公はカティ殿下に遺児がおいでだったという噂があるのを知っているか?」
「ど、どういうことだい?」
「カティ殿下とてそれなりに異性との付き合いがあった。次代の皇帝たる立場が約束された身だ。周りの女達も放ってはおかなかったということだろう。そんな女性達の中にカティ殿下のお子を授かった娘がいたとしても、不自然ではあるまい?」

 その言葉にレディは戦慄せんりつした。モルトの皇位継承は中継ぎで、グレーン直系が成人した暁には速やかに禅譲されるとする法律は未だにはいされていない。
 つまり、もしヴェスパーの言葉が本当なら、その子供はピニャどころかモルトの立場すらおびやかすことになるのだ。

「その娘が産んだのは女児だったらしいがな」
「なあんだ姫君か」
「なあんだじゃないぞ、ブザム! 女性であるピニャ殿下に皇位の継承が認められるのなら、そのカティ殿下の遺児だって、皇位継承の権利は主張できることになるんだからな」
「た、確かにそうだね。……けどピニャ殿下は、他に人がいないという理由で立太子されたわけではないよ。あまいるモルト陛下のお子達からあの方が抜擢されたのは、内乱平定の功績があるからだ。だから前例のない、女帝登極という将来を元老院も受け容れたんだ」
「ピニャ殿下を語る時、皆がその功績を口にする。だがそれはグレーン陛下の嫡流という正統性に匹敵するだろうか? 勝利したといっても所詮は兄妹喧嘩きょうだいげんかだ。あの方が対外的になさってきたことと言えば、敗北を認める講和条約締結を推し進め、亜人達を貴族や元老院議員として招き入れるという……いわば売国行為だ。知っているか? ニホンとの条約の一項に、帝国領内の鉱山の開発権譲渡がある。これは神聖なる帝国の領内にニホン人どもがずかずかと入り込み、ハーディの恵みたる地下資源を勝手に奪っていけるということなのだぞ!」
「そ、それはそうだけど、あの状況で我が帝国に他の選択肢はあったかい? ニホンの圧倒的な力の前に何ができた?」
「分かっている。他に道がなかったことは私も認める。だが状況は大きく変わった。奴らは祖国との繋がりを断たれている。今が好機なのだ」
「好機?」
「アルヌスを奪い返すべき好機だ。そして全てを無かったことにする」
「講和条約を破棄するというのかい!? そんなことしたら帝国の威信は失われて……」
僭主せんしゅモルトの名で交わされた条約に、何の正当性がある?」
「僭主って、そんな過激な……」
「確かに、あの状況では講和以外の選択肢はなかった。だがいくら正しい判断でも、正しい立場にある者によって決定されなければそれは正当性を失う。皇位の継承は正統性が重視されなくてはならない。女性が帝位に就くことが許されるなら、女性であってもカティ殿下の血筋を立てることこそが正義なんだ」

 問題発言の数々にレディは眉根を寄せていた。彼らが口にしているのは、こういう場所でははばかられる内容なのだ。
 とはいえ二人の憤りは理解できなくもない。いや、彼らの言っていることは至極正論だと思った。
 何よりも激しく同意したいのは『ピニャが帝位を継ぐのは間違っている』ということだ。それだけは誰に聞かれても、声を大にして賛同したい。
 アルヌスで行われた棒倒しの際、どさくさ紛れにピニャをめんしたこともあってか、レディはもうその気持ちだけは隠すつもりもなかった。

「わたくしがカティ殿下の遺児だったら良かったのに」

 もしそうだったら彼らが言うように、帝国の次代皇帝の座を引き継ぐ権利を主張できる。自ら至尊の座を争うレースに名乗り出て、ピニャと堂々と渡り合う資格を得ることができる。そうすればボーゼスなどに大きな顔をさせないし、貴族達が自分から離れていくなどという屈辱くつじょくを味わわずに済むはずだ。

「馬鹿みたい。いくら考えても仕方のないことなのに……」

 レディは、そんなことを繰り言のように考えてしまう自分を恥じた。
 変えられないものと変えられるものとを見極めるえい、変えられないことを受け容れる勇気。その二つが人生に勝利するための重要な要素だと、父のブレンデッドだって何度も何度もレディに語って聞かせていたではないか。
 そう、こればっかりは変えられないことなのだ。



   03


「ただいま」

 夜会を終えてレディが屋敷に帰ったのは、夜もすっかりとけた頃であった。

「若い娘がこんな時間まで遊び歩いているのは感心しないね」

 父ブレンデッドからそのようなお小言をもらわなくなったのは、いつ頃からだろうか。薄暗い玄関に入り、外套がいとうを脱ぎながらレディは思った。
 おそらくは、帝国で成人したと見なされる十五歳を超えた頃からではなかったろうか。
 父の小難しい顔を見ないで済むようになったのはありがたかったし、おかげでエファン伯爵家のディタとの密会を楽しむこともできた。だが、それと同時に、もしかして父から見限られてしまったのかなという寂寥感せきりょうかんもあって、そんなところが身勝手だなと思ったりもしてしまう。

「親離れできない娘ですね」

 社交界の御山の大将を気取っていても、所詮自分は親の庇護ひごの下でぬくぬくとやっているに過ぎないという自覚がレディにはあったのだ。
 そんなことを考えていたからだろうか、レディは屋敷の異変に気付くのに遅れてしまった。
 メイド達が誰も迎えに出てこないのだ。いつもなら帰宅すると三、四人すぐにやってきて、レディの外套がいとうを受け取って、香茶を差し出してくれるはずなのに。

「どうしたのかしら?」

 レディは脱いだ外套をどうしたものかと一瞬迷って周囲を見渡し、ゆかに放り捨てる。そして数歩、暗い廊下を進んだところで、けわしい表情のメイド長のピノと向かい合うこととなった。

「お嬢様、お嬢様」
「一体どうしたの?」
「すぐにおいで下さい。旦那だんな様がお待ちです」
「なによ。久しぶりにお小言?」
「違います。すぐに!」

 ここまで急かされれば、レディも事態が切迫していると理解する。

「お父様に何か!?」
「説明は後で。今はお急ぎを!」

 レディはスカートをたくし上げると、ピノに続いて廊下を走った。

「お父様!」

 悪い予感は強くなる一方だった。
 父の寝室前の廊下では、使用人やメイド達があちこちに座り込んでむせび泣いている。レディは、最悪の事態を考えて立ち止まってしまった。

「レディ様、急いで」
「え、ええ」

 戸惑いつつ寝室に入ると、寝台に横たわる父の真っ青な顔が目に入った。
 まだ医師がいて、当主付のメイドが寝台を取り囲んでいる。

「旦那様、お嬢様がお戻りですよ!」
「おお、レディ。間に合って……くれたか」

 父のあえぐような声が聞こえた瞬間、レディはメイド達をき分けて父にすがり寄った。

「お父様、なんで? どうして?」

 父の手が伸びてきてレディの手を握った。もしかして力一杯握っているのかも知れないが、レディには触られている程度にしか感じられなかった。
 ブレンデッドは胸を掻きむしらんばかりに苦しがっている。

「今朝はいつもと変わらず元気だったのに何故? 一体何があったのです?」
「元気だっただなんて……前々から何度か発作ほっさを起こされていましたし、危ないことは既にお伝えしていました!」

 侍医じいの言葉の端々に含まれる言い訳めいた響きを耳にした瞬間、レディの体内に怒りが満ち溢れて思わず手を上げた。
 だが父ブレンデッドはそんなレディをたしなめた。

「医師を責めてはならん! わしが黙っているように求めたのだ。これはこれまでの悪行の報いだ。儂はもうハーディの御許に参ることを受け容れている。冥府めいふでは父上や兄様が待っているからな。ただこの痛いというか、息が止まりそうな苦しさには閉口するがな……ふふぐふっ」

 ブレンデッドは笑おうとして失敗した。そしてピノの差し出した杯に口をつけ、痛み止めとおぼしき薬をすすった。

「そんなことおっしゃらないで。お父様に冥府に行かれたら、わたくしは独りぼっちになってしまいます。そしたらどうしたらいいの?」
「大丈夫だ。お前ならやっていける」
「嫌です。お父様、お父様、ああ、誰か何とかして!」
「お前に会いたかったのは、一言礼を告げておきたかったからだ」
「礼だなんて!」
「レディ、ありがとう。儂の人生はお前と出会った時から始まった。それまでの儂はただの放蕩者ほうとうものだった。皇弟。何の役にも立たぬ部屋住みという立場にいていた儂は、生きながら死んでいた。だが幼いお前を引き取ったあの時から、儂の人生はよみがえった……お前が美しく気高く育つのを見るのはとても楽しかった。本当にありがとう。詳しいことは遺言ゆいごんに記した。お前を助けてくれる者もそこにいる」

 父は部屋の入り口のかたわらを指差す。そこには何故かヴェスパーとブザムが並び立っていた。

「その二人と、リーガー男爵に頼りなさい。何事もよく相談して決めるように」

 レディは二人を見て、どうしてこの二人が夜会の席で聞こえよがしな話をしていたのかを直感的に理解した。
 皇弟ブレンデッド・ソル・ランドール公爵の娘。彼女の穏やかな人生を支えていた最大の肩書き。決して変えられるはずがなかったもの。それが今、大きく書き換えられようとしていることを、レディは父を失いつつある恐怖の中で悟った。

「レディ……」

 養父は養女の手を渾身こんしんの力で握りしめる。

「遠慮はもうせんでもよい」
「遠慮なんて……」

 していない、とレディは言おうとした。

「儂が気が付かぬと思ったか? よく獅子じしの子は雄だろうと雌だろうと翼獅子だ。並び立つ者を許さないグレーン兄の気性はしっかりと受け継がれている。やはりお前はカティの子なのだな」
「ああ、お父様……」
「だが大丈夫だ。お前は、もう簡単につぶされる赤子ではないのだから。思いっきり……やるが……よい。コロナ……儂は、君との約束を果たしたよ」
「お父様!」

 レディの手を握っていた父の手が布団に落ちたのは、その直後のことだった。


    *    *


 帝都皇城の北宮には、歴代皇帝とその一族が眠る廟堂びょうどうがある。
 それは皇城の本宮殿に匹敵するほどの壮麗そうれいな建造物で、大理石で造られた柱が林立して重厚な天蓋てんがいを支えていた。
 各所には神々や様々な植物をかたどった精妙せいみょうな彫刻がちりばめられていて、荘厳そうごんさでは主神達を祀る各地の神殿に勝るとも劣らない。
 皇弟ブレンデッドのひつぎは、その墓所の一画に納められることとなった。
 棺を包んでいた帝国の黒旗とランドール公爵家の紋章旗が、ヴィフィータ率いる騎士団親衛隊じょう兵の手でたたまれていく。

「冥府をべる神ハーディよ。この者の魂を御身の手にゆだねます。冥府での安息の日々をお与え下さい」

 ハーディ神殿の神官達の手により、ブレンデッドの亡骸なきがらが納められた棺がゆっくりと暗い穴蔵へ下ろされようとしていた。
 黒い喪服もふくに身を包んだレディが棺の上に花束を載せると、分厚ぶあつ墓碑ぼひがそのままふたとして被せられていく。
 列席者達もレディに続き、次第に狭まっていく隙間へ次々と花を投じていった。
 やがて石の蓋が完全に閉じられると、神官長が儀式の終了を告げた。


 葬儀そうぎを終えた廟堂。そこには、墓碑に刻まれた父のレリーフを愛おしむように撫でるレディ、そして車椅子に座った皇帝モルト、皇太女ピニャ、そして皇帝付お世話メイドとなったメデュサ種のアウレアが残っていた。
 モルトの車椅子は、自衛隊がアルヌスの診療施設に備品として用意していたものだ。皇帝がイタリカから帝都に戻る際に貸し出され、便利なのでそのまま使い続けている。

「レディ。そろそろ参ろう」

 モルトは、墓石を涙で濡らす姪に呼びかけた。

「……はい。陛下」

 よろよろと立ち上がり、振り返ったレディの目は真っ赤であった。
 車椅子の皇帝は、背筋を起こしたレディを慈愛じあいに満ちた顔で見上げた。

「レディ、お前は今後どうする?」

 レディには即答できなかった。養父を失った悲しみに暮れる彼女は今、事態を受け止めるだけで精一杯。今後のことを考える余裕などなかったのだ。

としては、お前を列国の王室にきさきとしてとつがせようかと考えている」

 それがレディにとっては幸せに繋がるだろうとモルトは続けた。
 レディは混乱した。急に言われても困るのだ。
 列国の王妃になれるなら良い話だとは思う。だがレディの心は今、千々ちぢに乱れている。重要な決断を下すには相応しくない状態だ。

「陛下。今、わたくしは……」
「それ以外にどのような道がある? 黄泉よみのブレンデッドを安心させてやれ」

 折しも皇帝の背後には、先代皇帝のグレーン、そしてその遺児カティの墓碑が置かれていた。
 自分が実はカティの子だったという事実は、未だにレディにはしっくりこない。
 カティの娘として、皇室正統を主張して至尊の座を目指すべきだとヴェスパーやブザムは言うが、墓碑を見ても何の感慨かんがいも湧かない。居並ぶ祖先の墓碑と同じようにしか感じられないのだ。
 それに対して養父の墓碑を振り返れば、悲しみを含んだ感情がせきを切ったように溢れてくる。
 そのことからレディは、実際はどうあろうとも自分はブレンデッドの娘だと思い知った。ブレンデッドの娘であるなら、モルトの言葉に従って帝国を去り、どこか豊かな国の王妃として贅沢な日々を過ごすほうが収まりも良いかも知れない。

「そうですね」

 レディは、呟くように答えながら自分の心が弱っていることを自覚した。
 亡父を安心させてやれ。そんな言葉で納得してしまうのも、カティの遺児という事実を受け容れたくないから、ブレンデッドの娘という立場に縋り付いていたいからだろう。

「では、余が適当な嫁ぎ先を見つけてやる。繰り返して問うが、それでよいのだな?」
「あ、いえ……その」

 この時、レディが返事を躊躇ためらったのは、もしかすると彼女の体内を流れるグレーンに繋がる血がそうさせたからかも知れない。並び立つ者の存在を許さない覇者はしゃの血が、戦わずに屈服くっぷくしてしまうことを全力で拒否したのだ。

「どうした? 何かあるのか?」

 そこへ、レディを窮地から救う声が響いた。

「父上。レディが困っています。別に反対するつもりはありませぬが、いささか性急に過ぎるかと。もう少し落ち着いてからにしてはいかがでしょうか?」

 ピニャであった。
 するとモルトも我に返ったかのように、自らのうなじを叩いて苦笑した。

「そうだな。言われてみれば今日すべき話ではなかった。レディ、すまなかった。許せ」
「いえ、伯父上のお言葉もわたくしの将来を案じて下さってのこと。感謝こそしてもそれをいとわしく思うことなどどうしてございましょうか?」
「そうか。そう思ってくれるか?」
「はい」

 どうやら今、決断を強いられることだけは避けられたようだ。レディは安堵したようにため息をつくと、自分を庇ってくれたピニャに小さな黙礼をしたのだった。


 皇帝達と別れると、レディは一人廟堂の外に出た。
 外では分厚い雲が天を覆い、雨が降っていた。くすんだ色の空から降り注ぐ冷たい雨と空気に、レディは軽く身震いする。今年の冬は寒くなる。そんな予感がした。

「レディ様、この度はご愁傷様しゅうしょうさまでございます。馬車のお支度したくができています」

 見ると、ヴェスパーとブザムの二人が外でかさを差して待ってくれていた。
 馬車はレディが乗り込むと、車軸をきしませながらゆっくりと動き始める。

「ありがとう。二人のおかげで葬儀を終えられたわ。あとはハーディに参詣さんけいして終わりよね?」

 改めてレディは頭を下げた。二人は、どうして良いか分からずに途方に暮れていたレディの代わりに、葬儀のこまごまとした実務を引き受けてくれたのだ。

「どうしてそこまでしてくれるの?」
「もちろん、貴女に正統を取り戻して頂きたいからだ」

 ヴェスパー・キナ・リレ男爵はやや冷淡な口調で事情を説明した。
 ヴェスパーは帝国枢密院すうみついん書記局の分析官である。枢密院書記局とは情報機関であり、普通ならば表に出ないようなことも知る立場にある。そのため帝国の現状に危機感を抱いており、それがレディに期待する動機だということであった。

「僕の場合は、レディ様が心配だからかな?」

 ブザム・フレ・カレッサー勲爵士くんしゃくしは、帝都で犯罪捜査を担当する衛士隊えいしたいの警部だ。

「もちろん最終的には立身出世が望みだけどね」

 いわゆる平民から取り立てられた成り上がりで、さらに上を狙っている。ただ出身身分が低いことが足枷あしかせとなっていた。そこをレディに引き上げてもらいたいと言うのだ。
 この二人が、亡父がレディに残してくれた支えである。しかしレディは、この二人に何もかもを頼るという気持ちにはなれなかった。二人とも自分達の好む方向にレディを誘導ゆうどうしようという姿勢が強過ぎるからだ。

「レディ? もしや皇帝から何か話があったのか?」

 ヴェスパーはレディの顔を見ると、何かあったであろうことを一目で見抜いた。

「外国の王室に嫁いではと、持ち掛けられましたわ」
「早速貴女をこの国から追い出しにかかったか。まさか承諾してしまったのではあるまいな?」
「ピニャが早過ぎると止めてくれました」
「それは僥倖ぎょうこうだ」

 ヴェスパーとブザムは胸を撫で下ろした。
 だがレディは、二人のようには考えていなかった。他国に嫁ぐのは決して悪い話ではないからだ。
 皇族の序列は、皇帝にどれだけ近いかで決まる。レディは皇姪だが、ピニャの即位後は従姉妹となってその地位は今より一段階低くなる。しかもピニャとは仲が良いとは言えない。これまでのような我儘わがままも通らなくなるだろう。
 ならば、どこかの王妃となる方が権力と富貴を楽しめるのだ。
 レディがその旨を話すと、ヴェスパーが突然怒り出した。

「では、命じられるままに嫁いでしまうというのか!?」
「きっと後悔しますよ」

 皮肉そうに言ったのはブザムだ。

「後悔? わたくしがですか?」
「そうだとも。貴女は父君を失って弱気になっている。それだけじゃない。アルヌスの大祭典でピニャ殿下に正面から挑んで敗れたことから臆病おくびょうになっているのだ!」

 ヴェスパーに真正面から見据えられたレディは、しばしその強い視線を双眸そうぼうで受け止めた。だがすぐに目をらすようにそっぽを向いた。

「……そうかも知れません」
「レディ、奮い立て。そして帝国に正統を取り戻すんだ!」
「嫌よ! どうしてわたくしがそんな苦労を背負わなければならないの!?」
「それが公爵閣下のご遺言だからだ! 貴女のお側に我々を残した公爵のお心をみ取るべきです」
「嫌よ、わたくしは皇弟ブレンデッド・ソル・ランドール公爵の娘! わたくしはそのように言い聞かされて、そのように育ってきたのです。なのに今更違うだなんて……。お父様もお父様だわ! 今際いまわきわにお前は儂の娘ではないなんて、どうしてそんな勝手なことが言えてしまうの!?」
「そ、それは……」

 レディの悲鳴めいた訴えに、ヴェスパーやブザムは言葉を失った。
 父が遺した台詞にレディが傷ついているなど彼らには思いもよらないことだった。レディの日頃の言動を考えれば、喜び勇んで皇帝に立ち向かっていくだろうと思いこんでいたからだ。

「貴方達の顔なんて見ていたくありません! 親切には感謝してるけど、今はわたくしの前から姿を消して下さい……」
「だが……」
「お願いです」

 女性に哀願あいがんされては、ヴェスパーとブザムも黙って馬車から降りるしかなかった。


 レディを乗せた馬車は、ヴェスパーとブザムの二人を降ろすと、そのまま帝都郊外にあるベルナーゴ神殿の分社へと向かった。そこで父の魂を受け容れてくれた冥王ハーディに感謝の祈りを捧げるまでが、遺族にとっての葬儀となる。
 全てを終えて屋敷へ戻るころには、もう夕方になっていた。

「お嬢様、もうじきお屋敷に到着ですぞ」

 御者の言葉にふと我に返って窓の外を見る。空は雨雲に覆われたまま陰鬱いんうつさを一層増していた。
 まもなく屋敷に着くと言われても、心は少しも浮き立たなかった。家に戻ったところで、レディを迎えてくれる者は、執事や警備の兵、メイド達しかいないからだ。
 そんな状況は彼女にとっては独りぼっちと同じなのだ。

「お嬢様……大変です」

 そんな寂しさに浸っていると、御者の慌てた声が聞こえた。
 前方を見れば、道の先から黒煙が上がっている。

「えっ! どうして!?」

 道の先にあるもの……ランドール家の屋敷が炎上しているのだ。
 レディは馬車を屋敷前で停め、飛び降りるようにして屋敷に駆け寄った。燃え上がる屋敷の周りでは、メイド達が警備の兵や使用人達を手当てしている。
 メイド達はレディの姿を認めると、縋るように集まってきた。

「お嬢様! お嬢様! 大変です」
「一体何があったの?」

 泣きたいのはこっちだという思いを追いやり、レディは問いかけた。

「昼過ぎに、突然賊徒ぞくとが押し寄せてきて、お屋敷の財貨を片っ端から奪い去り、揚げ句に、屋敷に火を放っていったんです」
「賊って……ここは帝都なのよ!? ここは皇弟の屋敷なのよ! それなのにどうして!? ヘンリーは!?」
「あちらです」

 メイド達の指し示す方角へと走るレディ。するとピノや執事のヘンリーが横たわっていた。

「ヘンリー!」

 まだ息のあった老執事は、レディに弱々しく手を伸ばした。

「おお、お嬢様……」
「しっかりして!」

 ヘンリーはレディの手を握ると、譫言うわごとのように続けた。

「ああ、旦那様……お許し下さい……。わたくしめはもう……お嬢様をお守りすることが……できそうにありません……」

 忠実な執事は、そう言い残して息を引き取った。
 泣き叫ぶメイド達。黙祷もくとうを捧げる使用人達。
 彼女達の悲鳴ももはや聞こえず、レディはただ崩れるように座り込んだ。
 屋敷が灰燼かいじんす光景を前に、レディの心がうつろになっていく。

「あたし達どうなるのかな?」
「旦那様も執事さんも婦長様もいなくなって、公爵家も、もうおしまいよ」
「こんなことされたのも、お嬢様があちこちに恨みを買っていたからだわ」

 数名のメイドがそんな風にささやき合った果てに、屋敷からなんとか持ち出した家財に手を伸ばす。そしてレディの側から逃げ去っていった。
 立ち去る寸前に頭を下げていくだけまだマシかも知れない。
 警備の兵も使用人も、一人去り、二人が去って、レディを囲む人垣はどんどん小さくなっていく。
 老メイドがこれだけは守ろうと息絶えるまで抱きしめていたでんの文箱すら、メイドの一人が奪って去っていった。
 文字通りの独りぼっちとなったレディの身体を、冷たい雨が無慈悲に打ちつけていた。


    *    *


 屋敷の焼け跡に座り込むレディ。
 うち捨てられた人形のように、ぴくりとも動かない彼女に近づく足音があった。

「レディ様」

 ヴェスパーとブザムだった。
 虚ろな目で呆然と焼け跡を見つめていたレディが、ゆっくり口を開く。

「もう顔を見せないでと言ったはずよ……」
「貴女が心配で」

 雨で身体が冷えるのを少しでも防ごうと、ブザムがレディの肩に外套をかけた。だがレディはそれを拒絶して払いのける。

「貴方が心配しているのは正統とやらの血を引く娘でしょ? ここにいるのは帰る家もない、家族すらも失ったただの娘です」

 するとヴェスパーが言った。

「いいえ、貴女はカティ・ソル・カエサルが娘、レディ・フレ・カエサルだ。まずはそれをお認めなさい。そして至尊の玉座を手に入れるのだ」
「いやよ」

 ヴェスパーは乱暴にレディの顔を挟み持つと自分の方に向けさせた。

「お分かりか? そもそも屋敷がこんなことになってしまったのは、貴女がカティの娘だからだ」
「それは……どういうこと?」
「屋敷を焼いたのが、おそらくはモルトだからだ」
「ま、まさか……どうして?」

 ブザムが問いかけた。

「葬儀の場で、皇帝から何か問われませんでしたか?」
「何かって……」

 レディは葬儀を終えて帰るまでの、わずかな間に交わされた皇帝との会話を思い出した。


「レディ、ブレンデッドは何か遺言したか?」
「遺言ですか?」

 レディは口籠くちごもった。カティを謀殺したと噂されている皇帝に、「お前はカティの娘だ」と告白されたとは、さすがに言えなかった。

「ち、父は何も言いのこしませんでした。あまりに突然でしたので」
「そうか、弟は苦しまずに済んだのだな」

 モルトは安堵したように言った。だが実際には、ブレンデッドは心の臓を締め上げるような苦しみに長く耐えなければならなかった。そのことを否定することは、父に対する冒涜ぼうとくのような気もしたが、レディの生存本能が咄嗟に嘘を言わせたのである。

「遺言状は?」
「あるはずです。ですがまだ開いていません」

 これは本当のことだった。
 父がレディに言い遺したかったことの大部分はヴェスパーとブザムの二人から聞いていたこともあり、遺言状を開くのを先延ばしにしていたのだ。

「落ち着いたらパトロネのリーガー男爵に相談して、遺言状の封を切ろうと思っています」
「そうか……では、余のことで何か書いてあったら教えてくれ」
「はい。きっと」

 レディの語った皇帝とのやり取りを聞くと、ヴェスパーは「やっぱり」と吐き捨てるように言った。そしてレディの咄嗟のうそを褒めた。

「もし少しでも何か知っていそうな素振りを見せていたら、盗賊が襲ってきたのは貴女の帰宅後になっていただろう」
「そ、それって?」

 意味が分からないとばかりにレディが問うと、ブザムがんで含めるように説明する。

「皇帝陛下は、公爵の遺言状を貴女に読ませたくなかったのですよ」
「わたくしがカティの娘であると知られたくないから、こんなことをしたと?」
「それだけならばここまではしなかったはず。おそらくはもっと別の秘密を葬るためですよ」
「もっと別の秘密って……なに?」

 口籠もってしまったブザムに代わってヴェスパーが言った。

「レディ、公爵が、貴女をモルトの手からどうやってお守りしていたかご存じか?」
「いいえ……そもそもなんでわたくしが陛下の手から守られなければならないの?」

 レディにとってモルトは、大抵のおねだりを叶えてくれる優しい伯父だ。そんな伯父が自分を取り除きたがっていると言われても納得できない。

「モルトは、貴女が偉大なるグレーンの血を引くカティの娘だということを知っていた。貴女がいずれ産むであろう男児は、モルトの子らにとっては脅威きょういとなる。それを防ぐために、モルトは貴女を取り除こうとしていた」
「取り除くって、でもわたくしはこれまで何も怖い思いなんて……」
「公爵閣下のご高配があったからだ。貴女の父上は、カティがどうして薨去こうきょしたのか、その理由と証拠を握っていた。それを公表されたくなければ、貴女に手を出すなと皇帝をおどしたのだ」
「う、嘘よ」

 否定しながらも、レディは二人の言葉が正しいと思い始めていた。
 そもそもモルトには、ゾルザルを筆頭に妾腹めかけばらを含めれば何人もの子がいた。なのに姪に過ぎないレディが、何故か格別に扱われていた。レディが一大派閥を築くことができたのもそのおかげだ。
 レディはその特別待遇を、皇帝の愛情故、自分の魅力故と思い込んでいたが、それでは理解しきれない部分も確かにあった。でも裏にそういった事情があったなら納得もできる。

「皇帝が、貴女をじつの子よりも大事に扱ったのは、カティを殺したい目があったからこそ!」


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