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外伝3黄昏の竜騎士伝説編

外伝3黄昏の竜騎士伝説編-1

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   序


 どこまでもどこまでも広がる草原。
 そうきゅうには白く巨大な雲が浮かび、かぜは北西から南東へと柔らかく流れている。
 成人の腰丈こしたけほどまである草は、季節の移り変わりによって見事な黄昏たそがれ色に染まり、まるで金色の大海原おおうなばらのごとくうねっていた。
 そんな草原に、寝間着ねまきすそをたくし上げて懸命けんめいに走り抜けるヒト種の娘の姿があった。
 年の頃は、十八~十九歳くらい。
 良く見れば、かんとうのごとき寝間着は上質な生地きじに手の込んだ刺繍ししゅうほどこされたもの。そして、腰まである黒髪もカラスのぬれのようにつややかに輝いている。
 一見しただけで、高貴こうきな身分にあると分かる娘であった。

「はぁはぁふうふう!」

 そんな地位にある娘はどれほどの距離を走ったのか、息を切らせ、額にも手足にも玉のような汗を浮かべていた。
 さすがに疲れたらしく、立ち止まってひざに手をつく。
 肩を激しく上下させながらも額の汗を袖口でぬぐい、尽きかけた体力の回復を待っていた。
 だが、背後からひたひたと迫り来る獣の足音は思った以上に近かった。

「……くっ!」

 黒髪の娘は、再び草原を掻き分けて駆け出す。
 追って来るのは、馬ほどの体躯たいくを持つ黒妖犬こくようけんの一種、モーザ・ドゥーグ。
 爛々らんらんと血走った目と、鋭いきば。だらりとぶら下がった舌からは、あわれな犠牲者ぎせいしゃの血とよだれの混ざった液体がしたたっている。
 それが四頭――いな、視野を広げればさらにもっと。いちいち数えていられないほどだった。

「ああっ……どうしてこんなことに!?」

 娘はほぞむように独白しながら懸命に走った。
 細くたおやかな手足は疲労によってかせのごとく重くなり、これを動かすのに、今ではとてつもない努力が必要になっていた。

「ターニャのせいですわ!」

 娘は、気のかないドジで間抜けな侍女を罵倒ばとうした。
 こんなにも苦しくて、辛いのに、座り込んで休むことができないのは、あのが自分に食らいつこうとしたモーザ・ドゥーグとの間に割って入って、「お逃げ下さい。早く!」と叫んでくれたからに他ならない。

「エイラのせいですわ!」

 こんな寝間着姿で、しかも裸足で走り回らなければならないのは、日頃から姉を気取る世話焼きメイドが、「お嬢様。お元気で!」と身をていして獣の群れの注意を引きつけてくれたからである。
 生きたままきもを喰われ、手足を咀嚼そしゃくされ、壮絶な悲鳴を上げつつも、それでも自分を案じる彼女達――そんな光景を眼にしたら、どれだけ手足が傷だらけになっても、心臓が張り裂けようとも、諦めるということは許されなくなってしまうに決まっているのだ。

「あんなの……あんなこと……何の意味もなかったのに!」

 だが、それらの犠牲も無駄に終わりそうであった。
 二人が命を投げ出してまで稼ぎ出してくれた時間は、ほんのわずかでしかなかったのだ。
 しかも、その時間が彼女にもたらしたものは、悲しみと恐怖と苦痛。
 それだったらあの時三人で抱き合っていた方がはるかにマシだった。その方がまだ寂しくない。孤独と不安、追い回される恐怖にさらされ、でも結局死ぬのなら損としか思えなかった。

「ふたりとも、考えが足りなさ過ぎるんですわ!」

 そんな風に恩人を罵倒する思考は、神の怒りを買ったようだ。
 ばちが当たったのか泥濘ぬかるみに足をとられてうつぶせに転んでしまった。
 顔はおろか、衣服や胸、髪、手足までもが派手に泥まみれとなる。

「いやだ、もう……ドロドロですわ!」

 そんな泣き言をらした直後、うなじに温かい空気を浴びて震え上がる。
 飛び跳ねるように振り返ると、すぐ目の前にモーザ・ドゥーグの鼻先があり、生臭なまぐさい息を吐いていた。

「あうっ……」

 これで終わりだ。いよいよおしまいの時が来た。
 彼女の身体は、牙をく凶暴な獣から少しでも離れようと本能的に後退あとずさった。
 鋭い牙の生えたあごが大きく開かれる。よだれが垂れて、糸を引いている様がいかにもけがらわしい。

「誰か! 誰か助けて!」

 思わず叫ぶ。
 だが、右を見ても左を見ても、助けてくれるような者はいない。そこにいるのは彼女を取り囲む無数のモーザ・ドゥーグだけなのだ。
 もう駄目! 喰われる!
 宿営地を襲われ、護衛兵もともの者達もことごとく喰い殺されてしまった。
 訪れたのは、絶対的な失望と恐怖。
 そして――――――――――――――――――これでようやく終われるという安堵あんど
 次に彼女がしたことはまぶたをぎゅっと閉じて、自分の身体を抱いて叫ぶこと。
 何のために悲鳴を上げるのだろう?
 肯定的な観点に立てば、大きな声で襲いかかってくる敵を威嚇いかくし、助けて欲しいというメッセージを四方八方に放つため。
 否定的に見れば、思考を放棄し、悲鳴を上げるという行為に没頭ぼっとうすることで、我が身に起こる出来事から目をそむけるため。
 この時、黒髪の娘が叫んだのはまぎれもなく後者を目的としたものだった。
 この地上には、彼女を助けてくれる者などいないということは分かっていたのだから。
 だが、彼女が恐れた激痛も衝撃も訪れない。
 喉がれ、息が尽き、悲鳴を上げ続けることもできなくなったのに、未だに何も起こらない。

「……えっ?」

 娘は生きながら手足を喰い千切ちぎられ、ぞうを喰われる苦痛を予想していた。
 予想した出来事が起きないのは不安である。それが苦痛であったとしても、避け得られぬことならば逆にとっとと起きて欲しいと思うのが人だ。
 それにすぐ傍で聞こえる『ばりばり』『がりがり』と骨の砕ける音も気になった。
 娘は、ほんの少しばかりの勇気を出して瞼を薄く開く。
 すると……。
 目の前に広がっていたのは、さらなる恐怖であった。

「ひぃっ!」

 なんとモーザ・ドゥーグが、より大きな怪異かいいによって喰われていたのである。視界いっぱいに広がる目の前で。
 首を失っても、脊椎せきつい反射でなおも暴れようとするモーザ・ドゥーグ。その胴体を極太のかぎ爪で押さえつけ、のこぎりにも似た巨大な顎で喰い千切り、咀嚼し、嚥下えんげする。
 筋張すじばったモーザ・ドゥーグの肉は硬く、喰い千切るにも強烈な力が必要のようだ。引き千切れた瞬間、肉片と飛沫しぶきがあたりに飛び散った。
 娘は、その飛沫を全身で浴びてしまう。死骸から溢れ出た血液で、真っ白だった寝間着はたちまち赤黒く染まっていった。
 壊れたかごにも似たあばらの隙間から、透き通ったまくで作られた肺腑が見える。それは、ふいごのようにふくらんだり潰れたりを繰り返していた。
 さらにその奥には心臓があり、鼓動を刻みながら、千切れた血管から鮮血を放出していた。
 柔らかそうな肝臓が引きずり出され、怪異がそれをあたかもデザートのように丸呑みする。
 腸が荒縄のごとく引きずられて泥に汚れた。
 腹壁から胃の腑がずり落ちて、中から黒妖犬に喰われた者の手や足が未消化なままに次々とこぼれ落ちていく。

「うっ、あれはエイラの……」

 その手指しゅしめられた見知った形状の指輪を見つけた瞬間、娘の胃の腑は強烈な不快感によって締め付けられた。
 娘の胃にはほとんど何も入っていなかったが、それでも一滴残らず吐き出してしまう。

「うげっ……はぁはぁ」

 黒髪の娘は、悲鳴すら出せなくなる地獄絵図というものが、この世に存在するということをこの時初めて知ったのだった。
 それは他のモーザ・ドゥーグも同じらしい。
 自分よりも圧倒的強者を前にしているのだと悟った黒妖犬の亜種族達は、じわじわと後退り、娘を包囲していた輪から離れていく。次に地獄に踏み入るのが自分になることを恐れ、逃げ散っていった。
 娘が胃の内容物の全てを絞り出し終えると、巨大な怪異の方も食事を終えたのか意気揚々いきようようと翼を広げた。
 その独特の形状をした皮膜が、黒い影となって天蓋てんがいを覆い尽くした時、娘は自らが対峙している怪異が翼竜の上位種と知られる飛竜だと理解した。
 翼竜は翼と腕が一体となっているが、飛竜は腕と翼が分かれているのが特徴だ。
 分厚いうろこによってよろわれた頭部には、縦に割れた瞳が輝いて自分を見据みすえている。
 目が合った。見られた。

「ああ……」

 次はいよいよ自分の番だと思った。
 娘の五体から恐怖という感情が抜け落ちる。いや、恐怖だけでなくあらゆる感情が失われ、世界は色彩のない灰色なものに変貌した。
 だが、不思議なことに男の声が聞こえた。

怪我けがはないか?」

 良く見るとその飛竜には、一人の男が騎乗していたのだ。
 竜の鱗を紡いだ鎧で身を固め、顔の下半分だけを露わにするかぶとで顔を隠している。

「りゅ、竜騎士!?」

 竜騎士は、飛竜を完全に支配下に置いていることを示すように手綱を軽く持ち上げる。そして抑揚に欠けた声で再度同じ言葉を発した。

「怪我は、ないか?」

 その淡々とした言葉を耳にした瞬間、安堵という風に打たれた娘は全身から力が抜けるのを感じたのだった。


    *    *


 安堵した直後、娘はその場で盛大に泣いた。
 声を上げてひたすら泣いた。
 充分に泣くことは長時間にわたって恐怖に晒され続けたショックをぬぐい去るために、そして幼い頃から一緒だった侍女達を失った事実を受け止め、その傷を少しでもやすために、どうしても必要なことだったのだ。
 こんな時、普通の男は何とか女を泣き止ませようとしてしまう。
 女慣れした器用な男ならば、元気づけようとなぐさめたりもする。
 それはとてもありがたいし、嬉しいことである。だが、今泣いているのは、日常のささやかな失敗や後悔を悲しんでのことではない。身近な者を失ったことを受け容れきるまで何日にもわたって続く、長い悲嘆の始まりに過ぎない。
 ここで慰められては、無理にでも泣き止まないといけないとかされた気持ちになり、力が全く戻ってこなくなってしまう。中途半端では、かえって立ち直れなくなってしまうのだ。
 だが、この竜騎士はそんなことはしなかった。
 その場にじっとして、自分が自然に泣き止むのを待っていてくれた。
 これには、シルヴィアも感謝した。
 不器用な優しさがじんわりと胸にみ渡る。
 だから充分に泣き終えると、鼻をすすって立ち上がった。

「わ、わたくしは、ヤルン・ヴィエットの王女シルヴィア・ソル・シャルトリューズと申します」

 瞼が涙でれ上がって、顔が見られたものではなくなっている。喉も嗄れて声がかすれている。髪も、血と泥に汚れた寝間着姿も、何もかもが見苦しい。
 こんな格好で恩人の前に立つのは、恥ずかしくてしょうがない。が、それでも胸を張って名乗ったのは、相手の誠意に対して感謝の気持ちを伝えることになると考えたからだ。

「そうか」

 ところが男はシルヴィアの名乗りに少しも関心を示さない。
 ヤルン・ヴィエットという国にも、その王女という地位にも、兜に隠された顔の上半分は当然、下半分でも口角の端をわずかに動かすことすらしなかった。
 その態度は王女の矜持きょうじを少しばかり傷つけた。彼女にとってはヤルン・ヴィエットという国と、王女という地位が自尊心の源だったからである。
 だからこう続けてみることにした。

義父ちちウーゾが、きっと貴方の勇気に報いることでしょう」

 これならどうだ!? と思った。
 いくら地位に敬意を抱かない男でも、褒美ほうびには関心を示すはず。そしてその程度の男ならば、見下げることができて自尊心を保てると考えたのである。
 ところが、これまた返ってきた言葉が「そうか」の一言である。
 もしかするとこの男は、ヤルン・ヴィエットという国を知らないのかも知れない。
 そもそも飛竜は、もっと南方の山岳地帯が活動地域だ。それを操る竜騎士が多いのも当然南方だ。男がそこから来たならば、この付近のことなど知らなくてもおかしくはない。
 シルヴィアは急に可笑おかしい気持ちになってコロコロと笑った。

「何が可笑しい?」
「いえ、申し訳ありません竜騎士様。わたくしが独り合点がてんしていたことが分かっただけですわ。助けて下さって嬉しかったです。どうも、ありがとう」

 そうしてシルヴィアは、やっと笑顔になった。

「そうか。ならば行こう」
「行くってどこに……きゃっ!」

 竜騎士は手を伸ばすとシルヴィアの身体を鞍上あんじょうへと吊り上げる。そして泥と獣の血に汚れた身体を、そのまま胸の中に抱くようにして右向きに横座りさせた。
 これにはシルヴィアも慌てる。
 男性とこんな風に身体を密着させるなんて生まれて初めてだったのだ。
 とは言え、この飛竜に乗るならば他に方法はない。迂闊うかつに「肌に触れられるのが嫌だ」などと口にしたら、この無愛想な男は「そうか」の一言でシルヴィアをここに放置しかねない。
 それにしても、この男はどこに自分を連れて行こうとしているのだろうか? それだけは確認しておきたい。

「あ、あの、騎士様……どちらに?」

 答えないまま、竜騎士は手綱を引いた。
 すると飛竜は大きく翼を広げ大地を蹴る。
 ふわりとした浮遊感。そして突然、身体を空気が舐めるように流れていった。

「あっ!」

 髪がなびき、寝間着の裾が舞い上がりそうになって慌てて押さえ込んだ直後、シルヴィアの視界にヤルン・ヴィエットの草原が広がった。
 飛竜が懸命に羽ばたいて大地からぐんぐん離れていく。そして上昇気流を捕らえると、大きな翼をいっぱいに広げて一気に高度を上げる。
 瞬く間に、飛竜は大空に浮かぶ白い雲と同じ高度に達した。

「こんな光景初めて!」

 大空を舞うという貴重な体験に、シルヴィアは喜色溢れる感嘆の声を上げた。だが、すぐに何かに恥じたように俯いた。

「……これを、あの子達に見せてあげたかったですわ」

 もし、モーザ・ドゥーグに襲われた直後でなければ、シルヴィアはこの素晴らしく美しい光景を無邪気に味わうことができたろう。
 けれど、今のシルヴィアに、青過ぎる空はまぶしかった。広い大地も、寒々しく見える。今は、喜びを味わってはいけないように感じられた。

「どうした?」
「こんなに美しい光景の中にいるのに、晴れ晴れとした気持ちになれないのです」
「気に病む必要はない。景色などというものはその時の心持ち次第でどうとでも見える」
「そうなんでしょうけれど……」
「それに……それでも、さっきよりは幾分かマシな顔をしているぞ」
「そうですか? 分かりません。大空を鳥のように舞うなんて、一生に一度味わえるかどうかの体験なのに、残念ですわ」
「そんなに残念だと思うなら、また乗れば良い」
「それはつまり、この飛竜に……」
「エフリーだ」
「エフリー?」
「この飛竜の名だ」
「はい。エフリーですね……」

 シルヴィアはくすっと笑って、先ほど中断させられた言葉を続けた。

「それは、また後日、このエフリーに乗せて下さるとの約束を頂いたと思って良いのですね?」
「うむ。機会があったらな」
「はい。機会を頂けましたらその時はお願いいたしますわ」

 シルヴィアはそんな風に言って竜騎士の胸に額を押し当てた。少し気恥ずかしくなって、顔をまともに見せられなくなったのだ。
 ぐらぐら揺れる吊り橋を男女ひと組で渡ると恋が芽生える、なんて良く聞く話である。
 ならば絶体絶命の窮地きゅうちおちいったところを助けてもらい、なおかつこれほどの素敵な風景を見せられたらどんな女だってときめいて当然だと思う。友達や、親しい者を失って心が弱っている時ならなおさらだ。はっきり言ってこの状況は卑怯ひきょうだとすら思った。
 何よりも卑怯なのは、この竜騎士が、それを全く自覚してなさそうなことだ。
 けれど、そのことには触れずにシルヴィアは「ありがとうございます」と小声で礼を告げた。もし次の機会というものがあるなら、そしてその時までこの気持ちが続くのなら、この錯覚さっかくめいた感情に身を任せてしまっても良いと思えたのだ。


    *    *


 今、この大空を舞っているのは、わたくしとこの竜騎士様の二人だけ。
 そんな風に思って、大空の逢瀬おうせにうっとり浸ろうと考えた時もありました。ほんの数秒前だけど。
 けれど、それは単なる思い違いの勘違いだとシルヴィアは思い知らされてしまった。

「あなた、大丈夫?」

 突然の呼び声にどこの誰かと思って左右を振り返ってみると、なんと右ななめ後ろ、エフリーと翼を接するほどの近くに別の飛竜が並航へいこうしていたのだ。
 当然、その飛竜にも乗り手がいる。
 その乗り手は、蜂蜜はちみつ色の鮮やかな金髪を流れゆく風になびかせていた。
 切れ長の眉。とがった顎から、なめらかな曲線が突然シャープに曲がって艶やかなうなじを形作っている。手足は細くてしなやかで……それを言葉で言い表すならば『端麗たんれい』の一言に尽きるだろう。
 しかもその衣装が難癖つけようのないスタイルをこれ見よがしに強調し、さらには野趣やしゅ溢れる木彫きぼりの装飾品も、活動的な雰囲気をこれでもかと印象付け、それがまた悔しいくらいに似合っていた。
 シルヴィアも自らの美しさを自覚し、それを武器として群がる敵を圧倒する女の一人だ。だが、この女の前ではたちまち気圧けおされた。っていうより、そもそもこんな美貌と笹穂耳ささぼみみは、ヒト種では絶対にあり得ない。
 そう、この女はエルフだ。しかもただのエルフではなく、精霊種という特異な存在なのだ。
 そんな者がどうして竜騎士様と同じように飛竜に跨乗こじょうし、気安く声をかけてくるのか?
 考えずとも答えは分かる。この竜騎士様の旅の同行者で、連れ合いで、仲間だ。もしかするとそれ以上の関係である可能性も高い。
 そっか……女がいたのね。
 シルヴィアは芽生えたばかりのときめきが、水を浴びせられたように消沈していくのを感じた。
 竜騎士様の心を得るには、このエルフと競わなければならない。だがそれは今のシルヴィアには、モーザ・ドゥーグに追い回されて生き残ることよりも難業なんぎょうに思えた。
 そんなシルヴィアの複雑な胸中を斟酌しんしゃくしようともせず、金髪エルフがまたも声をかけて来た。

「あなたのお住まいはこの近くなの?」

 どうやらこのエルフ女はシルヴィアの名乗りを聞いていなかったらしい。

「徒歩で一日ほどの先にヤルン・ヴィエットの城市じょうしがあります。わたくしはそこに住んでおります」

 ここで身分を主張すると負けのような気がしたので、シルヴィアは自分の住まいがヤルン・ヴィエットにあること、そして母の遣いでアカバへと向かう途中だったことだけ説明した。

「ほぼ三日の旅を予定していたのですが、その二日目の早朝にモーザ・ドゥーグに襲われたのですわ」
「ふ~ん、そうなんだ……じゃあ送っていくのは、そのヤルン・ヴィエットってところで良いわね」

 エルフ女は、「ヤルン・ヴィエット、ヤルン・ヴィエット……」と、風に飛ばされないよう透明な何かにはさまれた絵図面を取り出した。
 だがいくら探してもヤルン・ヴィエットは見つけられないらしい。

「その地図はお古いようですわね。それですとフロートという名で記されていると思いますわ」
「フロート? ふろーとふろーと……ああ、これね」

 エルフ女は、図上に目的地を見つけると竜騎士に告げた。

「ヨウジ! 左に大きく旋回するわよ。ついてきて!」

 エルフ女は、手綱を引いて飛竜を左に傾けると、すべるようにシルヴィアの下方をくぐる。
 右向きに横座りしていたシルヴィアは、自分の背後に回ったエルフ女の姿を見失う。だが、少し遅れて竜騎士も手綱を引いてエフリーを左に大きく傾けさせる。

「きゃあっ!」

 少し、上下の感覚がおかしくなっているらしい。大地が傾いて、なんだか巨大な壁のごとく見えるのだ。
 見る見るうちに大地が迫って来る。
 かすんでいた地物ちぶつがはっきり見えてくると、シルヴィアも冷やっとした感触と共にこのまま大地に激突してしまう未来を予想した。

「うわぁ……」

 だが、竜騎士は大地に接吻せっぷんすることを選ばなかった。充分に速度をつけると、ぐいっと手綱を引いて飛竜を水平に安定させたのである。
 高度を下げた勢いで、これまで以上に強い風がシルヴィアの身体を打った。
 地面が濁流だくりゅうのごとく流れていく。ここまでの速さを体験したことのないシルヴィアは自然と竜騎士にしがみつく力を強くしてしまった。

「心配しなくて良い。徒歩で一日の距離など空から見れば目と鼻の先だ。すぐに家に帰れるぞ」

 竜騎士はシルヴィアの耳朶じだに口を寄せると、飛竜の飛行速度は時速百四十キロを超えると語った。
 キロという単位がどれくらいなのか分からなかったが、とてつもなく速いということだけは体感からも理解できた。
 やがて、放牧地ほうぼくちが視界に入り、そこに放された家畜かちくが見えてくる。
 そんな光景も瞬く間に背後に過ぎ去り、さらには畑と農夫達の頭上をかすめるように通り過ぎていく。
 シルヴィアは、驚いて首をすくめる農夫の姿を見てなんだか楽しい気分になった。

「ヤルン・ヴィエットの街はこっちでいいのね?」
「ええ、この方向ですわ」

 エルフに問われ、シルヴィアは首をぐるりと巡らせて周囲の風景を確認した。
 すると特徴ある建物が見つかる。それはシルヴィアにとって見慣れた建物だった。だが視点の高さがいつもと違うため、非常に新鮮に感じられた。

「このまま、この方向に進んで下さい」

 シルヴィアが指差した方角に、ヤルン・ヴィエットの城市が見えてきた。
 城市と言っても帝国領のそれに比べたら砦に毛の生えた程度のものに過ぎない。だが、この北辺の蛮地ばんちでは美しさで他にひけをとらないという自信がシルヴィアにはあった。
 石造りの堅牢な城壁や尖塔にひらめく色とりどりの旗。「この地を統治する首府しゅふとしての威厳があるでしょ? わたくしはこの城の王女なのですわ」と、ついつい自慢したくなる。
 エルフ女が、問いかけてきた。

「どこに降ろせばいいかしら?」
「できればあの尖塔せんとうのバルコニーに」

 答えながらふと気付く。このエルフ女がいると、竜騎士が全然話しかけてくれない。行き先も何もかもこのエルフ女が決めて、それに竜騎士が従っているように思える。
 もしかしてしりかれているのかなとか思ったりする。そしてわたくしだったらそんな失礼なことは絶対にしないのに、殿方をもっと尊重して自由意思を大切にします――などと考えたりした。
 シルヴィアの理想は今この瞬間をもって、「夫唱ふしょう婦随ふずい。積極的で強い夫に、貞淑ていしゅくで控えめな妻」というものに変節したのだった。

「尖塔!? あなた、もしかしてあのお城のお姫様か何か?」

 エルフ女は、ようやくシルヴィアの正体を理解した。
 シルヴィアは勝ち誇ったような気持ちで言った。

「はい! 竜騎士様にお礼をしたいと思いますので、是非お立ち寄り下さいね!」

 この時シルヴィアは美貌では勝てずとも地位や権力、財力でエルフ女と勝負になるかもと思った。そしてこの三つで圧倒してやろうと思ったのである。
 だが、そういう底意というのは不思議と伝わってしまうものだ。エルフ女も、そんなシルヴィアの挑戦を受けて立つ気になったらしく不敵に笑った。

「そういうことね。なら、遠慮なく!」

 エルフ女と竜騎士は、尖塔を中心にしてその周囲をゆっくりと旋回し始めた。

「すぐに下りないのですか?」
「いきなり下りると警備の兵を驚かして、攻撃されちゃうことがあるのよ。だからあなたのことをみんなに見せて、まず敵でないって納得してもらう必要があるの。良かったら手を振ってあげて!」

 見れば、確かに兵士達が騒いでいる。突然現れた飛竜に驚き、守備兵が右往左往うおうさおうしていた。
 こちらに向けて弓を引こうとする兵もいて、シルヴィアは慌てて手を振った。
 すると城の兵隊達もシルヴィアの姿に気がついたようである。武器を下ろして代わりに指差したり、手を振り返したりを始めた。

「どうやら、あなたのことが分かってもらえたみたいね」

 エルフ女はそんなことを言って、ゆっくりと尖塔のバルコニーに飛竜を降下させていった。


    *    *


 謁見えっけんに入ったシルヴィアは、玉座に座る両親の元へと走った。

「お義父とう様! お母様!」

 大臣ら廷臣ていしんと謁見していたウーゾは、アカバへと旅立ったはずの義娘シルヴィアが突然戻ったことに驚いたのか、すぐに妻の顔を見た。こんなこと聞いてないぞという表情だ。
 だが、妻の方も驚愕きょうがくの顔をしていた。

「シルヴィアのあの姿はいったい何だ!? 何があったんだ?」

 女王ザンシアは弾かれたように玉座から立ち上がり、娘を迎えた。

「シルヴィア、いったい何があったというのです!?」
「モーザ・ドゥーグの群れに襲われてしまって……」
「なんだと!? モーザ・ドゥーグだって!?」

 廷臣達は一斉にどよめきの声を上げた。モーザ・ドゥーグの群れは大規模な災害に等しい。もし領内に入って来るようなら国を挙げての対応が必要となる。
 廷臣達の間で「なんで今なのか。パルミア問題も片付いてないというのに」などと、不平の声が上がった。

「ターニャもエイラも、わたくしをかばって死んでしまいました」

 二人の名を口にした途端、恐怖と悲しみがぶり返したのか、シルヴィアは落涙らくるいして崩れるようにその場に座り込んでしまう。

「なんと痛ましい……」

 廷臣達は、沈痛な面持ちとなってシルヴィアに同情し、またシルヴィアの供を親類縁者に持つ者は、訃報ふほうをその家族に伝えるべく走って行った。
 女王ザンシアは、座り込んだ娘を見下ろして冷厳に告げる。

「お立ちなさいシルヴィア。お前はまだ勤めを果たし終えておらぬ……」
「おい、ザンシア。無茶を言うな」
「貴方は黙っていて下さい。わらわの娘であるからには、このような時も冷静でなければならないのです。シルヴィア、妾に復命なさい」
「はい……」

 シルヴィアは震える身体をなんとか立ち上がらせると涙に濡れた頬を拭い、母からの命令であったアカバへの遣いの任を成し遂げられず、おめおめと戻ってきたことを報告した。

「貴女はまだ肝心なことを報告していません。モーザ・ドゥーグの群れに襲われた貴女が、どうやって助かったというのです? 獰猛どうもうな怪異がどうして貴女を見逃してくれたのですか?」
「あの方達に助けて頂いたからです」

 シルヴィアが、後方を指差した。
 謁見の間の入り口へと皆の視線が集まる。そして美しいエルフと、竜騎士の姿を見た廷臣達は、またしてもどよめきの声を上げた。
「なんと美しい」「素晴らしい」とエルフ女性の美しさをたたえる声があれば、竜騎士のまとう美々びびしい鎧を見て「なんと見事な鎧なのだろう。あれが噂に聞く竜鱗りゅうりんの鎧だ。きっとさぞかし名のある騎士なのだろうな」といった囁きも聞こえた。

「こららに参られよ。旅の騎士殿」

 女王ザンシアは、竜騎士とエルフ女を招き寄せると慇懃いんぎんに礼を告げた。

「そなた達が恐ろしい怪異から我が娘を守ってくれたのですね? 礼を申します」
「いいえ、大したことではありません」

 女王の言葉に応えてエルフ女性は頭を下げた。
 竜騎士はただうなずくように頭を下げた。だが誰もそれを無礼とはとらなかった。軽々しく口を開かない態度こそが、この無骨ぶこつな竜騎士にふさわしい姿であると感じたからである。
 女王は胸を張って、やや顎を上げる姿勢で言った。

「妾はザンシア……ザンシア・コ・シャルトリューズ。このヤルン・ヴィエットの女王である」
「あたしは、コアンの森マルソー氏族、ホドリュー・レイの娘テュカ・ルナです」

 エルフ女性が名乗る。次は竜騎士の番だ。
 これだけ美しいエルフと並び立つ男なのだからさぞかし美男で、きっと名の知られた男なのだろうと皆は期待した。

「…………」

 だが、竜騎士は名乗ろうとはしない。その場に立ち尽くしているだけだ。
 ザンシアは名乗りをうながすように微笑みかけた。

「して、そちの名は? その無粋な兜をとり、我が愛娘を助けてくれた勇者の顔を見せてくりゃれ」

 すると竜騎士はおもむろに兜をとった。

「ヨウジ・イタミだ」

 謁見の間には、またしてもどよめきの声が満ち溢れた。
 だが、それは感銘を示すようなものではない。どちらかというと、根拠もなく高まっていた期待が、大きく外れてしまったことへの落胆の気持ちが表れたものだったのである。


    *    *


 その日の午後、ヤルン・ヴィエット城では、娘を救ってくれた竜騎士とエルフ女性に感謝し歓迎するという名目でうたげが開かれた。
 急遽きゅうきょ執り行われたものだけに盛大とは言い難かったが、この国の将軍や大臣などの主立おもだった者が集まり、伊丹いたみやテュカにたいそうな歓待ぶりを見せてくれたのである。

「お客様。どうぞこちらに、おいで下さい」

 やがて宴も終わり、陽が西に傾いて来ると、黒髪の女官が伊丹とテュカを迎賓館げいひんかんへと案内してくれた。

「盛大な宴会だったわね。料理も美味おいしかったし、ここのお城も小ぶりながら立派よね」

 テュカは、迎賓館の建物を見渡しながら褒めた。

「お褒め頂きありがとうございます。我がヤルン・ヴィエット王国は、今から三年前に偉大いだいなる女王ザンシア陛下が、コノート族、そしてフロート族とを従えることで建国されました。帝国から王国として承認されたのはつい最近のことですが、歴史の古さ、文化の豊かさでは他国にもひけを取りません」

 女官はそう言って誇らしげに胸を張った。

「三年前の建国で……歴史?」
「はい。この国は偉大なる我がソノート族の歴史を引き継いで生まれたのです」
「三つの部族の併合を成し遂げるなんて、ザンシア陛下って女傑じょけつなのね?」
「我々ソノートの誇りです。と同時にあの方は私たち女性の誇りでもありますのよ」
「それって、どういうこと?」
「女王陛下は、男の王がよくするような武力を用いた戦いをせずして、コノートとフロートの二族を併合なさったのです」
「武力を使わず?」
「……いて申さば、美しさという女の武器を用いられましたけど」

 女官の説明によると、ザンシアは黒髪の部族ソノートの族長家に生まれたという。そして同じように名門家系の男を婿むことして、長女シルヴィアを産んだ。
 だが、夫はほどなく夭逝ようせいして寡婦かふとなってしまった。その後は再婚することなく一人で族長としての勤めと母親としての勤めを両立させていた。
 だがそんなザンシアに求婚する者が現れた。領地を接する、褐色かっしょくの肌を持つ部族コノートの長シノワであった。
 シノワは初婚だったが、祭典に現れたザンシアの姿に一目惚ひとめぼれしたのだ。
 ほどなく二人は再婚。夫婦はそれぞれ別々に自分の部族を統治するのではなく、二人で統治権を共有することで二族をたばねたのである。

「ところが、シノワ族長もまた早世そうせいされてしまいました」

 噂によれば死因は腎虚じんきょであったとか。
 女官は伊丹に聞こえないようテュカの笹穂耳に唇を寄せると、クスクス笑いながらそんな風に囁いた。腎虚とは要するに、性交渉のし過ぎによる消耗死のことである。
 そういうわけで、ザンシアは再び寡婦となってソノートとコノートの二族を一人で統治しなければならなくなったのだった。
 ここまで話を聞けば、そこから先のことはテュカも予想がつく。灰色の髪を持つ部族の長とこれまた結婚で結びついたに決まっている。

「フロート族の長であるウーゾ様と再婚したのが三年前ってわけね?」
「ご名答でございます」

 三族を束ねた結果、人口や領土の広さなど帝国が国家として認める要件が揃った。そうしてザンシアは自ら女王を名乗って、ヤルン・ヴィエット王国を建国したのである。

「昨年、ザンシア陛下はウーゾ族長との間にビルバヤニス王子をおもうけになられました。ですが、この国の後継者はソノートの血をより濃く引かれているシルヴィア王女であるべきなのです。そんな大事な方をお救い下さったお二人には、いくら感謝を申し上げても決して足りることはないでしょう。そこで……」

 黒髪の女官は、二人の前で扉を大きく開いて言った。

今宵こよいはこちらをご利用下さい」

 ヤルン・ヴィエットの迎賓館には、客の程度に応じて特上、上、中、並といった分類で客間が用意されている。『特上』は王族や大臣、将軍級の客を迎えるためのものであり、『上』室はもっぱら外交官や高級官僚かんりょうをもてなすためのものだ。
 伊丹達に関しては、本来『中』級以下の部屋をあてがうべきところである。だが特別に『上』室を用意したという。
 踏み入ってみると、広々とした部屋にくるぶしまで埋まりそうなふかふかの絨毯じゅうたんが敷き詰められていた。そして重厚な彫刻が施された木製の椅子、箪笥たんすや机などの調度品。
 これらを見るだけでも、重要な賓客ひんきゃくを迎えるための部屋だと分かる。

「うわ~、凄い部屋ね! 本当にいいの!?」
「はい。お二人に相応ふさわしい部屋かと存じます」

 そんな部屋の中で一際目を引いたのが、巨大な寝台だった。
 何故か、一つしかない。
 そして枕が二つ並んで置かれている。

「これでよろしいですね?」

 女官は、万事承知してますと言わんばかりのドヤ顔で、テュカに微笑んだ。どうだ、最高の気遣いだろうと誇りたいらしい。
 するとテュカは、クッションの感触を確かめるように寝台に腰掛け、過不足のない配慮に大変感謝していると告げた。

「ありがとう。他には何もいらないわ」

 満足そうなテュカの顔を見ると、寝台一つに枕二つという事態は全く問題ではないようだ。

「何かございましたら、いつでもお呼び下さいませ」

 女官はそう言い残すと、一礼して部屋から出て行ったのだった。
 テュカは扉が閉じられたことを確認すると、ごろんと横たわり伊丹を誘うように手を差し伸べる。

「ねぇ、こっちに来ない?」
「いや、その寝台はテュカが使え。俺はこちらの床に寝る」

 だが伊丹は断り、敷物がふかふかなので寝心地も悪くなさそうだと言った。

「何よ! あたしと寝るのが嫌ってこと?」
「そうではない。ただ、俺達は夫婦ではないからな」
「何を今更!? これまで散々一緒に寝たりしたじゃない!」
「無論その通りだが、あの時は君に特別な事情があった。しかし今は違う。男女の仲には節度せつどというものが大切だ。特に君はこの旅に出てからやたらと俺に接触したがる傾向があるが、それは独身女性として正しい振る舞いとは言えない……」

 テュカは、伊丹のおしゃべりがお説教モードに入ったと見るや、「はいはいはい、鬱陶うっとうしいからそこまで」と伊丹に近付き、そのおでこをベシッと叩いた。いや、それは叩くというよりは押さえたと言った方がより正しい。

「Iemmnijuu quehen!」

 テュカの唇が呪文を唱える。すると伊丹はあたかもスイッチが切れたように動きを止めた。
 口なんかも「……独身女性として正しい振る舞いとは言えない」の「い」の形状で固まっている。
 やがて精霊魔法の効果がすべて抜けきったのか、伊丹の唇が閉じられた。
 テュカのてのひらが伊丹の額から離れると、伊丹は頬と耳とを真っ赤に染め、困ったような表情でテュカに背中を向けた。

「どうしたの?」
「あ、あまり挑発しないでくれよ、テュカ!」

 珍しいことに、伊丹が怒ったような感じでちょっと大きめの声を出す。
 だがテュカは、そんな伊丹をまるで掌に乗せて転がすようにいじくりまわした。

「あら、何を今更恥ずかしがっているのかしら?」

 テュカは伊丹が背中を見せると、これ幸いと抱きつく。
 すると伊丹の顔はますます真っ赤になった。

「いや、だから抱きつかないでくれよ! その、いろいろと当たってるし。こっちは中学生の時みたいにドギマギしてメチャクチャ困るんだ! これって何とかならないのかよ!?」
「無理ね。これが精霊魔法の副作用ですもの」
「う……うう。なかなかキツいよ」
「別に、抑えなくたって良いのに」

 テュカはそう囁くと伊丹の耳朶じだにふぅっと息を吹きかけた。

「そういうわけにはいかないだろ!」

 そのこそばゆさに首を竦めた伊丹はもう勘弁してくれと求めた。
 だがテュカは容赦しない。「ヨウジく~ん。おね~さんのことが好き?」などと囁くのだ。

「わ、分かってるだろ!?」

 伊丹は嫌いな人間と一緒に旅をしたりはしないと言った。

「できれば言葉として聞きたいのよね~。あたしはヨウジくんのことが大好きなんだから。だから好きなようにしてくれて良いのよ」
「す、好きなようにって……い、良いのかよ?」

 伊丹の喉仏のどぼとけが上下する。

「もちろんよ。こっちは『いつでもどうぞ』なのよ」
「言っておくけど、テュカが挑発したせいだからな。ホントにホントにどうなっても知らないぞ」
「そうね。ヨウジの感受性が強くなって、ちょっとしたことで暴走するのは精霊魔法の反動のせいだし、子供っぽくなっちゃうのも副作用。そしてそこにとどめの一押しをしてるのもあたし。だからヨウジはちっとも悪くないのよ」

 だから、さあ来い! 暴走しろ! とテュカは全身で語った。その態度は、最早挑発というよりは、挑戦とでも呼ぶべき域に達している。


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