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外伝1南海漂流編

外伝1南海漂流編-3

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 予想すらしてなかった帝国側からの要求に、スガワラは後ろ頭を掻いた。

「そう来ましたか?」
「うむ。図々しい申し出であることは充分承知している」

 とは言えこの事態は、帝国が日本に対して配慮した結果だ。ならば日本側としてもそれなりに配慮をする必要があるだろう。
 以前からピニャには世話になっていることだし、と菅原は自衛官達を振り返った。

「分かりました。では、剣崎三尉、殿下の身辺警護に誰か指名していただけ……」

 だが剣崎が部下を呼び寄せる前に、ハミルトンが強請ねだるように両手を合わせた。

「お願いします。できればその、イタミ卿を希望したいんですが」
「え、伊丹さんですか? 彼はこちらの主要メンバーなんですが」
「でも、船の中というのは身分の区別にうるさいんです。食事にしても、居室にしても明確に分けられてまして、殿下と同席していただくにはご身分も相応の方でないと。幸いイタミ様は卿の称号をお持ちですから、何かと都合が良いのです」

 菅原は特地の国々が階級社会であることを思い出した。ついつい無頓着になってしまうが、身分という要素はこの特地では非常に大きな要素として作用しているのだ。
 一方で日本側の隊員のほとんどが陸曹、つまりは兵隊だ。帝国では皇太女に気安く口をいてよい身分ではない。

「そういうことなら仕方ありませんね」
「わ! ありがとうございます」

 何が嬉しいのか、ハミルトンは満面の笑みを菅原に見せた。
 その輝きに当てられたのか、菅原は若干赤くなった頬をポリポリと掻きつつ伊丹に告げる。

「と言うことで、伊丹さん。殿下の警護をお願いします」
「へいへい、いいですよ。今回のボスは菅原さんだしね」

 知らない仲でもないことだし、と伊丹はピニャの身辺警護を二つ返事で引き受けた。
 学都ロンデル以来の再会となったグレイとも「おお、イタミ殿、ご壮健そうで何より」「グレイさん、どうもどうも」という挨拶なんかを軽く交わして、旧交を温めたりする。

「さて、話を戻すとしよう。妾達はこの川船でプロプトーまで行き、そこで船を乗り換えるという話まではしたな」

 ピニャは、菅原の広げる地図を覗き込んで、これからどういうルートをたどって目的地に向かうかの説明を再開した。

「プロプトーからグラス半島沖を南下してトュマレンに向かうのは予定通りなのだが、グラスの近海を通って問題の係争地を視察しながらの通過を提案したい」

 するとハミルトンが「そんな話は、聞いてない」と言い出した。

「それはそうだろう。今初めて言ったのだからな」
「反対です。危険です。陸の近くを行くなんて、海賊に遭うかも知れません」

 ハミルトンが、ピニャの提案に異議を唱えた。

「だが、現地の情勢を直接この目で見ておく必要もある。交渉のためにも現地近くを通るなら、最新の情報を得ておくべきだ」
「そこで、何が起きているのかな?」
「良い質問だ」 

 ピニャは伊丹の質問に答えるために、細くて綺麗な指先を碧海へきかいへと突き出た半島に向けた。

「このグラス地方は現在、エルベ藩王国が領有している。だが、エルベ藩王国に帰属することとなったのはそれほど昔のことではない。様々な種族が雑多に暮らしており、統一された王権に従うこともなく、どの国にも帰属してないという地域だったのだ。だからだろう、最近になってトュマレンがこのグラス半島の領有権を主張し始めた。グラスで盗賊が跳梁ちょうりょうするようになったのは、その後からだ。枢密院の調べでは、トュマレンが裏で糸を引いているという。理由は分かるな?」

 ピニャの問いかけには剣崎が答えた。

「半島の防衛力を低下させるため? それと越境した盗賊が自国に被害を及ぼさないようにするという名目で、国境付近に軍を張り付けることも可能だ」
「その通り。おかげで半島に駐留していたエルベ藩王国軍は、トュマレンとの国境付近の防備を固めるのに忙しく盗賊対策が後手に回っている」
「荒らされ放題ってことか」
「ああ。逆に盗賊討伐を優先しようとすれば、トュマレン軍の動きに対応できなくなる」

 低烈度紛争ていれつどふんそうという概念がこの特地にあるかどうかは不明だが、トュマレンは見事にグラスを引っ掻き回して、自分にとって都合の良い状況を作り上げたのである。

「エルベ藩王国のデュラン陛下としては、グラス駐留の軍を増やしたがっている。だが、それをすれば、トュマレン側も兵力増強をしてくる。それではこのあたりの緊迫度が高まるばかりで、少しも状況が安定しない。そのためデュラン陛下には、不利を承知で見て見ぬふりをしてもらっているのだ」
「対峙する兵力が増えると、ちょっとした小競り合いがたちまち大戦争になりかねませんからね」
「そうだ。だがデュラン陛下の忍耐力にも限界がある。妾達はその前に、この事態を解決しなければならないのだ。帝国がこんな事態すら解決できないとなれば、妾は諸侯から見捨てられてしまうだろう。デュラン陛下が、帝国など当てにならぬと言って自らこの事態を解決すべく、トュマレンとの間で戦を始めるのはそう先のことではない」

 ピニャの説明を受けて、ハミルトンは「殿下のお言葉は理解できましたか? 質問は?」と皆を振り返った。
 すると伊丹や、剣崎、各隊員達は揃って「なし!」と意思表示した。
 ピニャは菅原にも問いかけた。

「スガワラ殿。補足しておくべき事項はあるか?」
「いいえ、ありません。我々日本側の認識と同じです」

 するとハミルトンが言った。

「では、状況説明が終わったところで意見させて頂きます。わたくしはグラス半島に不用意に近付くことに反対です。グラス半島沖は以前より海賊の出没する海域として有名です。現地の情勢把握は枢密院から届けられた報告書の内容だけで充分。あえて危険に近付く必要などありません。殿下の身に、万が一のことが起きたらどうするんです?」

 だがピニャはハミルトンの説得を一蹴いっしゅうした。

「この者達の乗る船が、海賊などにやられると思うか?」
「ま、ここは大砲とかの火器がありませんからね。俺達が近付けさせませんよ」

 剣崎や的射まといはそう言って、それぞれが手にする擲弾てきだん発射装置付きM4カービン銃や、対物狙撃銃を掲げた。

「い、言われてみれば、そうですね」

 ハミルトンは自衛官達を見渡した。
 この世界の海賊はせつげんして乗り移ってくるというやり方で襲撃してくる。だが、頼もしげなこの男達は海賊の乗った船を近付くいとまもなく沈めてしまうだろう。ピニャが強気になるのも当然なのだ。
 とは言えこの状況は帝国側から見ると、日本に警備を頼り切っていることを意味する。ハミルトンとしては一言を注意しないわけにはいかないのだ。

「スガワラ様。いいのですか?」
「まあいいんじゃないですか? 船は帝国に提供していただいてるんですから、等価交換と考えれば対等と言えます。それに最新の情報を得ておくメリットは理解できます。こちらから危険に近付いたりしないという条件でなら、かまわないと思います」
「グレイ騎士長! 何とか言ってください」
「小官としては特別なにも。本当に怪我させたくないのなら、そもそも城にしまっておいて外に出さなければいいのです。ですが、そう申し上げて聞き入れてくれるような方ではありますまい? ならば小官は小官の任務を全力で果たすだけです」

 どうやらほとんどがピニャに賛成、あるいは消極的賛成のようである。
 一人反対を叫んでいたハミルトンも、こうなると不承不承ふしょうぶしょうながら航路の変更を認めるしかなかった。


 一行の乗った川船はエネト川を下りはじめた。
 ほぼ半日かけてたどり着いたプロプトーで待っていたのは、伊丹がこれならばと胸をなで下ろす程度に大きな船であった。もちろん海自の護衛艦とは比べるべくもないが、全長五十メートル級の三本マストの風帆船ふうはんせんである。
 コロンブスが乗って大西洋を渡ったサンタマリア号の全長が約二十六メートルだから、大きさだけ見ても、これならば外洋を安全に航行できると信じさせてくれる迫力があった。

「イタミ卿。お部屋はこちらを使ってください」

 伊丹が水夫すいふに案内されたのは、尾部船楼びぶせんろう最上階に設けられた倉庫みたいな二人部屋であった。広さは三畳程度。狭いボンク(寝台)が二つ並べられただけで一杯という狭さである。
 船楼は二層構造で、最上階一番奥の個室がピニャの部屋として割り当てられていた。伊丹達に宛がわれたのはその並びだ。二人部屋なのでグレイと一緒に使うことになるが、この規模の船でのこれは大変な好待遇と言える。
 ちなみに菅原は船楼一階に位置する個室が割り当てられていて、そこは船長室の並びとなっている。女性が船楼最上階というのは、おそらくは覗き防止が目的であろう。

「ホントにここでいいの?」

 伊丹が問いかけると、水夫は恐縮した口調で言った。

「はい。イタミ卿ほどの方ならば、本来は個室を使って頂くところです。ですが当船に個室は二部屋しかありませんので、恐れ入りますがこれでご容赦下さい。そのかわり、大抵のことには便宜べんぎを図りますので、何かありましたらすぐにご用命ください」
「いや、容赦も何も、こんなに待遇を良くして貰って申し訳ないというか」
「とんでもない。卿の称号を持っておられる方ならば当然のことです」

 水夫はそう言って出航配置へと戻っていった。
 伊丹はカプセルホテル並みに狭いボンクに横たわってみた。
 うかつに寝返りをしたら落ちてしまいそうなほどに狭い。しかもマットが硬いのだ。だが、寝心地はそれほど悪くなかった。貧乏性が身についているからこちらの方が安心できるのだ。

「就寝訓練でもすっかな……」

 少しばかり昼寝をしようかと思った矢先に、ハミルトンがやってきた。

「イタミ殿。ご休憩中恐れ入りますが、一仕事お願いいたします……」

 出航の支度が調うと、この船の船長や航海士達がピニャのところに挨拶に来る。その時に傍で控えていて欲しいと言うのだ。
 ピニャの威厳付けと、護衛としての伊丹の顔見せをする意味があると言う。

「そっか。ピニャ殿下の警護をしなくっちゃね」

 拳銃をホルスターに収めてすぐに部屋を出る。

「こちらからお願いしておいて何なんですが、気を張る必要はありません。殿下の話し相手なんかをしていてください」
「そんなんでいいの?」
「ええ。かく言う私も、人目がない限り適当にやってるんですよ」

 ハミルトンはそんなことを言いつつ伊丹を案内して先に進み、ピニャの部屋の戸を叩いた。

「殿下。私です」
「ん、ハミルトンか。入れ」

 ドアを開くと、そこは四畳半程度の広さの部屋だった。
 寝台が一つあり、その上に特大サイズのトランクケースが三つ置かれていた。これは帝国製ではなく、日本政府が菅原を通じてピニャに贈ったものだ。
 そのふたを開いたピニャは、中に頭を突っ込むようにして「……確かに、入れたはずなのだが」などと呟いている。形の良いお尻をこちら側に向けていて、振り返りすらしない。

「殿下。お手伝いしましょうか?」
「いや、いい。私物の管理くらい自分でできる……」
「では、殿下がどれほど困っているように見えても、わたくしは決して手出ししませんからね。黙って見てても気の利かん奴だとは決して思わないでくださいね」

 するとピニャはちらと振り返り、機嫌のあまり良くなさそうな横顔を見せた。

「ああ。全ては妾の責任だ……」

 そう言い捨てて、再び箱の中に頭を突っ込んでしまうところを見ると、よっぽと大切な何かを探しているのだろう。

「時に殿下、そろそろ船長達がご機嫌伺きげんうかがいに参りますが」
「そうか?」

 ピニャは舌打ちすると、捜し物を中断して箱の蓋を閉じようとした。だが、ぴったりきっちり入っていた中身をひっくり返した状態で、蓋が容易に閉まるはずがない。

「あ……」

 そしてそんな時に限って、船長達がやってくるのである。ドアがノックされ、グレイが呼びかけてきた。

「殿下。船長達がご挨拶したいということです」
「ちょ、ちょっと待ってろ、グレイ。まだ、入ってくるなよ!」

 ピニャは渾身こんしんの力で蓋を圧した。

「ふんっ!」

 だが、トランクの載っているピニャのベッドは特別なあつらえなのか深々と柔らかく、さらにトランクの中身も弾力があって、ピニャの腕力はふんわり受け止められてしまった。そのためうまく蓋を押さえられない。
 急いで焦って慌てているものだから、中身を整える余裕もなく、勢いをつけて、ふん! ぐんっ! と力尽くで押し込む作業を繰り返すしかなかったのである。
 ピニャは「これでもかっ」と大きく跳躍して、トランクの蓋を力尽くで押し込んだ。
 だが作用反作用の法則に従って、ピニャのかけた力がそのまんま戻ってくる。ベットと中身の反発によってトランクが弾き返されて、盛大にひっくり返ってしまった。
 部屋にまき散らされる女性の衣類、特にカラフルな下着の数々。おそらくはアルヌス経由で輸入されたものであろう。
 他には書類の入った大判の封筒の束。その中から数枚のケント紙が飛び出して床に散らばった。

「しまった!」

 よっぽど人目にさらしたくないのか、ピニャは散らばったそれらを身体全体で覆い隠すように飛びつくと、その体勢のまま、こぼれた分を必死に掻き集めて胸の下に押し込んでいった。

「殿下、お手伝いしましょうか!?」
「ま、待て! 近づくなハミルトン! 自分でできると言ったはずだぞ!」
「でも、船長達を待たせてるんですから急がないと」
「くっ、仕方ない。分かった。ハミルトンはそっちに散らばった下着を集めてくれ。妾らはその他の貴重品を集める。重ねて言うがこちらには絶対に来るなよ」

 ピニャはハミルトンに背を向けると、床に散らばったものを拾っていった。
 手分けして拾い集めたものを片っ端からトランクに突っ込んでいく二人。
 だが、きちんと畳まずに放り込んだために、ますますかさばって蓋が閉まらない。無理に力を加えれば、またしてもひっくり返りそうである。

「ふんっ!」
「てやっ!」

 そんな掛け声は部屋の外にまで漏れ聞こえた。
 扉の前で入室の許可を待っているグレイや船長達は、ドア越しに漏れてくる彼女らの声を聞き、「ご婦人というのは何かと支度に手間が掛かるものですからな」などと苦笑したりしていた。
 一方、悪戦苦闘している二人を黙って見ていた伊丹も、このままでは事態が収拾しそうにないのを見て、一つの提案を持ちかけていた。

「いっそのこと蓋に座っちゃったらどうです? その重みで閉じた隙にロックかけますから……」
「こ、これに座れと言うのか? うん、いい手だ」

 ピニャは言われるままに、油断するとがばっと口を開こうとするトランクの上によじ登り、蓋にお尻を載せた。全体重でトランクの中身をなんとか押さえ込む。

「お、お、あと少しです。殿下! 頑張って」
「いや、ちょっと、頑張れと言われてもこれ以上無理だ……そうだ、ハミルトンも手伝え」
「あ、はい」

 女性二人がかりで蓋の上に腰掛ける。そしてどうにか閉まったところで伊丹がパチンとロックをかけたのである。

「ど、どうだ?」

 二人揃っておそるおそる腰を上げてトランクの様子を見る。蓋がびっくり箱みたいに開くことはなさそうであった。

「何とか閉まりましたね。でも、きっと中身がぐしゃぐしゃですよ。後できちんと入れ直さないと」
「そ、そんなことは分かっておる。急いでいたのだから仕方ないであろう?」

 ピニャは、ホッとひと息ついた。そして両手のほこりをパンパンと叩いて払うと、ハミルトンとともに髪や服装を点検して簡単に身繕いを始めた。そこで初めてピニャは伊丹の存在に気付いたのである。

「あ、い、イタミ殿……いつの間に?」
「最初からずっと居ましたけど」
「も、もしかして、見たのか?」

 伊丹は、床に散らばった色鮮やかな布きれの数々を思い出した。慌てて記憶を打ち消して、見たという事実を否定する。

「すみません。トランクの中からこぼれたものは見てません!」

 こういう時はたとえ見たとしても、見たと答えてはいけないのである。礼儀として。
 そして相手の女性もまた、誰が聞いても嘘と分かる嘘を受け容れて、見られていなかったことにしてしまうのがこの手の事故のスマートな処理法なのだ。
 だが、不思議なことにピニャは不自然なまでにこだわった。礼儀正しさがもたらした嘘を、あえて嘘だと指摘し、それを偽善だと責め立てたのである。

「や、やはり見たのだな!?」
「だから見てませんって!」
「なんということだ! 妾は破滅だ~~!」

 そして何故か知らないが、顔を真っ赤にして嘆き始めた。
 伊丹もピニャがここまで動揺する様子を見せると、「もしかして、下着以外にも見られて困る物があったのかな?」と気付く。とは言え、何が『それ』だったのかまでは分からず、呆然と、あるいはおろおろと事の推移を見守るしかなかった。

「くっ、かくなる上は……ハミルトン、この者を逮捕せよ!」
「で、殿下!? いったい何が起きたんですか?」

 想像すらしなかった事態に、忠実なるピニャの腹心ハミルトンもすぐには動くことができない。少なくとも納得できるような理由が必要だと言って、説明を求めた。

「こ、国家機密の漏洩ろうえいだ! 下手をすると帝国の命運すら左右されてしまうような秘密をこの男に見られた可能性がある」

 国家機密というキーワードを聞いた瞬間、ハミルトンも反射的に反応した。後ろから足払いして伊丹を床に転がすと、うつ伏せにごろんとひっくり返して腕をねじり上げる。

「なんで? どうして!?」

 事態が呑み込めない伊丹は、ここで抵抗して良いのかどうかも分からずされるがままになった。
 抵抗しようと思えばできたが、ハミルトンが手加減しているのが分かり、しかも「きっと何かの誤解です。悪いようにしませんから、今は大人しくしていて下さい」とささやくので、とりあえずは言われた通りに動かないでいたのだ。
 するとハミルトンは、伊丹の手足を敷布しきふなどを用いて縛り上げてしまった。きっちりと、緩みなく、遠慮仮借えんりょかしゃくもなく、ピクリとも動けなくなるほどにしてしまったのである。

「ご命令通り拘束しました。でも殿下、この後はどうなさるんですか?」
「う……どうしたらいいだろう?」
「問題は、漏洩したという国家機密です。いったいどんな情報ですか?」
「済まぬハミルトン。こればかりは誰にも話すわけにはいかぬのだ」
「秘書官の私にもですか?」
「そうだ」

 ハミルトンは、嘆息すると続けた。

「では、お尋ねします。どうしてこんなところにそのような大切な物を持って来たんですか!?」
「皇城に置いてきたら、メイド達に見られてしまうかも知れないではないか!? だからいつも手元で厳重に管理していたのだ!」
「つまりは、それほど重大なものなんですね」
「うん。妾にとって……いな、帝室にとってな」
「しかし、それだとなおさら後の始末に困りますね」

 ハミルトンは気の毒そうな眼差しを伊丹に向けた。

「分かりました。今はとにかく、イタミ殿を隠すことにしましょう」
「隠すのか? どうして?」
「このままにして、船長達を迎え入れるわけにはいきませんからね。どうしてこうなったんだって必ず聞かれますし、ニホン側に気取られたりしたら大騒ぎになってしまいます」
「そ、そうだった。それだけは何としても避けねばならぬ。だが、どこに隠す? この部屋にそんな場所はないぞ?」

 ハミルトンはピニャに宛がわれた船室を見渡した。
 そこには船のものとして見れば広い寝台、そして小さな椅子が置かれていた。壁には天板を折りたたむことのできる、小さな机がしつらえられている。
 クローゼットのような収納庫はなく、寝台の下がそれに当てられていた。だが既にピニャのトランクが入っていて、新たに人間一人を収めることはできない。

「殿下。こうなっては仕方がありません……」

 ハミルトンは、他に方法はないと言ってピニャに切り出した。


   *    *


「殿下の御座船ござぶねを務めます、ヒューゴ号船長のキングストンです。皇太女殿下のご乗船を歓迎申し上げます」
「副長兼上席航海士こうかいしのバーソロミューです」
掌帆長しょうはんちょうのボナレッティです」
司厨長しちゅうちょうのバスコダです」

 船長達の挨拶を、ピニャは気怠けだるげな口調で受け止めた。

「妾がピニャである。トュマレンとの往復の間、頼むぞえ」

 ベッドに巨大なクッションを置いて背もたれとし、美脚を組んで深々と背中を預けている姿はなんとも女王様的な尊大さに満ちていた。だが、帝国の皇太女がしているとなればそれは不思議なことではない。
 男達も「大義であった。下がって良いぞ」と言うピニャの言葉と、さげすんだような冷たい眼差しに、感動した面持おももちで退出していったのである。
 程なくして船長の出航配置に就けという命令が出て、てんぱん作業が始まる。

かいはんしゅ登り方よーい!」

 掌帆長の「登れ」という号令で、白い水夫服の男達が群がるようにしてマストの縄ばしごを登っていく。いましめを解かれた白いは、ハリヤード・ロープが引かれるとそのすそを大きく広げた。
 白い翼にも似た帆が風を受けて一杯に広がる。ロープのきしむ音、ばしらのたわむ音が船体を身震いさせると、船がゆっくりと桟橋さんばしを離れていく。
 小窓の外の景色がゆるやかに動き始めた。

「いよいよ出港しましたな」

 部屋に残ったグレイは、心配そうな表情で問いかけた。

「殿下、何か悪い物でも食されたのでありますか? 出港してない内から船酔いとは考えられませんが……」

 ピニャが身に纏っていたアンニュイ女王陛下的雰囲気は、グレイの一言で吹き飛んだ。

「いや……その、なんだ、妾も皇太女となったからには、雰囲気をそれなりのものにしなければと思ってな。女帝の貫禄かんろくというものをかもしてみたかったのだ。ダメか?」

 ピニャはそう言いながら「このポーズはどうだろう?」と評価を求めるように、背もたれに体重をゆったりと預けて脚を組んだ。

「高貴なる方にこのような言葉を投げかけるのは、打ち首物の無礼であることは承知しておりますが、ここはあえて真実を申し上げることこそが忠節ちゅうせつだと信じましょう……似合ってません」

 ピニャはがっくりと肩を落とした。

「そ、そうか………………妾には似合ってないか?」
「ええ、とっても」

 ピニャはさらに落胆した。

「そうか? とってもか?」
「はい。全く、完全に、どうしようもなく。あと十年ほど女をやってから出直してこいって感じですな」

 ピニャはうつむくと、プルプルと身体を震わせた。

「くっ……そ、そこまで言わずともよいではないか!?」
「殿下はまだまだお若いのですから、殿下らしくあればよいのです。臈長ろうたけた雰囲気などというものは、年齢を重ね熟女と呼ばれるようになれば自然と内側から湧いて出るもの。その時には今のような若々しさは出したくても出せないのですから、今は今のままであればいいと小官は愚考ぐこうするものであります」
「そうか? 分かった。忠言ちゅうげん痛み入る」
「どういたしまして。では、小官はこれより船内を見回って参ります。いざという時にニホンの方々に頼ってばかりでは、我らの面目めんもくが立ちませんからな」

 グレイはそう言い残して、ピニャの部屋から出て行ったのである。

「…………行ったか?」
「はい。行きました」

 扉を細く開けて、廊下の様子を窺っていたハミルトンの合図で、ピニャはため息をついて脱力した。そのままうつ伏せになるとクッションに抱きつく。
 だが、その時ピニャの体重を支えていたクッションがもぞもぞ動き出した。

「うひゃ!」

 こそばゆかったのか、ピニャは飛び退くようにしてベッドから離れた。
 ハミルトンが掛布をとると、クッションの中身が姿を現す。するとそこに縛り上げられて芋虫いもむしと化している伊丹がいた。
 ピニャは伊丹を背もたれにして隠していたのである。

「さて、殿下。これでしばしの間、時を稼ぐことができました。ですがそれもいつまでも続きません。どうするかを早急に決めなければ……」
「どうするかと言うと?」
「ずっとこのままという訳にはいかないではありませんか? イタミ卿に秘密を知られたのであれば、口封じするか、やみほうむるしかないんです」

 その剣呑けんのんな発言を耳にして、さすがの伊丹も黙っていられなかったのか、うーうー唸りつつ身をよじって暴れようとした。
 それを見たピニャは慌てて伊丹に取りすがった。

「い、イタミ殿! 安心召されよ。妾が卿を闇に葬るなんてするわけないであろう!?」

 ホントに?
 伊丹が視線で問いかける。そしてピニャがなだめるように頷いた。

「ああ、ホントだ。それだけはしないと約束する」

 だが、ハミルトンは冷たい口調で続けた。

「つまり、殿下は秘密保全のために一番常識的かつ、合理的な方法を放棄なさろうと言うのですね」
「うむ。イタミ殿を害するのは絶対にダメだ」
「しかし、他にどんな方法が……」
「イ、イタミ殿の見た物を忘れさせるという方法はなかろうか?」
「えっと、そう言えば、どこかの魔導師がそんな研究をしているという話を小耳に挟んだことがあります。ですがここは船の上ですよ。今すぐは絶対に不可能です」
「では、帝都に戻るまでイタミ殿をこのまま監禁しておくしかないな」
「それも無理です。いずれイタミ殿がいないことにニホンの方が気がつきます。船内の捜索だなんてことになったら、隠しきれませんよ」

 ピニャは悔しそうに爪を噛んだ。

「くそっ、どうしたらいいんだ?」
「殿下、本当にイタミ卿にその国家秘密とやらを見られたのですか? 先ほどまき散らした荷物なら、私も見ましたけど、それらしきものはなかったと思いますが」
「そうだな。確かにイタミ殿がアレを見てない可能性もある。だが所詮は可能性だ。イタミ殿はニホンの軍人であり、全ての行動はニホンの国益のためになされる。妾の秘密を知ったかと問うても、素直には答えまい。誰にも言わないで欲しいと頼んで、今ここでという返事を得たところで、それを信じることもできぬ。つまり、実際に見ていようと見ていまいと、見られたことを前提で妾達は対策を講じなければならぬのだ」

 伊丹はそれほど真面目な自衛官ではないし愛国者でもないのだが、どうもピニャは伊丹を実像よりも高く評価する傾向があった。
 ハミルトンは、う~むと呻く。そして納得したように掌を打った。

「やっぱり、イタミ卿を闇に葬っちゃうしかないですねぇ。このまま海に放り込みましょう」
「それはダメだと申したであろう!?」
「ですが、今ここでイタミ卿を説得したり交渉したりして秘密を明かさぬ約束をとりつけたところで、殿下はそれを信じられないのでしょう?」
「その場しのぎの嘘である可能性がある以上はな……」
「だとしたら、イタミ卿を闇に葬る以外にどんな方法があるというのです?」
「だから、そういう短絡的たんらくてきな方法以外に、何かいい方法はないかと問うているのだ!」
「先ほど申し上げましたように、この船の中にいる限りは選択肢せんたくしはそう多くありません。……いっそのこと、記憶が飛んで消えるまでイタミ卿の頭を叩いてみますか?」
「それでは、イタミ殿が死んでしまうではないか!?」
「だったらどうしろって言うんですか!?」
「分かった。では、この旅の間、イタミ殿を常に側に置き、監視し続けることにする」
「それは、どこかに閉じ込めて置くのとどう違うのですか?」
「イタミ殿には表向き、妾の警護を続けて貰うのだ。国に戻って、記憶を消す方法か、イタミ殿が黙っていてくれるという確証を得るまでな」
「はぁ……なるほど、その手で来ましたか」
「反対か?」
「いえいえ。ただ大変だろうなぁとか思いまして。何しろ、片道七日から十日の旅です。現地に到着して、トュマレンの宮廷で、そして復路を含めたらいったいどれだけの時間がかかることかと思いまして」

 そこまで考えていなかったのか、ピニャの額にじわりと大粒の冷や汗が浮いた。

「そ、そうだな」
「その間、眠る時も食事の時も湯浴みの時もトイレに行く時ですら、イタミ殿とご一緒ということなんですね?」
「う……」
「殿下、いっそのことイタミ殿と結婚しちゃったらどうです? お身内にしてしまえば安心できますよ」
「だ、ダメだ!」
「どうしてです? 寝食をそこまで一緒にしたなら、その方がもう自然じゃないですか? そうなれば周りも不思議がらないですし。今の状況で常時一緒って、絶対に無理がありますよ。周りに何と言って説明するんです?」
「だがそんなことをしては、イタミ殿に大変な迷惑をかけてしまう。それにこのような状況で配偶者になってくれと頼んだら脅迫きょうはくだ。たとえ良い返事を貰ったとしても、それはその場しのぎの返事としか思えなくなってしまう」

 めんどうくさい女。
 ハミルトンは、生まれて初めて主君のことをそう思った。
 人間は社会的な地位なんかより中身の方が大切だとエセ教養人が口にすることがあるが、権力とか、地位とか、そういったものも所有者の一部というのが現実である。
 なのにこの女はそれらを抜きにして「の妾を好きになって!」という贅沢なことを言っているのだ。
 さらに言うと、ピニャは悪い返事を貰う可能性を除外している。
 この状況で嫌がるということは、「死んでも嫌だ」と言われるのと同義で、それはそれで精神に深い傷を負うことになるから考えないのも当然だが、頭っからその可能性を否定しているのも傲慢ごうまんっぽく見えてしまうのだ。

「ま、そうでしょうけどね。分かりました、そうしましょう」

 ハミルトンは、伊丹の顔を両腕でわしづかみにすると通告した。

「と言うわけです、イタミ卿。状況はご理解頂けましたか? 殿下がこうおっしゃるので、貴方を海に放り込むというのはナシにします。貴方が国家機密をご覧になったかどうかは存じませんが、記憶を消去する方法が見つかるまでは、お付き合い願います。いえいえ、返事は結構です。どうしても嫌とおっしゃるのなら、振り出しに戻ってこの場で始末するだけですから」

 ハミルトン嬢は可愛らしく微笑んだが、瞳は全く笑っていなかった。伊丹をして、マジでやられかねないと覚悟を決めたほどだ。

「素直にご協力を頂けるのであれば、卿はきっとご無事に本国に帰ることができるはずです。記憶を消去するという魔法が果たして本当にあるかどうかまで存じませんが、とにかくそういう処置が済めば無事に帰れます。どうですか? この方法で納得して頂けますでしょうか?」

 縛られた上に猿ぐつわを噛まされている伊丹には、否も応もなかった。
 ただ小さく繰り返し頷き、同意の意思を示すしかなかったのである。



   03


「これで、イタミ殿はどこにも行くことができません」

 ハミルトンは、奴隷用の足枷を持ってくると伊丹の左足首に装着した。身長の長さほどもある鎖のもう一端は、ピニャの右足首に装着される。その上で伊丹は、ようやく縛めから解かれたのである。

「なんでまた足枷?」
「手枷ですと来客があった時に見えてしまうじゃありませんか。足枷なら、足下に物を置いたりすれば隠しておけますから」
「いや、そういうことじゃなくって、こんなことしなくったって」
「そうだぞハミルトン。いささかやり過ぎのような気がするぞ」

 ピニャも、自分の足首につけられた足枷の重さに不自由を感じているようであった。

「殿下。国家の機密を守るためなんですよ。わずかな気の緩みがイタミ殿に脱出を許すことになります。私たちが一瞬でもイタミ殿を見失ったら、機密は漏洩すると考えなければなりません」
「そ、そうかも知れぬが、イタミ殿は逃げぬと約束してくれたであろう?」
「ダメです。イタミ殿が同意して下さったことに私個人は感謝してますし、殿下が信頼していることも理解していますが、私の秘書官という立場がそれを許さないのです」
「国家機密ねぇ。いったいどんな事なんだか……」

 伊丹が呟くとピニャはぎくっと身を震わせた。その背中はなんだか親が大事にしていた花瓶を割ってしまい、そのことがいつ露見するかと怖れている子供のようだった。
 その様子を見れば、伊丹も相当に不味いことなのだろうなぁと分かる。ここは大人しくしているのが上策だろう。

「分かりました。こうして鎖に繋がれてれば安心できるってなら我慢しますよ。『意思』じゃなく、『能力』を警戒せよってのは、自衛隊でも同じですからね」

 ハミルトンは「ご理解痛み入ります」と言って深々と頭を下げた。

「でもさ、なんだってこんなものが船にあるの?」

 伊丹は床を這う鎖を持ち上げた。

「一旦出航すれば、何が起こるか分からないのが船ですから。水夫同士の喧嘩けんかで死人が出ることもありますし、海賊に襲われて捕虜ほりょをとることもあります。なのでこういったものも用意しておくのです」
「なんともなぁ」

 原始的なじょうを用いた鋳鉄ちゅうてつ製の足枷は、無骨ぶこつでずしりと重かった。一番重いパワーアンクルを常時装着しているような感じである。このままボクシングの練習でもしたら、さぞかし軽快なフットワークをこなせるようになるだろう。

「鍵は私が保管します。従って殿下を言いくるめてだまそうとしたり、力尽くでどうにかしようとするのは無理だと諦めて下さい。良いですね?」

 その冷たい言い方に、少しばかりかちんと来た伊丹は、ハミルトンを揶揄するようにこの状況がもたらす最大の問題を挙げた。

「へいへい。だけど、入浴とかトイレとかはどうするの? こういうのってマンガとかだと、大抵は半開きの扉越しに恥ずかしい音が漏れ聞こえる恥辱ちじょくイベントってことになるんだけど?」
「殿下が沐浴もくよくされるなどの際は、わたくしが代わります。卿のプライバシーには興味がありませんから、戸の外に繋いで離れていますよ」
「あ、そう」

 冷静な切り返しに伊丹は仕方ないなと床に座った。
 ピニャはベッドの上に座り、ハミルトンはその傍らに立って伊丹を見下ろすという位置関係だ。伊丹の足首から伸びる鎖は床を這って、ピニャの足首へと繋がっていた。

「それなら常時、柱とかに繋いでおけばいいんじゃない?」
「なんとか監視の目を盗んで、足枷から足を抜いて逃げるつもりですね?」
「いや。それはしないって」
「信用できません。信用できるなら、そもそもこのような処置は必要ないんです」
「そっか。そうだったな」
「では、私はこれから船長のところに行って、食事の類は部屋まで運ぶように頼んで参ります。理由はそうですね……殿下が船に酔って気分が良くないから、ということにしましょう。殿下、しばしイタミ殿と二人きりですが、よろしいですか?」
「かまわぬ。お前には苦労をかけるな」
「いえ、これも殿下の御為おんためですから。では、私が戻るまでには寝台に横になっていて下さいね」

 ハミルトンはそう言い残して部屋から出ていってしまった。
 部屋には、ピニャと伊丹だけが残される。少しばかり気まずい沈黙が部屋の中に満ちていた。
 いい加減沈黙に耐えられなくなった伊丹が口を開こうとした瞬間、ピニャは床にひざまずいて伊丹に頭を下げた。

「い、イタミ殿。済まぬ……! もう、何とわびれば良いやら」

 これには伊丹も驚いた。まさかピニャが床に額をこすりつけるとは思わなかったからだ。

「そ、その土下座をいったいどこで。帝国にそんな作法があるなんて聞いてませんよ」
「ニホン人は、本当に申し訳ないことをした時、こうやってわびるのであろう? 講和の手続きの際に泊まった宿の『てれび』とやらで見たぞ」
「いや、それはまあそうなんですけどね。でも国家機密ならしようがないですよ。殿下がまあ悪くしないようにしてくれてるのは分かってますんで。もちろん、ヤバそうだと思ったら全力で逃げますし抵抗しますけど、そうでないなら付き合いますよ。いい加減、馴れました」

 ピニャの胸に、伊丹の馴れましたという一言がとげのように突き刺さった。

「くっ……そうだったな。妾は卿に迷惑をかけてばかりだ。あの時も、またあの時も……」

 伊丹としては、馴れましたという発言は、気に病まないで欲しいという趣旨しゅしのもののつもりだった。だが、効果の程はまったくの逆で、ピニャを自嘲じちょうモードへと追い込む結果となった。自虐的じぎゃくてきになったピニャは鬱々うつうつとした心境を吐露とろし始める。

「卿はもう妾の顔など見たくはないであろうな。いや、当然だ。こうも不愉快な目に遭い続ければ誰だってそうなる。きっと妾のことも嫌いであろう? こうして鎖で繋がれるなど、身の毛もよだつことだろう? だが、しばしのことだ。耐えてたもれ。もうこれで最後にするから。これ以降は卿に迷惑をかけることはないと約束する」
「そうなってくれると良いですねぇ」
「うむ。これからは卿とはなるべく顔を合わさぬようにする。それに妾にも配偶者の話が出ている。こうして気楽に城を出られるのも、これが最後となるであろうしな」
「へぇ、ご結婚なさるのですか?」
「うむ。帝位に就く前には配偶者を得ておくのが望ましいと思うからな」
「で、相手はどんな方です?」
「まだ分からぬ。これから選ぶことになる」
「いい人が決まると良いですね」
「そう言えば、卿は結婚したことがあったんだったな?」
「ええ、まぁ。呆れられて、離婚することになっちゃいましたけどね」
「参考までに尋ねたいのだが、結婚というのはどんなものだろう?」
「相手次第ですから何とも言えませんね。ただ言えるのは、他人と一緒に居るということは、良いことばかりじゃない。悪いことばかりでもないってことです。肉親ですらわずらわしく感じられる時があるでしょう? 配偶者っていうのは育った環境も違えば、血も繋がっていないわけですから、いろいろと感じ方、考え方が違うわけで、そうなるともう、何を考えているかさっぱりで……」
「……さっぱりだったのか?」
「ええ。そして、気がついたら、別れましょうとか言われてました。あはははははは」
「それで卿は、素直に応じたのか?」
「あんな顔で言われたらね……」

 伊丹は、号泣しながら額を床に擦りつけて、ごめんなさいを連発していた梨紗りさの事を思い返した。結局何故だったのか、どうしたかったのかを聞くことはできないままだった。
 別に絶交したわけでもないし、その後も行き来があったため、いずれ理由を聞けると思ってそのままにしておいたら、つい今に至ってしまったのである。

「そうか、卿は優しいのだな」
「何人かの友人には、冷めてるって言われましたけどね。『離婚して下さい』『はい、いいよ』って二つ返事で答えられるってことは、それほど相手に執着しゅうちゃくがないってことだろうって。そう言われてみればそういう気もしますね」
「それは違うのではないか? 卿はリサ様の気持ちを考えて、そうした方がいいと思ったのだろう?」
「まぁそのつもりだったんですけどね。そのつもりだったのに、実際はそうは伝わらない。世の中ってそういうことばかりでしょ?」
「確かにそうだな。だが、ねたましい」
「なにがです?」
「相手のことを思いやってそれを行動に移せることだ。妾には皇太女、そして女帝という立場が常について回る。どうあがいたとしてもそこにあるのは気持ちではなく政治だ。互いのことを思いやる前に、背負っている国家、そしてまつりごとという視点で相手を見る。例えば外国の公子を配偶者に迎えておいて離婚した場合、国交断絶から戦争へと繋がりかねない」
「そ、それはそれで大変ですね」
「ああ。大変だ……だが同時に気楽でもある。私情を排して徹頭徹尾てっとうてつび、損得勘定だけで相手を見定めればいいのだからな。皇城が広いのも、不快な相手と顔を合わさぬためだ。心許せる相手が欲しかったら愛人を持てば良い。種馬なんかに誠意など求めぬよ」
「うわっ、種馬発言きたよ!」

 伊丹は盛大にのけぞり、ピニャはそんな伊丹の態度を意外そうに眺めた。

「なんだ? 卿も事実を指摘されるとどん引きするタイプか? だが種馬も愛人稼業も、開き直れば気楽だと聞くぞ? ねやの義務さえ果たしていれば、あとは好きに暮らせるのだからな。妾の母も、陛下の正妻ではなかったしな」
「毎日好きなように暮らして問題ないっていうのは、確かに良さそうですね。毎日食っちゃ寝生活だけならしてみたい」

 伊丹はマンガや小説を積み上げて、ひたすらそれを読みふけって過ごす毎日を夢想した。特地での問題は新刊の入手だが、それさえクリアされれば最高の人生となるかも知れない。

「やはり種馬役は嫌か?」
「いや、きっとそれは相手によるんでしょうね」
「ふむ。つまりは相手をどう思っているかで、種馬という役割も我慢できるという意味か?」
「いえいえ、我慢どころか望んで種馬になりますってことで……」

 ピニャは驚きの余り目と口とを丸くした。

「まさか、そのような奇特な男がこの世に存在しようとはな」

 まじまじと伊丹という男を見てしまったのである。


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