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外伝1南海漂流編
外伝1南海漂流編-2
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* *
―― アルヌス街・組合食堂『あさぐも』 ――
「ということでまた出かけることになった。だけど任務の内容が内容なんで、みんなを連れて行くことはできない」
アルヌスの組合食堂にやってきた伊丹は、新たな任務によってしばし留守をすることになったと、親しい者達に告げていた。
ロゥリィ・マーキュリーは衝撃を受けたような表情をして頬を膨らませる。
「ついてっちゃ、ダメなのぉ?」
レレイ・ラ・レレーナも少しばかり顔色を青ざめさせて、ぷるぷると身を震わせた。
「配偶者の同行を許さないなんて。おかしい。どうかしている」
テュカ・ルナ・マルソーは、弓と矢を手にとって立ち上がった。
「そんなことを決めたのは誰? 今、どこにいるのかしら?」
冷たい表情のテュカを慌てて引き留めた伊丹は、三人に向けて手を合わせた。
「今回は菅原さんの護衛で、前みたいなお気楽な探索仕事じゃないんだ。だから我慢して欲しいなって――思っちゃダメ?」
「つまりぃ、あたしぃたちに飽きたってことぉ?」
「倦怠期?」
「お父さん。別れ話っていうのは、もっと早く言うものよ。こっちが離れられなくなってから切り出されても困っちゃうじゃない。そういうわがままで勝手な悪い子には、お仕置きが必要よね。ううん、いっそのこと離れられないように、縛りつけてどこかにしまっておこうかしら」
ロゥリィが、よよよと伊丹に縋りつき、レレイが問うような視線を伊丹に向けた。
テュカにいたっては、怪しく輝く危険な視線を伊丹へと向けている。いささかヤんでるその目の色に、伊丹は「ヤバイ。テュカの奴なら本当にやりかねない」と背筋を震わせた。
「あ、飽きたなんてことないからっ! 倦怠期なんてこともないっ。別れ話なんて最初からしてないしっ! ただ、みんな忙しいだろ? ロゥリィはいろんな神様を呼び寄せてたくさん神殿をつくらせるって張り切っていたし、レレイには『門』再開の研究を続けてもらわないと困る。テュカだって開拓村の場所選びに、あちこち出歩いてるじゃないか。そうだろ!?」
組合に所属している者は、今、一人残らず多忙な毎日を送っていた。『門』がなくなったら商品の入荷が停まって、失業してしまうと心配していたPX(駐屯地購買部)の猫耳店員のメイアですら、今ではレレイの助手として忙しく立ち働いているのだ。
大工達は街の再建に忙しく、商業部門の者は帝国とニホンとの戦争が終わったことを利用して大々的な商売をしようと販路の開拓をしている。開拓民も続々と集まって、あちこちに水路を敷き、荒れ地の開墾作業に精を出す日々だ。
そんな人々を指導する立場にあるロゥリィ達が、今のアルヌスを留守にすることなどできるはずもないのだ。
「だからさ、それぞれ自分の役割をちゃんと果たそうよ。私事はその後でな、な?」
伊丹からこう説得されてしまうと、ロゥリィ達も強く言い返すことはできなかった。
男の一部には、女性という生き物は公私を分けることが苦手だという偏見を抱く者がいるが、そんな者でも彼女達に関しては例外だと認めざるを得ないほどの克己心を示したのだ。
とは言え、彼女達も感情の影響を受けないわけではない。我慢しているに過ぎないから、その分の遺恨は生まれるし、綺麗事っぽい建前を並べて自分達に我慢を強いる男への憤懣は、当然のことながら行き場を求めてあちこちを駆け巡ることになる。
男の『貸借帳簿』には通常、金銭、物品、役務の提供、そして特別な勘定項目に義理人情といったものが記載される。だが、女性の場合はさらに「感情(気持ち)の処理」という項目が付け加えられている例が少なくない。
このことを知らない男が、借り方に膨大な赤字を抱えていることに気付けず、後になってから利息で膨れあがった莫大な額の請求書を突きつけられてしまうのだ。
愛想の良い女性の微笑みは、時として返し忘れたままになっているDVDがあるのに、延滞料金が充分な額に達するまで教えてくれないレンタルビデオ屋の店員のソレに近いものがある。くれぐれも注意しておくべきなのだ。
その点で言えば、三人はとても伊丹に親切であった。
「ずるい」
三者は三様の姿形で、自分が不満を抱いていることを即座に明らかにしてくれるからだ。
伊丹としても、自分が悪いわけではないのにという気持ちになるが、女性相手にそれは通用しないこともそれなりに分かっている。
世の中というのはどうにも理不尽にできている。だから繰り返し頭を下げ、寛恕を求め、後で返済を約束するのである。
「ちゃんと埋め合わせするからさ。な、な、な」
「ほんとぉ?」
「もちろん」
「ちゃんと別個によ! 三人一緒に何かしてはい終わりじゃダメなんだからね?」
「分かってる。一人ずつな……」
「その条件での契約締結を受け容れる」
伊丹は心の貸借帳簿の借り方に、返済が必要となる事項を記入した。
ぷんぷんと腹を立てている三人が立ち去るのを見送った伊丹は、「疲れた」と盛大なため息をつき、食堂のテーブルに突っ伏した。
しばらくは、立ち上がる気にもなれない身体の重さである。
「隊長。あんまり冷たくしてると飽きられちゃいますよ」
「うぐ……その声は倉田?」
一部始終を見ていたであろう部下に揶揄されると、伊丹の体感疲労度はさらに増した。
「仕事なんだからしようがないだろう?」
「でも、気を持たせておきながら放置してるでしょ。後が大変ですよ、きっと」
倉田は伊丹の突っ伏すテーブル席に腰を下ろした。複数の気配から、やって来たのは倉田三等陸曹だけではないと分かる。
顔を上げてみると、倉田はその背中に、フォルマル伯爵家のメイドのペルシアをしがみつかせていた。
べたべたと甘ったるい雰囲気を周辺に放散して、正直、むかっ腹が立ってくるいちゃつきぶりである。ペルシアのゴロニャンという猫なで声が聞こえるからなおさら始末に負えない。
「さすがはクラタ様。その通りだと思いますわ」
加えてさらなる声が伊丹に投げかけられた。
「せめて自分の立場を明確にして頂ければ、女も安堵することができるのですが、何もかもがあやふやのままではどうしたって不安になります。それを避けるには一緒にいるしかない。とにかく一緒にいて、自分の居場所を確保し続けようとするのは不安のせいなのです。なのにあんなに冷たく突き放して……。あの方達が機嫌を害されるのは致し方のないことですわ」
身体を起こしてみれば、そこに座っていたのは金髪縦巻ロールのお嬢様ボーゼスであった。
そんな彼女の隣にいる富田は苦い笑みを浮かべている。彼女の言葉が遠回しに自分を批難するものに感じられたからだろう。
この二人は既に結婚してもおかしくないような間柄である。なにしろボーゼスのお腹には二人の関係を示す物的証拠とも言える命が、あと少しで誕生するほどに育ってきているのだから。
にもかかわらず結婚という関係には至ってない。婚姻届を提出しようにもその窓口は存在しないし、国際結婚のための書類のやり取りすらできないからである。
とは言え、そういう理屈はボーゼスに通用しない。
あやふやな関係が続いてしまうことに我慢ができなくなったボーゼスは、再建の槌音が鳴り響くアルヌスへとやってきて、「形式なんてものは後でちゃんと整えればいいとおっしゃるのであらば、先に実の方を整えて下さいませ」などと言って、富田の押しかけ女房よろしくアルヌスの一角に新居を構えてしまったのである。
そんな行動的なボーゼスによる女心についての講義は、かなりの説得力がある。
伊丹は幸せそうな表情で香茶をすすっているボーゼスに問いかけた。
「あの、ボーゼスさん? ふと疑問に思ったんですが、騎士団の指揮はしなくていいんですか?」
「もちろん退官して参りましたわ。今のわたくしは、皇太女殿下より信任状を得ましてアルヌス駐在の武官という立場でここにおります」
そのあたりの手続きには遺漏はないと言うことであった。
「しかし、あの三人がいないとなるとちょっくら不安ですね。隊長一人で大丈夫っすか?」
倉田と富田の二人は声を揃えた。
伊丹が特地を一人でうろうろできたのは、あの三人がついていたからである。彼女らがいないのであれば、自分達のような気心の知れた同行者が必要であろうと言うのだ。
「俺達がついていきましょうか?」
それは正直、嬉しい申し出である。だが、それに伴って二対の殺視線が伊丹に突き刺さるとなると、いささか迷惑でもあった。しかも、ペルシアとボーゼスの視線には、「断れ~、断れ~」という念が込められているのだ。
「いや、いいって。今回の仕事には剣崎達がついてくれるからな」
「特戦の人達ですか?」
「ああ。今回は人数が少ない上に支援の受けられない遠隔地だからな。腕っ節が優先された。俺の場合は…………ま、別の理由だろうけどな」
用があるから来いと言われ、上級幹部達が居並ぶ前に出た時の、針の筵に座らせられたような感覚は思い出すだけで冷や汗が出る。そこには、断る余地すらなかったのだ。
伊丹はそういうことなんで、と言いつつ二人に手を上げた。
「気をつけて行って来て下さいよ。そこかしこじゃ、まだまだ物騒なんですから」
「分かってる分かってるって。じゃ、支度があるんで俺、もう行くわ」
そんなことを言って立ち去ろうとする伊丹の背中に、ボーゼスが声を掛けた。
「イタミ様。トュマレンには真っ直ぐ向かわれるのですか?」
「いいえ。一度、帝都に行って、そこから行くみたいです」
「そうですか。トュマレンはなかなかに難しい相手だと聞き及んでおります。どうぞお気を付けて下さいましね」
「ありがとうです。では行ってまいります」
伊丹はぺこりと頭を下げると、四人の前から去って行った。
その背中が見えなくなったところで、ボーゼスが言った。
「セバスチャン!」
「はい。お嬢様」
たちまち現れるボーゼス付きの執事とメイド達。彼らは身重の娘を心配したボーゼスの両親が、彼女のために送って寄こした精鋭であった。
「姫殿下に緊急にお知らせをします。すぐに支度を」
「既にできております。どうぞ」
いつ用意してあったのか、よどみなく出てくる小さな羊皮紙に鵞ペン、そして南国鳥にも似た極彩色の鳥が入った籠。特地の鳥で、その名は鸚鵡鳩と言う。
ボーゼスは真っさらな紙面に、さらさらと流麗な文字で何やら認めていった。
「何をしているのかって聞いて良いかい?」
富田の問いかけにボーゼスは文面を推敲しつつ答えた。
「殿下にこの機会を逃すなとお伝えしようと思いまして」
「どういうこと?」
富田の問いにボーゼスは小さな微笑みで返した。
羊皮紙を小さく丸めて、メイドに取り出させた鸚鵡鳩の脚へと装着する。鸚鵡鳩はびっくりしたような表情をしたが、されるがままになっていた。
「臣下としては殿下にはなんとしても幸せになって頂きたい。そう思うのですよトミタ」
「もしかしてあの姫様、隊長に……そうなの?」
だが、ボーゼスはくすっと意味深に笑うだけで答えようとしない。
「それって隊長や姫様にとっていいこと? 波風立たせることになったりしない?」
ボーゼスの手紙が、伊丹とその周囲にいる女性達の関係に一石を投じることになるのは間違いない。だがボーゼスはそんなことは関係ないとばかりに首を竦めた。
「物事というのは、何が正しくて何が間違っているとは決められませんわ。どうなることが幸せに繋がるかなんてこと、誰にも分かりませんもの。ご存知でしたか? 最初わたくしは、イタミ様に寛恕を賜るための人身御供だったのですよ」
「そ、そうだったの!?」
「ええ。もう壮絶な覚悟を決めて、イタミ様の寝所に参ったのです。ところが全く相手にされなくて、いろいろな意味で腐っていたところ貴方に出会えたのです。おかげで今ではこんなに幸せですわ。だから思うんです。人は心のおもむくままに信じる道を進むしかないのではないのかって。これで壊れてしまうような関係ならば、それまでのこと。かえって深まるのなら、それまたそれでよし。そうは思いませんか?」
ボーゼスはそんなことを言って、メイドに鸚鵡鳩を放つように命じた。
極彩色の鳥が青い空の向こうへと消えていくのを見送った富田は呟く。
「伝書鳩って、こっちにもいたんだ?」
「以前、貴方から鳥の帰巣本能を利用して手紙のやりとりをする方法があると聞いて、家の者に研究をさせていたのです。観賞用として我が家に飼われていた鸚鵡鳩の具合が良いようです」
すると執事のセバスチャンが解説を付け加えた。
「我が家で生まれた鸚鵡鳩は、放し飼いにしていても逃げずに帰ってくることが分かっておりました。そこで試みに馬で一昼夜かかるところまで連れていき、放してみましたところ、見事に戻って参ったのです。この鸚鵡鳩の飼育がもう少し早くできていれば、先の内戦も少しは有利に事を進めることができたでしょうが、こればかりは致し方のないことです」
「帝都に手紙が届くのに馬では十日もかかりますが、これを用いれば三日で届くのよ」
ボーゼスは自慢そうに言う。すると執事はそれをこき下ろすような言葉を続けた。
「まぁ、そのためには鸚鵡鳩を定期的にえっちらおっちらと運んでこなければなりませんがね」
「あら、セバスチャン。手間を厭うなら鸚鵡鳩の数を増やせばいいことじゃなくって?」
「しかしお嬢様、鸚鵡鳩は元々からして高価ですし、毎日餌をやったりと世話を施すのも手間です。それを考えますと、数を増やすのにも相応の費えがかさみます」
「でも、これが実用化できればそれを超える利益を得られるはずですわ。例えばこのアルヌスでの動きを、人より七日も早く知ることができるんですからね」
「はい。旦那様も、この鸚鵡鳩を用いた伝書網を帝国全域に広めることを考えておいでです。その構想が実用化された暁には、我が家の権威はさらに高まることとなりましょう」
執事はそんな言葉の後に、視線を富田へと向けた。
「トミタ様。お嬢様に対する旦那様の勘気が解けたのも、この功績があってのこと。もし、今以上のご貢献があれば、旦那様はお嬢様のご結婚も公式にお認め下さるやも知れません。そうなれば今のような日陰者の扱いからも解放されるはず」
執事とメイドに傅かれる生活が日陰者だそうである。もし結婚がボーゼス父から認められたらどんな生活が待っているのか、は想像することすらできなかった。
「無理をしないでくださいましね。わたくしは今でも充分に幸せなんですから」
「なんと健気なことを……。ご婦人にこのような苦労をさせてよしとするのは、果たして男としてはいかがなものでしょうかな?」
執事は富田を睨みつつ、わざとらしく涙を手巾で拭く素振りを見せた。
「つまり、ボーゼスを幸せにしたければ、もっといろいろ良いことをもたらせということですか?」
「ご理解が早くて大変に結構。私も貴方様を、旦那様とお呼びできる日を心待ちにしております」
執事はそう言って恭しく頭を下げる。
富田は、「困ったな」と苦笑しつつ頬をポリポリ掻いた。
* *
―― 帝都 皇城 ――
皇城の皇太女執務室では、ピニャ・コ・ラーダが机に向かっていた。
小刀で鉛筆を削りながら、鼻歌なんか歌っている姿はなんだかとっても楽しそうである。
机の上には輸入物のケント紙が置かれていて、何を始めるつもりなのか鋭く尖るまで削られた鉛筆が三本ほど並べられていた。
ピニャの手にはさらにもう一本。そのほかには、消しゴムやら、羊皮紙やら、インク瓶なんかが机の上に整頓されて並べられている。
「姫殿下!」
だが、ハミルトンの声が抗議口調で聞こえると、ピニャは慌てて机の上のケント紙を書類の下へと埋めた。そして上機嫌だった表情を不機嫌そうなものに切り替えると、腹心の呼びかけに対して眉間に皺を寄せ、うんざりした声色で答えたのである。
「何の用だ。お小言なら、もう聞き飽きたぞ」
「しかし!」
「言うなと申しておろう!」
「ですが!」
「分かっておる。だが、こればかりは仕方ないではないか!」
「いいえ、仕方はあります。殿下が自分には意中の男性が居るから、配偶者の斡旋はもう結構とおっしゃれば済むことです!」
「だが、それを口にすれば、今度は意中の相手というのはどこの誰だと問われることになる。妾は答えられないぞ。そんな者はいないのだからな」
「では殿下は、どこの誰とも分からない馬の骨を押しつけられてもいいとおっしゃるのですか?」
「馬の骨とは酷いな。例えば……」
例えばと言いつつ、即座に実例が出てこないピニャは中空に視線を泳がせた。そしてテストでカンニングする時のような素早さで、机の上の書類に視線を走らせた。
「そう、例えば……エルミール伯爵公子も、マードレ男爵も帝国貴族だぞ」
ハミルトンは、その一瞬の間に付け込むように言った。
「お二方とも此度貴族に列せられたばかりではないですか。しかも、エルミール伯爵公子はダークエルフで、マードレ男爵にいたってはドワーフです。もしかして殿下は帝室に亜人種の血を入れたいとお考えですか!?」
「そういえばキケロ卿もそんなことを言って猛烈に反対してたな。ほぼ丸一日の長演説……妾は眠たくって拷問されているような気分になった」
「演説の長さについてはわたくしも殿下と同意見です。ですがその内容については完全にキケロ卿に同意いたします。例えばダークエルフ族の方々などはヒト種に比べてとんでもないほどに長命です。もしエルミール伯が殿下の配偶者となられたら、殿下ご健在の間は問題とならずとも、その後に先帝の夫君殿下として、そして皇帝の父という立場で国政を牛耳ることができます。しかも殿下の御子は、我々純血のヒト種よりはるかに長命。帝室の代替わりの速度が、周りと合わなくなってしまいます。それがどんな問題を引き起こすか想像できますか? 皆がそのような危惧を抱いてるから、こんなに配偶者候補を斡旋されてしまうんです!」
ハミルトンは、ピニャに新たな紙束を突きつけた。既に机の上にあったリストと同じように、細かい文字が数百人分記されているのだ。
「な、なんだ。また増えたのか?」
「ええ。きっと、もっと増えますよ」
「そ、それは困ったな。全員といちいち会っていては、話が進められない。一日で二人に会ったとしても、これでは一年以上かかってしまう」
ハミルトンは噛んで含めるように言った。
「だから申し上げているのです。早急に、『配偶者は自ら選ぶので斡旋無用』という声明を発してください」
「それはかまわんのだが……試みに問おう。ハミルトンは、妾が自らの意思として、例えばオークのような醜男を選んだらなんとする?」
ハミルトンは怪異に似た体躯を持つ野蛮な姿を思い浮かべたのか、一瞬息を呑んだ。自分の内側に湧いて来る感情を堪えるようにして絞り出した。
「そ、それが殿下のご意志なら……私は全てを受け容れます。たとえどのような方であったとしても、殿下が選ばれたお方ならば、私は殿下の夫君として尊敬し……お仕えして……」
ハミルトンは、歯を食いしばりぽろぽろと涙を流した。言葉とは裏腹に、とっても嫌そうであった。彼女にも、ピニャの隣に立つ男はせめてこんな風であって欲しいという理想があるのかも知れない。
「無理をするなハミルトン」
「でも、私がわがままを申し上げるわけには……」
「そうだな。確かにわがままは言えぬ。なにしろ妾は皇太女なのだから。妾がどんな男を選ぶかは、帝国の将来ともかかわる政略上の重要問題だ。大切なのは妾が何を欲しているかではなく、何をすべきかなのだ」
「そこまでご自分をお捨てになりますか?」
「ああ。歴代皇帝の遺訓にもこんな言葉が残っている。皇帝になるということは、これまで自分の手にあった物ですら、自分の思うようにならなくなることだとな。妾のこの身もこの心も、妾の好きにして良い物ではない。ただの女であったならボーゼスのようにも振る舞えたであろうが、今の妾はそうはいかぬ。妾は帝国に益をもたらす者に我が身をゆだねよう」
「でも、殿下のお気持ちはどうなるんです?」
「そんなものは犬にでも喰わせろだ」
ピニャの捨て鉢な台詞に、ハミルトンは返す言葉がなかった。
ピニャはその細い身体に帝国の全てを背負う覚悟でいる。
自分のエゴを満たすためだけに玉座を欲し、帝国を傾けた兄への反感。そしてその兄を打倒したのは自分だという責任感が、彼女を極端なまでの義務意識へと駆り立てているのかも知れない。
今のピニャには、国益に基づいた提言でない限り耳に入らない。
そんな頑なな主を前にして、ハミルトンはどうしたらそれを解きほぐせるのかと迷った。そして、ピニャがどんな相手を理想と考えているのかを掴むべく質問した。
「殿下が理想とされるのは、いったいどんな方でしょう?」
「今言ったであろう? 帝国に利益をもたらす者だ」
「ですから、殿下の考える帝国に利益をもたらす方とは、どんな男性でしょうか? 言うだけならばタダなんですから、ここは一つ忌憚のないところをお聞かせ下さい」
「そうだな」
ピニャは少し考えた後に理想を語り出した。
「皇帝はヒト種のみならず様々な種族民族を束ねる存在だ。従って、ヒト種はもとより亜人種達もこの者ならばと納得する者であって欲しいと思う。その男が妾の傍らに立ってくれるだけで、皆が妾の統治を受け容れてくれるような説得力とでも言うべきかな。それでいて、俺が俺がという野心を持ってない方が嬉しい。変な野心家は国を割る原因になるし、戦争などを勝手に始められては国力を低下させてしまうからな。あと、金の掛かる贅沢な趣味の持ち主もダメだ。何よりも大切なことは、妾の芸術趣味に寛大であること。それから強大な軍事力を後ろ盾に持っていてくれると嬉しいな。帝国に匹敵するような大国の次男とか、三男とかだと最高だ。そうなれば最近増長してきた周辺諸国も、大人しくなるだろう。他には……」
その、あまりにも都合の良すぎる人物設定にハミルトンは呆れた。
「そんだけの力があって、野心がない男なんて、果たして存在するのでしょうか?」
すると、近衛の将校がやってきて音を立てて踵を合わせた。
「なんだ貴様? 妾の夫に立候補したいか?」
「いえ。とても光栄なことではありますが、自分では力が不足しております。それに飼い殺しの種馬扱いもご免被ります。さらに申し上げれば、貴『腐』人方の間で流行している芸術とやらは全く理解できません!」
「ならば、いったい何の用だ?」
「ボーゼス様からの書状が送り届けられましたのでお届けにあがりました」
掌に載せられて差し出されたそれを見た帝国皇太女ピニャ・コ・ラーダは苦笑した。
用件を記した羊皮紙を丸め、封蝋を垂らして封緘するという体裁は、帝国の有職故実、礼儀、様式共に寸分の隙もなく適っているのだが、そのサイズだけが妖精か人形に持たせるのが相応しいくらいにミニチュアサイズだったからだ。
親指と人差し指の先で摘むようにして手紙を受け取ったピニャは、その細い指先を慎重に操って手紙を開いた。使われている羊皮紙も通常より薄いため、ちょっとでも乱暴に扱うと破れてしまいかねない。
近衛の将校は役割を終えると、ほっとした表情で引き下がっていった。
「毎度毎度思うのだが、ボーゼスはいったい何を考えて手紙をこのように小さくするのであろうか?」
「アルヌスから概ね三日で届くという驚異的な早さの秘訣は、この小ささにあるのかも知れませんね」
「そろそろ、どんな仕掛けがあるのか教えてくれてもいいだろうに。実験中とか、まだ発表の段階ではないとか言ってもったいつけおって」
「まぁ、パレスティー家の都合もありましょうから。実用段階まで準備を進めてしまって、発表した時にはこの通信技術の利権を独占したいのでしょう」
「そんな大切な秘密を用いて報せて来るぐらいだ。さぞかし大事な用件が書かれているのであろうな?」
ピニャは羊皮紙に顔を近づけると、その羅列を読み取ろうと目を細めた。だが小さなメモ紙サイズの手紙には、びっしりと隙間なく文字が詰め込まれており、読み取るのにはかなり苦労しそうである。
「う~ん。字が小さすぎて読み辛い」
それでも何とか読み終えたピニャは、手紙を机の上に投げ捨てると目の疲れを癒やすかのようにこめかみを揉んだ。いや、疲れたのは目だけではないようだ。椅子の背もたれにどっかりと身体を預け、盛大なため息をついている。
「ボーゼスは、なんと言ってきたのですか?」
「イタミ卿が帝都に来るといった内容だ。例のトュマレン問題でな、スガワラ殿の護衛として随行することとなったらしい」
「なるほど。あの方ですか」
「そうだ。あの男だ」
ピニャはその名を呼ぶと、唇で優しげな半弓を描いた。
「しかも、今回は黒と白と金色いのが同行しないそうだ。ダークのもいない」
それぞれの色彩がロゥリィ、レレイ、テュカ、そしてヤオを意味することは、ハミルトンにもすぐに分かった。
「まぁ、公務ですから当然でしょうね。それでボーゼス様はなんと?」
「あの男が単独で帝都に来るのは、これが最初で最後かも知れぬから、この『好機』を逃すなとあった。なるほど確かに好機だな」
「と申しますと?」
「いや、妾も使節団の一員として、トュマレンに参るべきかと思ってな」
「ちょっと待ってください。どうしてそういう話になるんですか?」
「妾も帝位に就く前に外交問題で実績をつくっておきたい。つまり純粋に政略上の理由だ。さらに言えば、妾が帝都を留守にすれば、妾の配偶者問題もしばらくは収まるであろう? その間に皆に頭を冷やさせたい」
ハミルトンは、ちょっとばかり苦しい理屈だなと思った。
単独の理由としてなら理解できるが、話の流れから見て唐突に過ぎるのだ。これでは何が「好機」なのかが分からない。伊丹という男がいることが好機だと言うなら、それに関連する動機をピニャが持っていることになる。
もしかして――!?
この瞬間、ハミルトンは天啓を得た。ピニャが誰を意識し、何をしようとしているかが分かってしまったのだ。
ま、まさか殿下はイタミ卿のことを!?
考えてみると、伊丹はピニャが配偶者に求める条件のかなり多くの部分を持っている。
炎龍を倒したという功績から、ヒト種のみならず亜人種達の尊敬を受けている。
そのくせ野心らしきものを全く持ってない。趣味は、益体もない滑稽本や絵草紙を見てニヤニヤするというもの。その程度ならほとんど金が掛からない。
ピニャの芸術趣味に対しても、そもそもの原因はあの男の元女房なのだから理解があるに決まっている。
つまりは、ピニャが挙げた数々の条件は、ズバリ伊丹のことを指しているのだ。
そう思ってみれば、ボーゼスが書いて寄越した好機を逃すなという意味も、それからピニャが突如としてトュマレンに行くと言い出した理由も透けて見える。
ハミルトンは自分の思いつきに動揺した。
「どうしよう。私に何ができるだろう」
どうにも落ちつかずに、そわそわしてしまった。
なるほど、確かに好機である。ボーゼスが言ってきたように、ピニャが伊丹と水入らずの時を過ごすのに、この状況はまたとないチャンスなのだ。
だが、ハミルトンは首を傾げた。
「ちょっと待って? だったらどうして殿下はイタミ殿を配偶者候補の筆頭に挙げようとなさらないの?」
ピニャが心憎からず想っていて、伊丹が政略結婚の相手として申し分のない条件を備えているのなら、そのまま配偶者候補の筆頭として公式に交渉をすれば良い。
皇帝も元老院もぶつぶつ言いつつも、ピニャの意志が固いとなれば強くは反対しないだろう。英雄の名声は、今や帝国ではそれほどのものなのだ。だからピニャがそうしないのなら、きっとそれなりの理由がどこかにあるはずだ。
しばし考えて、ハミルトンはポンと手を打った。
「そっか。イタミ殿は市井の民でらっしゃるから……」
政略結婚というのは、国とか領地とか家といった重たいものを背負っている同士でのみ成立する。好悪の感情だけで相手を選ぶことのできる庶民に、政略的に都合が良いので結婚してくださいなどと言っても相手にされるはずがないのだ。
もちろん、問いかけもせずに決めつけてしまうのは早計である。だが、少なくともピニャ自身は、自分なんか相手にされないと思って諦めてしまっているのだ。
「つまり、殿下は……」
だからこそピニャは、自分の本当の気持ちを封殺して、意に沿わない相手を伴侶に迎えようとしているのだ。
配偶者選びについて自分から特別な発言をしないのも、どうせ自分なんてという捨て鉢な心境なのだろう。本命以外なら、もう誰でも良いと考えているに違いない。
だが、この結論はハミルトンには到底、納得できるものではなかった。
これではピニャが、トュマレンに向かうと言い出した理由にならないのだ。
好いた相手をすっぱりと諦めるなら、距離を置いて近づかなければよい。相手の姿を見て、声を耳にすれば、折角封じ込めた気持ちは疼いて、駆け巡る。何かの区切りを得ない限り暴走し、止まらなくなってしまうのが乙女というものだからである。
「そっか。殿下は捨て身の突撃をかけることにしたんだわ」
ハミルトンの憶測は、最終的な段階へと進んだ。
「殿下は最後の機会に賭けてみようとしているんだわ」
自分の気持ちにすっぱりと整理をつけるために、伊丹に最初で最後のアタックをかけてみようとしているのだ。成功すればそれでいいし、失敗したらそれはそれですっぱりと諦める区切りになる。
だが、その結論はハミルトンには決して受け容れられるものではなかった。
「ダメ! そんなことは絶対にダメっ!」
変な男が殿下の配偶者になるくらいなら、伊丹の方が良いのだ。
伊丹もハミルトンの理想からはほど遠いけれど、それでもオークみたいな醜男に比べたらよっぽどマシなのである。いや、ピニャが想っているというのなら、その相手こそが理想と言える。
「どうしよう?」
どうすればピニャが伊丹と結ばれるのかと、ハミルトンは思案を巡らせた。
要するに問題は、伊丹という男がピニャをどう想っているかの一事に尽きる。ピニャの気持ちは決まっているのだから、伊丹をその気にさせるのが一番なのだ。
が、それこそが難題でもあった。
「……考えてみると欲のない奴ってやっかいね」
少なくとも、ピニャの権力とか巨万の富を誘い水にする方法は無理だ。
そんなものに靡くような男なら、権勢欲がないという条件に合致しなくなってしまう。一般には利点になる釣書きに並ぶ肩書きも、こういう相手には重たいだけのハンデに堕す。
つまりピニャは、美貌や人柄といった生まれ持った物だけを武器に戦わなければならないのだ。
「戦うって誰と!?」
そこまで考えた途端、ハミルトンは、ピニャが自分なんか無理だと諦めてしまった理由を理解した。
競争相手とは、ロゥリィ・マーキュリー、テュカ・ルナ・マルソー、レレイ・ラ・レレーナであり、さらにはヤオ・ロゥ・デュッシも加わる。
正直、敵と見ると大変に手強い相手が揃っている。
皇太女とは言え所詮はヒト種。どれほどの権勢や威厳を纏っていても、カリスマ性や高貴さで、亜神たるロゥリィに敵うはずがない。
美貌では、エルフたるテュカに敵うはずがないし、知性では若くして導師号を得た魔導師レレイに敵うはずがない。女の色香で勝負しようにも、妙齢のダークエルフのヤオが控えていてはそれも難しい。
「そっか。だから殿下は……」
ピニャは、敵の圧倒的な戦闘力を前に絶望的な心境に陥ったに違いない。だから戦う前から諦めているのだ。
ハミルトンはそんなピニャの健気さがいじらしくてたまらなく思えた。
「でも、ダメです殿下! 恋には禁じ手はありません!」
夫婦というのはどんな形でくっつこうが、最後は気持ちが通じ合えば幸せになれる。それがハミルトンの信念である。
その良い例が、ハミルトンの両親であった。
ハミルトンの両親は政略結婚で夫婦となった。初めて会った時から、互いに「この人いいなぁ」と思っていたが、政略結婚という形で縁談が進んだため、気持ちがしっかり通じ合う前から夫婦という形式ができてしまい、そのため関係がかえって拗れてしまったのである。
自分は相手に好意を抱いている。けれど相手は自分のことをそれほど好きではないだろう。それでは気の毒だ。だから気を遣わないと――そんな不必要な身構えが悪い方に働いて、互いに気まずくなって、夫婦関係はどんどん冷えてしまったのだ。
だが、幸いにしてちょっとした事件をきっかけにして気持ちが通じ合い、政略結婚とは思えないほどに親密な関係になった。今では娘からも見ても恥ずかしくなるくらいの熱々ぶりだ。
ハミルトンの母は事あるごとに彼女に言った。自分がもうちょっと素直になっていれば、こんなに遠回りしないで済んだのに、と。
そう、少しだけ素直になればいい。それだけなのだ。
そんな例があるからこそ、ハミルトンは思うのである。ピニャにはちゃんと好きになった相手と一緒になって欲しいと。
国のために自分を捨てるのも厭わないと言うくらいなら、それこそ配偶者くらいは自分が好きな相手を選ぶべきなのだ。
「分かりました。こうなったら不肖ハミルトンが、一肌脱ぎましょう。殿下のために」
ハミルトンは強い決意を固めると、自分の胸をドンと叩いた。
ありとあらゆる手管を用いて、ピニャと伊丹とをくっつける。何としても。絶対に。
そもそもヒト種の男と番うなら、ヒト種の女がいいに決まっているのだ。
しかも、魔導師の小娘を除いたらみんな百歳以上も年上の年増だ。年増は、年増に釣り合いの取れたおじいさんを物色していれば良い。伊丹だって若くてぴちぴちな方がいいに決まっている。
そうなれば敵になるのはルルドの小娘だけ。ピニャにだって充分以上の勝機はある。
「って言うか胸の大きさで、殿下の勝ちです!」
いざとなったら、ボーゼスを見習って既成事実を先に作り、デキ婚に持ち込むという手もある。最悪、催淫作用のある薬をピニャと伊丹の双方に飲ませ、二人一緒に二~三日ほど監禁しておけばいっちょあがりだ。
いや、『最悪』などと手ぬるいことは言ってられない。初っ端から、最終兵器を使って伊丹を逃げられないように捕らえるべきだろう。
つまりは「最初っからクライマックス」なのである。
「フェトランの媚薬は、悪所で手に入るかな?」
そんなハミルトンの思考が言語として漏れたようで、ピニャが不思議そうに首を傾げた。
「ん、フェトランだと? ハミルトン。お前、いったい何を考えている?」
「いえ。こちらのことです」
「なら良いのだが……しっかりしてくれよ。妾達が向かうのはトュマレンなのだからな」
ハミルトンがいろいろなことを考えている間に、ピニャもピニャでトュマレン行きの決意を固めていた。ピニャにとっては想い出作りの旅と言ったところだろう。
だが、そうはさせない。最後? 違う。これが、運命が変わった最初のきっかけだったと言わせてみせる。
ハミルトンは、戦いの予感に胸を大きく膨らませた。
「早急に殿下のトュマレン行きを支度しますね」
「ああ。頼む」
「万事お任せ下さい。きっと全て上手く行くようにしてみせます」
ハミルトンはニヤリと微笑むと、これがピニャのためだと信じ、全力で駆け出した。
はた迷惑な方角に向けて……。
* *
―― 帝都郊外 エネト川港 ――
さて、帝都からトュマレンへの道程は、三十日ほどかけて陸路をひたすら突き進むという方法と、氷雪山脈から帝都近くを通って碧海に向かうエネト川を下り、プロプトーの港町から海路を七~十日ほどかけて進むという方法の二つがあった。
「菅原さん。ここに来たのは何故だったっけ?」
帝都郊外の、エネト川の船着き場に到着したところで、伊丹は菅原に尋ねた。
「伊丹さん。出発前の説明を聞いてなかったんですか?」
「伊丹のことだからきっと寝てたんだろう?」
七三式小型トラック――一般にパジェロと呼ばれる車両から荷物を下ろしていた剣崎達が揶揄する。だが伊丹は真剣な面持ちで答えた。
「聞いてたよ! 船で目的地に行くんだったよな?」
すると剣崎らは「珍しいこともあるもんだ」と、伊丹を指差して声高らかに笑った。
そんな感じで場の雰囲気が充分に柔らかくなると、菅原は荷物の上に地図を広げた。
「いいでしょう。確認も兼ねて再度説明します。今回、目的地のトュマレンまでの乗り物は民間の商船をチャーターして参ります。往来に掛かる時間、コスト、途中でのリスクといった様々な要素を勘案すると、そのほうが良いということになったのです」
陸路だと、あちこちで出没する帝権擁護委員の残党やら、盗賊の跋扈する危険地帯を通過しなければならないし、国境を無事に通過できたとしても、今度はトュマレンがエルベ藩王国との間で起こしている領土紛争の係争地、グラスを通過することになるのだ。それよりは海の方が安全だと考えるのは、伊丹にも納得のできる話である。
だが、伊丹は自分達がこれから乗ろうとしてる船を顧みた。これこそが、伊丹がすでに分かっていることをあえて質問した理由でもある。
「でもさぁ、これで行くの?」
それは東京湾あたりを遊弋している屋形船みたいな川船であった。遊覧やら釣りに行くならまだしも、これで一週間以上の船旅をすると言われれば、伊丹ならずとも腰が引ける。それくらいの小ささなのだ。
「いや、さすがにそれは違うぞイタミ殿。この船で直接トュマレンに参るわけではない」
「え、この声って?」
菅原は思わず腰を上げた。
声の主が彼の記憶通りであるならば、皇太女ピニャ・コ・ラーダである。一国の皇太女の登場を前にして、座したままとはいかない。
そしてやはりピニャが姿を現し、ハミルトンらを連れて紅い髪を翻しながら、颯爽と川船に乗り込んできたのだった。
「これは皇太女殿下。お見送りですか? しかし、使節団が見当たらないようですが」
「実は、トュマレンには妾が参ることとなった」
「なっ!? 本当ですか?」
菅原は、思いもしなかったその発言に絶句した。
だがピニャは、自分が紛争当事国に行くことの意義を強い口調で語る。
「妾が直接行ってこそ、帝国の本気度が相手側に伝わるというものであろう?」
確かに帝国の皇太女が直々に乗り込んできたとなれば、トュマレンの為政者達も帝国の強い意志を感じることになるだろう。交渉も進めやすくなるのは間違いない。
だがそれは菅原にとっては、予定外であり、いささか困る事態なのだ。
「ですが、我々とのバランスが……」
菅原としては、帝国側の使節団と日本とが質・量ともに同格になるようにしたかった。でなければ、自分達が帝国使節団の一部と見なされてしまう。
特に、今回のように、詳しくは語らず、相手に誤解させるという方法をとるとなると、日本の立場が帝国に劣るという印象を与え、今後の外交に差し障りを生じさせかねないのだ。
だが、ピニャはそんなことは先刻承知とばかりに言った。
「スガワラ殿の懸念は理解している。だから、当方は随員の数を極限にまで減らすことにした」
ピニャに付き従うのは、今此処に居る秘書官のハミルトン、護衛として騎士長補グレイ・コ・アルドの二人だけ。
これならば伊丹の他に六名の護衛団を引き連れている菅原よりも圧倒的に少ないため、日本の使節団が帝国使節団の一部と見なされる心配もない。
「ですがこれはこれで別の問題が出てきませんか? 旅の途中のお世話とか」
「そのあたりは問題にはならぬよ。行き来は船だし、妾もハミルトンも長旅には馴れているから自分の面倒くらいは自分で見られる。ただ、道中の身辺警護がグレイ一人では心許ないのも確かでな。スガワラ殿、このあたり甘えさせてもらえまいか?」
―― アルヌス街・組合食堂『あさぐも』 ――
「ということでまた出かけることになった。だけど任務の内容が内容なんで、みんなを連れて行くことはできない」
アルヌスの組合食堂にやってきた伊丹は、新たな任務によってしばし留守をすることになったと、親しい者達に告げていた。
ロゥリィ・マーキュリーは衝撃を受けたような表情をして頬を膨らませる。
「ついてっちゃ、ダメなのぉ?」
レレイ・ラ・レレーナも少しばかり顔色を青ざめさせて、ぷるぷると身を震わせた。
「配偶者の同行を許さないなんて。おかしい。どうかしている」
テュカ・ルナ・マルソーは、弓と矢を手にとって立ち上がった。
「そんなことを決めたのは誰? 今、どこにいるのかしら?」
冷たい表情のテュカを慌てて引き留めた伊丹は、三人に向けて手を合わせた。
「今回は菅原さんの護衛で、前みたいなお気楽な探索仕事じゃないんだ。だから我慢して欲しいなって――思っちゃダメ?」
「つまりぃ、あたしぃたちに飽きたってことぉ?」
「倦怠期?」
「お父さん。別れ話っていうのは、もっと早く言うものよ。こっちが離れられなくなってから切り出されても困っちゃうじゃない。そういうわがままで勝手な悪い子には、お仕置きが必要よね。ううん、いっそのこと離れられないように、縛りつけてどこかにしまっておこうかしら」
ロゥリィが、よよよと伊丹に縋りつき、レレイが問うような視線を伊丹に向けた。
テュカにいたっては、怪しく輝く危険な視線を伊丹へと向けている。いささかヤんでるその目の色に、伊丹は「ヤバイ。テュカの奴なら本当にやりかねない」と背筋を震わせた。
「あ、飽きたなんてことないからっ! 倦怠期なんてこともないっ。別れ話なんて最初からしてないしっ! ただ、みんな忙しいだろ? ロゥリィはいろんな神様を呼び寄せてたくさん神殿をつくらせるって張り切っていたし、レレイには『門』再開の研究を続けてもらわないと困る。テュカだって開拓村の場所選びに、あちこち出歩いてるじゃないか。そうだろ!?」
組合に所属している者は、今、一人残らず多忙な毎日を送っていた。『門』がなくなったら商品の入荷が停まって、失業してしまうと心配していたPX(駐屯地購買部)の猫耳店員のメイアですら、今ではレレイの助手として忙しく立ち働いているのだ。
大工達は街の再建に忙しく、商業部門の者は帝国とニホンとの戦争が終わったことを利用して大々的な商売をしようと販路の開拓をしている。開拓民も続々と集まって、あちこちに水路を敷き、荒れ地の開墾作業に精を出す日々だ。
そんな人々を指導する立場にあるロゥリィ達が、今のアルヌスを留守にすることなどできるはずもないのだ。
「だからさ、それぞれ自分の役割をちゃんと果たそうよ。私事はその後でな、な?」
伊丹からこう説得されてしまうと、ロゥリィ達も強く言い返すことはできなかった。
男の一部には、女性という生き物は公私を分けることが苦手だという偏見を抱く者がいるが、そんな者でも彼女達に関しては例外だと認めざるを得ないほどの克己心を示したのだ。
とは言え、彼女達も感情の影響を受けないわけではない。我慢しているに過ぎないから、その分の遺恨は生まれるし、綺麗事っぽい建前を並べて自分達に我慢を強いる男への憤懣は、当然のことながら行き場を求めてあちこちを駆け巡ることになる。
男の『貸借帳簿』には通常、金銭、物品、役務の提供、そして特別な勘定項目に義理人情といったものが記載される。だが、女性の場合はさらに「感情(気持ち)の処理」という項目が付け加えられている例が少なくない。
このことを知らない男が、借り方に膨大な赤字を抱えていることに気付けず、後になってから利息で膨れあがった莫大な額の請求書を突きつけられてしまうのだ。
愛想の良い女性の微笑みは、時として返し忘れたままになっているDVDがあるのに、延滞料金が充分な額に達するまで教えてくれないレンタルビデオ屋の店員のソレに近いものがある。くれぐれも注意しておくべきなのだ。
その点で言えば、三人はとても伊丹に親切であった。
「ずるい」
三者は三様の姿形で、自分が不満を抱いていることを即座に明らかにしてくれるからだ。
伊丹としても、自分が悪いわけではないのにという気持ちになるが、女性相手にそれは通用しないこともそれなりに分かっている。
世の中というのはどうにも理不尽にできている。だから繰り返し頭を下げ、寛恕を求め、後で返済を約束するのである。
「ちゃんと埋め合わせするからさ。な、な、な」
「ほんとぉ?」
「もちろん」
「ちゃんと別個によ! 三人一緒に何かしてはい終わりじゃダメなんだからね?」
「分かってる。一人ずつな……」
「その条件での契約締結を受け容れる」
伊丹は心の貸借帳簿の借り方に、返済が必要となる事項を記入した。
ぷんぷんと腹を立てている三人が立ち去るのを見送った伊丹は、「疲れた」と盛大なため息をつき、食堂のテーブルに突っ伏した。
しばらくは、立ち上がる気にもなれない身体の重さである。
「隊長。あんまり冷たくしてると飽きられちゃいますよ」
「うぐ……その声は倉田?」
一部始終を見ていたであろう部下に揶揄されると、伊丹の体感疲労度はさらに増した。
「仕事なんだからしようがないだろう?」
「でも、気を持たせておきながら放置してるでしょ。後が大変ですよ、きっと」
倉田は伊丹の突っ伏すテーブル席に腰を下ろした。複数の気配から、やって来たのは倉田三等陸曹だけではないと分かる。
顔を上げてみると、倉田はその背中に、フォルマル伯爵家のメイドのペルシアをしがみつかせていた。
べたべたと甘ったるい雰囲気を周辺に放散して、正直、むかっ腹が立ってくるいちゃつきぶりである。ペルシアのゴロニャンという猫なで声が聞こえるからなおさら始末に負えない。
「さすがはクラタ様。その通りだと思いますわ」
加えてさらなる声が伊丹に投げかけられた。
「せめて自分の立場を明確にして頂ければ、女も安堵することができるのですが、何もかもがあやふやのままではどうしたって不安になります。それを避けるには一緒にいるしかない。とにかく一緒にいて、自分の居場所を確保し続けようとするのは不安のせいなのです。なのにあんなに冷たく突き放して……。あの方達が機嫌を害されるのは致し方のないことですわ」
身体を起こしてみれば、そこに座っていたのは金髪縦巻ロールのお嬢様ボーゼスであった。
そんな彼女の隣にいる富田は苦い笑みを浮かべている。彼女の言葉が遠回しに自分を批難するものに感じられたからだろう。
この二人は既に結婚してもおかしくないような間柄である。なにしろボーゼスのお腹には二人の関係を示す物的証拠とも言える命が、あと少しで誕生するほどに育ってきているのだから。
にもかかわらず結婚という関係には至ってない。婚姻届を提出しようにもその窓口は存在しないし、国際結婚のための書類のやり取りすらできないからである。
とは言え、そういう理屈はボーゼスに通用しない。
あやふやな関係が続いてしまうことに我慢ができなくなったボーゼスは、再建の槌音が鳴り響くアルヌスへとやってきて、「形式なんてものは後でちゃんと整えればいいとおっしゃるのであらば、先に実の方を整えて下さいませ」などと言って、富田の押しかけ女房よろしくアルヌスの一角に新居を構えてしまったのである。
そんな行動的なボーゼスによる女心についての講義は、かなりの説得力がある。
伊丹は幸せそうな表情で香茶をすすっているボーゼスに問いかけた。
「あの、ボーゼスさん? ふと疑問に思ったんですが、騎士団の指揮はしなくていいんですか?」
「もちろん退官して参りましたわ。今のわたくしは、皇太女殿下より信任状を得ましてアルヌス駐在の武官という立場でここにおります」
そのあたりの手続きには遺漏はないと言うことであった。
「しかし、あの三人がいないとなるとちょっくら不安ですね。隊長一人で大丈夫っすか?」
倉田と富田の二人は声を揃えた。
伊丹が特地を一人でうろうろできたのは、あの三人がついていたからである。彼女らがいないのであれば、自分達のような気心の知れた同行者が必要であろうと言うのだ。
「俺達がついていきましょうか?」
それは正直、嬉しい申し出である。だが、それに伴って二対の殺視線が伊丹に突き刺さるとなると、いささか迷惑でもあった。しかも、ペルシアとボーゼスの視線には、「断れ~、断れ~」という念が込められているのだ。
「いや、いいって。今回の仕事には剣崎達がついてくれるからな」
「特戦の人達ですか?」
「ああ。今回は人数が少ない上に支援の受けられない遠隔地だからな。腕っ節が優先された。俺の場合は…………ま、別の理由だろうけどな」
用があるから来いと言われ、上級幹部達が居並ぶ前に出た時の、針の筵に座らせられたような感覚は思い出すだけで冷や汗が出る。そこには、断る余地すらなかったのだ。
伊丹はそういうことなんで、と言いつつ二人に手を上げた。
「気をつけて行って来て下さいよ。そこかしこじゃ、まだまだ物騒なんですから」
「分かってる分かってるって。じゃ、支度があるんで俺、もう行くわ」
そんなことを言って立ち去ろうとする伊丹の背中に、ボーゼスが声を掛けた。
「イタミ様。トュマレンには真っ直ぐ向かわれるのですか?」
「いいえ。一度、帝都に行って、そこから行くみたいです」
「そうですか。トュマレンはなかなかに難しい相手だと聞き及んでおります。どうぞお気を付けて下さいましね」
「ありがとうです。では行ってまいります」
伊丹はぺこりと頭を下げると、四人の前から去って行った。
その背中が見えなくなったところで、ボーゼスが言った。
「セバスチャン!」
「はい。お嬢様」
たちまち現れるボーゼス付きの執事とメイド達。彼らは身重の娘を心配したボーゼスの両親が、彼女のために送って寄こした精鋭であった。
「姫殿下に緊急にお知らせをします。すぐに支度を」
「既にできております。どうぞ」
いつ用意してあったのか、よどみなく出てくる小さな羊皮紙に鵞ペン、そして南国鳥にも似た極彩色の鳥が入った籠。特地の鳥で、その名は鸚鵡鳩と言う。
ボーゼスは真っさらな紙面に、さらさらと流麗な文字で何やら認めていった。
「何をしているのかって聞いて良いかい?」
富田の問いかけにボーゼスは文面を推敲しつつ答えた。
「殿下にこの機会を逃すなとお伝えしようと思いまして」
「どういうこと?」
富田の問いにボーゼスは小さな微笑みで返した。
羊皮紙を小さく丸めて、メイドに取り出させた鸚鵡鳩の脚へと装着する。鸚鵡鳩はびっくりしたような表情をしたが、されるがままになっていた。
「臣下としては殿下にはなんとしても幸せになって頂きたい。そう思うのですよトミタ」
「もしかしてあの姫様、隊長に……そうなの?」
だが、ボーゼスはくすっと意味深に笑うだけで答えようとしない。
「それって隊長や姫様にとっていいこと? 波風立たせることになったりしない?」
ボーゼスの手紙が、伊丹とその周囲にいる女性達の関係に一石を投じることになるのは間違いない。だがボーゼスはそんなことは関係ないとばかりに首を竦めた。
「物事というのは、何が正しくて何が間違っているとは決められませんわ。どうなることが幸せに繋がるかなんてこと、誰にも分かりませんもの。ご存知でしたか? 最初わたくしは、イタミ様に寛恕を賜るための人身御供だったのですよ」
「そ、そうだったの!?」
「ええ。もう壮絶な覚悟を決めて、イタミ様の寝所に参ったのです。ところが全く相手にされなくて、いろいろな意味で腐っていたところ貴方に出会えたのです。おかげで今ではこんなに幸せですわ。だから思うんです。人は心のおもむくままに信じる道を進むしかないのではないのかって。これで壊れてしまうような関係ならば、それまでのこと。かえって深まるのなら、それまたそれでよし。そうは思いませんか?」
ボーゼスはそんなことを言って、メイドに鸚鵡鳩を放つように命じた。
極彩色の鳥が青い空の向こうへと消えていくのを見送った富田は呟く。
「伝書鳩って、こっちにもいたんだ?」
「以前、貴方から鳥の帰巣本能を利用して手紙のやりとりをする方法があると聞いて、家の者に研究をさせていたのです。観賞用として我が家に飼われていた鸚鵡鳩の具合が良いようです」
すると執事のセバスチャンが解説を付け加えた。
「我が家で生まれた鸚鵡鳩は、放し飼いにしていても逃げずに帰ってくることが分かっておりました。そこで試みに馬で一昼夜かかるところまで連れていき、放してみましたところ、見事に戻って参ったのです。この鸚鵡鳩の飼育がもう少し早くできていれば、先の内戦も少しは有利に事を進めることができたでしょうが、こればかりは致し方のないことです」
「帝都に手紙が届くのに馬では十日もかかりますが、これを用いれば三日で届くのよ」
ボーゼスは自慢そうに言う。すると執事はそれをこき下ろすような言葉を続けた。
「まぁ、そのためには鸚鵡鳩を定期的にえっちらおっちらと運んでこなければなりませんがね」
「あら、セバスチャン。手間を厭うなら鸚鵡鳩の数を増やせばいいことじゃなくって?」
「しかしお嬢様、鸚鵡鳩は元々からして高価ですし、毎日餌をやったりと世話を施すのも手間です。それを考えますと、数を増やすのにも相応の費えがかさみます」
「でも、これが実用化できればそれを超える利益を得られるはずですわ。例えばこのアルヌスでの動きを、人より七日も早く知ることができるんですからね」
「はい。旦那様も、この鸚鵡鳩を用いた伝書網を帝国全域に広めることを考えておいでです。その構想が実用化された暁には、我が家の権威はさらに高まることとなりましょう」
執事はそんな言葉の後に、視線を富田へと向けた。
「トミタ様。お嬢様に対する旦那様の勘気が解けたのも、この功績があってのこと。もし、今以上のご貢献があれば、旦那様はお嬢様のご結婚も公式にお認め下さるやも知れません。そうなれば今のような日陰者の扱いからも解放されるはず」
執事とメイドに傅かれる生活が日陰者だそうである。もし結婚がボーゼス父から認められたらどんな生活が待っているのか、は想像することすらできなかった。
「無理をしないでくださいましね。わたくしは今でも充分に幸せなんですから」
「なんと健気なことを……。ご婦人にこのような苦労をさせてよしとするのは、果たして男としてはいかがなものでしょうかな?」
執事は富田を睨みつつ、わざとらしく涙を手巾で拭く素振りを見せた。
「つまり、ボーゼスを幸せにしたければ、もっといろいろ良いことをもたらせということですか?」
「ご理解が早くて大変に結構。私も貴方様を、旦那様とお呼びできる日を心待ちにしております」
執事はそう言って恭しく頭を下げる。
富田は、「困ったな」と苦笑しつつ頬をポリポリ掻いた。
* *
―― 帝都 皇城 ――
皇城の皇太女執務室では、ピニャ・コ・ラーダが机に向かっていた。
小刀で鉛筆を削りながら、鼻歌なんか歌っている姿はなんだかとっても楽しそうである。
机の上には輸入物のケント紙が置かれていて、何を始めるつもりなのか鋭く尖るまで削られた鉛筆が三本ほど並べられていた。
ピニャの手にはさらにもう一本。そのほかには、消しゴムやら、羊皮紙やら、インク瓶なんかが机の上に整頓されて並べられている。
「姫殿下!」
だが、ハミルトンの声が抗議口調で聞こえると、ピニャは慌てて机の上のケント紙を書類の下へと埋めた。そして上機嫌だった表情を不機嫌そうなものに切り替えると、腹心の呼びかけに対して眉間に皺を寄せ、うんざりした声色で答えたのである。
「何の用だ。お小言なら、もう聞き飽きたぞ」
「しかし!」
「言うなと申しておろう!」
「ですが!」
「分かっておる。だが、こればかりは仕方ないではないか!」
「いいえ、仕方はあります。殿下が自分には意中の男性が居るから、配偶者の斡旋はもう結構とおっしゃれば済むことです!」
「だが、それを口にすれば、今度は意中の相手というのはどこの誰だと問われることになる。妾は答えられないぞ。そんな者はいないのだからな」
「では殿下は、どこの誰とも分からない馬の骨を押しつけられてもいいとおっしゃるのですか?」
「馬の骨とは酷いな。例えば……」
例えばと言いつつ、即座に実例が出てこないピニャは中空に視線を泳がせた。そしてテストでカンニングする時のような素早さで、机の上の書類に視線を走らせた。
「そう、例えば……エルミール伯爵公子も、マードレ男爵も帝国貴族だぞ」
ハミルトンは、その一瞬の間に付け込むように言った。
「お二方とも此度貴族に列せられたばかりではないですか。しかも、エルミール伯爵公子はダークエルフで、マードレ男爵にいたってはドワーフです。もしかして殿下は帝室に亜人種の血を入れたいとお考えですか!?」
「そういえばキケロ卿もそんなことを言って猛烈に反対してたな。ほぼ丸一日の長演説……妾は眠たくって拷問されているような気分になった」
「演説の長さについてはわたくしも殿下と同意見です。ですがその内容については完全にキケロ卿に同意いたします。例えばダークエルフ族の方々などはヒト種に比べてとんでもないほどに長命です。もしエルミール伯が殿下の配偶者となられたら、殿下ご健在の間は問題とならずとも、その後に先帝の夫君殿下として、そして皇帝の父という立場で国政を牛耳ることができます。しかも殿下の御子は、我々純血のヒト種よりはるかに長命。帝室の代替わりの速度が、周りと合わなくなってしまいます。それがどんな問題を引き起こすか想像できますか? 皆がそのような危惧を抱いてるから、こんなに配偶者候補を斡旋されてしまうんです!」
ハミルトンは、ピニャに新たな紙束を突きつけた。既に机の上にあったリストと同じように、細かい文字が数百人分記されているのだ。
「な、なんだ。また増えたのか?」
「ええ。きっと、もっと増えますよ」
「そ、それは困ったな。全員といちいち会っていては、話が進められない。一日で二人に会ったとしても、これでは一年以上かかってしまう」
ハミルトンは噛んで含めるように言った。
「だから申し上げているのです。早急に、『配偶者は自ら選ぶので斡旋無用』という声明を発してください」
「それはかまわんのだが……試みに問おう。ハミルトンは、妾が自らの意思として、例えばオークのような醜男を選んだらなんとする?」
ハミルトンは怪異に似た体躯を持つ野蛮な姿を思い浮かべたのか、一瞬息を呑んだ。自分の内側に湧いて来る感情を堪えるようにして絞り出した。
「そ、それが殿下のご意志なら……私は全てを受け容れます。たとえどのような方であったとしても、殿下が選ばれたお方ならば、私は殿下の夫君として尊敬し……お仕えして……」
ハミルトンは、歯を食いしばりぽろぽろと涙を流した。言葉とは裏腹に、とっても嫌そうであった。彼女にも、ピニャの隣に立つ男はせめてこんな風であって欲しいという理想があるのかも知れない。
「無理をするなハミルトン」
「でも、私がわがままを申し上げるわけには……」
「そうだな。確かにわがままは言えぬ。なにしろ妾は皇太女なのだから。妾がどんな男を選ぶかは、帝国の将来ともかかわる政略上の重要問題だ。大切なのは妾が何を欲しているかではなく、何をすべきかなのだ」
「そこまでご自分をお捨てになりますか?」
「ああ。歴代皇帝の遺訓にもこんな言葉が残っている。皇帝になるということは、これまで自分の手にあった物ですら、自分の思うようにならなくなることだとな。妾のこの身もこの心も、妾の好きにして良い物ではない。ただの女であったならボーゼスのようにも振る舞えたであろうが、今の妾はそうはいかぬ。妾は帝国に益をもたらす者に我が身をゆだねよう」
「でも、殿下のお気持ちはどうなるんです?」
「そんなものは犬にでも喰わせろだ」
ピニャの捨て鉢な台詞に、ハミルトンは返す言葉がなかった。
ピニャはその細い身体に帝国の全てを背負う覚悟でいる。
自分のエゴを満たすためだけに玉座を欲し、帝国を傾けた兄への反感。そしてその兄を打倒したのは自分だという責任感が、彼女を極端なまでの義務意識へと駆り立てているのかも知れない。
今のピニャには、国益に基づいた提言でない限り耳に入らない。
そんな頑なな主を前にして、ハミルトンはどうしたらそれを解きほぐせるのかと迷った。そして、ピニャがどんな相手を理想と考えているのかを掴むべく質問した。
「殿下が理想とされるのは、いったいどんな方でしょう?」
「今言ったであろう? 帝国に利益をもたらす者だ」
「ですから、殿下の考える帝国に利益をもたらす方とは、どんな男性でしょうか? 言うだけならばタダなんですから、ここは一つ忌憚のないところをお聞かせ下さい」
「そうだな」
ピニャは少し考えた後に理想を語り出した。
「皇帝はヒト種のみならず様々な種族民族を束ねる存在だ。従って、ヒト種はもとより亜人種達もこの者ならばと納得する者であって欲しいと思う。その男が妾の傍らに立ってくれるだけで、皆が妾の統治を受け容れてくれるような説得力とでも言うべきかな。それでいて、俺が俺がという野心を持ってない方が嬉しい。変な野心家は国を割る原因になるし、戦争などを勝手に始められては国力を低下させてしまうからな。あと、金の掛かる贅沢な趣味の持ち主もダメだ。何よりも大切なことは、妾の芸術趣味に寛大であること。それから強大な軍事力を後ろ盾に持っていてくれると嬉しいな。帝国に匹敵するような大国の次男とか、三男とかだと最高だ。そうなれば最近増長してきた周辺諸国も、大人しくなるだろう。他には……」
その、あまりにも都合の良すぎる人物設定にハミルトンは呆れた。
「そんだけの力があって、野心がない男なんて、果たして存在するのでしょうか?」
すると、近衛の将校がやってきて音を立てて踵を合わせた。
「なんだ貴様? 妾の夫に立候補したいか?」
「いえ。とても光栄なことではありますが、自分では力が不足しております。それに飼い殺しの種馬扱いもご免被ります。さらに申し上げれば、貴『腐』人方の間で流行している芸術とやらは全く理解できません!」
「ならば、いったい何の用だ?」
「ボーゼス様からの書状が送り届けられましたのでお届けにあがりました」
掌に載せられて差し出されたそれを見た帝国皇太女ピニャ・コ・ラーダは苦笑した。
用件を記した羊皮紙を丸め、封蝋を垂らして封緘するという体裁は、帝国の有職故実、礼儀、様式共に寸分の隙もなく適っているのだが、そのサイズだけが妖精か人形に持たせるのが相応しいくらいにミニチュアサイズだったからだ。
親指と人差し指の先で摘むようにして手紙を受け取ったピニャは、その細い指先を慎重に操って手紙を開いた。使われている羊皮紙も通常より薄いため、ちょっとでも乱暴に扱うと破れてしまいかねない。
近衛の将校は役割を終えると、ほっとした表情で引き下がっていった。
「毎度毎度思うのだが、ボーゼスはいったい何を考えて手紙をこのように小さくするのであろうか?」
「アルヌスから概ね三日で届くという驚異的な早さの秘訣は、この小ささにあるのかも知れませんね」
「そろそろ、どんな仕掛けがあるのか教えてくれてもいいだろうに。実験中とか、まだ発表の段階ではないとか言ってもったいつけおって」
「まぁ、パレスティー家の都合もありましょうから。実用段階まで準備を進めてしまって、発表した時にはこの通信技術の利権を独占したいのでしょう」
「そんな大切な秘密を用いて報せて来るぐらいだ。さぞかし大事な用件が書かれているのであろうな?」
ピニャは羊皮紙に顔を近づけると、その羅列を読み取ろうと目を細めた。だが小さなメモ紙サイズの手紙には、びっしりと隙間なく文字が詰め込まれており、読み取るのにはかなり苦労しそうである。
「う~ん。字が小さすぎて読み辛い」
それでも何とか読み終えたピニャは、手紙を机の上に投げ捨てると目の疲れを癒やすかのようにこめかみを揉んだ。いや、疲れたのは目だけではないようだ。椅子の背もたれにどっかりと身体を預け、盛大なため息をついている。
「ボーゼスは、なんと言ってきたのですか?」
「イタミ卿が帝都に来るといった内容だ。例のトュマレン問題でな、スガワラ殿の護衛として随行することとなったらしい」
「なるほど。あの方ですか」
「そうだ。あの男だ」
ピニャはその名を呼ぶと、唇で優しげな半弓を描いた。
「しかも、今回は黒と白と金色いのが同行しないそうだ。ダークのもいない」
それぞれの色彩がロゥリィ、レレイ、テュカ、そしてヤオを意味することは、ハミルトンにもすぐに分かった。
「まぁ、公務ですから当然でしょうね。それでボーゼス様はなんと?」
「あの男が単独で帝都に来るのは、これが最初で最後かも知れぬから、この『好機』を逃すなとあった。なるほど確かに好機だな」
「と申しますと?」
「いや、妾も使節団の一員として、トュマレンに参るべきかと思ってな」
「ちょっと待ってください。どうしてそういう話になるんですか?」
「妾も帝位に就く前に外交問題で実績をつくっておきたい。つまり純粋に政略上の理由だ。さらに言えば、妾が帝都を留守にすれば、妾の配偶者問題もしばらくは収まるであろう? その間に皆に頭を冷やさせたい」
ハミルトンは、ちょっとばかり苦しい理屈だなと思った。
単独の理由としてなら理解できるが、話の流れから見て唐突に過ぎるのだ。これでは何が「好機」なのかが分からない。伊丹という男がいることが好機だと言うなら、それに関連する動機をピニャが持っていることになる。
もしかして――!?
この瞬間、ハミルトンは天啓を得た。ピニャが誰を意識し、何をしようとしているかが分かってしまったのだ。
ま、まさか殿下はイタミ卿のことを!?
考えてみると、伊丹はピニャが配偶者に求める条件のかなり多くの部分を持っている。
炎龍を倒したという功績から、ヒト種のみならず亜人種達の尊敬を受けている。
そのくせ野心らしきものを全く持ってない。趣味は、益体もない滑稽本や絵草紙を見てニヤニヤするというもの。その程度ならほとんど金が掛からない。
ピニャの芸術趣味に対しても、そもそもの原因はあの男の元女房なのだから理解があるに決まっている。
つまりは、ピニャが挙げた数々の条件は、ズバリ伊丹のことを指しているのだ。
そう思ってみれば、ボーゼスが書いて寄越した好機を逃すなという意味も、それからピニャが突如としてトュマレンに行くと言い出した理由も透けて見える。
ハミルトンは自分の思いつきに動揺した。
「どうしよう。私に何ができるだろう」
どうにも落ちつかずに、そわそわしてしまった。
なるほど、確かに好機である。ボーゼスが言ってきたように、ピニャが伊丹と水入らずの時を過ごすのに、この状況はまたとないチャンスなのだ。
だが、ハミルトンは首を傾げた。
「ちょっと待って? だったらどうして殿下はイタミ殿を配偶者候補の筆頭に挙げようとなさらないの?」
ピニャが心憎からず想っていて、伊丹が政略結婚の相手として申し分のない条件を備えているのなら、そのまま配偶者候補の筆頭として公式に交渉をすれば良い。
皇帝も元老院もぶつぶつ言いつつも、ピニャの意志が固いとなれば強くは反対しないだろう。英雄の名声は、今や帝国ではそれほどのものなのだ。だからピニャがそうしないのなら、きっとそれなりの理由がどこかにあるはずだ。
しばし考えて、ハミルトンはポンと手を打った。
「そっか。イタミ殿は市井の民でらっしゃるから……」
政略結婚というのは、国とか領地とか家といった重たいものを背負っている同士でのみ成立する。好悪の感情だけで相手を選ぶことのできる庶民に、政略的に都合が良いので結婚してくださいなどと言っても相手にされるはずがないのだ。
もちろん、問いかけもせずに決めつけてしまうのは早計である。だが、少なくともピニャ自身は、自分なんか相手にされないと思って諦めてしまっているのだ。
「つまり、殿下は……」
だからこそピニャは、自分の本当の気持ちを封殺して、意に沿わない相手を伴侶に迎えようとしているのだ。
配偶者選びについて自分から特別な発言をしないのも、どうせ自分なんてという捨て鉢な心境なのだろう。本命以外なら、もう誰でも良いと考えているに違いない。
だが、この結論はハミルトンには到底、納得できるものではなかった。
これではピニャが、トュマレンに向かうと言い出した理由にならないのだ。
好いた相手をすっぱりと諦めるなら、距離を置いて近づかなければよい。相手の姿を見て、声を耳にすれば、折角封じ込めた気持ちは疼いて、駆け巡る。何かの区切りを得ない限り暴走し、止まらなくなってしまうのが乙女というものだからである。
「そっか。殿下は捨て身の突撃をかけることにしたんだわ」
ハミルトンの憶測は、最終的な段階へと進んだ。
「殿下は最後の機会に賭けてみようとしているんだわ」
自分の気持ちにすっぱりと整理をつけるために、伊丹に最初で最後のアタックをかけてみようとしているのだ。成功すればそれでいいし、失敗したらそれはそれですっぱりと諦める区切りになる。
だが、その結論はハミルトンには決して受け容れられるものではなかった。
「ダメ! そんなことは絶対にダメっ!」
変な男が殿下の配偶者になるくらいなら、伊丹の方が良いのだ。
伊丹もハミルトンの理想からはほど遠いけれど、それでもオークみたいな醜男に比べたらよっぽどマシなのである。いや、ピニャが想っているというのなら、その相手こそが理想と言える。
「どうしよう?」
どうすればピニャが伊丹と結ばれるのかと、ハミルトンは思案を巡らせた。
要するに問題は、伊丹という男がピニャをどう想っているかの一事に尽きる。ピニャの気持ちは決まっているのだから、伊丹をその気にさせるのが一番なのだ。
が、それこそが難題でもあった。
「……考えてみると欲のない奴ってやっかいね」
少なくとも、ピニャの権力とか巨万の富を誘い水にする方法は無理だ。
そんなものに靡くような男なら、権勢欲がないという条件に合致しなくなってしまう。一般には利点になる釣書きに並ぶ肩書きも、こういう相手には重たいだけのハンデに堕す。
つまりピニャは、美貌や人柄といった生まれ持った物だけを武器に戦わなければならないのだ。
「戦うって誰と!?」
そこまで考えた途端、ハミルトンは、ピニャが自分なんか無理だと諦めてしまった理由を理解した。
競争相手とは、ロゥリィ・マーキュリー、テュカ・ルナ・マルソー、レレイ・ラ・レレーナであり、さらにはヤオ・ロゥ・デュッシも加わる。
正直、敵と見ると大変に手強い相手が揃っている。
皇太女とは言え所詮はヒト種。どれほどの権勢や威厳を纏っていても、カリスマ性や高貴さで、亜神たるロゥリィに敵うはずがない。
美貌では、エルフたるテュカに敵うはずがないし、知性では若くして導師号を得た魔導師レレイに敵うはずがない。女の色香で勝負しようにも、妙齢のダークエルフのヤオが控えていてはそれも難しい。
「そっか。だから殿下は……」
ピニャは、敵の圧倒的な戦闘力を前に絶望的な心境に陥ったに違いない。だから戦う前から諦めているのだ。
ハミルトンはそんなピニャの健気さがいじらしくてたまらなく思えた。
「でも、ダメです殿下! 恋には禁じ手はありません!」
夫婦というのはどんな形でくっつこうが、最後は気持ちが通じ合えば幸せになれる。それがハミルトンの信念である。
その良い例が、ハミルトンの両親であった。
ハミルトンの両親は政略結婚で夫婦となった。初めて会った時から、互いに「この人いいなぁ」と思っていたが、政略結婚という形で縁談が進んだため、気持ちがしっかり通じ合う前から夫婦という形式ができてしまい、そのため関係がかえって拗れてしまったのである。
自分は相手に好意を抱いている。けれど相手は自分のことをそれほど好きではないだろう。それでは気の毒だ。だから気を遣わないと――そんな不必要な身構えが悪い方に働いて、互いに気まずくなって、夫婦関係はどんどん冷えてしまったのだ。
だが、幸いにしてちょっとした事件をきっかけにして気持ちが通じ合い、政略結婚とは思えないほどに親密な関係になった。今では娘からも見ても恥ずかしくなるくらいの熱々ぶりだ。
ハミルトンの母は事あるごとに彼女に言った。自分がもうちょっと素直になっていれば、こんなに遠回りしないで済んだのに、と。
そう、少しだけ素直になればいい。それだけなのだ。
そんな例があるからこそ、ハミルトンは思うのである。ピニャにはちゃんと好きになった相手と一緒になって欲しいと。
国のために自分を捨てるのも厭わないと言うくらいなら、それこそ配偶者くらいは自分が好きな相手を選ぶべきなのだ。
「分かりました。こうなったら不肖ハミルトンが、一肌脱ぎましょう。殿下のために」
ハミルトンは強い決意を固めると、自分の胸をドンと叩いた。
ありとあらゆる手管を用いて、ピニャと伊丹とをくっつける。何としても。絶対に。
そもそもヒト種の男と番うなら、ヒト種の女がいいに決まっているのだ。
しかも、魔導師の小娘を除いたらみんな百歳以上も年上の年増だ。年増は、年増に釣り合いの取れたおじいさんを物色していれば良い。伊丹だって若くてぴちぴちな方がいいに決まっている。
そうなれば敵になるのはルルドの小娘だけ。ピニャにだって充分以上の勝機はある。
「って言うか胸の大きさで、殿下の勝ちです!」
いざとなったら、ボーゼスを見習って既成事実を先に作り、デキ婚に持ち込むという手もある。最悪、催淫作用のある薬をピニャと伊丹の双方に飲ませ、二人一緒に二~三日ほど監禁しておけばいっちょあがりだ。
いや、『最悪』などと手ぬるいことは言ってられない。初っ端から、最終兵器を使って伊丹を逃げられないように捕らえるべきだろう。
つまりは「最初っからクライマックス」なのである。
「フェトランの媚薬は、悪所で手に入るかな?」
そんなハミルトンの思考が言語として漏れたようで、ピニャが不思議そうに首を傾げた。
「ん、フェトランだと? ハミルトン。お前、いったい何を考えている?」
「いえ。こちらのことです」
「なら良いのだが……しっかりしてくれよ。妾達が向かうのはトュマレンなのだからな」
ハミルトンがいろいろなことを考えている間に、ピニャもピニャでトュマレン行きの決意を固めていた。ピニャにとっては想い出作りの旅と言ったところだろう。
だが、そうはさせない。最後? 違う。これが、運命が変わった最初のきっかけだったと言わせてみせる。
ハミルトンは、戦いの予感に胸を大きく膨らませた。
「早急に殿下のトュマレン行きを支度しますね」
「ああ。頼む」
「万事お任せ下さい。きっと全て上手く行くようにしてみせます」
ハミルトンはニヤリと微笑むと、これがピニャのためだと信じ、全力で駆け出した。
はた迷惑な方角に向けて……。
* *
―― 帝都郊外 エネト川港 ――
さて、帝都からトュマレンへの道程は、三十日ほどかけて陸路をひたすら突き進むという方法と、氷雪山脈から帝都近くを通って碧海に向かうエネト川を下り、プロプトーの港町から海路を七~十日ほどかけて進むという方法の二つがあった。
「菅原さん。ここに来たのは何故だったっけ?」
帝都郊外の、エネト川の船着き場に到着したところで、伊丹は菅原に尋ねた。
「伊丹さん。出発前の説明を聞いてなかったんですか?」
「伊丹のことだからきっと寝てたんだろう?」
七三式小型トラック――一般にパジェロと呼ばれる車両から荷物を下ろしていた剣崎達が揶揄する。だが伊丹は真剣な面持ちで答えた。
「聞いてたよ! 船で目的地に行くんだったよな?」
すると剣崎らは「珍しいこともあるもんだ」と、伊丹を指差して声高らかに笑った。
そんな感じで場の雰囲気が充分に柔らかくなると、菅原は荷物の上に地図を広げた。
「いいでしょう。確認も兼ねて再度説明します。今回、目的地のトュマレンまでの乗り物は民間の商船をチャーターして参ります。往来に掛かる時間、コスト、途中でのリスクといった様々な要素を勘案すると、そのほうが良いということになったのです」
陸路だと、あちこちで出没する帝権擁護委員の残党やら、盗賊の跋扈する危険地帯を通過しなければならないし、国境を無事に通過できたとしても、今度はトュマレンがエルベ藩王国との間で起こしている領土紛争の係争地、グラスを通過することになるのだ。それよりは海の方が安全だと考えるのは、伊丹にも納得のできる話である。
だが、伊丹は自分達がこれから乗ろうとしてる船を顧みた。これこそが、伊丹がすでに分かっていることをあえて質問した理由でもある。
「でもさぁ、これで行くの?」
それは東京湾あたりを遊弋している屋形船みたいな川船であった。遊覧やら釣りに行くならまだしも、これで一週間以上の船旅をすると言われれば、伊丹ならずとも腰が引ける。それくらいの小ささなのだ。
「いや、さすがにそれは違うぞイタミ殿。この船で直接トュマレンに参るわけではない」
「え、この声って?」
菅原は思わず腰を上げた。
声の主が彼の記憶通りであるならば、皇太女ピニャ・コ・ラーダである。一国の皇太女の登場を前にして、座したままとはいかない。
そしてやはりピニャが姿を現し、ハミルトンらを連れて紅い髪を翻しながら、颯爽と川船に乗り込んできたのだった。
「これは皇太女殿下。お見送りですか? しかし、使節団が見当たらないようですが」
「実は、トュマレンには妾が参ることとなった」
「なっ!? 本当ですか?」
菅原は、思いもしなかったその発言に絶句した。
だがピニャは、自分が紛争当事国に行くことの意義を強い口調で語る。
「妾が直接行ってこそ、帝国の本気度が相手側に伝わるというものであろう?」
確かに帝国の皇太女が直々に乗り込んできたとなれば、トュマレンの為政者達も帝国の強い意志を感じることになるだろう。交渉も進めやすくなるのは間違いない。
だがそれは菅原にとっては、予定外であり、いささか困る事態なのだ。
「ですが、我々とのバランスが……」
菅原としては、帝国側の使節団と日本とが質・量ともに同格になるようにしたかった。でなければ、自分達が帝国使節団の一部と見なされてしまう。
特に、今回のように、詳しくは語らず、相手に誤解させるという方法をとるとなると、日本の立場が帝国に劣るという印象を与え、今後の外交に差し障りを生じさせかねないのだ。
だが、ピニャはそんなことは先刻承知とばかりに言った。
「スガワラ殿の懸念は理解している。だから、当方は随員の数を極限にまで減らすことにした」
ピニャに付き従うのは、今此処に居る秘書官のハミルトン、護衛として騎士長補グレイ・コ・アルドの二人だけ。
これならば伊丹の他に六名の護衛団を引き連れている菅原よりも圧倒的に少ないため、日本の使節団が帝国使節団の一部と見なされる心配もない。
「ですがこれはこれで別の問題が出てきませんか? 旅の途中のお世話とか」
「そのあたりは問題にはならぬよ。行き来は船だし、妾もハミルトンも長旅には馴れているから自分の面倒くらいは自分で見られる。ただ、道中の身辺警護がグレイ一人では心許ないのも確かでな。スガワラ殿、このあたり甘えさせてもらえまいか?」
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