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5冥門編

5冥門編-1

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   01


 陸上自衛隊特地派遣とくちはけん部隊の戦闘・輸送車両の列が長蛇ちょうだとなって、砂利道じゃりみちを進んでいく。
 大型トラックの無骨ぶこつなタイヤが巻き上げる土埃つちぼこりはもうもうと舞い上がり、アルヌスの景色はあたかもうすぎぬを被せたようにかすんでいた。
 肌にじわりと浮き上がってくる汗は埃とともに黒くこびりつき、目も開けていられないほどだ。
 だが、その中を進んでいく隊員達の士気は高い。
 銃を握る手、前を見据えるまなじり、真っ直ぐに伸びた背筋、半長靴のかかとが地を踏む時の闊達かったつな歩調。全てに活気が溢れて、旺盛おうせいな意欲が隊員達の五体にちていた。
 これから挑む戦いが、おそらくは帝国との最後の激突となることを、皆が理解しているのだ。

「これで、戦争も終わる」
「これが終われば、帰れるんだよね」
「きっちりと、とどめを刺してやる」

 問えば、それぞれが思い思いの動機を述べるだろう。その全てが、隊員達を戦いに駆り立て、アルヌスの丘は一つの炎となったかのごとき、熱気に包み込まれたのである。
 だが、その熱気から取り残されている者がいた。
 隊員達の戦意が高まれば高まるほど、彼ら、彼女らは空疎くうそ寂寥感せきりょうかんに落ち込んでいく。
 まばらにしか客の姿のないPX(駐屯地購買部ちゅうとんちこうばいぶ)の情景は、『ゲート』が閉じられることになったら、このアルヌスの街がどうなるかを、皆に実感させていたのだ。


 昼間からカウンターで酒を飲んでくだを巻いているPXの猫耳店員のだらしない姿に、料理長は苛立いらだちをあらわにした。

「昼間っから酒なぞ飲みやがって! メイア、お前暇なのか?」
「今日は非番だニャ。ゆうきゅうきゅうか有給休暇を消化しないといけないニャ」

 カウンターに頬をぺったりと載せた猫耳娘は、耳をぴくぴくと震わせながら答えた。
 いつもならお仕着しきせのメイドドレスを着ている彼女も、今日は私服姿である。
 それはこのアルヌスの亜人種に流行している、足を付け根までむき出しにした黒革生地きじのホットパンツにしっぽ穴をあけたもの。編み上げたサンダルのひもに包まれる美脚と、ふにょふにょと揺れるしっぽの曲線美を周囲に見せつけていた。
 上はゆるゆるのチューブトップで、わきえりが甘いからチラリと中身がこぼれそうである。たけが短く、締まった腰回りを衆目しゅうもくさらす挑発的な出で立ちだ。
 はっきり言って、まぶしいほどになまめかしい。
 おかげで食堂の人口密度は、彼女の座るカウンターの周りだけが妙に高くなっていた。
 作業員やら隊商護衛の傭兵ようへい連中が、彼女のしどけない姿を鑑賞しながら食事を取ろうと集まっているのだ。
 これが他の街で夜の居酒屋ならば、彼女に言い寄ったり、絡んだりする酔客すいきゃくが出て来るところである。だが今は昼間であり、周りに顔見知りしかいないようなこの街ならば、メイアも安心して飲める。だからこその油断が、こんな眼福を周囲の男達に許しているのだ。
 だが、料理長は女の泥酔客でいすいきゃくは好まないという差別的な態度をあからさまにしていた。

「オスの酔っ払いには文句を言わないくせに、それは差別ニャ」
「違う! こいつは区別って奴だ。女が正体を失ってると良からぬ事を考える奴が出て来てマジで困るんだよ。中途半端に知り合いってのが、かえって始末に悪い。女が徹底的に油断するからな」

 料理長はそう言い放つと、隙あらば言い寄ろうと待ち構えている男共をにらみつけて威嚇いかくした。
 そしてメイアをさとすような口調へと改めた。

「なぁメイア、折角せっかくの休暇なんだ。ちっとは有意義に過ごしてみちゃあどうだ?」
「有意義ってどんなことニャ?」
「例えばだ、部屋の掃除とか洗濯とか、つくろい物とかだ。溜め込んでたりしないのか? そんなことをやってりゃ一日なんてあっという間だぞ」
「そんなことは、毎日ちゃんとやってるから、溜まったりしてないニャ」

 何気に働き者な娘であると分かる答えである。どうやらメイアは、やらなければならないことを翌日回しにするような性格ではないらしい。

「じゃあ、どこかに遊びに行くとか、誰かと一日おしゃべりをして楽しむとかはどうだ? いっそのこと、これと決めた男と遊んでもいいんじゃないか?」

 周囲にいる男達は、料理長の言葉に一斉に「うんうん」と頷いた。遊び相手に立候補したいのだろう。だがメイアは料理長の提案を一笑に付した。

「このアルヌスで遊びに行くってどこニャ?」

 残念ながら、このアルヌスに遊興施設のたぐいはない。ウィンドウショッピングも、売る側である彼女にとってはあまり楽しめるものではない。何しろ仕入れから陳列ちんれつ棚卸たなおろしといった作業の一切を彼女が取り仕切っているのだ。どこにどんな商品があるか見るまでもなく把握している。

「それに、友達と顔を合わせていると面白くない話になってしまうニャ」

 ここ最近は、アルヌスの住民が二人以上集まると、『門』を閉じることになったらどうする? という話題になるのだ。『門』が閉じられた後どうなるのか、自分達はどうなってしまうのかという不安が、人々の間に蔓延まんえんしていた。

「それにあの人はこれから戦いだニャ。それなのに他の男と遊べるほど、ウチは器用になれないニャ……寂しいんだニャ」
「なんだメイア。お前さん男がいたのか?」
「そういう仲には、まだなってないニャ。ウチが勝手にいいなぁってあこがれてるだけだニャ」
「もしかしてニホンの人か?」

 メイアは顔を上げてトロンと酔った視線を料理長に向けると、黙ったまま小さく頷いた。

「そ、そいつは……確かに困った話だな」

 料理長もそういう話ならば仕方ないかと、ばりぼり後ろ髪をく。
 暮らしの先行きばかりでなく、その彼氏を失ってしまうことまで思い悩んでいるのだ。極端な話、失業と失恋のダブルパンチだ。この二つが重なったダメージが大きいことは料理長とて理解できる。彼も、職と妻とを一緒に失った経験者だからだ。

「で、その相手は、お前の気持ちを知ってるのか?」

 メイアは、突っ伏したまま首を左右に振った。
 相手がメイアを憎からず思っているなら、こちらに居残ってくれる可能性もあるのだ。実際に残留要員の募集も始まっており、応募者もそこそこ集まっているという噂だ。
 例えば、旧第三偵察隊の倉田くらた三曹や、富田とみた二曹が残留すると公言していることは、皆もよく知る話である。
 だが、彼らがこの地に残ることを選択したのは、相手との関係が上手くいっているからだ。メイアが一人でくすぶっていても意味はない。やはり気持ちは伝えなければ、何も始まらないのだ。

「なぁメイア、いっそのこと告ってみちゃあどうだ? んでもって、こっちに残って下さいって頼むんだよ」

 だがメイアは目を涙でうるませると、「そういうわけにはいかないニャ」と唇を尖らせた。
 メイアは言った。彼をこの地に引き留めるということは、彼氏に肉親との離別を強いることになるのだと。
『門』を閉めることで懸念けねんされる問題の一つに、再開通後に起きるであろう時間のズレが指摘されている。こちらでは少ししか時間がたっていなくても、日本側ではどれだけの時間が流れているか分からないというのだ。
 下手をするとそれが一生の別れになってもおかしくない。それを恋しい相手にいることが出来るほど、メイアは身勝手になれないでいた。

「だったら、お前がニホンに行くってのは?」

 先日、アルヌス周辺の施政権しせいけんが日本に移った後、どうなるかという説明会があった。
 それによると現段階でこのアルヌスで生活している者の内、希望する者には日本国籍か永住の許可が与えられ、このどちらを得ても日本で生活できる。
 だが、それとてメイアには気安く出来ることではない。見知らぬ土地で暮らすのは、想像以上の困難が待ち受けているのだ。
 言葉、習慣、仕事。自衛官達は最初から礼儀正しく振る舞ったので感じなかったが、ジャーナリストとか名乗る連中がやって来た時、彼女達はまざまざと思い知らされていた。
 彼らは自分達に、口をく犬猫を見るような視線を向けていたのだ。もし『門』の向こう側に住む者の多くがそうならば、かなりの覚悟が必要だ。決心するにしても、まだ成就じょうじゅしていない恋心だけを頼りにするのは、あまりにも心許こころもとない。

「仕事をしていれば、変なこと考えずに済むニャ。けど今は暇ニャ。だったら飲むしかないニャ」

 メイアはとろんとした瞳でビールのおかわりを要求した。そして、食堂で忙しそうに立ち働いているウェイトレス達を眩しそうに眺めた。

「ここは、相変わらず忙しそうでいいニャあ」
「ああ……夜の客は減ったが、昼には影響がないからな。元々ジエイタイの人達は昼飯は自前の食堂で食うから、こっちに来ることはない。ま、もうしばらくはこんな感じが続くだろう」

 とは言え、『門』が閉じられれば街の存在価値は低下する。人口減少も必至だ。この食堂に来る作業員、隊商護衛の傭兵達、そして大工だいくなどの多くが姿を消す。
 メイア達もまた、配置転換や転勤の覚悟が要求されていた。支店の置かれている帝都や、あちこちの大きな街に移り住むこともあり得るのだ。

「メイア、上手くすれば帝都あたりの支店に移れるかも知れないぞ。こんなチンケな街に比べりゃあ大都会だ、遊ぶ場所にも事欠かない。きっと面白いぞ」

 だが、メイアは首を横に振った。

「ここに比べたら、どんな街でも見劣りするニャ」
「ま、ある意味そうかもしれんな」

 料理長もそれを認めた。
 よっぽど歴史のある古い街でない限り、幅を利かせているのは大抵がヒト種で、亜人の肩身は狭いのだ。学都ロンデルほどに歴史があればそんなこともないが、あそこまで古い街だと、逆に古くから住んでいる連中の古参こさん意識が鼻につく。

「ウチも食堂に配置転換してもらえばアルヌスから出て行かずに済むのかニャ? まだ新人を雇う余裕があるみたいだし、ウチもこっちでウェイトレスとして働いていいかニャ?」

 メイアのうらやましそうな色を含んだ視線は、慣れない仕事に追い回されている新人ウェイトレスへと向けられていた。

「いや。あれは、そういうのとは違う」

 だが答える料理長の顔には、気まずい表情が貼り付けられていた。
 新人ウェイトレスと思われた竜人女性をここで働かせているのは、よっぽど彼の意に沿わないことなのだろう。
 その気まずさをどのように理解したらよいのか分からないメイアは、ただ戸惑ったように首をかしげた。

「……そうなのかニャ?」
「ああ。あれは、借金のカタにただ働きさせているんだ。だから誤解するなよな」

 料理長はこの話題をこれ以上続けたくないのか、きっぱり言うと口を一の字に結んだ。


「じぜるさ~ん。これ運んで~」
「は、はひぃ~」

 黒ゴス神官服が、暗黒神エムロイにつかえている神官女性の衣装であることはつとに有名である。
 だが、それ以上に有名なのが白ゴス神官服である。
 この衣装をまとっているのが冥王めいおうハーディに仕える神官であることを知らない者は、特地ではまずいないと考えてもいい。
 それは、シスターの衣装を着ている人を見たらキリスト教系の教会か修道院の人かと思い、袈裟けさを着ている人を見れば仏教の人だと思い、巫女みこ服を着ているのを見れば神道しんとうの関係の人だと我々が思うのとほぼ同じであった。
 さらに、その白ゴスを着ているのが竜人女性だと聞けば、誰のことと思い当たらない者はまずいない。
 そのために、食堂内のテーブルの隙間すきまをあたふたと走り回るエプロン姿のジゼルを見た者は、まるで時が止まったかのように開いた口がふさがらなくなるのだ。
 今し方、隊商の護衛任務を終えて帰ってきた狼男系亜人傭兵の二人組も、旅塵りょじんを払う前に少しばかり喉を潤そうと食堂に入った途端、あんぐりと口を開いたままの姿で固まった。

「おい、ウォルフ。こ、ここって……いつから、こすぷれ食堂になった?」
「なるほど、これがニホンにあると噂されているこすぷれ食堂か。びっくりしたぜ。さすがアルヌス共同生活組合。ニホンの流行を取り入れるのが早いね。竜人族の女の子を探してきて、白ゴス着せるとは、見事としか言いようがない」

 の当たりにした現実を否定できる発想にたどり着いた二人は、安堵のため息をついた。
 だが、顔見知りのウェイトレスから「コスプレじゃなくて本物だから、あれ」と言われ、二人は改めて衝撃を受けることとなった。

「じゃ、じゃあ、あれって、本当にベルナーゴ神殿の?」

 ウォルフは頬を引きつらせながら、カウンターで飲んでいる顔なじみのドワーフ大工の肩をつついて尋ねた。
 するとドワーフは、肯定するように小さくあごをしゃくった。

「で、でもこんなことってあり得るのか? って言うより、あって良いことなのか? もし本物なら、あれってジゼル猊下げいかなんだろ? か、か、か、神様がこんなところで働いてるなんて!」

 彼らにとってそれは、テレビでよく見るアイドルを、ラーメン屋の洗い場で見つけたような気分だったかも知れない。

「別に変じゃないだろう? ロゥリィ聖下だってこの街で働いてるんだぜ」
「ロゥリィ聖下はここのお偉いさんじゃないか! ジゼル猊下がやっているのはおさんどんだぞ。あんな下働きみたいなこと、やらせていいのかよ!?」
「そうは言うがな、こうなったのにもそれなりの深~い事情があるんだ」

 ドワーフは、ビールの入ったジョッキをテーブルに置くと居住いずまいを正した。

「聞きたいか?」
「あ、ああ。是非ぜひ
「あらかじめ言っておくが、こいつは面白い話じゃない。どっちかって言うとこの世の悲哀ひあいって言うか、厳しい現実って奴を非常に強く思い知らされる」

 傭兵二人は、ドワーフのかたわらに腰を下ろすと覚悟を決めたように頷いた。

「いいだろう。なら聞かせてやる」

 それは、後の世に長く語り継がれることとなる、『借金をしてはいけない。借金をしたらば、亜神であっても働いて返さねばならない』という教訓話であった。


     *  *


 事の起こりを語るには、ジゼルがこのアルヌスの街にやって来たところまで時を巻き戻す必要がある。
 ジゼルとしては、ハーディから課された宿題を、伊丹いたみやロゥリィ達がどうこなすのかを検分けんぶんしなければならないから、このアルヌスまで来ることは当然の選択であった。だからアルヌスに向かうと空飛ぶ乗り物「ヘリコプター」へと乗り込んだのである。

「あれ、アルヌスに行くんですか?」

 伊丹は、何食わぬ顔をして座っている竜人女性に尋ねた。

「ああ、やっかいになるぜ」
「途中で、タンスカという場所に立ち寄りまして、味方の作戦部隊を拾って帰ります。戦闘になるかも知れませんけど、いいんですか?」
「いいっていいって。気にすんなって」
「ならいいですけど」

 伊丹もまた、彼女がチヌークに乗り込むことを拒絶することはなかった。
 だが、このやり取りがジゼルにささやかな誤解をさせた。伊丹が拒否しなかったからといって、それが彼女にアルヌス滞在中の世話を約束したことにはならない。しかしジゼルは、すっかり客として饗応きょうおうを受けられると思い込んでしまったのである。
 伊丹が拉致らち犠牲者の移送やら、学者さん達の応対に気をとられ、ジゼルのことを考える余裕が少しもなかったことも理由になるかも知れない。
 アルヌス到着後、一人放置されたジゼルは顎足枕あごあしまくら付きの待遇を当然のものとして食堂を訪れ、食欲のおもむくままにあれこれと注文して飲み食いしてしまったのだ。
 満腹になったジゼルは、「はい、ごちそうさん」と幸せな気分で席を立つとウェイトレスに尋ねた。

「オレのねぐらどこ?」

 だが、答えの代わりに突きつけられたのは勘定書かんじょうしょであった。

「なんだこれ?」

 ウェイトレスはジゼルの視線にたじろぎながらも、常日頃から指導されているように、会計を明朗めいろうなものとすべく質問に対する回答を行った。

「ええと、お客様が飲み食いされた代金の請求です」
「えっ、なんだよそれ!? イタミの野郎から何も聞いてないのか?」

 何やらトラブルが起きているらしいと聞きつけた料理長が責任者としてやって来て、ウェイトレスに代わって対応する。

「それはもしかして、組合顧問こもん旦那だんなのことですか?」
「そうそう、ロゥリィのお姉様達とつるんでる奴だよ」
「ならイタミの旦那のことですよね。けど旦那からはお客様についての話は全くうけたまわっておりませんけどねえ?」
「しょうがねぇなぁ、あの野郎も忙しすぎて話をし忘れてやがる。まぁいいやさ。待っててやるからイタミって奴に連絡とってみな。そうすれば話は分かるからよ」

 ここまで自信たっぷりに笑われると、料理長も何かの手違いかと思う。
 それに、ジゼルが……と言うより、亜神が自分の飲み食いの代価を支払わない例が多いということは、かつて自分の店を切り盛りしていた料理長自身も耳にしたことがあった。
 例えばハーディがレレイの身体を借りてさんざん飲み食いした時の話だが、あの時の彼女は飲食代を自分で支払っていない。この手の支払いは全て神殿が負担するからだ。
 いや、実を言えば請求すらされていない場合もある。信徒の多い神殿街では、「使徒がこの店にいらして、ウチの食事をし上がった」と言うだけで宣伝効果は抜群だからである。
 ここが他の街でも、亜神たるジゼルに請求書を突きつける者はいない。どの街にも冥王ハーディをまつる小さな神殿やらほこらがあって、布教を担当する司祭が駐在していたり、信者の団体があるからだ。そういう街では、亜神が飲み食いや宿泊をすると請求書はそちらに回されてお布施から支払われるという仕組みが出来上がっているのだ。
 なので料理長も、その手の約束事があるのかと思った。そこで、組合の事務所に連絡して、伊丹に確認してもらうことにしたのである。
 だが、しばらく待ってもたらされた答えはジゼルを不幸のどん底へと叩き込むものだった。

「お客さん。イタミの旦那から、そんな話は知らないって言われましたぜ」
「ええっ!? そんなことあり得ねぇよ!」
「でもねぇ、旦那から知らないと言われてしまえば、我々としては猊下から直接お支払いしてもらわなければなりませんが」
「じゃ、じゃぁ、この街には祠とか、信徒の団体は!?」

 料理長は残念そうに首を横に振った。
 この新興の街アルヌスには、ハーディの祠どころか司祭も存在しない。残念なことに信者すらいないのだ。
 いな、かつてはいた。だが今はいないとヤオの顔を見ながら言うべきだろう。
 つまり、ジゼルには自分が飲み食いした代価となるような持ち合わせもなく、また代わって支払いを持ってくれるような存在もいないと言うことである。

「だいたい、イタミの旦那はハーディ様の信者じゃありませんぜ。そもそも炎龍の一件以来、猊下と旦那はいわば仇敵きゅうてきだ。なのにどうして猊下が饗応を受けられるなんて思ったんですかい?」
「ク、クナップヌイで飯を食わせてくれたから……」

 伊丹はお腹をすかせていたジゼルに食事をご馳走ちそうしてくれた。正直期待していなかっただけに、本気で嬉しかったのである。
 思わずほろりとほだされて、いろいろなうらみは水に流して、ちょっとくらい仲良くしてやってもいいかなと思ったくらいなのだ。だがそれは一時の気まぐれでしかなかったようである。

「その時はその時。今は今ですぜ、お客さん」

 冷や汗をたらたらと流しながらジゼルは料理長に申し出た。

「あ、あのさぁ。お布施ふせと言うことで、どうにかならねぇかなぁ?」
「それは出来ません」

 料理長とウェイトレスは二人並んで微笑んだまま彼女に勘定書を突きつけた。明朗会計。笑顔が大変によろしかった。
 ジゼルは不公平だと叫ぶ。

「ロゥリィのお姉様だってここで食ってたじゃんかよ! 料金も請求してなかったじゃんかよ! それって信仰による差別だぞ!」
「いいえ、違いますって」
「違わねぇよっ! こっちが差別だと思えば、どんなことでも差別なんだよ! 改めないと謝罪と賠償を請求すっぞ!」
「差別ってのは、不合理な区別による、扱いや待遇の差のことですぜ。でも、ロゥリィ聖下がここで特別の扱いを受けることは不合理ではありません。なにしろ聖下はこの街を運営している組合代表のお一人なんですから。つまり身内なんですよ」
!?」

 料理長の詳しい説明によって、ジゼルはようやく理解するに至った。
 この食堂は、ロゥリィやレレイ、テュカが代表を務めるアルヌス協同生活組合によって経営されている。……いわばこの街そのものがアルヌス協同生活組合の持ち物なのだ。
 ならば組合代表の一人であるロゥリィと、そうでないジゼルの扱いが異なるのは当然である。
 これで、ジゼルの脳裏のうりをよぎっていた「食い逃げ」という選択肢せんたくしも、ばっさりと断たれた。
 このアルヌスの街は、ロゥリィの神殿にも等しい。ここで食い逃げを敢行かんこうすれば後でどんな竹篦しっぺい返しを喰らうことになるか……。
 ロゥリィのハルバートによる斬撃、伊丹から叩きつけられた攻撃の土砂どしゃを巻き上げる凄まじい光景が脳裏によみがえって身体を震わせる。その記憶には、かなりの部分で誤解が混ざっているのだが、ジゼルの頭にはそのように焼きついていたのである。
 しかも「おたくの亜神が食い逃げしたからぁ、損害はそっちに請求するわよぉ」などいう苦情付きの勘定書がベルナーゴに送りつけられる可能性もある。
 それは考えてみると非常に恥ずかしいことであった。少なくともジゼルの権威は格段に失墜しっついするだろう。いや、そればかりかベルナーゴ神殿までもが、恥をかいてしまう。それは大変によろしくなかった。

「いったい何を騒いでるのぉ? 言って置くけどこのアルヌスで騒ぎを起こしたらぁ、タダじゃ済まさないわよぉ」

 その時、ロゥリィを筆頭に組合の幹部達が姿を現した。問い合わせが組合の事務所に届いたので様子を見に来たのだろう。
 ふと、その中にレレイがいるのを見つけたジゼルは、その薄い胸にすがりついた。
 長身のジゼルがレレイにすがりつく光景は何とも珍妙ちんみょうではあるが、ジゼルには彼女だけが最後の命綱に見えたのだ。

「レレイ頼むっ! お前もハーディの眷属けんぞくになったんだろ!? 俺らはもう身内だよな!? な!?」

 レレイは冥神ハーディから『門』を開く技を授けられた。その意味では確かにハーディの眷属であり、ジゼルと身内とも言える。レレイがそれをどう思っているかは関係なく、世間的にはそう見なされるのだ。
 それを聞いた料理長は「へぇ、レレイさんがねぇ」と目を細めた。

「なるほどね……で、どうしますレレイさん? 払ってやりますか?」

 だがレレイは無表情のまま、首をぷるぷる横に振った。

「イヤ」
「そんなああああああっ!」

 救いを求める者をがけから突き落とすような冷たい一言に、ジゼルはずりずりとへたり込んだ。
 亜神となって百と数年。彼女もまた多くの敵と戦って強敵をほふって来た身である。
 その彼女の心身にここまでのダメージを負わせたのは、ロゥリィのハルバートや自衛隊の集中砲火を除けば、レレイのこの一言ぐらいだった。
 さすがにジゼルを哀れに思ったのか、レレイは即座に付け加えた。

「貸すならよい」
「か、貸してくれるのか!?」

 ぱっと元気を取り戻すジゼル。

「ただし十一トイチの利息をつけること」

 起きたり、しなびたりと忙しいことこの上ないが、またしてもジゼルはガックリとしてくたくたっと床に膝をついた。
 十一とは一般的に、十日で一割の利息が付くことを意味しているからだ。
 ここが日本であれば、利息制限法どころか出資法違反で捕まる暴力高利貸し的な利息である。だが債権の取り立てリスクが高く、貸し倒れの可能性の高いこの世界では、実のところこれでも良心的な部類なのである。

「くっ……」

 ジゼルは歯がみした。思わずそれでもいいと認めそうになったのだ。
 だが、返済するあてのない一時しのぎの借金は、雪だるま式にふくらんでかえって酷くなるということは、ジゼルとて充分に承知していた。
 何しろ、神殿に来た参拝者が神様にするお願いのベスト3に、「お金持ちになれますように」と「借金が完済できますように」の二つが入るのだ。ちなみにあと一つは「結婚相手が見つかりますように」である。
 ベルナーゴ神殿にレレイの請求書を回してもらうのは良い。だが、その場合は完済されるまでの利息が十日で一割の割合で膨らむ。その間の滞在費、食費もかかるから、借金の元本がどれだけ膨らむか想像するだけで恐ろしい。
 神殿の財務担当神官からねちねちと苦情を言われ、主上ハーディからも叱られてしまいかねない。それだけは、どうしても避けなければならないのだ。

「……む、無理」

 涙目のジゼルは地に膝をついた姿勢から、どっかりとおしりを下ろすと、床に座り込んで両手両足をじたばた振り回しながら叫んだ。

「くそぉぉぉぉぉぉぉ! オレをハメやがったなあ! こうなったら好きにしろいっ! るなり焼くなりなんなりしやがれっ! 胸の肉、十一ワントを切り取りたきゃ取りやがれ!」

 胸の肉十一ワントというのは、借金のカタに命を差し出すという約束をした商人の物語に出てくる、いわば特地版『ベニスの商人』の一節である。
 悪徳高利貸しを罵倒ばとうする際に用いられる慣用句でもあるが、その言葉の意味は、借金のカタに俺を殺すのかと相手をなじるものだ。手足を切られようが、胸をえぐられようが死ぬことのない亜神がそう喚いても、それほどの迫力はない。
 とは言え、スタイル抜群のジゼル猊下のこの発言は、ロゥリィとレレイの二人が常日頃からささやかに気にしている『何か』に触れた。
 二対の視線は大地に磔刑たっけいにあったかのごとく横たわったジゼルの、ボリューム豊かな双丘そうきゅう遠慮えんりょ無くそそがれたのだ。
 その充実した張りがどれほどに素晴らしいかは、かなりの質量を有しているにもかかわらず「さあ、好きにしろいっ!」と仰向けに横たわっても形状がほとんど変わらないことから理解できるだろう。
 二人はそれぞれの胸部を見下ろし、次いでジゼルの傍らにしゃがみこむと、その胸の質や感触を確かめるように、ふにふにと触ったりした。

「成長途上だから十一ワントもいらない。でも、そう、あと一……いや、二ワントもあればかなり違いが、メリハリが……」
「レレイぃ、肉体の一部をツギハギする魔法とかあるぅ?」
「それは禁忌きんきに触れる。二十年ほど前に、誘拐した娘と身体のすげ替えを行った女魔導師は、どっかの亜神に首を落とされたと聞く」
「あ……それやったの、わたしぃだったわぁ」

 ゆがんだ思惑が二人の間に流れるのを見ていられなくなったのか、テュカが取りなすように言った。

「二人ともよこしまな考えは捨てなさいよ! 自前が一番でしょ。それに二人とも、お父さんの好みの分析結果を忘れたの? こんな下品なのは駄目だって分かってるでしょ?」

 テュカが言っているのは、当然ながら二人の言動のことで、決してジゼルの胸を下品とけなしたわけではない。だが、そのように聞こえたジゼルは、心底傷ついたようにうめいた。

「げ、下品って……」
「じゃあ、どうするのぉ?」
「もちろん、身体で返してもらえばいいわ」

 自分の肢体したいをなめるようなテュカの視線に、寒気にも似た戦慄せんりつを覚えたジゼルは、思わず自分の身体を抱きしめた。

「まさか……オ、オレに、その、あの、身体で稼げって言うのかよ? ま、まさか、ミリッタのところみたいな働きをしろとか言わねぇよな?」

 ミリッタは豊穣ほうじょうと子宝をつかさどる女神である。
 それだけなら何一つ恐れることはないのだが、問題はその神殿の女性神官が娼婦を兼ねることにあった。ミリッタの信者たる女性は、生涯しょうがいに一度は神殿で娼婦として働かなくてはならないというとんでもない教義というか戒律かいりつがあるのだ。
 それでよくぞまあ信仰を捨てる女性が居なくならないものだと思うところであるが、子宝・安産といった、女性にとって命がけだったり真剣に悩んだりする分野でかなり現実的な御利益――新生児・乳児死亡率がコンマゼロ以下にまで下がる――がある。さらに産褥婦さんじょくふの死亡率もコンマゼロ以下という、医学水準の低いこの世界では驚異的な力を持っているために、意外にも結構な数の信奉者がいるのである。
 とは言え、それにはきちんと理由がある。娼婦として働く時に相手を拒絶できないというルールこそあるものの、神殿にあがるタイミングをうまく計って、婚約者にお客になってもらうという裏技があるのだ。
 そのため奉仕の義務を果たした翌朝にそのまま神殿で結婚式を挙げるカップルは少なくない。もちろんうまく行かずに予想だにしない展開になる例もあって戯曲化ぎきょくかされていたりもするのだが、神官にちゃんと話を通しておけば予想外のことはまず起きない。実に話の分かる女神様なのである。
 本当に特地の神様というのはいろいろで、教義も信者も多岐たきにわたる。ミリッタはその証左しょうさみたいな存在なのだ。
 ムリムリムリと首を振るジゼル。

「だって、オレ、男って分かんねえもん! 無理、ごめんなさい! 出来ません、勘弁してっ!」

 ジゼルはへこへこと頭を下げ、自分が幼少期に神殿に入って外に出たことのないままに亜神化した箱入り娘であることを白状した。するとロゥリィはにんまりと意地悪そうに微笑み、ジゼルの耳元でささやいた。

「大丈夫よぉ、テュカってぇ男も女もいける両刀だからぁ。神殿勤めが長かったのならそういうのに免疫めんえき有るわよねぇ」

 女の園とも言える女子修道院では、同性同士の色恋沙汰ざたの方が頻繁ひんぱんなのだ。雰囲気としては女子中学・高校に近いかも知れない。言動が男性的なジゼルはその意味で、確かに人気を集めていた。
 たちまちウェイトレス達が色めき立って、きゃーという黄色い悲鳴を上げる。
 精霊種せいれいしゅたるテュカに憧れの視線を向ける女性は、このアルヌスにもかなり潜伏している。そしてその相手がジゼルのような亜神ともなれば、天使と堕天使の組み合わせにも似た雰囲気が漂うだけに、妙に色めき立ってしまうのだ。
 だがテュカは人差し指を立てると二人に「ちっちっちっ、それは間違ってるわ」と訂正した。

「正確には『お父さん』と女の子よ」
「同じじゃなぁい!?」
「大いに違うわよ。男なら誰でもいいってわけじゃないもの! お父さんでなきゃ嫌だもの」

 そんな会話が頭の上を飛び交うと、自分の運命が心配になったのか、ジゼルはおずおずと尋ねた。

「あの、それで身体で稼ぐってのは……」

 するとテュカはジゼルにウェイトレスのエプロンを押しつけ、安心するようにと告げた。

「もちろん働いて返して貰うのよ」

 散々おどされた直後なだけに、ジゼルは「あ、それならやる!」と簡単に飛びついた。
 そんな訳で、ジゼルは飲み食いした代金を支払うためにこのアルヌスの食堂で働くこととなったのである。職務として指定されたのは接客、料理運び、皿洗い、掃除等。借金もそこまで多額なわけではないから、まじめに十日も働けば完済できると思われた。
 ところが彼女は毎日毎晩、まかないとして認められる範囲を超えて飲んで食った。
 美味うまい酒に目がないジゼルは、エールの類ではもう満足できない。高価な輸入物のブランデー、ワイン、シャンパンといった酒をついつい飲んでしまった。そのため借金がなかなか減らず、延々と働き続けるはめになっていたのである。
 ジゼルはくやしげに呟いた。

「くそぅ、ここの飯が美味いのが悪いんだ」

 うっかり開けてしまった、クリュグとにらめっこしつつ、罵倒ばとうするのはあくまでも料理である。
 それは、大好物の酒に責任を負わせることを無意識に忌避きひした言葉かも知れなかった。


     *  *


「ってわけなんだ」

 ドワーフは、そうやってジゼルの物語を締めた。

「なるほど……」

 ウォルフ達はこれにはどんな感想を口にして良いか分からなかった。可哀想に思えなくもないけれど、自業自得じごうじとくなのではとも思えるからだ。
 そのあたりの微妙な気分を察したのか、ドワーフは論評を控えて、「さぁ、仕事だ」と腰を上げた。そしてテーブルには飲み食いの料金と別に、ジゼルへのお賽銭さいせんらしき銅貨を一枚ペタンと置く。

「そんなところか」
「まぁ、そうだな」

 ウォルフも財布から銅貨を一枚取り出すと腰を上げた。そしてドワーフに問う。

「この街で、大工仕事なんて残ってるのかい?」

 すでにアルヌスの街の建物は完成していて、かつてほどに大工が働いている気配はない。
 もちろん荷物の発送をする時に使う木箱、荷車の補修といった小規模の仕事はあるが、それらは職人種族であるドワーフでなければ出来ないような仕事でもないのだ。
 だがドワーフは、まだまだ忙しいぞと答えた。

「街に居ると気がつかないかも知れんが、丘の向こう側には外から戦災難民が流れ込んで来ているんだよ。そのための長屋をこしらえてくれっていうことでな、わしらが働いとる」

 傭兵達はドワーフと共にそんな会話を交わしながら、自衛隊の輸送車両がひっきりなしに走る外へと出て行った。

「ありがとうございました」

 丁寧ていねいな挨拶で客を送り出すジゼル。
 ジョッキや食器を片付け、自分へのお布施を見つけると、両手を握り合わせてからポケットに収める。ここで働くようになってから、他人からの情けがとても身にみて感じられるようになったのだ。
 食事時が過ぎたこともあり店内から客の姿は消えており、残っているのはカウンターで突っ伏している酔っ払いの猫耳メイアだけ。
 彼女については、ムリに起こして千鳥足ちどりあしで街を歩かれて、事故でも起こされては困るから寝かせておけ、と料理長に言われている。なので、ジゼルは彼女の座っている場所以外の椅子をテーブルに上げていった。

掃除そうじ、片付け、掃除、片付け……」

 昼の書き入れ時が過ぎたこの時間帯に、掃除等は済ませなければならない。
 ジゼルはほうきと雑巾を持ってくると床の清掃を始めた。
 傭兵共は粗野そやだし、商人達は忙しいから早く食べようとする。大工共は乱暴だ。そのせいか食べこぼし飲みこぼしを散乱させ、それを平気で踏みつけるから無茶苦茶床が汚れていた。
 箒でくだけでは当然のことながら綺麗にすることが出来ない。だから床をってそれらを拾い集める――それがジゼルの役目であった。他のウェイトレスは、三時間ほどの休憩時間となっていて、夜の営業のためにそれぞれに英気えいきを養っている。

「くそっ! こんなの神官見習いの時以来だぜ」

 ジゼルは四百歳を超える。それだけに神官見習いだったのは、一般の感覚からすれば随分ずいぶんと昔のことになる。そう、それこそ歴史的なスケールで昔のことなのだ。
 幼かった頃の彼女はただの竜人で、神官見習いであった。そしてベルナーゴ神殿とは別の、ハーディに仕える神官を育てる修道院で生活をしていた。
 そこでは、これに似た辛い雑用で一日を終える毎日だった。
 冬の早朝に、凍り付いた井戸の表面を割りながら水をみ、その冷たい水で雑巾をしぼってき掃除と洗濯をする。掃除がきちんと出来ていないと、先輩からねちねちと嫌味を言われ、かじかむ手は、あかぎれとひび割れ、そしてきずでいっぱいだった。
 指の第二関節のしわが割れて、そこから出血して雑巾が赤く染まってしまうのはしょっちゅうのことであった。
 その後に続いた長いした神官生活も過酷だった。
 他の種族なら、そろそろ引退を考える歳だからとお情けで昇進させてもらい閑職かんしょくに回される時期になっても、なまじ長命種で若い姿であり続けたため、最下級の神官のまま留め置かれ、自分が神殿に上がった時にはまだ産まれてさえいなかったような後輩達にも追い抜かれて、ねちねちと嫌味を言われながらあごで使われる日々を送ったのである。
 ふと、辛かった日々の記憶がよみがえり、気がつくと目から水滴がこぼれ床を濡らしていた。

「あ、あれ……なんだこれ。くそっ、目から水が溢れて来やがる。なんでだろ、なんでだ……うっうっ……お母ぁちゃん!」

 どうやら幼かった日々のホームシックまで蘇ってしまったようである。
 ついでに何百年も前に亡くなった母のことまで思い出してしまった。「立派な神官におなり」と送り出してくれた彼女の母は、大変優しい女性だったのだ。
 ジゼルにハーディからの天啓てんけいが下ったのは、母が亡くなってその面影を思い出すのに苦労するようになった頃である。
 どうして自分なんかがと思ったが、その理由は今も分かっていない。
 亜神になれるかどうかは神殿内の位階いかいや出自種族、血統は一切関係がなく、本人の才能と努力、そしてプラスアルファのみがものを言うとされている。実のところこのプラスアルファこそが最大の要素であり、これが何であるかは一切が不明なのだ。

「要するに『運』のしよ」

 などという極端な意見を口にする者もいる。
 宗教関係者の間でかわされる言葉なだけに「その者が主神に愛されたから」という理解の仕方に行き着くことが多い。後に、ジゼルが亜神になったことを知った教団の長も、長い長い下積みの生活に腐らず密かに陰徳いんとくを積んでいたのを、主神ハーディがご覧になっていたからだという解釈をしていた。
 だが、ジゼル本人はそれを喜ぶことはなかった。
 それよりも、自分に起こるであろう境遇の変化に不安を感じた彼女は、慣れ親しんだ日常を維持するために、亜神となったことを隠そうとしたのである。
 それは、亜神となった後もその事実を十年以上にわたって隠し続けたという、エムロイ神殿の先達を真似たものであった。
 だが、ジゼルはエムロイの使徒ほど要領がよくなかった。
 エムロイの使徒の場合はぎぬを着せられ苦境におちいった神官見習いを救うために、敢然かんぜんと名乗り出て不正を働いていた司教を断頭破門したという逸話いつわが残っているが、ジゼルの場合はそれほど格好が良くなく些細ささいなドジが原因だった。台所仕事の最中にうっかり指を切ったのが瞬く間に治っていくのを皆に見られ、それが噂という形で周囲に知れ渡ってしまったのだ。
 彼女の立場は激変した。
 つい昨日まで、自分のことを見下してきた連中が、思った通りと言うべきか一斉に態度を変えたのである。

「貴女なら、いつしか大成すると思っていましたよ。これまで辛く当たっていたのは、全ては貴女のため。それが報われてとても嬉しく思います」
「ジゼルは、儂が育てた!」
「ジゼル猊下。何なりとお申し付け下さい。これまでのことで、いろいろと恨みに思われることもあるかと思いますが、一生懸命お仕えいたしますのでどうぞ水に流していただきたく、そのあの、ごめんなさい……」

 そんな環境の激変が、自分はもう昨日までと違うのだと嫌でも実感させた。
 だがこのアルヌスではそれがない。ジゼルを亜神と知りつつもなお容赦ようしゃなく、請求書を突きつけ払えないと知れば働けと言うのだ。

「へっ、良い度胸してやがるぜ」

 呟きつつ、ジゼルは手を休めることはない。
 床を綺麗にし終えると椅子をおろし、額を流れ落ちる汗と一緒に心の汗もエプロンでぬぐって、自分の仕事の完璧さを誇らしげに見渡すのだ。

「どうだ、綺麗になったろう?」

 見ている者がいたらジゼルはそう問いかけたに違いない。

「よしっ、終わり!」

 パンパンと手のほこりをはらって仕事の終了を宣言すると、これでいつでもお客を迎え入れることが出来るぜと満足そうに微笑んだ。

「やっぱり、オレってこうやって身体を使って働いてるのがあってるんだよな」

 するとそれを待ち構えていたようにロゥリィがやって来た。

「ジゼルの奴ぅ、ちゃんと働いているぅ?」

「今日は乳茶にゅうちゃねぇ」という注文に、料理長は「ええ、なかなかに働き者ですぜ」と答えるとカップを棚から取りだし支度を始めた。
 ジゼルはかしこまった姿でお辞儀をすると「ご案内するぜ……します」とロゥリィを食堂の奥の貴賓室きひんしつへと案内した。
 ロゥリィが腰を下ろしても、ジゼルは立ち去ろうとしなかった。
 周りに誰もいないのを利用して、込み入った話をするつもりだと理解したロゥリィは、ジゼルに腰掛けるように告げた。
 だがジゼルは座ろうとせず、立ったまま口を開いた。


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