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3動乱編

3動乱編-1

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   01


 帝都の城門に炎龍えんりゅうの首が掲げられたのは、地震から数ヶ月の時を経て、その恐怖の記憶もそろそろ薄れようという頃合いだった。
 人間の力ではこうし得ないという意味で、炎龍は地震や天候による災害と同一視される。だから人々は、それによってもたらされる不幸を嘆きつつも、豪雨や落雷による災禍さいかと同じくして「運が悪かったのだ」とつぶやき、諦念ていねんという形で受け容れてきたのである。
 それでも災害を克服しようという動きがこれまでなかったわけではない。治水工事によって河川の氾濫を防ぐことが試みられるのと同様に、炎龍の討伐のために何人もの英雄が送り出された。だが、炎龍という害を取り除けた者はなかった。
 英雄達が柔弱にゅうじゃくであったとか、使命感にけていたわけではない。ただ単に敗れた。彼らをもってしても勝てない相手だったというに過ぎないのである。
 だからこそ、である。
 それを退しりぞけた「緑の人」と呼ばれる存在の噂は、真実であると期待する心とこれを疑う心の双方を燃料にして、爆発的な勢いで人々の間をけめぐり、帝国はおろか国境を越えて周辺諸国にまで広がっていった。
 そして今日、恐怖と絶望の象徴とも言える炎龍の首がさらされた。
 炎龍を退けたというだけで皆、驚いたのだから、これをったという証拠を目の当たりにした人々の衝撃は、それをはるかに超える。形容するなら『瞠若どうじゃく』あるいは『愕然がくぜん』、写実的には「目を見開いて、口をぽっかりと開けてながめている」と記すべき姿となった。
 敵国の軍を討ったとか、城をとしたとか、憎い仇敵きゅうてきを倒したということなら、即座に喜びの感情が湧き上がって歓呼かんこの声があがっただろう。だが、炎龍という存在があまりにも強大過ぎたため、それを倒したなどという話はどこか現実感に乏しくて、むくろとなった炎龍の首を見ても、実際にどのような反応を示せばよいのか分からないという戸惑いが先に立ったのである。
 だから、そこには興奮も喝采かっさいもなかった。『驚倒きょうとう』とも言うべき不思議な沈黙があった。とはいえそれは無感動を意味するわけではない。あえて言うならば『静かな熱狂』とでもするべきだろう。爆発的な燃焼は勢いこそ凄まじいが、時をおけばたちまち消え失せてしまう。けれどこれは、見えない地下でじわじわとどこまでも広がっていく煮えたぎったマグマのような力があった。そこに可燃物を投げ入れれば、たちまち燃え上がるだろう。
 帝都の周囲をぐるりと囲む巨大な城壁。その南側に帝都の玄関口にあたる大城門がある。
 この南門の周囲は、噂を聞いてやって来た人々の群れで埋め尽くされた。皆、城門が見える場所ならば、道路どころか建物の窓に鈴生すずなりとなって、そのあげく民家の屋根によじ登ってまで、これを見ようとしていた。
 互いに足を踏んでしまいそうなほどの混雑である。にもかかわらず大きな混乱も起きることなく、人々は口をぽっかりと開け、瞬きすらも惜しむように刮目かつもくし、受け容れ難い現実がその身と心へと浸透していくのを待った。そして、充分に理解した後で、ささやきはじめた。

「いったい誰がこんな凄いことを」
「どこかに、何か書いてないのか?」

 大衆に出来事を伝えるメディアのない世界の話だ。衆目しゅうもくにこのように何かをさらそうとする時、普通はプラカードや貼り紙などにその主張を記す。そうしなければ誰が何の目的を持ってしたことなのか判別できないし、皆からの賞賛を受けるようなことであれば、横から「俺がやった」というかたりが現れて功績を奪われてしまうからだ。
 だが、今回に関しては、それがない。ただ、炎龍の巨大な首が掲げられているだけであった。
 どこの誰が、どんな苦労の果てにこれを成し遂げたのか。その一切の説明をしようともせず、ただ沈黙のまま結果を示しているのだ。
 それでもこの沈黙は、多くの言葉を費やすよりもはるかに雄弁であった。
 人間には自ら推測し、解釈し、考察したことを表明して、他者から賛同を得たいと思う欲求がある。故に、人々はこう語り合うこととなった。
「あんなことが出来るのは、緑の人しかいないと思うんだが、どう思う?」と。


 炎龍討たれるのほうは、民衆に行き渡るのに少し遅れる形で為政者いせいしゃ達のもとへと届くことになった。その理由は、国家の安全にかかわる危急ききゅうの事態とは異なると判断されたため、見張りから警備長、そして伝令によって皇城へという通報システムに乗ることがなかったからである。そのために噂という不正確な形になってしまった。
 しかもほとんどの者が話を聞くと一度は耳を疑った。そしてその都度、それぞれがつかいを出したり、自ら足を運んで事実を確認したものだから、その日の早朝に起きた出来事が最高権力者であるモルトの元に届いた時には、すでに夕刻となっていた。
 皇帝モルトは内務相マルクス伯より報告を受けると「そうか」とだけ答えた。そして、あまり驚いた様子も見せず、兵士を派遣して群衆の整理と、城門に掲げられた炎龍の頭部を宮廷内に運び入れるよう命じた。

「へ、陛下はすでにご存じだったのですか?」

 そのあまりにも淡々とした様を意外に思ってか、マルクス伯は尋ねる。するとモルトはこともなげに答えた。

「何やら、宮廷雀きゅうていすずめ共の様子が上擦うわずっておったからな。何を聞かされても驚くまいと思う程度に心構えを済ませておいたのだ」

 帝国軍壊滅、突然の地震、元老院の議事堂倒壊と、このところ心胆しんたんの寒くなる出来事が続いている。それだけに、また何か良くないことが起きたのかも知れないと、覚悟を決めておいたと言うのである。だが皇帝が凶報慣きょうほうなれしてしまったというのも、ゆゆしきことである。マルクス伯は暗い面持ちとなって、恐縮するより無かった。

「そうでしたか……」
「うむ。炎龍が退治されたとは、思っても見なかったがな。だがこれは悪い話ではない。災害が一つ防がれたのだから吉報きっぽうとするべきであろう」
「しかしそうとばかり申してはいられません」
「分かっておる。炎龍を倒すなど誰にも成し遂げることの出来なかった偉業いぎょうである。その功績は単身で一軍一城を攻め滅ぼすにも匹敵ひってきしよう。名乗り出ればどのような出自しゅつじ種族の者であっても褒美ほうびを充分に与えるであろう。にもかかわらず名乗る者がおらぬというのはせぬ。それがその者の謙虚けんきょさ故のことならば案ずるまでもないが、首を掲げて功績を誇ろうとする行動とは矛盾する」
「はい。どうにも底意が知れません。なにがしかの意図があってのことと解釈いたすべきでしょう」
「あるいは穿うがぎかのう? 単に、炎龍が滅したことを民に知らしめたいだけかも知れぬ……そこで伯に命じたい。まず、炎龍の首を掲げたのが何者であるかを調べよ。さすればその意図も朧気おぼろげながらつかめるやも知れぬからな」

 マルクス伯は「かしこまりました」と一礼すると、速やかに仕事に取りかかろうとした。だが退室寸前に呼び止められ、再び振り返ることとなった。

「なんでございましょうか?」
「済まぬがピニャをここに呼んでもらえぬか」
「ピニャ殿下でいらっしゃいますか? 殿下ならばニホンから参られている使節の饗応中きょうおうちゅうと存じますが……すぐにお召しになられますか?」

 至尊しそんの座にある皇帝が用があるというのだから、それが優先されてしかるべきではあるが、今は重要な役務の最中である。それでも呼び出すか? という意味でマルクスは確認した。
 すると案の定、皇帝はそれには及ばないと手を振った。

「おおっ、そうだったそうだった。今宵には虜囚りょしゅうとなっていた者らの帰国を祝うもよおしもあったな。余も臨席りんせきすることになっておったというのに、すっかり失念しておった」
「どういったご用件でいらっしゃいましょうか? 火急とあらば、この私めが直々に参りまして殿下にお伺い申し上げ……」
「よいよい。後ほど、宴席にて顔を合わせるであろうから、その際にでも直接問うことにする」
「差し支えなければ、陛下のお心の内をご披露いただくわけには参りませんでしょうか?」
「うむ。実は、以前あの者より受けた報告に『緑の人』がどうのといった記述が含まれておったことを思い出してな。その者らは、どこぞの村を襲った炎龍を退けたと聞く。当時は一笑に付したが、このような結果となってみると調べる必要もあろうかと思ってな」
「では、その者が炎龍を討ったと……?」

 マルクス伯はいぶかしげに首を傾げた。

「まだ分からぬ。だが、その噂を知る者は皆、そのように思ったであろう。此度こたびの一件は、それと関係があるのではあるまいか、とな。それで、ピニャに確かめたかったのだ」
「かしこまりました。私の方でも、その者について調査させましょう」
「うむ。緑の人とは誰なのか。どこの国の者か? しかと調べて貰いたい、頼んだぞ」

 うやうやしく「かしこまりました」と頭を下げたマルクス伯爵は「緑の人」と、その名を心に刻むように呟いていた。


 その頃、帝都南苑なんえん宮では日本からの使節団を歓迎する午餐会ごさんかいが開かれていた。
 主催者は皇女ピニャ・コ・ラーダ。列席者は閣僚、元老院げんろういんの主立った議員、軍人、貴族に列せられる者達とその令夫人、令嬢れいじょうなどである。
 帝国の習慣では外国からの使節が到着したら、戦争中であろうとなかろうと、まずは歓迎記念式典を開かなければならない。そうしなければ、これからはじまる講話交渉も公式なものと認められないからである。特に重要なのは、来訪した使節が皇帝から歓迎の言葉を受けることであった。これによって使節の帝都滞在中の安全とその活動の自由を保障する外交特権が付与され、帝国の公的な使節団と交渉を開始することが出来るようになる。
 だが日本側の感覚では、これは固辞こじせざるを得なかった。
 何故なら戦争の当事国同士で、さらに銀座事件の被害回復も、拉致被害者の返還も済まされていない状態なのに、友好を前提とするような催しに参加出来るはずがないからである。
 そこで、工夫されたのが午餐会をピニャの私的な催しという形式にすることであった。そしてその終了後に場所を隣の会場へと移して、捕虜となっていた者の生還を祝う式典を行うのである。これならば日本側も捕虜を送り届けた者として出席するという名分が成り立つ。そこで、皇帝に謁見えっけんするのである。
 宴会の主催者を代えたり、催しの名称を変えただけで、出席出来たり出来なかったりするというのも変な話で、ここから茶番めいた下らなさを感じるとすれば、それはある意味で健康な感性を持っていると言えるだろう。
 というのも、その下らなさの根底には、「意地」とか「見栄」といった、成熟した大人ならばあまり重きを置かないような要素が複雑に絡み合っているからだ。だが、これを下らないと言い張れるのは、幸せなことである。何故なら、その幸せを享受できるのは、「そんなものにこだわらなくても人間が尊重される」成熟した社会に住んでいるからだ。そうでない社会でこの手のことを軽視すると、あなどられ、軽んぜられ、隅に追いやられて無視されて大変なことになってしまうのだ。
 例えるならば、いじめの蔓延はびこる教室で、周囲から侮られ馬鹿にされるのと同じだ。その結果として何が起こるかはホンの少し想像力を豊かにするだけで分かるだろう。
 そして、国際社会はいじめの蔓延った教室と同じだ。自慢できる物、そして皆に一目置かせる要素を数多く持つことが平和に暮らすために必要なのである。だからこそ、たとえ下らないことであっても後々になって禍根かこんが残ることを避けようとするのだ。それが外国との交際である。個人同士の付き合いのような適当さの入り込む余地は全くないのである。
 講和交渉にしてもそうだ。要するに双方の代表が角突き合わせて話し合うだけである。にもかかわらず、そこに名目やら伝統やら、格式といった各種の要素が加わるから、非常にやっかいな面倒ごとになってしまう。
 しかし、そのやっかいさを乗り越え、様々な問題を解決し、り合わせの難しい習慣になんとか折り合いをつけるのが外交当局者の仕事だ。互いが納得できる形式を整えるためには、たとえ傍目はためから下らなく見えようとも、奇策めいた工夫をするのである。
 そうした配慮は日本側使節団の構成にも表れていた。
 例えば、帝都に入ったのは、二十名ほどの官僚と、武官たる佐官級さかんきゅう幹部自衛官数名であるが、それらの代表として女性である白百合玲子しらゆりれいこが抜擢された。そしてその肩書きも、首相補佐官から特地問題対策担当副大臣へと格上げされたのである。
 これは、「対等な国家など存在しないので、会合の席で位の同じ者同士ならば帝国の者が無条件に上座かみざを占める」という傲慢さを式典の儀礼として組み込んで、使節を粗略に扱ったり、必要以上に待たせる帝国の外交習慣に対抗するためであった。
 帝国では、女性が大臣職に就くことがない。外国からの使節として女性を受け容れる時も、その女性が王族である例が常だったため、女性使節を宮廷儀礼上、帝国の皇族よりは下位としながらも、閣僚よりは上位者として扱う習慣が出来上がっていた。これを逆手に取ったのが今回の人事なのだ。これに対して帝国側は式典の格式を一段落とし、参列者の服装を最上級からは一級下げたものにすることで対抗していた。つまり歓迎の程度を最高からはやや劣るものにしてバランスをとったのである。
 そんな下準備の功労者である外務省の官僚、菅原浩治すがわらこうじは、これまでしてきた活動の成果を示すように、白百合副大臣に帝国政界の重鎮と言われる者達を紹介し続けていた。

「こちらが、元老院議員のキケロ卿です」
「はじめまして副大臣閣下。しかし、まさか女性が代表とは思いませんでしたな。お国では大臣職に就かれる女性は多いのですか?」
「いいえ。我が国でもまだまだ男性が主流ですわ」
「しかしそんな中でご活躍なさっておいでなのですから、閣下は相当にご優秀でいらっしゃるのでしょうな?」
「いいえ。このような重要な職を任されて、戦々恐々としております」

 するとキケロは過去の失敗を思い返してか苦笑いをする。

「だまされませぬぞ。スガワラ殿とお会いした際にも思いましたが、貴国の方は謙遜けんそんがいささか過ぎるようです。交渉の席ではお手柔らかにお願いしますぞ」

 キケロは元老院きっての論客である。だが、女性相手のやりにくさを感じているようで、必要最低限の挨拶を交わすとそそくさと逃げるように退いていってしまった。
 次々とやって来た帝国の要人達の挨拶攻勢も、彼を最後にして一段落がつく。
 日本側のプロトコルに従って、華美かびではないが、それでいて地味でもないイブニングドレスで身を固めた白百合副大臣は、帝国側の習慣に従って床に置かれた巨大なクッションにもたれるように腰を下ろす。そして菅原に向け「何か不思議な気分です」と愚痴ぐちるかのようにこぼした。
 菅原は言い訳するように説明した。

「敵国の首都を交渉場所とせざるを得なかったのは、通信速度の格差故とお考え下さい。本来なら中立国に会場を用意するのが適切なんですが、帝国側の通信手段が伝馬てんまという状況では、ちょっとした意思伝達にも時間がかかってしまい、それを時間稼ぎの口実にされるおそれがありました」

 だが白百合は「そうじゃなくて……」と語尾をにごらせる。そして周りにいる帝国貴族の婦人達を見渡して、彼女たちの服装が、日本的な感覚から見ても斬新ざんしんに過ぎると告げた。
 例えば、近世ヨーロッパの上流社会を描いた映画やドラマなどを見ても、ひとつの文化が爛熟らんじゅく期を迎えると、奇抜なデザインが流行している様子が描かれる。それと似て「重くないのか?」と問いたくなるぐらいに大きな帽子とか、「それって何の機能があるの?」と、問いたくなるぐらいに巨大なリボンとか、頭の数倍くらいに膨らませた髪型とか、変に露出度が高かったり、身体の線が妙にあらわになっていたりという感じで、デザインにしても色遣いにしてもまさに南国の鳥のごとしなのである。
 まるで彼女の息子がよく見ているアニメキャラのようであった。

「男性の正装が、トーガに似ていると聞いていたから、女性の服装も古代ローマかギリシャ風をイメージしていたのだけれど……」

 実際、主催者たる皇女ピニャの服装は、白百合の予想の範囲に収まっていたことが彼女の混乱をいっそう助長させていた。普通、服飾ふくしょく文化というものは突然変異しない。大抵は基本のデザインがあって、それが少しずつ変形していく形で移り変わる。なのにこれほどの違いが発生するとは、いったいどのような事情によるものなのかと不思議に思ったのだ。
 菅原にとって幸いだったのは、白百合の言葉が単に感想を述べたに過ぎなかったことだろう。
 服飾文化が突然変異を起こすのは、たいていの場合が異文化との接触が原因なのだから、彼にもその責任の一端はある。とはいえ、帝国貴族の女性達に、日本で言うところのコスプレが流行ってしまった経緯いきさつを説明することは、優秀な彼をしても非常に困難だったのである。


     *  *


「スガワラ様? お国では女性でも大臣閣下になれるのですか?」

 ピニャが主催した歓迎の宴は何事もなく無事に終わった。そしてすぐに次の宴会が始まった。
 日本人的な感覚で言えば結婚式直後の披露宴。あるいはその二次会といったところであろうか。実際に雰囲気も、ピニャ主催の一次会に比べると参列者達はリラックスしていて、談笑しながら料理と酒を楽しみ、あちこちで笑い声と歓声が上がるという祝賀ムードにあふれるものとなった。やはり敵国の使節を歓迎するという趣旨の宴では、緊張して盛り上がらなかったのである。
 それに対して二次会の方は、一度は生存を諦めすらした貴族の子弟十五名の帰還を祝うことが目的である。集まったその家族の喜びに引きずられて、明るい雰囲気になってしまうのも当然と言えるだろう。
 だがそういった雰囲気の中では日本使節団は呼ばれていない場所に紛れ込んだ気分になる。会場の一角に自分たちだけで固まって、並べられた料理を食べつつ、知り合った帝国の要人についての情報交換などをして、皇帝が現れるのを待つだけになってしまった。
 そんな中で、突然投げかけられた菅原を呼び止める声。
 最初の宴会で通訳をしたり、政治家を紹介したりと忙しかった菅原は、暇になって気を抜いていたこともあり、思わずびっくりしてしまった。しかも、その声はここで聞こえるはずがないと信じていたものだ。
 頭にうっすらとした痛みを感じながら、ゆっくりと振り返る。
 するとそこにはテュエリ家の娘シェリー嬢がちょこんと立っていた。
 先日誕生日を迎えたばかりの十二歳。物怖じしない積極性と、くりくりっとした瞳が可愛らしい少女だ。若干首を傾げ、菅原の反応を悪戯いたずらっぽく楽しんでいるような表情をしていた。
 今日は、菅原が贈った小粒ながら若干ピンク色が入った真珠で首もとを飾り付け、身体全体を華やかな白い花のように見せる衣装で包んでいた。精一杯のおしゃれをして、少しでも自分を大人に見せようとしている微笑ましい姿である。

「シェリーさん。今夜は駄目ですよ」

 菅原はそう言うとシェリーに背中を向けた。だが日本交渉団の一員としてまとっているタキシードのすそを引っ張られてしまった。

「そう邪険じゃけんにしないで下さいませ。スガワラ様が、わたくしのような幼齢ようれいの娘に興味がないのは存じておりますわ。ですが、わたくしとてあと四年もすれば一人前の女に成長いたしましょう。それまでにはきっとスガワラ様に似つかわしくなってみせますから、先物買いとでもお思いになって優しくして下さいませ。そして、お国の女性副大臣閣下をどうぞ紹介して下さいな」

 にこやかにつぶらな瞳を輝かせる。断られるなどとは少しも思っていない笑みだった。
 これには菅原もはっきりとした目眩めまいを感じた。
 これまで図々しいほどに親しみを向けて来る彼女を、邪険にすることもなく接して来たのは講和派の重鎮カーゼル侯爵との繋がりを得るためである。要は子守くらいに考えていたのだ。なのにどこを間違ったのか、当の少女の心境にちょっとした変化を引き起こしてしまったのである。子守の仕方が分からなかったのもあって、映画『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ教授を真似て立ち居振る舞いと日本語の指導をしてみたのが悪かったのかも知れない。
 とはいえこの年代の少女にとって、こんな心境の変化は、はしかみたいなもののはず。まともに受け止める親はいないだろうから、しばし冷却期間を置けば良いくらいに考えていたのだ。
 ところがテュエリ家の当主はまともではなかった。シェリーからその心境をうち明けられると、菅原を将来の婿候補として真剣に検討しはじめたのである。
 理由はとっても分かりやすい政略的なものだ。
 現在のテュエリ家は豊かな領地を持つわけでもなく、一族に力のある官僚や将来を嘱望しょくぼうできる軍人もいない。カーゼル侯爵の縁戚というだけで、貴族としての体面をどうにか取り繕っている貧乏貴族なのである。この状況を改善するには、ニホンとの繋がりを強化することで外交という分野における存在感を高めるしかない。
 恐るべきは、このようなアイデアが当主の脳内で自然発生したものではないということであろう。こともあろうにシェリー嬢自らがそのような理由付けをもって、自らの幼い恋を応援するよう父親を説得したのである。
 だが、菅原は三十路みそじ近い年齢だ。外務省のエリート官僚として将来が嘱望されている。入省以来、外務省の頂点を真っ直ぐに目指して来た。なのにそのお相手が、日本と比べて千年は遅れているように見える未開の国の、しかも十二歳の少女と来ては体裁が悪いばかりか足を引っ張られてしまう。ついでに言えば犯罪であって、その上趣味ではない。大いに遠慮したいところであった。
 彼は、一流企業の社長令嬢といった『お嬢様』級の女性との縁談をいくらでも選べる立場なのだ。もちろん容姿や家の財産だけが評価基準ではない。これまた外交分野に強い影響力を持つような家柄の女性を選ぶ必要があるだろう。例えば、西欧で手広く活動する複合企業の閨閥けいばつだ。
 菅原はこれらの力を背景として、官僚としてのさらなる高みを目指すという野心を抱いているのである。
 と言うわけで最近では多忙を理由にシェリー嬢のお相手は断るようにして来たのだが、まさかこんなところで出会うとは。皇帝すら列席するような公の場に、十二歳になったばかりの少女を送り出して来るとはテュエリ家当主、どうにも侮れない相手である。

「いや、侮れないのはこの娘か……」

 菅原は嘆くように呟いた。何かに絡め取られそうな気分なのだ。
 シェリーは菅原に歩み寄ると「このところお会いできる機会が少なくなりまして、わたくし、とっても寂しゅうございました」とねるように言った。

「ここしばらくは仕事が忙しかったので。公務優先です、ご理解頂けますね」
「まぁ嬉しいっ! わたくしとのお付き合いを、お仕事と考えてらっしゃるものとばかり思っておりましたわ。いつの間にか私的なことと見て下さっていたのですね。シェリーとっても幸せです」
「い、いや、そういうことではありませんよ」

 抱きついて来ようとするのを慌てて突き放す。だが目の前の少女は許してくれない。

「わたくしにとっては楽しい日々でございました。スガワラ様には詰まらなかったのでしょうか?」

 などと言いながら菅原の腕を取り、その発展途上の胸に抱くように包んだのである。いったんこのような体勢が出来てしまうと、無理にふりほどくわけにもいかない。

「それとも、わたくしのことなんてもう飽きてしまわれたのでしょうか? お母様が申しておりましたわ。どんなに好意を抱いていても、殿方に対しては最後の一線だけは守り続けなければならないと。殿方はそれを得てしまうと途端にそっけなくなってしまうそうです。スガワラ様が最近冷たいのも、きっとそのせいですわね」
「違うでしょうっ! そういう人聞きの悪いことを公衆の面前で口にしてはいけませんっ!」

 菅原は自由な方の片手を前に出してぶんぶんっと振った。

「ああよかった。そのようにおっしゃるところを見るとスガワラ様は最後の一線とやらが何であるかご存じなのですね? それはいったいどんなことなのでしょうか? わたくし、お母様からそう言い聞かされた時に、つい尋ねそびれてしまいまして、実のところよく分かっておりませんの。教えていただけますか?」

 きちんと教育しておけよと菅原は叫んだ。もちろん心の奥底で。

「良いですか? そういう話は、他人の耳がたくさんあるようなところでするものではありませんよ。噂はその広がる様から風などに例えられますが、風というのは実体がよく見えません。そして人間という生き物は、見えないものを想像で補うのが大好きで、それが下世話な本性の投影だと気付かずに見るに耐えない醜悪しゅうあくな姿にしてしまうのです。その結果、不利益を被るのは大抵女性です。いいですね、これは貴女のためを『思って』言っているのですからね」
「はい。スガワラ様がわたくしを『想って』下さっていることが、とっても良く分かりましたわ」

 シェリーは、いつもそうしているように菅原の教えを素直かつ好意的に受け取った。そしてこう言葉を継いだ。

「では、後ほど二人きりになれる場所ですることにいたしましょう。お約束ですよ」

 菅原は頭重感ずじゅうかん目眩めまいの混在した症状に襲われ、項垂うなだれて頭を抱えながらうめいた。返す言葉もないとはこのことである。

「そういうことで、未来の夫たる方がお仕えしている副大臣閣下にご挨拶申し上げたいのです。スガワラ様、どうぞ紹介して下さいまし」
「何が『そういうこと』かが、分からないので駄目です」

 菅原は未来の夫ではないので懸命に抵抗した。

「そう、おっしゃらずに。わたくしにご紹介下さいますと、もれなくとっても良いことがありましてよ」
「どんな良いことがあると言うのですか?」
「まずは、ご覧下さいまし」

 シェリーはそう言うと白百合と使節団がたむろしている宴会場の一角に、ほっそりとした指先を向けた。

「見ての通り、我が帝国の者は遠巻きに様子を窺うばかりであの一角には近付こうとすらしておりません。これでは折角交流の機会を得てもそれを生かしているとは言えないのではないでしょうか?」

 そこで、自分が先鞭せんべんを付ける。そうすれば皆が近付いて来ると言うのである。
 現在、ここに集まった貴族達のほとんどが、帰還した捕虜達を取り囲むので忙しく、日本人と親しく言葉を交わして相互の理解に努めるという状況にはなっていない。どちらかと言うとさりげなく避けている印象すらあった。だが戦争の当事国同士である。双方に家族や親族を失っている者がいる。帝国人の感情からしてみれば、それも当然のことと理解した菅原達は、ここで無理をする必要もないと考えていたのだ。

「別に良いんですよ。もうすでに主だった方々との歓談かんだんは済ませましたから」

 ピニャ主催の歓迎のうたげはその為に開かれたのである。後はもう、皇帝が姿を現すのを待って挨拶を交わせば、講和交渉に必要な形式が整う。それで充分なのだ。
 ところがシェリーは、小生意気にも立てた人差し指をちっちっちと振った。

「認識がとってもお甘うございますわ、スガワラ様。帝国の者にとって、ニホンという国は未知の国なのです。大変素晴らしい文物ととてつもない軍事力を有していることは、すでにわたくしのように浅学せんがくな女児ですら存じております。けど、ニホンの方々についてはどうなのでしょうか? スガワラ様が、表面的にはツンケンしていらっしゃるくせに、その実とってもお優しくていらっしゃることは、わたくしのよく知るところです。しかし、それはわたくしとスガワラ様の特別で特別な特別の関係があっての理解。他の方についてはほとんど存じません。しかも使節代表は女性。聞くところによりますとニホンの女性はとてつもなくお強いとか。そんな噂のせいで、皆は迂闊うかつに近付いて粗相そそうでもしたら、殴られてしまうのではと恐れているのです」

 菅原は皇帝の面前で大立ち回りをしたあげく、皇太子を素手で半殺しにしてのけた女性自衛官の存在を思い出した。自分もその場に居合わせたから、非常によく憶えている。

「地揺れのあった夜の出来事は、まことしやかに語られておりましてよ。帝国の者がそのような恐怖の心を抱いたままでいる限り、たとえ講和を結ぶことに成功しても、その後が長続きするとは考えにくいと思いませんか?」

 ヒトは恐怖を抱くが故に、その恐怖の対象を排除しようとして暴力を振るう。敵が怖いから抹殺したくなるのだ。その連鎖が戦争の原因となったことも多い。例えば民族紛争などがそれだ。
 日本は、それを止めようと言って講和の手を差し伸べたのである。ならばそれを中途半端に終わらせず、相互理解のためにもう一押ししてはどうかと、少女は誘っていた。

「まずは、このシェリーよりお始め下さい。わたくしのような可憐かれんな美少女が、副大臣閣下と親しくお話をしている姿を皆に見せれば、帝国の貴族達もお話をしたいと前に出てくると思いますわ。きっとお互いの理解も進んで、スガワラ様のお仕事に、必ずやお役に立つことでしょう」

 シェリーはそれだけ言い終えると「どうします?」と問わんばかりにまぶたをパチパチとしばたたかせた。
 これにはさすがの菅原も、真剣に受け止めざるを得なかった。彼女の言葉には、真剣に検討するだけの価値があったからだ。

「本当に十二歳?」

 アルヌスには、見た目は同じくらいなのに実際には九百歳を超える娘がいた。もしかしたら、シェリー嬢もその手合いなのではないかと一瞬思ってしまった。「小生意気」とか「こまっしゃくれ」等の言葉が辞書にはあるが、そんな言葉ではとても言い表しきれない、とても難しい存在なのである。
 もしかしたらと思って、つい「トラックにねられて転生したとか、前世とかの記憶が残ってたりします?」などと尋ねてしまったぐらいだ。もちろん、「何をおっしゃっておられるのか分かりかねますわ。変なスガワラ様」と笑われ、伊丹いたみに毒されつつある自分に嫌気がさしてしまった。
 しかし、それほどまでに幼さと賢さが不均衡に同居しているのだ、シェリーという娘は。
 正直言って、そのポジティブシンキングと大人顔負けのしたたかさは苦手とすら思うほどだ。だが個人的な好悪の情は別にして、彼女の提案を受けるべきだと考えるだけの分別は持っているつもりである。

「分かりました。では、ご紹介しましょう。ですが、勘違いしてはいけませんよ。貴女の提案を受け容れたのであって、貴女を受け容れたわけではないのですからね」
「ええ、分かっておりますとも。わたくし、スガワラ様の本心はちゃ~んと理解しておりましてよ。では宜しくお願いしますわ」

 シェリーは、そう言うと貴婦人のごとく菅原に介添えを求めて手を伸ばした。
 菅原は、「ほんとに理解してるのかよ」と思ったが、こうなってしまうと周りの目にそれがどう映るかを心配しながらも、彼女の手を取るしかなくなっていたのである。


「副大臣閣下、お初にお目もじ致します。わたくしテュエリ家のシェリーと申します」

 シェリーは白百合の前に出ると、スカートを摘み上げてお辞儀じぎした。
 見事なまでの日本語を操って口上を述べる情景は、一枚の絵画のようにも見えて、菅原も大いに感心した。しかし……。

「スガワラ様には、日頃から大変よくしていただいております。本日も後ほど、二人きりでいろいろと教えていただく約束をしておりますの」

 という余計な一言を上気した表情で付け加えたものだから、藤堂とうどう以下、外務省の同僚達から発せられた視線が痛く突き刺さることになった。これらの視線が意味するのは、「お前、こんな少女相手に何をやっている?」という詰問きつもんに近いものだ。あるいは「菅原、お前終わったな」という、出世競争の相手が脱落したことを喜ぶものであったかも知れない。いずれにせよ、菅原の評価を下げるばかりか、窮地きゅうちに追い込むこと必至の一言であった。

「これは丁寧ていねいに有り難う、可愛らしいお嬢さん。日本語がお上手ですね?」
「いいえ、なんとか挨拶だけですわ。閣下」

 謙遜しつつも数ヶ月で身につけたとは思えない流暢りゅうちょうな日本語で、菅原から言葉も含めていろいろを、手取り足取り教えてもらったと返したのである。『いろいろ』を過分なまでに強調しながら。
 白百合は丁寧な答礼を済ませると、菅原を呼び寄せ厳しい視線を向けた。

「菅原君。責任をとれないようなことはしてないでしょうね?」
「私は節操というものを持ち合わせておりますので」
「それならいいのですが、くれぐれも後で問題になるようなことだけは控えてくださいね」
「念を押されるまでもないことです」

 そんな砕けたやりとりが、帝国貴族にあったある種の緊張感を取り払ったのかも知れない。
 シェリーが予告したように、貴婦人達が菅原に紹介を求めて近付いてきた。そして、これに引っ張られるようにして議員や有力者までもが寄って来はじめた。
 日本の外交官達と帝国貴族の間で行われた相互理解のための会話、そして講和交渉の第一歩は、このような形で始まったのである。
 こうして場の雰囲気が和らぐと、まるでその頃合いを見計らったようにして侍従の一人が杖をうち鳴らした。

「モルト皇帝陛下、並びに皇太子ゾルザル殿下、皇女ピニャ殿下の御入来ごにゅうらい!」


 ゾルザル・エル・カエサルにとって、皇太子となって最初の公務が、この式典への参列であるというのは皮肉なことかも知れない。

「ゾルザル様。何をそう苛立っておいでなのですか?」

 テューレの問いに、ゾルザルは歩く速度をゆるめようともせず、激している感情そのままの粗暴そぼうな口調で答えた。

「いったいなんでこの俺が、ニホンからの使節団なんぞに会ってやらねばならぬのだ!」
「御公務ですわ。殿下は、皇太子におなりになったのですから……」
「くそっ。忌々いまいましいっ」
「も、申し訳ありません!」

 歩幅の狭いテューレが、ゾルザルに追いつくにはどうしても小走りにならざるをえない。その上、慣れないかかとの高い靴をいている。さらには二人が進む暗く長い廊下ろうかは床面が大理石で出来ているために滑りやすく、テューレは思わず転びそうになって小さな悲鳴を上げた。だが、立ち止まったゾルザルが丸太のような太い腕で素早く支えた。

「しっかり歩かないか、馬鹿者め。別に、お前を責めているわけではないのだ」
「しかし、妨害工作に失敗したのは、わたくしの責任で……」
「密偵共が役に立たなかっただけだろう。命令の伝達役に過ぎないお前にどんな責任がある?」

 ゾルザルは皇太子となると、テューレの扱いを少しばかり変えていた。
 彼女を連れ回すことが多くなったこともあり、鎖と首輪をはずし、それなりの衣装を着せるようになったのである。とはいえ、そのデザインは最近の貴族社会で流行となっているものの中でも、少しばかり特殊な部類に入った。布地面積は申し訳程度しかない上に、ボディラインは恥ずかしいまでに露わとなるぴったりしたもの。それを腰丈の上衣で申し訳程度に隠している。もし、日本人が彼女の姿を見れば、一目でこう評するに違いない。「高級感のあるバニーガール」と。
 ゾルザルはテューレが付いてこられるぐらいに歩調を落とすと声を潜めた。

「小細工は一時中止を命じておけ。今は、軍部の支持を集めることに専念したい。それと主戦論派との繋ぎも忘れるな。敗北主義者共が気を抜いた時に、一気に巻き返しを図るから、手足代わりとなって働いてくれる者をそろえておかなくてはならん」
「は、はい」
「とはいえ忌々いまいましいっ! 今の時点で講話交渉を始めることだけは何としても止めたかったっ!」

 彼にとって戦争の終結とは、勝利かあるいは完全なる勝利かのいずれかであって、そのどちらでもない戦争終結は、自らが受け継ぐことになる帝国にはふさわしくないと考えていた。

「確かに、戦争は百戦百勝とは行かん。形勢が一時的に不利となることは、帝国の歴史の中でも何度もあったことだ。だがそれを克服してこそ帝国ではないか。しかもニホン軍はアルヌス周辺を占領するにとどまり、帝国内部に深く攻め込んで来てはいない。つまり敵は帝国を攻めあぐねているのだ。だからこそ講和を求めて来た。皆は、そのことに何故気付こうとしないのだ?」

 それが分かれば、戦いようはいくらでもあることに気付けるはずなのだ。なのに講和の誘いに軽々けいけいに応じてしまうのは、敵を利するだけの行為だと言うのがゾルザルの主張である。
 二人はやがて、大きな扉の前に行き当たった。

「父上!」

 扉の前には、すでに皇帝とピニャの姿があった。ゾルザルは皇帝に話しかけようとしたが、式典侍従じじゅうに少し声を低くするよう求められてしまう。この向こう側には式典の会場があり、いくら厚手のかしで扉が出来ているといっても、声が大き過ぎれば漏れ聞こえてしまうのだ。
 ゾルザルは声を潜めると、講和交渉には反対だと皇帝とピニャの二人に対して力説した。
 だが、皇帝は彼の言葉を受け容れようとしなかった。息子の事を振り返ろうともしない。

「ゾルザル。戦争は始めるに当たって、どのように幕を引くか考えておかねばならぬ。そして予定通りにならぬと見たら、傷を広げぬうちにさっさと終わらせねばならぬのだ」
「帝国はまだ戦えるっ!」
「だからこそなのだ。戦えなくなってしまえば、交渉の機会すら持てなくなるのだぞ」
「では帝国の威信はどうなるのです!?」

 ゾルザルは声を押し殺しながらも怒鳴り、「父上は、臆病風に吹かれているんだ」と叫んで、壁を蹴った。
 だがそれをテューレがとがめた。

「殿下、もう時間ですわ。気をお鎮めくださいませ」

 今のゾルザルは皇太子である。たとえ意に沿わなくとも、捕虜の帰還を祝う式典を成功させなければならない立場にあった。自らの役目を放棄してこの式典をぶち壊しにしてしまうわけにはいかないのである。
 テューレはゾルザルの服装の乱れをなおしていった。そうすることで彼の荒ぶる感情を表面的にせよなだめることが出来ると知っているのだ。
 ゾルザルも、数度の深呼吸で落ち着くことに成功したのか、忌々しそうにしながらも頷いた。

「分かった。捕虜帰還を祝ってやればいいのだな」
「はい。そのとおりです、殿下。皆様のご帰還を祝って差し上げてくださいませ」

 テューレはゆったりと頭を垂れた。

「モルト皇帝陛下、並びに皇太子ゾルザル殿下、皇女ピニャ殿下の御入来!」

 侍従の声とともに、巨大な扉が大きく開かれる。
 その瞬間、まばゆいばかりの宴席の照明がテューレを包んだ。
 だが、それも一瞬のこと。重々しい扉の音とともに光は細く狭くなって、最後には完全に閉じられてしまった。
 静まりかえった薄暗い廊下に頭を下げた姿で独り取り残されたテューレは、「単純な奴」とボソリと呟く。そして誰にともなく語りかけた。

支度したくは出来ていて?」

 するとどこからともなく、くぐもった答えが返ってきた。

「はい。細工は流々、後は仕上げをご覧じろ、でございまする。きひひひひひひ」
「前のような失態だけは許さないわよボウロ。他人任せにするから失敗するのです」
「ノリコの件につきましては、言い訳のしようもございません。ですから此度はハリョの精鋭を呼び寄せましてございまする。ウクシ、カクシ、コルメの三名でございまする」

 薄暗い廊下の暗がりに暗黒色の人影が三つ、浮かび上がった。

「では、始めなさい。何もかもを面白くしてちょうだい」

 頭を上げたテューレの顔は、邪悪な笑みによって覆われていた。


 参列している大臣や貴族、官僚、軍人といった者達は、万雷ばんらいの拍手でゾルザル達を迎えた。
 式次第によれば、皇帝を先頭にして次にゾルザルが、さらにその後ろにピニャが続いて進むことになっている。まずは帝国の主立った閣僚や議員に声をかけ、続いて本命たる日本からの使節に声をかけて、最後に帰還した捕虜達に謁見えっけんするという段取りである。
 だがゾルザルは会場に入ると、脇目もふらずに帰還した者達がつどう場所へと突き進んでいった。そして戸惑う彼らの名を一人一人呼びながら、その肩を叩いていった。

「ヘルム子爵ししゃく。良く帰って来てくれた!」
「で、殿下。ありがとうございます」
「カラスタ侯爵公子。怪我はないな?」
「わたくしのような敗軍の将にまで、そのようなお言葉を賜り、感激の極み……」

 ゾルザルはほくそ笑んだ。建前とはいえこの式典の本旨は捕虜の帰還を祝うことであったから、皇太子のこの行動を押しとどめることは誰にも出来ないのである。
 皇帝モルトも、式の進行を担当する侍従達も、会場にいた参列者達も、ゾルザルが式次第に戻ることを期待して待つしかない。皆、彼のすることを指をくわえて見ていることしか出来ないのだ。

「殿下、そろそろお戻り下さい」

 ゾルザルはおそるおそる声をかける侍従の呼びかけすら無視した。そして捕虜達がどのような苦労をしたのかを問い、その話にじっくりと耳を傾けることで、講話交渉の開始に反対という意志を、態度で示した。
 皇帝は、そんなゾルザルの背中を見て深々と嘆息した。

「あれのことはもうよい。帰って来た者をねぎらうのは、あの者に任せておいて我らは式典を続けよう」

 そう告げて、式次第をゾルザル抜きで進行させるよう命じた。
 皆、皇太子の意固地さに顔をしかめていたから、ゾルザルの存在は無視される形で、式典は進められることとなった。
 だが、そんなゾルザルの態度は、帰国した捕虜達を大いに感動させていた。何故なら、彼らは捕虜となったその日から今日まで、言葉もろくに通じない者の監視下で、今日処刑されるか、明日には奴隷に売られるかという不安な毎日を過ごしてきたからである。
 もちろん、実際にそんな酷い扱いを受けた者はない。抱いていた不安の正体も、自分たちが捕虜となった者に対して行ってきたことをそのまま自分に向けたものでしかない。振り返ってみれば、丁重な扱いを受けていたと分かる。しかし、それは今だから言えることであり、捕虜として明日はどうなるかという不安の最中にいた時は、看守の靴音が死神の足音にも聞こえ、それがいつ自分の監房の前で止まるかと息を凝らして恐れていたのである。
 それに、もし生きて戻れたとしても、温かく迎え入れられるかという不安もあった。虜囚りょしゅうはずかしめを受けた者というさげすみの目で迎えられないかが心配だった。
 だからこそ重要なはずの日本使節団との謁見や、式次第もかなぐり捨てて、自分たちを労ってくれる皇太子の言葉と、肩に置かれた手の温かさが、彼らの心に染み渡ったのである。
 一方、ゾルザルにもそんな彼らに対するいたわりの気持ちが、芝居ではなく自然な形で湧き上がっていた。皆が味わった屈辱と辛労しんろうには心底共感できたのだ。地揺れのあった夜の出来事によって、ゾルザルの自尊心には拭いがたい傷が刻み込まれていたからである。
 あの日以来、廊下ですれ違うメイドたちの笑顔が、自分のことを嘲笑あざわらっているように見え、官僚たちの声を潜めた会話や視線が、自分に対する批判のように感じられるのだ。
 ゾルザルはこの屈辱にまみれた状況に耐えるため、皇帝たる父に自分を無能に見せるための苦肉の策であると、自分に対して言い訳していた。
 これまで皆に顔をしかめられるようなことをしてきたが、それはわざとだ。
 女に殴られて痛い目にあったが、それもあえて抵抗しなかった。
 そして、その努力は報われた。権力を手放したがらなかった皇帝も、ようやく自分を次代の皇帝に選んだ。無能を演じてきた自分を傀儡かいらいにすることが出来ると見くびったからである。
 だが、皇太子となったからには思い通りにはなってやらない。肉体の傷も癒え、翼竜のうろこでこしらえた義歯を入れれば、外見的にもすっかり元通りである。これからが本気の自分を見せる時。これまでの自分は擬態ぎたいで、本当の自分がどれほどすごいかを示すのはこれからなのだと考えたのである。
 なのに、皇帝はゾルザルを無視した。
 皇太子たる自分を抜きにして式典を進めるなどあってはならないはずなのに、皇帝は自分を放っておけと言ったのである。しかも皆もそれに同調して自分を無視している。
 それとなく視線を向けてみれば、皇帝が日本からの使節達に声をかけているところであった。
 これによって日本からの使節団に外交特権が付与される。講和会議の席に帝国の正式な代表が座ることが出来るようになり、ゾルザルが反対した講和会議が始まってしまうのである。
 帰還した捕虜達がゾルザルに懇願するように言った。

「こうして無事に帰ることが出来たことに感謝すべきなのかも知れませんが、そのために帝国が不利な形で講和を結ぶことには、我らは耐えられません」
「殿下。どうぞ我らに雪辱せつじょくの機会を!」

 汚名をそそぐ機会を与えて欲しいと願う者達に、ゾルザルは声を潜めて告げた。

「しばし待っていろ、まだ戦は終わっておらぬ。お前達が本当の力量を示すべき機会は、この俺が必ず作ってやるからな。待っておれ」

 いいな、と言い聞かせるゾルザルに対して、元捕虜達は頼もしげな視線を向ける。
 この視線こそが皇太子たる自分に向けられるべきもの。本来ならば、宮廷の皆が、全ての臣民が自分に向けるべき眼差しなのだ。

「なのに、なのに……」

 自分は無視されている。その口惜しさにゾルザルは奥歯を噛み砕きそうになっていた。


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