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5回天編
5回天編-1
しおりを挟む序
日本国の首相官邸総理執務室には、アメリカ合衆国大統領と直接通話出来るホットラインが設置されている。
昔は通訳を介した音声での通話しか出来なかったが、高速通信網が利用出来るようになった今、モニターに相手の表情を映しながらの会話も当たり前となった。
表情というのは、言葉以上に雄弁だ。感情や思考、弱みや強みといった多くのことがそこに表現される。
もちろん、ベテランの政治家や商売人は、表情を取り繕って本心を隠すことに長けている。とりわけ今の合衆国大統領フランクは、政治家にして商売人でもあるから、心の内を読み取るには大変苦労する相手だった。
しかしそれでも、よくよく観察すれば僅かな変化から読み取れることもある。日本国内閣総理大臣の高垣周作は、持ち前の繊細さに――言い換えれば臆病さとも言えるが――磨きをかけることで、それを可能としたのである。
『ニホン政府は、特地に新しい領土を得て、派遣する艦艇や戦力も増やそうとしていると聞いた。シュウサク、特地で権益の拡張でも始めるつもりなのかね?』
フランク大統領はモニター越しに高垣の顔を見ると、ニコリと柔和な笑みを浮かべた。
だが高垣の目には、フランクの腹黒い欲望の蛇影がとぐろを巻き、「ニホンが新たな市場と資源を獲得したならば、自由競争の市場としてもっぱら米国に開放されなければならない。シュウサク。イエスと言え! さあ、さあ、さあ!」と叫んでいる姿が映っていた。
「い、いえ! 権益の拡大などいつの時代の話でしょうか? 私どもは帝国側の要望に基づいて等価交換をしただけです」
高垣は英語を解す。しかしながら即答せずに、通訳の字幕表示を待ってから答えた。
『等価交換? ほほう、シュウサクは猫の額ほどの土地と、良質な海底資源を有する島嶼とを交換することを等価と呼ぶのかね?』
「そのように感じるのは我々の価値観だけで物事を見てしまうからです。猫の額と言っても帝国に住まう人々にとっては大切なモニュメント。その価値を喩えるならば――そう、イスラエルの人々にとっての『嘆きの壁』と考えるといいかもしれません。それに良質な海底資源を得たといっても、ボーリング調査をした訳ではありません。地下資源においては、前評判こそよかったけれど、実際に掘ってみたら中身はさっぱりで大損した、というのもよく聞く話です」
高垣は冷や汗を流しながら言い訳した。
その際、フランクに分かりやすい喩えを交ぜる試みもした。
フランク大統領は家族や側近にユダヤ系を抱える。そのためか以前からイスラエルへの贔屓が過ぎる傾向があるのだ。
しかし反撃の舌鋒を浴びせても、フランクの眉はぴくりとも動かなかった。きっと中東の現状なんてまったく気にしていないからだろう。
フランク大統領といえば、乱暴な言動で世間に知られている。しかしよくよく見ていると、その発言の裏には冷徹な計算があるのが透けてくる。中東政策については、バランスを取ろうなどと思うとぐらぐら揺れ動いて煩わされる。最初から一方に偏ってしまったほうが、かえって落ち着くとでも考えているに違いない。
どうせ中近東ムスリム達からの嫌悪感は、数値にしたら九九九九と既にカンスト状態。これ以上悪くなりようがない。ならば中立を気取って、双方から『味方してくれなかった』と憎まれるより、イスラエルから最上位の好意を得たほうが遙かにマシというのも外交政策としては間違っていない。
『なるほどな。だが、ギンザ事件以来、ニホンは羨ましいほどの幸運を得続けているじゃないか。油田の件もきっといい結果を得るさ』
「幸運?」
不注意から発したのだろうが、フランク大統領のこの言葉には、さすがの高垣も湧き上がる不快感を抑えるのに苦労した。銀座事件では、彼の親戚が亡くなっていたからだ。
「フランク。貴方は一連の出来事を幸運と仰った。しかし銀座事件という最大の不幸の埋め合わせには、まだまだ不足しています。我が国にとっても、そして私個人にとってもね……」
高垣はこれまでに降りかかってきた多くの不幸を、小さな幸運を集めて紡いでどうにか埋め合わせている真っ最中だと返した。幸運を黒字、不幸を赤字とするならば、日本の貸借対照表は未だに真っ赤っかなのだと。
『すまない、言葉選びを間違った。君はあの事件で家族を亡くしていたな……』
「謝罪は不要です。ただ、今回領土となったカナデーラ諸島は、アルヌスから遙か遠くであることをご理解いただきたい。現地は戦国時代とでもいうべき動乱の渦中にあり、タンカーを安全に走らせることも難しい。今回得た資源で利益を上げられるほどの油送が出来るのは、かなり先のこととなるでしょう。もし、今すぐにそれをしようとするなら、貴国が中東や世界各地で払っている以上の資金と人材を現地に投入しなければなりませんが、今の我が国にはそれほどの余力はない」
すると、フランク大統領はフンと鼻を鳴らした。
『それならばよいのだが……』
「一体何を心配なさっているのです?」
『ニホンは大きな市場と有望な資源の双方を手に入れた。そうなると私は不安に駆られるのだ。貴国がしち面倒くさい国際協調やら我が国との同盟関係に重きを置かなくなってしまうのではないか、とね?』
「先代の大統領がそのような態度でらっしゃいましたな。目に見える表向きの平和にこだわって軍事力を示す手を弛めたばかりに、世界は各地で動乱に包まれた。『戦争は平和主義者が起こす』と言ったのは、確かチャーチルでしたかな?」
『奴の後始末には未だに苦労させられているよ。ノーベル平和賞なんぞ受けるからこうなった。「自分はいざとなったら核兵器のボタンを押すかもしれない存在だ。もし賞をくれると言うのなら、任期を無事に終えてからにして欲しい」――そう言って断るべきだったのだ』
「彼はいい人間になりたかったのでしょう。あるいはいい人だと人々から思われたかったのか」
『それをジェガノフに見透かされたから、酷いことになった。――それでシュウサク、私はまだ答えてもらってないぞ』
フランクはロシア大統領の名前を出し、溜息交じりに告げた。
「答えとは?」
『言ったろ? 私はニホンがこれからどうするつもりなのか気を揉んでいると。世界の安定を維持するには、我が国の力だけでは不足だ。台頭するチャイナを抑え込み、アジアの秩序を維持するには、経済力一位と三位がともに手を取って協力しなければ。同盟関係とは、いわば長年連れ添った夫婦のようなもの。倦怠期をどう乗り越えるかが重要だ』
「仰る通りです。妻がふとしたことをきっかけに婚姻関係を続けるべきかと悩み始めるなんてことは、洋の東西を問わず起こり得ることですからね。そこに思いを馳せられるということは、大統領ご自身も経験がおありですか? まさかファーストレディが……」
『いやいや、妻は私に満足してくれているよ』
「それはよかった。是非とも家庭円満の秘訣を教えてください」
『記念日を忘れず、ちゃんと愛の言葉を贈ることだ。それとプレゼントも必要かもしれない』
「おおっ、確かにそれだけのことをしてもらえれば、奥様も平和な家庭を揺るがそうとは思わないでしょうな。同盟関係もそれと同じです。親密な関係に甘えず相手を思いやって丁寧に接しなければなりません。古き時代の夫婦関係がごとく、相手から奉仕されることを当たり前と考えているようでは見放されてしまうでしょう」
『我が国は長きにわたりニホンを守ってきた。これは長年の奉仕とは考えられないかね? 君はそれを当たり前だと思い込んでいないかね?』
「残念なことですが、大統領、昨今では、長きにわたって養ってきた守ってきたという我々男の想いは女性には通じません。それらは婚姻関係上当然のことであり、恩恵とはみなされないのです。もしそれを口にしたら、その瞬間に家事労働の対価を給金という形で求められかねません。夫の側としては、これまで住まわせてやった分の家賃と光熱費を求め返すという手もありますが――そのような言い合いを始めてしまったら、もう家庭内は全面的な戦争状態に陥るでしょう。そういったことには触れないことが大切です」
『その通りだ』
フランクは微笑んだ。
「とはいえ、大統領がご心配するには及びません。我が国は周辺のバランスを激変させるような国家戦略の変更は予定しておりません。何しろ巨大な隣人がいて、なかなか大人しくしてくれません。あの国は我が国に求めるものがあるようで、今も片手を私どもの内懐深くに突っ込んできています」
『もしかして「彼の地」にかね?』
「現地で起きている戦乱にも一枚噛んでいるようです。おかげでせっかく得られた新領土のカナデーラ諸島の周辺も、波高しといった有り様です」
『助けが必要かね? 我が国としては、助力を惜しまないつもりだよ』
当然ながら基地用地と安定的な輸送路の提供が必須となるが、と大統領は続ける。
「ご厚意には感謝いたしますが、特地のほうは我が国の力でもどうにかなります。問題はこれが東シナ海の状況と連動したものに見えることです。貴国が協力してくださるのなら、そちらへの対処にお力添えを願いたい」
東シナ海か――と大統領は嘆息した。
『随分とキナ臭くなってきたとは私も報告を受けている。しかし、そこまでとは考えていなかったな。ホンコンに集まりつつある抗議運動の漁船団も、軍の動きと連動してるのなら、ニホンとしても何らかのリアクションを起こす必要がある。どうだろう? 特地に戦力を振り分けるのを控えては。急ぐ必要がないのなら情勢を見定めてからでもよいのでは?』
「いえ、そうも言ってられません。こちらのアナリストの分析では、特地の不安定化は隣国の工作員が指嗾したもののようです。この状況を看過しては、事態はますます悪化して手が付けられなくなるでしょう。早め早めの手当が必要になるのです」
『そのために東シナ海へ振り分ける戦力が不足してしまった訳か。だから前から言ってたじゃないか。ニホンは軍事力を増強すべきだと』
「その件では私も頭を悩ませています。少子高齢化が進む日本では、予算を増やしたからと言って簡単に戦力は増えないのです」
『で、君は私に何をどうして欲しいのかね?』
「第七艦隊を、東シナ海に差し向けていただきたい。そうすれば、日米の結束の固さを示すことになり、中国も過激な手段を取ることを躊躇うでしょう」
『君の意向は理解した。では、我が国に何が出来るか、早速ブレーン達と検討する』
すぐに好意的な返事をもらえると思っていた高垣は、フランク大統領の態度に眉根を寄せた。
「……」
『我々にも少しばかり時間が必要なのだ。何をどの程度行うか――慎重に検討したい』
「分かりました、大統領。よい返事をお待ちしております」
高垣はフランクと会話を締めくくる挨拶を交わす。そして互いに息を合わせたように、通話終了のアイコンをクリックしたのだった。
アメリカ合衆国/ホワイトハウス大統領執務室
「諸君、我々としてはこの事態にどう対処すべきかね?」
日本国総理大臣との電話会談を終えたフランクは、スタッフ達を見渡した。大統領執務室には首席のオスカーと次席のジェシーら補佐官達、それとマスターソン国務長官、更に統合参謀本部議長のイドリフ将軍らが居並んでいた。
「チャイナの動きは、我々にとって好都合ですわね」
次席補佐官のジェシーが、長い金髪を掻き上げ、才気走った笑みを浮かべつつその理由を語った。
日本は単独では中国に抗し得ない。つまりアメリカの要望に――もっぱら貿易に関する交渉の場面でだが――日本が譲歩する必要性が出てくるのだ、と。
「とはいえ無茶な要求をし過ぎると、ニホンをチャイナ側に追いやることになるよ」
調子に乗り気味の次席補佐官に対し、首席補佐官オスカーが警告を発した。
中国の一帯一路政策、ロシアのシベリア開発や北方領土問題といった部分で日本が交渉を進展させるのは、水面下でアメリカが日本に過剰な要求をほのめかした時だ。日本とてアメリカにべったりな存在ではないぞと示してくるのだ。
それだけにあれやこれやと欲をかいてはならず、ほどほどでなければならないというのがオスカーの意見だ。
「ええ、分かってますわ」
それでもジェシーは止まらない。得られる利益は、根こそぎ掻き集めるべきだと主張した。
アメリカも選挙で成り立っているからには、政治家は利益を掴み取って国内の企業、ひいては有権者に分け与えなければならない。大統領とて不動の権力を有している訳ではなく全ては国民の支持があってこそ。そしてアメリカの民衆は貪欲なのだ。
するとフランク大統領は言った。
「繰り返しになるが、私としてはニホンが特地にかまけるようになって、こちらのことに手を抜くようになるのは避けたいんだ」
どの国も外交では、『利益を独占し、損は他国に押しつけること』を目指す。もちろん実際には不可能だから『出来る限り損を他人に負担させ、利益は可能な限り自分に集中させる』ところで落ち着く。ただその割合や分かち合い方が国によって異なるのだ。
アメリカ合衆国の、そしてフランク大統領の場合はそれが露骨であった。
東アジアの、特に膨張する中国を抑え込む役目は日本に押しつける。そして日本が救いを求めてきたら恩を売りながら助ける。それが基本的態度だ。そうすれば軍事費を削減出来るし、日本に武器を大量に買わせることが出来るから国内の軍事産業も大喜びなのだ。
従って『この状況は好都合』というジェシーの意見には、フランクも賛成であった。
更に言うと、得られる利益は根こそぎ掻き集めろという彼女の基本姿勢もまた、フランクの商売人としてのポリシーに合致する。だからこそフランクは彼女を高く評価していた。
「大統領、やり過ぎは禍根を生みます」
ところが首席補佐官のオスカーは、それはよくないと言った。
「分かってるよ。チャイナがニホンと手を組んでしまうと言うんだろう?」
国務長官のマスターソンは、眉根を寄せ、腕を組みながら唸った。
「ニホンとチャイナはいがみ合っているぞ。その両国が手を組むだなんてこと、起こり得るのか?」
すると首席と次席の補佐官達が、あり得ます、と揃って頷いた。
一瞬、どっちが説明する? という目配せが飛び、ジェシーが解説を始める。
「チャイナはイデオロギーなど問題にしておりませんのよ。あの国に大切なものは利益、つまりエネルギーと資源の安定的な供給なのです。ニホンがそれさえ約束出来るなら、それまでの諍いすらなかったかのごとく振る舞うことでしょう。そしてニホンは――いえ、ニホンのマスコミは、チャイナの人権問題には無関心です」
オスカーが補足した。
「ニホンは今のところ資源消費国ですが、特地を得てそう遠くない未来には資源輸出国になります。もしチャイナが利益があるとみなせば、ニホンと手を取り合うことは十分考えられるのです」
「そんなことになったら、我々はアジアの権益を一気に失うばかりか安全保障上の危機を迎えてしまうよ」
「だからこそ、対日要求はほどほどに控えねばなりません」
オスカーは言う。拡大膨張する中国を矢面に押し立てて覇権国家アメリカの暴虐を牽制する。それが前世紀八〇年代の日米貿易摩擦でやり込められ続けた日本の対米戦略なのだと。
しかしマスターソンは言った。
「ならばチャイナに具体的な行動を起こさせてはどうかね? そうなったらニホン国民は怒って、政府がチャイナに接近することを許さなくなるはずだ」
「確かにそうだな。いっそのこと今回は艦隊を出さず、様子見してみようか?」
フランク大統領がそう言って頷くと、オスカー首席補佐官が慌てた。
「いけません。あの海域をチャイナに押さえられますと、オキナワとタイワンが危険に陥ります。極東アジア情勢も激変するでしょう。ニホン人は簡単には動きませんが、一旦動き出すと極端に走る傾向があり、たちまち憲法改正、チャイナとの本格的な軍事対立、更には勢い余って核武装にまで進んでしまう可能性すら――」
「そうなったら東アジアの緊張が一気に高まってしまう! ニホンはそこまで踏み込むか?」
マスターソンの問いにオスカーは重々しく頷いた。
「今までなら不可能でした。しかしこれからのニホンならば、ないとも限りません――」
「どうしてだね?」
ジェシーが説明を引き継ぐ。
「もし全面核戦争が起きたとしても、特地を攻撃する手段は、チャイナはおろか全世界のどの核保有国にもないからですわ。ニホンに対しては相互確証破壊が機能しないのです。これはとても危険なことで、チャイナとロシアは時とともに猜疑心を強めていくでしょう」
フランクは呻くように言った。
「確かにそれは問題だな……」
「更にチャイナとロシアの態度を硬化させかねない報告が入りましたわ。ザ・ユニバーシティ・オブ・トキオのプロフェッサーであるヨーメーが、『門』現象の科学的再現に成功しました」
「それが何だと言うのかね、ジェシー? 異世界に通じる『門』は、今でも必要に応じて開閉されているじゃないか? それが今更何の問題になるのかね?」
フランクにはその重要性が今ひとつ理解できないようだ。マスターソンも首を傾げている。
「これまで『門』の存在がさほど問題視されなかったのは、『門』の場所がギンザとアルヌスに限定されていたから。そして実質的に開閉を担っているのが、政府から独立した団体だったからですわ」
「そうだ。あの団体はニホンに協力的であっても支配を受けていない。まあ、我々からの支配も受け付けないが、誰に対してもそうならば問題とはなるまい?」
「ところが大統領、これからは違ってくるのです。科学的な方法で『門』を再現できるとなったら、ニホン政府はいつでも自由自在に好きな世界と往来できるようになります。応用の仕方によっては、この世界の任意な場所から任意な場所への瞬間的な移動も可能となりますわ」
「ふむ、保有している航空旅客会社や運輸株を売り払ってしまわなければならんかな?」
フランクは商売人らしく、まずは物流に大きな変革がもたらされることを想像した。
「それもありますが……」
すると、それまで黙っていた統合参謀本部議長が口を開いた。
「大統領、お気付きになりませんか? これは弾道ミサイルといった搬送手段を用いず、突如としてクレムリン宮殿やホワイトハウスの大統領執務室に、核爆弾を置いていくことが出来ることを意味しているのです」
オスカーは混ぜっ返すように言った。
「中央銀行の金庫室に繋いで、中の金塊をごっそり奪い去るなんてことも出来ますね」
核爆弾の喩えよりこちらのほうがフランク大統領には衝撃的だった。
見たことも触ったこともない核爆弾の被害より、空っぽの大金庫のイメージのほうがよほど彼の感性を刺激したからだ。フランクは商売に失敗して破産した経験がある。誰にも打ち明けたことはないが、従業員に給料を支払う日に金庫が空になっていた夢を見て、叫びながら目を覚ましたことも一度や二度ではない。
「大統領、この技術の完成は危険なのです。非常に、とても、著しく……」
「ましてやニホンが核武装するなんてこと、決して許してはなりませんのよ。『門』技術と、核兵器、そして特地、この組み合わせは最悪なんですの」
二人の補佐官の言葉に、フランクは深々と嘆息した。
「そのプロフェッサー・ヨーメーは、多額の資金と地位で誘えばこちらに靡くのか? たとえばMIT(マサチューセッツ工科大学)あたりの永年教授職と多額の研究費を約束したら、ヘッドハンティングに応じるか?」
「ヨーメーの人となりについての調査報告によりますと、彼はザ・ユニバーシティ・オブ・トキオの教授職にかなり強い誇りを抱いているようでして――他の地位で勧誘しても、応じることはないだろうとのことです」
大統領は深く刻まれた額の皺を揉んだ。
「ったく、金に靡かない奴ってのはこれだから困る。とはいえ、誘拐したり暗殺したりで解決……ともいかんのだろ?」
「ヨーメーがいなくなれば、研究の進展は多少なりとも遅れるでしょう。しかし一度実験に成功したからには研究が止まることは決してありません。遅かれ早かれ、実現に向かっていきます」
「うーむ」
オスカー首席補佐官が右手を挙げ、常識的な手法を提案した。
「『門』の危険性を国際問題として提起して、研究を禁止する国際条約を締結するという方法がありますが?」
「いや。『門』研究の問題は公にしたくない。いくら条約で禁止しても、陰で研究を進める国がいる以上、どうにもならん」
実際、ヒトの遺伝子改造を例に挙げると、国際的なルールが設けられ、安易な実験は禁じられている。しかし中国の研究者は、ヒト遺伝子に手を加えた双子の女児を誕生させてしまった。当然、全世界の研究者達から猛烈に叩かれ、中国政府も慌てて処罰したと公表したが、その後どうなったかの情報は完全に隠蔽されてまったく伝わってこない。
中国には、やれることをやって何が悪いという考え方があるからだろう。法が禁じていても隠せばよく、たとえバレてもしらばっくれればよいという態度だ。従って国際法で禁じても陰で研究が進められるのは間違いない。それどころか、禁止すべきだという提案をきっかけに研究を開始しかねない。
対抗するには、アメリカも研究を進めるしかなくなるのだ。
もちろん、アメリカや欧州各国にも、こうした非合法・反倫理的な実験を行う地下組織は存在している。だが、表向きは取り締まらねばならない以上、予算的にも活動的にも規模を抑えざるを得ない。堂々と公費を投入できる中国のほうが圧倒的に有利なのだ。
「熾烈な研究合戦が始まってしまいますわね」
結局、アメリカも莫大な予算と人員を投じなければならなくなる。しかも、この技術が完成した後にやってくる世界は大混乱だ。もしかしたらその先には人類にとってバラ色の世界が訪れるかもしれないが、変革期は悲劇的かつ非人道的な事態に陥るだろう。
「致し方ない……今回の件と合わせて対処することにしよう」
フランク大統領は重々しく言った。
「どういうことですか?」
「オスカーとジェシーは、今回のチャイナの動きを利用してニホン政府とチャイナとの間に決定的な楔を打ち込むことになるようなプランを考えてくれたまえ。ついでに、このヨーメーの件と一緒に解決できるとなおよいな。根本的な解決でなくていい。必要なのは、ある程度の時間稼ぎだ」
「そんな都合のよい方法があるでしょうか?」
マスターソン国務長官が首を傾げた。
「大丈夫だ。この手のことは、二人の特技だからな。違うかね?」
フランクの無茶ぶりとも言える要求に、オスカーは一瞬息を呑む。
だが、ジェシーは躊躇うことなく前に出た。
「大統領、是非私にやらせてください。外連味溢れる良策をご用意いたしますわ」
「ふむ。三日以内に構想を提出してくれたまえ。それを読んでから、各部署に詳細なプランを検討させる」
「かしこまりました」
ジェシーが颯爽と退出していく。少し遅れて、オスカーも彼女を追うように執務室から出ていったのだった。
01
特別地域/碧海/カナデーラ諸島
南洋の島を形作る風景といえば、強い日差しと白い砂浜、そしてエメラルド色に輝く海だろう。椰子の木と、赤茶けた土も忘れてはいけない。
そんな色彩からなるカナデーラ諸島には、ラワン、マーレット、オルロットの三つの島と、名もなき小さな岩礁の群れがあった。
この島嶼を領有していたのは、大陸の沿岸国の一つゲイキール子爵家。大陸で覇を唱える帝国に服属する諸侯家だ。
記録では、カナデーラ諸島には住民がいないことになっている。しかし人間の姿がまったく見られない訳ではない。海羊や海猪といった家畜の群れを率いた海洋遊牧民の集団が、アウトリガー付きのカヤックでやってきて、一時的な住み処にすることもあるのだ。
だが、ゲイキール子爵家は、彼らのことに注意を払ったことはない。この島にそれほどの利用価値を見出していないからだ。先祖代々、引き継いできた自国の領土目録にその名がある。故に領有を続けてきたに過ぎない。
だからだろう、その島が今どうなっているか気に留めることもなく、宗主国たる帝国の女帝から、求められるまま領有権を差し出した。
対価として彼が得たのは、伯爵への陞爵だった。帝国宮廷儀礼における序列が、「子」から「伯」へと上昇したことはゲイキール家にとって最高の栄誉なのだ。
そして、海洋遊牧民達もそのことにはまったく無関心、無関係を決め込んでいた。彼らはこの島の主が誰かなんて気にしたことがないのだ。
海洋遊牧民の生活は自由気まま、単純明快だ。
彼らは朝起きると、網を開いて家畜の群れを解き放つ。そして海羊達がエサとなる魚を食べるのを、カヤックを操りながら見守るのだ。
眠くなったら木陰の涼しい所に横たわって眠る。
発情したら適当によい相手を見つけてまぐわい、子を産む。
そして家畜のエサとなる魚が減ったら、また別の海へと移動するため、カヤックに海羊の皮で作った帆を張って島から出るのである。
実に分かりやすい。彼らはそんな牧歌的な毎日の中で産まれ、育ち、死んでいくのだ。
ワコナというヒト種の少女と、ウギという海棲種族トリトーの少年が出会ったのもそんな分かりやすい生活があったからだろう。
強い日差しで褐色に焼けた肌を持つワコナと極彩色のウギは、出会ってすぐに意気投合し和気藹々と笑い合って、時々つつき合うように喧嘩した。
そうした光景を周囲の大人達は特段の感慨を抱くこともなく、当たり前の日常として眺めていた。
だがそんな平和も、水平線近くに帆船の群れが姿を見せたことで破られた。
「何だろう? ワコナ、あれを見て!」
ワコナが膝まで浸かる浜辺で銛を手に魚を狙っていた時、海面から顔だけ出していたウギが声を上げた。
一番近くまでやってきたのは、ラティーンセイルを張った帆柱を三本立てた船だ。
櫂まで有した船の型は、ジーベックと呼ばれる戦闘艦であった。そんな船が何十隻も浮かんでいたのである。
それらの船は帆を下ろすと、短艇を何艘も海面に下ろそうとしていた。
舷側の縄梯子をつたって、剣や弓で武装した海兵が乗り移っていく。
それを見たワコナは、胸の奥から湧き上がるざわめきに戸惑った。これまで帆船と出合うなんてことはいくらでもあった。セーリングカヤックで海羊の群れを追っている時に、すれ違って互いに手を振り合うこともあった。海羊の肉が欲しいと頼まれ、銛や斧といった金属製の道具と引き換えにいくらか渡したことだってある。
なのに今回はどうしてこんなに落ち着かない気分になるのか?
それはきっとこれまでの連中が、ワコナ達に関心を持つことなどなかったからだ。なのに今回に限っては、自分達に向かって近付いてくるのだ。大人数で。鉄の武器で身を固めて。
「あれは海賊だ! 海賊の人狩りだよ、ワコナ!」
ウギが叫んだ。
「海賊!?」
「そうだ、奴らだ! 最近の海賊は人間を捕まえるんだ!」
ウギはその光景を大陸の漁村で見かけたことがあると呟いた。
海賊達は少しでも魔導の力を持っている者をパウビーノとするべく、人間を見かけると手当たり次第に捕らえ無理矢理掠っていったと言う。
「大変! みんなに報せなきゃ!」
「分かってる。ワコナ、こっちだ!」
ウギはワコナの手を取ると、水を蹴って走った。
ウギとワコナの報せを聞き、島の人々は海を振り返る。
「みんな逃げろ!」
「でも、どこへ!」
その時には既に短艇の群れは砂浜にまで近付いてきていた。それを見て、みんな我先にと走り出した。
程なくしてラワン島のあちこちで悲鳴が上がった。
短艇を砂浜にまで乗せた海賊達は、剣を抜いて散開すると島に住む人々に襲いかかったのだ。
怒号と喚声の中で剣刃が閃き、血臭に満ちた飛沫が舞い上がり白い砂浜に鮮紅色の彩りが加わる。
矢が空気を切り裂いて飛び、逃げ惑う人々の背中に突き刺さった。
あちこちで絹を裂くような声や、絶命の苦悶の声が上がる。
「若い女、男、子供は捕らえろ! 年寄りはぶっ殺せ!」
上陸した海賊達の指揮官が叫ぶ。
殺されずに済んだ者は捕らえられ、手足を数珠繋ぎに拘束されて集められていった。
海賊達はこの島で暮らしていた海洋遊牧民に目を付けたらしい。
島には粗末な小屋がある。椰子の葉を屋根にした数時間の労働で作れるような小屋だ。海賊達はそんな小屋も誰か隠れていないかと捜し始めた。
ワコナ達は貝が内包している真珠や、子供が拾って宝物にしそうな宝貝や、儚げな美しさを控えめに主張する桜貝を集めて身を飾る習慣がある。もちろん加工に手間はかけない。自然そのままのそれらに小さな穴を開けヒモを通すくらいだ。それらで男も女も裸の身を飾るのだ。
海賊達はそんなものですら奪った。
「ちっ、しけた島だぜ。こんなものしかないぜ」
「海の生け簀には海羊がいっぱいいますぜ」
「よし、お前達、網を手繰って片っ端から捕まえろ!」
そしてあらかたの物を奪うと、海賊は家屋に火をかけた。青い空と白い雲を背景に、黒い煙が立ち上っていった。
略奪騒ぎもどうにか落ち着いた頃、沖の船から一艘の短艇がやってきた。
波に揺られる短艇には、パリッとした仕立ての艦長服を纏った若い男が背筋をピンと伸ばした姿で乗っていた。
男の名はトラッカー海佐。
トラッカーは短艇が砂浜に乗るのを待っていられないとばかりに、波打ち際で靴が濡れるのも厭わず浜に降り立った。
「ちっ、くそっ……」
その瞬間トラッカーは舌打ちした。
透き通った海面から白い砂がよく見える。今、海に降りても浸かるのはせいぜい踝くらいだろうと思ったのだ。しかし意外にも足首から臑の中ほどまで沈んでしまい、半長靴に海水が侵入を始めた。砂の柔らかさを見誤ったのだ。
だがすぐに気を取り直して意識を島へと向ける。
砂浜には住民達が捕虜として集められていた。
「ふんっ……よくぞまあこんな仕事に熱心になれるもんだ」
白い砂浜を踏みしめて上陸するトラッカーの呟きに、翼人少女の船守りイザベッラが答える。
「しょーがないじゃん。奴隷だって売れば金になるもの。こんな何の旨味もない仕事でタンマリ稼ごうと思ったら、奴隷狩りしかないでしょう?」
アトランティア・ウルースは海上生活者が群れることによって形成された集団だ。
彼らの多くは海賊稼業に手を染めた経験がある。他人の物を奪うことを悪いとは思わないのだ。
その集団が時を経て大きくなり、今では国家を標榜するようになった。
野卑な海賊気質のままでは外国からの評判がとても悪いと理解すると、一生懸命お行儀をよくして尊敬されるよう身繕いを始めた。しかし元が元だけになかなか改められない。様々な場面で、海賊であった時の名残を見せてしまう。
「艦長!」
陸に上がっていた海兵達の代表がトラッカーの姿を認めてやってきた。
「報告いたします。島を占領しました。島にいた奴らも全員捕らえ終わりました」
「一人も逃がしてないだろうな?」
「大丈夫です。全員です」
トラッカーは砂浜に集められたこの島の住民らしき群れへと目をやった。
捕らえられた住人達は座らされて項垂れている。中には恨めしそうな目をトラッカーに向ける者もあった。
浜や内陸に視線を向けると砂浜のあちこちには死体が散らばっていた。見ると年寄りが多い。若い男女の遺骸も見られたがきっと激しい抵抗をしたのだろう。
「必要以上に痛めつけてないだろうな? 不必要な怪我をさせてたりしたら、お前らを同じ目に遭わせるぞ!」
「大丈夫です。これから奴らを働かせにゃなりませんし、亜人だろうがヒト種だろうが、若くて活きがよければ高く売れるってことはみんな弁えてますので」
そういう意味じゃないんだが、と言いかけてトラッカーは止めた。
自分の感性がアトランティアの、特に兵士達に共感してもらえるようなものではないと分かっていたし、結果的に捕虜を苦しめないように扱うならそれで構わないからだ。
「おい、この臭いは何だ?」
トラッカーはクンクンと鼻を鳴らす。煙の臭いに肉の焦げる臭いが混じっていた。
「きっと家に隠れている奴でもいたんでしょう?」
それに気が付かず家に火を放ったらしい。水兵達が火を消そうと慌てているが完全に火に包まれてしまってからでは間に合うはずもない。
「ちっ、しょうがねえなあ……」
トラッカーは捕虜達の集まるところまで進むと、顎をしゃくって部下達に命じた。
「儀式の準備をしろ!」
「はっ!」
トラッカーの部下達は、長い旗竿を砂浜の中央に据えた。
「女王レディ・フレ・バグ陛下の命により、本日、この瞬間より、カナデーラ諸島はアトランティア・ウルースの神聖不可侵な領土として編入された!」
トラッカーの宣言と同時に、号笛が吹き鳴らされる。
「国旗に敬礼」
兵士達が整列して見守る中、アトランティアの国旗が旗竿のてっぺんに向かって昇っていく。そして昇りきると、トラッカーは敬礼を解いて部下達に告げた。
「よし、全てが終わったことを艦隊の提督にご報告せよ。爾後、この島嶼は我がアトランティア海軍近衛艦隊が泊地として使用する。陸戦隊長は捕虜を使役し、早急に要塞の建設を始めろ! 我々は艦に戻る」
こうしてトラッカーの率いる艦は、アトランティア・ウルースの版図を広げる尖兵たる任務を終えたのであった。
「奴ら、行った?」
「ううん、ここに居座る気みたい」
岩陰に隠れて皆の様子を見ていたウギは、自分が間違っていたことを悟った。
「くそっ」
来寇したのは海賊ではなかった。正しくはアトランティア・ウルース軍であったのだ。
しかしそんなことは些細な間違いであって大差はない。海賊であろうとアトランティアの兵士であろうと、この島の平和を破壊し、人々を塗炭の苦しみが待ち受ける奴隷生活へと引きずり込もうとしているのは同じなのだから。
見れば、島に残って捕虜となった人々を無理矢理働かせて何かの建設を始めた。抵抗する者がいたのか、鞭や棒で激しく打ち据えている。
「と、父さんと母さんが……。わたし、みんなを助けたい……」
ワコナが泣き始めた。
「とにかく逃げよう。おっさんと子供達を安全なところに逃がさないと……」
ウギとワコナは、幼い子供三人と髭面の初老男性を一人連れていた。両親や親戚から自分達が囮になるから逃がしてくれと託されたのだ。
初老の男性は、船材に掴まって漂流しているところをウギが助けた。海で死にかかっている者を助けるのは海で生きる者の習慣なのだ。
とはいえ、それは純粋な善意からの行動ではない。メギド島の例にもあるように、助け出された人間の何人かに一人は、助けられたことに恩義を感じて一族に繁栄をもたらしてくれることがある。彼らの行動はそれを期待してのもの。つまり打算なのだ。
とはいえ全部が全部打算という訳でもなかったりする。
でなければ、自分達を囮にしてまで初老男性や子供達を逃がそうとするはずがない。
彼らは海賊達の狙いが自分達の身柄にあると理解すると、盛大に逃げ回って海賊の耳目を引き寄せた。そんなことが打算だけで出来るはずがない。要するに、打算を名目にした海で生きる者の心意気のようなものなのだ。
そしてそんな心意気を託された以上、ウギとワコナは無謀な行動に出る訳にはいかない。
ワコナは島の岬に隠してあったアウトリガー付きのカヤックを引っ張り出す。
そしてそれに老人と子供達を次々と乗せ、アトランティアの船が屯する方角とは逆方向に漕ぎ出していったのである。
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