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4漲望編

4漲望編-3

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 大砲の製作手引き書の他には、現地に潜入した研究者からの調査報告書があった。

「どうしてこんなものが……」

 それは特地の特産物で、中国にとって有用と思われるものが並べられていた。
 海中で育つ穀物――オリザルをもしこちら側に持ち込んだら、食糧問題が一気に解決される可能性がある。
 遺伝子組み換え技術を用いて、海中でも小麦や大豆が作れたら海洋国家は永久に食糧に困らなくなる。黄海、東シナ海、南シナ海といった遠浅の海は、瞬く間に巨大農場と化すだろう。
 他にも、光合成によって生じた酸素をその気嚢きのうに溜め込むパウルという海藻。これにもヘリウム、ネオン、アルゴン、クリプトン、キセノンなどの希ガス類を、海中や空気中から抽出して溜め込む変異種があるらしい。

「こんなものがあったら、戦略資源の問題が解決してしまうな……」

 更に、特地の碧海へきかいには有望な油田があるという記述もあった。

「もしかして、あの男が言っていたのはこれのことか?」

 陳の呟きに、運転手が問いかけた。

「何がです?」
「特地の海に油田があるという調査報告だ。特地に潜入した我が国の調査員が調べたものだろう。工作員を潜入させたことを抗議するなら、爆発物製造の手引き書だけでも根拠になるのに、何故こんな文書まで付け加えたのか……江田島の態度から見て、これは日本政府から我が国に向けたメッセージだと受け止めるべきかもしれない」

 陳はこの書類の意味に考えを巡らせた。一人で考えていると行き詰まりやすいので、運転手を相手に話してみる。

「特地と行き来するための『門』は銀座にある。そのため、特地の資源をこちらに運び込むには日本を経由しなければならない。これは厳然たる事実だ。正しいか?」
「はい、そうです。大校」
「我が国は資源が不足している。我が国、我が民族が覇権国家たるには、十三億の国民に豊かな生活をさせる莫大な量の資源、莫大な量の食糧、莫大な量のエネルギーが確保されねばならない。それには資源の流通路、シーレーンの確保が必要だ。一路一帯政策はそのためのものであり、釣魚群島の確保も第一列島線、いずれは第二列島線への米海軍近接を拒絶するための布石だ」
「その通りです。大校」
「もし、我が国が特別地域に権益を得たとしても、そこで獲得した資源を我が国まで送り届けるのは事実上不可能だ。それを可能にするには、この銀座周辺から東京湾、そして外洋に至るルート――つまり関東地方南部を、日本から奪い取ってしまわなければならない」
「悔しいですが、その通りです。大校」
「対するに日本は、特地を得て圧倒的に有利な立場を固めている。もし我が海軍が日本列島を四方八方から取り囲んで全ての港を塞いだとしても、『門』がある限り資源に困ることはない」
「実にずるい。日本だけこのような利益を得るだなんて許し難いことです。このような資源は世界で分け合うべきです」
「そうだな、皆で分けて……ふむ、そういうことか」
「どうしましたか?」
「日本は既に必要十分な量の資源を確保している。いや、それ以上の資源確保も出来るのだ。つまり資源を必要とする国に分け与えることが可能だ」
「大校。それはどういう意味でしょうか?」
「つまり、日本と友好関係にある国にとって、太平洋や日本海、そして東シナ海は新たなシーレーンとなる」

 もし日本から安定して物資が供給されるなら、中国も無闇な軍拡は必要なくなるのだ。

「日本に傀儡かいらい政権を打ち立てて我が国の従属国とすればよいのです」
「確かにその通り。尖閣せんかくの領有権を主張し、国境島嶼とうしょ部の民族意識を刺激し、反中央政府運動を促しているのも、いずれ独立させ、チベットやウイグルのように我が国の版図内に収めるための下地作りだ。しかし日本そのものを、となると簡単ではない。実現するのはかなり未来になるだろう。だから短期的には現状の日本との付き合い方を考えねばならない」
「ですが今の米国追従姿勢をもった日本に、我が国が産業の源泉技術ばかりでなく資源の依存度まで高めたら、日本が我が国に対して資源の供給を止めた際に、屈辱的な隷属れいぞくを強いられてしまうのではないでしょうか?」
「そうだな……」
「それに我が国にとって反日はもう国是です」

 毎日どのテレビを観ても反日ドラマが流れている。
 抱腹絶倒なあらすじと、主人公の人間とは思えない活躍ぶりがおかしくて一時話題になったが、いい加減飽きてしまった。逆に言えばそれが普通になってしまっているということでもある。

「国是なんて都合でどうにでもなるものだぞ。忘れたのかね? 我が国はもともと共産主義経済の国家だった。資本主義経済など許されないものだった。だが、今や我が国も、共産主義市場経済の社会体制で事実上は資本主義だ。そうなったのは誰かにとって都合のよいことであったからに他ならない」
「では、我が国も反日をいつでも改めることが出来ると?」
「このような資料をさりげなく混ぜ込んだのも、その呼び水のつもりなのだろう。ここから先はもちろん我が国の最高指導者が判断することだが、日本政府は我が国の方針や態度が変わるなら、必要とする資源を供給することも出来るぞと囁いているのだ」
「我が国は、日本と友好的な関係にあるはずですが?」
「友好国か敵国かと問われれば、誰もが友好国と答えるだろう。少なくとも公職にある者はな。だが関係は友好的ではない。日本は我が釣魚島を不法にも占領して、自国領だと喧伝けんでんしている。対するに我が国は、公船を接続水域に派遣し続けている。これは友好的な関係の国の有り様ではない。端的に言えば敵だ」
「日本が我が国に譲歩すれば、全ては解決します。彼らが常に、永久に、譲歩し続ける国となれば平和かつ友好的でいられるのです」
「向こうも同じように考えているだろうよ。我が国が手を出してこなければ、平和で友好的でいられるとな。だからこう言ってきている。欲しい物資や資源があるのなら、力尽くで奪おうとせずひれ伏して譲ってくださいと頼めと。友人として願い出るなら、適正な価格で譲ってやるぞと」
「天朝たる我が国に対して、対等の立場にでもなったつもりなのでしょうか? 東夷とういのくせに随分と上から目線で生意気です」
「この傲慢さはいつか思い知らせてやらねばなるまい。さあ、これで総括は終わりだ。家に帰ることにしよう。妻に音繰のことを何て告げたらいいか。それを考えると、気が重くてたまらんのだ」

 陳は運転手に車を出すよう命じた。


    *    *


 陳大校と違って徳島と江田島には迎えの車などない。そのため二人は近くの駅までそぞろ歩きしながら語り合っていた。

「統括はあの人が来ることを予測していたのですか?」
「どうしてそう思ったのですか?」
「だって、『たまにはああいう店で飲みませんか』だなんて、統括とのご縁も結構長いですけどそんなお誘いは初めてでしたし」
「徳島君の言う通りです。あそこは諜報活動をしている者の中で、『フロント』と呼ばれる者が常駐している店でしてね。行けば誰かが声を掛けてくるだろうと期待していたんです」
「フロント?」
「諜報活動をする者は、大抵が目立たないように隠れているものなのですが、そんな中でいかにも怪しげに振る舞って公安関係者の注意を引きつつ、逮捕されるギリギリの線は越えないという者がいます。そういう人間を古い業界用語で『フロント』と呼ぶのです。彼らの役目は敵対する諜報員、あるいは機関同士のやりとり窓口です。捕らわれたスパイの交換などの条件調整も彼らを通じてなされます。都内にはそういう人間が集まる店が何カ所かありましてね、顔を知られている私が行けば、こういう人間が来ているぞとそれぞれの雇い主に報告が上がります。陳大校はそれを聞いて来たのですよ」
「それで期待通りになりましたか?」
「半分と言ったところでしょうか? もともと私は乗り気ではありませんでしたけどね」
「乗り気ではなかった? つまり誰かに行けと言われたんですか?」
「政治家の中には、国ごとの価値観の相違というものを甘く見てる者がいます。手を差し伸べられて感謝する者もいれば、侮辱だと受け取る者もいるというのに」
「政治家……ああ、上からの命令だったんですね?」
「国境とは、ここから先は別の価値観を持つ者ばかりが集まった土地だぞと示すためにあるのです。なのにそれを分かっていない者が多過ぎるのです」
「分かった。だから今夜は統括のおごりだったんですね? 仕事なら経費で落ちますもんね。こんなことならもっと飲んでおけばよかった」
「はあ、私が他国との付き合い方について論じているというのに、君はお気楽ですねえ」
「ええ。俺はそのあたりあまり深く物事を考えないようにしてます。けどそんな俺だって考えてることがあるんですよ」
「それは何ですか?」
「プリメーラさんのことです。彼女の救出、どうするんですか?」

 前の作戦で、徳島達はアトランティアの王城船にとらわれているプリメーラ・ルナ・アヴィオンの救出を断念した。
 アトランティアの女王ハーラムレディ・フレ・バグは、旧アヴィオン国の唯一の血筋であるプリメーラを担ぎ上げ、アヴィオン諸国を実質的に統一、支配しようと目論んでいた。そのために彼女を王城船で軟禁しているのである。
 もちろんシュラ達はプリメーラを救い出したがっていた。しかしパウビーノ達の救出とそれを併行することは不可能だった。だから江田島と徳島は、女王ハーラムレディはプリメーラを害したりはしないはずだと語り、子供達の救出作戦に専念するよう求めたのである。
 それが上手くいったのだから、今度は江田島達がシュラ達に協力する番だ。
 とはいえ日本政府は、海賊に囚われているお姫様を救うために、自衛隊に行けと命じるなんてことはしない。たとえ現場レベルでの借りがあったとしても、個人的な事情と見なさざるを得ないのだ。

「なんとかならないですか?」

 もちろんそれを言い訳に引っ込んでしまう徳島ではない。このままではシュラやオデットに合わす顔がないのだ。

「先ほど言いましたように、我々は現任務を続行します。陳大校は、現地に潜伏させた工作員と連絡が取れなくなった――と解釈できる発言をしていましたが、我々にそのように誤認させる欺騙ぎへん工作である可能性もあるので、完全に彼らがいなくなったと判断できるまでは調査を続けなくてはならないのです」
「では、アトランティアに?」
「はい。必要ある限り何度でも参りますよ。そしてその途中で、海賊に囚われている人質を見つけたら――例えば某国の姫君が囚われていると判断されたら――法の許す範囲で対処するだけです」
「さすが統括! 話が分かりますね」
「ですから、徳島君も先走ったりしないよう自重してくださいね。君は人がすぎますから、シュラさんやオデットさんに泣きつかれたら黙っていられなくなってしまうでしょう?」
「分かりました。彼女の救出方法を考えながら、統括のご命令をお待ちします」

 徳島は私服ながら江田島に向けてピシッと挙手の敬礼をしたのであった。


    *    *


 皇居近くの高級ホテルのラウンジでは、晩餐会を終えた帝国と日本政府の要人達が集まって会談をしていた。
 国の代表同士の公式会談では、互いに何をどう喋るか、事前折衝せっしょうによってほとんど決まっている。従って堅苦しくない場で胸襟きょうきんを開き、互いの立場や考えを語り合う別の機会を持つことは、国と国が交際を続けていく上で必要なことなのだ。
 とはいえ、さすがに一般のお客が側にいては、国家機密や外交上の問題は語れない。だからこの日ばかりは貸し切りで、一般客の立ち入りはシャットアウトされていた。
 そこかしこでは両国政府の要人達がカウンターパート同士でカクテルグラスを傾けている。
 補佐官は補佐官同士、外務大臣は外務大臣同士といった感じだ。そしてそれぞれ懸案となっていることについて忌憚きたんのない意見をぶつけ合っていた。
 帝国皇帝ピニャの相手ならば当然、帝号を有する者でなければ釣り合いが取れないところだろう。しかし日本では政治的な権限を有されていないため、高垣総理が相手となる。
 座り心地の好い革のソファーに身体の半分を埋めながら、ピニャは窓の外の夜景に目を向けた。
 彼女の右斜め後ろには、警護のためか騎士団の女性がキリッとした面持ちで立っている。きらびやかにして端麗な衣装に細身の剣をげていた。
 このホテルやラウンジは日本の警察によって厳重に警備されており、不審者などが立ち入ってくることはあり得ないのだが、それでも万が一の事態というのは起こり得る。これはそのための備えなのである。
 総理の傍らにもSPが一人立っているが、こちらは地味な黒服姿だ。もちろん懐には拳銃を所持しているはずだ。

「我が国としては、正直なところアヴィオン海の問題にこれ以上手を取られたくはありません」

 総理は通訳を挟むことなく日本語で語りかけた。

「しかし、逆にもっと積極的に関与すべきだと主張する者もいるようだが?」

 するとピニャもまた日本語で応じた。
 一部の日本文化に魅了されて以来、彼女も日本語を熱心に学び、通訳を介さずに会談できる程度にまで身に付けている。

「特地は関われば関わるほど深みに嵌まっていく泥沼です。民族問題や貧困、それに一部の記者が申しておりましたが、奴隷制度という問題もある。それらを解決しろと国際社会からの圧力がかかります。しかしそこに手を付けたら最後、一体どれだけの費用と人力を奪われることになるか。想像するだけでゾッとします」

 アトランティアという海賊が子供を薬物漬けにしていたと分かると、日本政府はもっと積極的に海賊の取り締まりに力を注ぐべきだという論調が国際的に生まれた。
 しかし求められるままに応じていたら、日本は翻弄ほんろうされるだけされて国力が尽きてしまうだろう。面倒臭いことこの上ないのだ。
 実際パウビーノの少年少女を保護した以上、彼らの医療費と生活費は日本が面倒を見なければならない。これも全ては国民の血税でまかなわなくてはならないのである。

「話は簡単だ。こちら側のことは、余の帝国に任せておかれればよい。その子供達も手に余るようなら我が帝国で引き取るぞ」
「大砲にご興味が?」

 パウビーノ=大砲。これが特地に関わる為政者の認識であった。

「無論。我が帝国はの地を安定させる責務を有しているからな。世界が大きく動いている以上、帝国も取り残されている訳にはいかぬのだ」

 大砲の利用価値は海軍だけにある訳ではない。今回の事態を受けて特地で生産された大砲の存在を知ったピニャは、その構造と入手方法を早急に調査するよう部下に命じた。
 その結果、大砲もパウビーノも数を揃えることはさほど難しくないと分かった。
 パウビーノとは、魔力を持っていても魔導師になれるほどではなかった者。つまりはこれまでまったくかえりみられなかった者達であり、彼らの多くは一般人に混じって普通に暮らしている。それ故に、どれほどの数がいるのかまったく分かっていないのだ。
 しかし、常識的に考えれば、魔導師より多いことは確かだ。
 碧海沿岸や島嶼部から千人近くの子供達を集められたのだから、帝国全土に声明を出して志願者をかき集めたらかなりの数になると期待できる。
 そうした者が鉄砲を持ち、あるいは大砲に配備される。これで今までとは違った戦い方を出来るようになる。
 かつて自衛隊と戦った時、帝国軍は一方的にぎ払われるだけだった。
 ヘリコプターや、大空を舞う剣などと呼称される航空機の威力は、ピニャ自身がその目で見た。
 だから大砲さえあれば力量差が縮まるなどという甘い考えは持っていない。しかし帝国を取り囲む諸外国との関係においては、軍事的優位の確保が期待できる。もしここで躊躇っていたら、他国に先を越されて立場が逆転してしまうかもしれない。
 軍事力バランスの変化は、世界の平和をおびやかすことに繋がる。それだけは避けなければならないのである。

「陛下のお国にお返しするならば、子供達を親元に戻すという名目も立ちましょう。彼らの治療が済みましたら是非ともお願いいたします」
「任せるがよい。ただ、あの者達を引き取って終わりという訳にはいかぬぞ。帝国の改革を更に進めていくには、余は権力基盤をもう少し確固たるものにせねば。そこは日本国政府にも理解をしてもらえるであろう?」
「もちろんです。改革を進めようとする者の前には、いつだって守旧派が立ちはだかるものです。これを押しのけて進むには力が必要だ。力の弱い統治者には何も出来ない。この原則は我が国であっても同じです」
「そこで提案があるのだが、講和条約によって割譲した領土の一部を、我が帝国に返してもらえまいか?」

 突然の提案に、高垣は眉根を寄せた。

「へ、陛下。それは、なかなかに難しいことですぞ」
「まあ、仕舞いまで話を聞かれよ」

 父の退位に伴ってピニャは帝国の統治者となった。
 しかし前皇帝の父は未だ存命中で、帝国政府内に隠然いんぜんたる力を持っている。そしてピニャの統治に対しても、守旧派を束ねて父からの助言と称するいらんお節介を焼いてくる。そのせいで帝国の改革は遅々ちちとして進まないのだ。
 帝国はゾルザルと対抗するため、ヒト種以外の勢力も帝国の柱石ちゅうせきとして招き入れて状況の打破を狙った。その効果もあって、元老院における因循姑息いんじゅんこそくな守旧派の割合は減った。急進的過ぎる革新派とのバランスを取ることにも成功した。
 しかしそれでも全体的にはピニャの権力基盤は弱いままであった。新たな参入者達がピニャを必ずしも支持しているとは限らないからだ。
 やはり若いから、あるいは女だからと舐められるのか――一時は、そういう思いにも駆られたが、統治者として何の実績もないということを思い返せば、仕方がないと諦めも付く。平均寿命が二百歳とか三百歳といった長命な亜人種にとって、ピニャはその十分の一も生きてない小娘であることは間違いないのだ。
 ならば、どうすればいいか?
 例えば、何もしないとか。もし何もしないで現状維持を心懸けていれば、帝国はそれなりに安定するだろう。
 運よく平和が続けば、ピニャも賢帝とうたわれて歴史に名を残せるかもしれない。
 しかしそれでは帝国がどんどん立ちおくれてしまうのである。
 それはピニャの責任感が許さなかった。
 皇帝たるピニャには数年先、数十年先を見越して物事を考える義務がある。
 そこで今回の領土交渉を思い付いたのである。
 もしこの交渉が上手くいって、ピニャが兵を用いることなく、日本に譲り与えた領土の一部を取り戻せたとしたらどうなるだろうか?
 帝国内でのピニャの評価は高くなる。そうなれば、これまでピニャを批判的に見ていた守旧派も少しは考えを改めるのではないだろうか。彼女の改革に力を貸そうと思ってくれるかもしれない。

「しかしそれをきっかけに、失陥した国土全てを回復すべきだという運動が起きないとも限らないのでは?」
「それは大丈夫だ。アルヌス自体は不毛の荒野であった故に、取り戻そうなどと思う者はない。何しろ帝国にとって、日本との交易は、周辺諸国からの追い上げを振り払い覇権国家で居続けるための生命線だ。それを今更断てと主張する者はおらぬ。ただし、領土の割譲範囲を決める際に、地図上で無造作にコンパッソコンパスで円を引いてしまったであろう? そのために我が帝国内に住まう諸族が聖地とする――有りていに言えば記念碑を据えた数カ所までをも、そちらに譲り渡す形になってしまったのだ。それが不味まずかった」

 特地の学都ロンデルに住まう研究者ミモザ師の発表によれば、特地に住む人間――ヒト種のみならずエルフ、ドワーフなどの全てが、異世界から訪れた異世界人だという。それらが特地に現れた時、最初に踏んだ大地がアルヌスなのだ。そして彼らの有力者は、今日では帝国の貴族や元老院議員となっている。

「貴国は国境を開いて民の行き来を制限せぬし、安全安寧を保障している故、大きな混乱も起きぬ。諸族も不満をあらわにすることはないが、先祖代々大切にしてきた聖地がつ国のものとなっている事態は、いささか腰の据わりの悪いことなのだ。そこで、貴国の領土に虫食いを作って申し訳ないと思うが、古の遺跡などの周辺を含めた若干の土地を、飛び地という形ででも構わぬから帝国に返還してもらいたいのだ」
「しかしこれは我が国としても易々と承れる話ではありませんぞ」
「無論承知だ。そこで、領地を交換するというのではどうか?」
「領土交換ですか? しかし相応に価値が認められるものが対価でないと、国民感情を害しかねません。ピニャ陛下としてはどのような代替地をお考えですか?」
「我が国から差し出すのは、遠方で、不便で、何の役に立つかも分からない、人も住まぬような島嶼の一群で、名をカナデーラ諸島という。ただし、面積だけは返してもらう土地の数倍にもなるだろう」
「そ、そんな⁉」
「こんな二束三文な土地を対価に、祖先の大切な聖地を取り戻せたとしたら、皆はきっと余を褒め称えるだろう。皇帝の権威も上がって万々歳じゃ」
「し、しかし私の支持率は低下してしまいます」

 するとピニャは急に声を低くして、高垣の耳に唇を寄せた。

「ところが、カナデーラ諸島には海底油田なるものがある」
「ゆ、油田?」
「欲しいであろう?」

 高垣は思わずピニャの姿を見直す。
 自分の娘くらいの年齢でしかない女帝は、満面の笑みを浮かべていた。

「カナデーラ諸島は我が帝国の版図に入る国が領しているが、無人島で何の役にも立っておらぬ故、割譲の話を持ちかけやすい。無論、ただで取り上げたりして禍根かこんを残すような真似はせぬよ。領主の家格や爵位をしょうするなどして報いるつもりだ。いずれにせよ、余がその国と円満に話をつける故、アルヌスの一部をこの島と交換するというのではどうだろうか? おや、どうした? もしやとは思うが、カナデーラの油田のことをけいは知っていたのか?」
「じ、実は、お話に上がっている海底油田だろうと思われるものについて、報告を受けたことがございまして」
「ならば話が早い。この油田はな、埋蔵量も油質もエルベ藩王国のものとはまったく違うそうなのだ。それは報告にあったか?」

 ピニャは、この海底油田の油質がいかに良いかを語った。
 高垣はピニャの声に耳を傾けつつ、昨日の江田島の報告を思い出す。
 江田島は中国工作員の拠点からこの情報を記した書類を獲得したと言っていた。そこから考えると、海底油田があるというのは、現地では比較的有名な話なのかもしれない。ただ、現地の技術力や科学力では使い道がまったくないので放置されているのだ。
 とはいえ日本政府にとって、この情報が飛びつくほどの価値のあるものかというとそうでもない。何しろアルヌスから遠い海のことだからだ。つまり、他人の土地に埋まっている他人の財宝なのだ。だからこそ高垣は、この情報の使い道を、中国の態度を変えさせる呼び水に使うことにしたのである。
 これだけ豊かな資源がこちらの世界にはあるぞと示し、そんな異世界と繋がる日本と対立するよりは仲良くしたほうがマシだと思わないか、と。
 ところが、まるで狙ったようなタイミングでピニャから領土交換の誘いがなされた。
 高垣としても、これは早まったかもしれないと思った。この油田の存在を中国が知ったからといって、そしてそれが日本のものになる流れが出来たからといって、何が起こるという訳でもないはずだが、何かが気になる。ばくとした不安を感じてしまうのだ。

「油の質が良いものほど精製も楽なので、採掘『こすと』も低くなると聞いておる。アヴィオン海の油田は最高の性質を備えていると言えるであろう」

 皇帝の言うことだからといってさすがに鵜呑うのみには出来ない。油田については油の質もそうだが埋蔵量や海底までの深さといった情報も必要だと返した。

「い、いずれにせよ、返事は現地をよく調査して慎重に検討を重ねてまいりたいと……」

 だがピニャもその程度は当然だとばかりに頷いた。

「うむ。調査ならすぐになされるがよい。そしてこの島の価値を認めたなら領土交換の条件を具体的に検討していこう。それまで余は現地に使いの者を送って地ならしを進めておく」
「は、はい。かしこまりました」

 高垣は振り返ると、この件を早急に検討するよう内閣府の政務官に命じたのだった。


    *    *


「と、いう訳で、当該海域に存在する海底油田について調査しなければならなくなった。しかも早急にだ」

 翌日、江田島は防衛省の統合幕僚監部に呼び出された。
 そして潮崎しおざき統幕長から、ピニャ皇帝と高垣総理との会談の説明を受けることになった。
 軍事組織では上官の命令は絶対だ。ましてや陸・海・空三自衛隊を束ねる統合幕僚長といえば、旧軍の大将あるいは元帥にも相当する存在だ。その言葉は「要請」という形をとっていたとしても絶対命令に等しいのである。

「調査をしなければならないとおっしゃっても、我々は今の任務で手一杯なのですが」

 とはいえ江田島も一部門を統括する立場にある。命令だからといって唯々諾々いいだくだくと従えない。無理なものは無理と答える責任があった。

「そこは私も承知している。しかしあえてやってもらいたい」

 何しろ選挙が近いからなあと誰かが呟いた。

「資源調査なら以前、陸自でやっていたはずですが?」
「かつてはな。だが帝国をはじめ特地諸国との関係が正常化した今、こちらの人員を好き勝手に送り込んで活動させる訳にもいかないだろう? だから陸地での資源調査活動は、民間企業ベースで外務省との合弁事業という形でなされている」
「では、今回もそちらでしていただいたらいかがでしょうか?」
「君は、海賊が出没している海域に民間調査員を行かせろと?」

 江田島もこれには返す言葉がなかった。

「しかし……そもそも海底油田の調査なんてどうやったらよいのでしょう?」
「君達には現地に行って海面の海水サンプル、それと海底の泥サンプルを採ってきてもらいたい。それでアタリを付けたら、現地政府と本格的に交渉に入るという流れだ。その後、調査機材を装備した船を現地に送り込んでボーリング調査(地質等の調査)をする。この時には『はやぶさ』か『うみたか』を護衛に付けることになるだろう」
「しかし我々には元からの任務もあります。海水と泥のサンプルの採取だけとはいえ、やはり私と徳島君の二人だけではいささか過剰業務かと……」
「確かにそうだな。では希望を言いたまえ。君が必要とする人材を必要なだけ付けよう」
「おお! 大盤振る舞いですね」
「何しろ首相からの要望事項だからな。多少無理を言ってもとがめられることはないだろう」

 江田島は目を丸くした。
 以前から人手不足を嘆き、改善を要望しても、予算がどうの調整がどうのとまったく動かなかった状態が一気に解決しそうなのだ。

「それでは、以前からお願いしていた彼を。彼に海水サンプル採取を担当させます」
「よいだろう」
「それと、現地協力者を雇うための資金を」
「もちろん必要だろうな。言い値で付けてやる」

 江田島は、統幕長がどんな願いでも叶えてやるぞと言い出しそうな構えを見て驚いた。
 思わず声を潜めて統幕長に顔を寄せる。

「なんかお小遣いが欲しいと申し上げても、いいぞと答えていただけそうな勢いですね」

 すると統幕長も笑った。

「必要経費は官房機密費から出してもらえる約束だ。これは内緒だが、小遣いだって名目さえちゃんと付けば支払われると思うぞ」
「いっそのこと、予算不足で節約を強いられている陸・海・空各部隊各艦のトイレットペーパーの費用も付けてみましょうか? 一年分は無理でも半年分はいけるかと」
「おおっ、やってくれるか?」
「ええ、適当な名目を見繕みつくろいまして」

 江田島と潮崎は互いにニヤリと悪い笑みを浮かべたのだった。



 日本列島西南方面のとある島嶼海域――


 月も出ていない夜。
 黒い戦闘強襲偵察用舟艇CRRCは、水飛沫しぶきを上げながら南海の海面を疾駆しっくする。
 波を乗り越えるたびに舳先へさきが跳ね上がり、ボート全体が大きくバウンドし、その都度飛沫が陸上自衛隊一等陸尉伊丹耀司ようじの顔に跳ねかかった。
 仮に夏の日差しの下なら「これぞマリンスポーツの醍醐味だいごみ!」なんて思うところだが、今シーズンオフの上に夜だ。
 真っ暗闇の海。
 耳に入るのは、エンジン音と水飛沫が上がる音、そして自分の呼吸音だけ。
 慣れないとこれだけでを感じてしまうだろう。
 振り返れば、伊丹と同じようにボートの縁にしがみつく部下達の姿が、水中暗視ゴーグルの緑色の視界の中でかすかに見える。
 ドライスーツとスキューバの装備一式、そして八九式小銃で身を固める八人の隊員達だ。
 全員顔にドーランを塗りつけ水中マスクを装着しているから人相はよく分からない。だがむくつけき男達ばかりかと思いきや、伊丹の隣には小柄な女性と思われる姿もあった。

「そろそろか」

 時計を確認した伊丹は、隣の女性隊員――一等陸曹の栗林志乃くりばやししのとともに後方を振り返った。

「準備を始めろ」

 合図とともに、全員が身体を起こして装備を互いに点検。更に向かい合って座り、バディ同士で背にしたシリンダーの弁を解放して空気圧をチェック。その量が規定以上であることを確認した。
 そしてレギュレーターを口に咥え、空気を問題なく呼吸できることを確認し終えると、CRRCの縁に内向きに腰掛ける。
 全てが終わって全員が『準備よし』の合図を出した。
 艇長ていちょうがエンジンを止めると合図してくる。
 栗林が確認するかのように声を掛けてくる。

「⁉」

 だが、レギュレーターを付けていては音声にならない。だから伊丹は親指を立てて合図を返した。

(いくぞ、みんな)

 栗林と伊丹は呼吸を合わせ、左右に分かれて腰掛ける隊員達の胸元を掌で押して海へと突き落としていった。
 レジャーダイビングでいうバックロールエントリーの要領だ。
 海に飛び込むことをエントリーという。こんなアクロバティックなエントリーをするのは、重たい装備と武器を身に着けて立ち上がるとボートが不安定になってしまうからだ。
 そして伊丹と栗林が息を合わせて突き落とすのは重心が片側に傾くことを防ぐため、また惰性だせいで進むボートから海中に入った後、バディが離れ離れになってしまわないようにするためでもある。
 ほぼ同じタイミングでエントリーすれば、互いの距離も短くて水中で合流しやすいのである。
 伊丹と栗林は自分達が最後になるとボートの縁に腰掛け、互いの合図とともにレギュレーター、マスクをがっちり押さえて背中から海面にエントリーした。
 真っ暗な夜の海上から、真っ暗な海の中へ。
 全身が海水に包まれる。海中でバック転してしまわないよう姿勢を維持する。
 ドライスーツを着ていると冷たい海水は顔や耳でしか感じられないから、海水パンツ一つで海に入るのとはまた違った感触になる。
 海中における海上との大きな感覚の違いは、耳に入ってくる音だ。
 海中では、耳が手で覆われたように全ての音がくぐもってしまう。
 そして次第に鼓膜に水圧を感じ始める。
 地上とはまったく異なる感覚のため、平衡へいこう感覚が狂わされることもある。
 そんな時に慌てるとパニックになりやすい。だからしばらくは何もしない。静かに息をしてじっとしている。そして泡がどの方角に上っていくかを見て、自分の身体が上を向いているかどうかを判断することになる。

(前が上、後ろが下)

 するとこれまで聞こえなかった泡の弾けるような音が聞こえ出す。呼吸をするたびにレギュレーターから空気の流れる音がするのは安心感に繋がる気がした。


 伊丹が暗い夜の海中で中性浮力を安定させていると栗林が早々に現れる。
 互いに異常がないことを目で確認。その後、伊丹は手首に着けたコンパスで方向を確かめる。
 地図で自分がエントリーした位置、目的とする島の方角をチェック。磁石が示す方位を見て予定した方角へと泳ぎ出す。
 深度や方角もまた時々チェックする必要がある。
 海底が見えない中で泳いでいると、自分が上を向いているか下を向いているか分からなくなる時があるからだ。
 潜る深さが深まれば、水圧によって耳抜きの必要性が出てくるため、下へ向かっているのが分かる。だが、耳抜きが無意識に出来るようになっていたりすると、逆にそれも当てにならなくなってくる。
 レジャーのダイビングとは異なり海中の景色を楽しむ意図はないから、水路潜入では海面から見えない程度の深さを維持して進む。そうすれば空気の節約にもなる。潜水病対策にもなる。深く潜る必要があるのは海面を船が行き交っていて危険な時くらいなのだ。
 空気の残量もチェック。今回は空気の減りが少し早い。
 他の隊員達の姿はまだ見えない。だが、視程の短い海中では仕方のないことだ。すぐそこにいても気が付かないことも多いくらいだ。だから集合地点まで進んで待つことにする。
 ゆっくり、静かに海水を蹴る。
 暗い海中では魚がうようよしていた。
 やがて伊丹は、下方へと向けたライトの先に、珊瑚さんごと砂で出来た海底を見つけた。
 海中では暗視ゴーグルで増幅したとしても遠くまで見通せない。つまり、海底までの深さが数メートルほどになったということ。島に近付いている証拠だ。
 やがて海底までの深さが二メートルほどになる。
 伊丹は栗林に合図しておいて水面に近づいた。
 顔の上半分を水面上に出して周囲を確認。
 星空を背景に、島の黒い影を見ることが出来た。波やうねりの上下に身体が翻弄される。
 再び海面下に隠れて静かに進む。
 そこで銃を取り出して水面に目が出るか出ない程度の深さで構えるのである。
 海底までの深さ約一メートル。
 足ひれを外し、流れていかないよう腰に取り付ける。そして両足で立ち上がった。

「うっ……」

 これまで感じなかった装備の重さがずしっと感じられた。
 波が来るたびにバランスを崩してしまいそうになるが、伊丹は踏ん張ってこれに耐えた。
 背後を確認。栗林はちゃんと付いてきている。
 伊丹は、油断なく銃を構えつつゆっくり岩間を前進していく。そして完全に海から上がった位置で周囲を見渡した。
 岩の陰でしばらく待つ。
 すると青白い映像の中で、海面下から他の隊員が上がってくるのが見えた。

「中隊長。全員集合しました」

 栗林が人数を報せてくる。
 水中用の装備は一カ所にまとめて隠しておく。

「よし、行くぞ」

 伊丹は部下達とともに前進を開始した。
 岩浜から内陸部へと進んでいったのである。


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