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2.秋の夜長のカオス
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しおりを挟む床に飛び散った二人の精液と、涎で顔を汚した大夢を見ながら、市井は未だかつて経験した事のない大反省会賢者タイムに突入していた。
肩で息をして、大夢に埋まったままだった指を抜くと、襞は赤く熟れてヒクヒクしている。
良からぬ気持ちが再び湧く前に、顎に溜まった汗を腕で拭うと、ティッシュで自分の始末をしてズボンを上げた。
大夢は荒かった呼吸が落ち着いてきて、そのまま眠りに落ちてしまっている。
市井も同じくらい疲労感を感じていた。だが、吐精後の強烈な眠気を吹き飛ばし、大夢との一部始終を何度も反芻して罪悪感に襲われるのは、欲熱を吐き出し、我に返った今、隣の部屋で眠る佐藤の存在を思い出したからだ。
いくら酒に酔っていたからといって、なし崩しに雪崩れ込むようなマネは女の子には絶対にしない。いや、女性に限らず、だ。とにかく大夢以外にはしたことはない。
大夢の顔と身体を乾いたタオルで拭いてやって、服を整え、床の上も片付けながら、市井は欲望に負けた自分を責めた。
自責の念は前回以上だ。
(すいません……佐藤さん)
たまたま交わした会話から自分を喜ばせようと、重い一升瓶を何本も持ってきてくれた、大夢の恋人、佐藤――。本人は「格安だ」と言っていたが、それでも結構値が張ったに違いない。本当に美味い酒だった。
佐藤はイイ奴だ。
その佐藤の目を盗んで大夢に手を出す自分は、間男以外の何者でもなかった。
こうやって事後の片付けを一人でしていると、証拠隠滅そのものの体だ。だからといって、この惨状をそのままにも出来ず、市井は黙々と手を動かし続けた。
(俺、ホント最低だ……)
掃除も終わり、大夢に布団代わりのバスタオルを掛けてやる。そうして、机に散らかったままだった食器を片付け終わるころには、週明けにも大夢の担当を外れる心も決まっていた。
部屋の隅に置いていた上着と鞄を持てば、帰る準備もできてしまう。そして、玄関で靴を履こうとしたところで、市井は最後に一目と、眠っている大夢のところまで戻ってしゃがみ、顔を覗き込んだ。
大夢は眉間を顰めて苦しそうな寝顔をしている。
こんな顔が大夢の見納めになるのか、と残念に思う気持ちと、未練がましい自分の浅ましさに市井は頭を抱えて髪を掻きむしった。
(なんだよっ、この感情……っ)
そんな混乱の中にいた市井を現実に引き戻したのは、見る間に顔色が悪くなっていく大夢の呻き声だった。
「は……っ、ぅ……ぅ」
「……八木沢さま?」
恐る恐る市井が声を掛けると、今度ははっきりと聞こえた。
「は……吐く……っ」
「……!」
市井は一瞬で大夢を抱え上げると、一目散にトイレへ駆け込んだ。考えるより先に身体が動いていた。
大夢は具合の悪いところに突然の浮遊感が加わって、顔を下にして頭を押さえ込まれた瞬間にリバースしていた。
「うぇぇっ……っ」
涙は出るし鼻水は出るし、口は言わずもがなで、とにかく苦しくて死にそうだ。だが、水が流れる音を聞きながら、えずく間中、背中を摩る手と、耳に届く声に励まされ続けた。
「大丈夫ですよ。ここトイレなんで、思いっきり出し切ってください。大丈夫、大丈夫。出したら落ち着きますから」
自分はどうしてこんなに具合が悪くて、吐き続けているのだろうかと、身体とは他人事のように考える。そして徐々に周りの様子がぼんやり分かってきて、聞こえてくる声が市井ではないかと認識してきた。
「いち……い……さん?」
「そうですよ。ちゃんと支えてるんで、心配ないですから」
何故こんな状況になっているのか分からないのに、最悪に格好悪い姿を見られていることだけは分かって、大夢の目から涙が溢れた。
「うっ……うぅっ……もぅ、さいっあく……っ、かっこ……悪っ」
ここに至るまでの記憶が殆ど無い。ただ、市井に愚痴って絡んだような気もするし、挙句にこんな世話までさせてしまっていて申し訳なさにもう消えてしまいたかった。
「俺に見られただけですよ。気にしないで」
優しい声音で優しい言葉を掛けられて、大夢はまた佐藤に差をつけられたように感じて情けなくなってくる。
「このこと……ウぇッ」
「はい?」
えずいているのに話だした大夢の言葉が聞こえにくくて、市井が聞き返す。
「佐藤には……言わないで……市井さん」
つまらないプライドだと分かっても、出来るならこんなことは隠したかった。
「っ、……はい」
ただ、市井には、今夜起こった淫らな接触のことだと思わせてしまった。
「八木沢さまがそれでいいなら……、俺は言いません」
やはり大夢は後悔したのだ、と佐藤に隠そうとしている自分との関係の後ろめたさを市井は改めて痛感する。
「市井さん……ごめんね……俺、お世話して……もらって、ばっかり……」
「そんなの、当たり前ですよ。だから俺はここに来てるんです」
吐くたび裸の背中が強張り、背骨が浮き出る。涙ながらに話す大夢を摩って、市井は宥めた。
そんな市井の優しさが大夢をかえって不安にさせる。
「市井さん、もうここにこない……なんて言わないでね……」
契約以上に世話を掛け、手を焼かせる自分に、市井だって呆れているだろう。
そうは分かっても、市井が作る居心地の良さ、こんな状態でも介抱の手を止めない市井の優しさを、自分が気に入り始めていることに大夢は改めて気付かされた。その市井から見放されるのは辛いのだ。
「八木沢さま……。でも――」
「俺の、わがままなの分かってるけど……」
「ち、違いますっ。わがままは俺の方です。俺が貴方から離れたく……」
あれだけ反省したのに、離れたくないと思う自分の本心が言葉に出て、市井はまた大夢を抱き締めたい衝動に駆られる。
(違うっ、そうじゃないだろっ)
大夢に対して、男には向けない執着が芽生えている。偶然にも弱っている姿を目にする場面が多くて、女性を見るような庇護欲を感じているだけなのかもしれない。そう考えなければこの気持ちに納得ができなかった。
「とにかく、泣くほど辛いんですから。まずは吐ききってください」
だいぶ落ち着いてきた様子に、背中に当てた手もゆっくり上下させる。だが、市井の言葉に大夢の涙は余計に溢れてきた。
「おれ……泣いてるのっ、吐いてるからじゃ、ないっ。市井……っ、さんっ、来なくなるかもっ、知れないからっ」
「ええっ?」
思考が感情と直結している大夢の様子に、市井は大夢がまだ深い酔いの中にいるのだと察した。
「来週も……うォぇ……っ、ちゃんと来てねっ、ぜったいっ」
場所と状況がコレなだけに、情緒も何もあったものではないが、便器に顔を向けながらも子供のように市井の袖を掴んで、返事をくれるまで離さないと握ってくる大夢に、市井は困り果てて微笑んでしまう。
(参ったな……。凄く、嬉しい)
大夢が望むなら、側に居ても良いのだろうか。
「また……来てもいいんですか?」
市井の言葉に、大夢は疲れ切った声で笑った。
「ハハ……、お願いしてるの、俺なのに。変な市井さん……」
ようやくトイレから出て顔と口を洗うと、大夢は市井の膝枕で眠りに沈む。その髪を撫でながら、市井は眠れない一夜を過ごすのであった。
翌朝、二日酔いで苦しむ二人の男を市井は甲斐甲斐しく世話していた。
「ほんと、市井さんいてくれて助かった……」
佐藤がトイレからヨロヨロと出てきてリビングに倒れこみ、こめかみを押さえる。
「もう八木沢さまがお風呂から出ますから、ゆっくり浸かってください。上がったら食べるもの何か用意しておきますから」
「市井さん……、マジ天使っ」
「ははは……」
良心の呵責に顔を引攣らせる市井に気づくはずもない佐藤は、崇めるように市井を褒めた。
大夢はというと、朝起きたときはぐったりしていたが、吐いたあたりは少し覚えていたようで、深々と頭を下げてきた。ただ、やはり記憶はほとんどないようで、市井が話しかけると少し恥ずかしそうにするだけで至っていつもどおりだった。
そうして佐藤も風呂から上がり、三人でテーブルを囲んで味噌汁を啜っていたとき、おもむろに佐藤が話だした。
「俺さ……昨日AVの夢見て超楽しかった」
お椀の中に味噌汁を吹き戻した大夢と市井が慌てる。
「佐……おまっ、ご飯中にいきなり何言っ……」
実は大夢も似たような夢を見ていて焦ってしまった。ただ、大夢の夢は男女の絡みではなく、喘いでいたのは自分で、その相手が市井だったことは口が裂けても言えない。
市井は市井で、自分たちの声が寝ていた佐藤に聞こえていたのではと、いよいよ土下座では済まない修羅場を迎える絞首台に立たされた気分だった。
真っ赤になって非難の目を向ける大夢を見て、佐藤は急に大人びた表情でニヤニヤする。
「顔、赤過ぎ。可愛いなぁ」
「かっ……」
いつもの馬鹿にされた調子が分かって大夢が言い返そうとしたが、それよりも早く、市井が盛大に咽せだした。
ゴホゴホと激しく咳き込む市井に二人が驚いて、背中を叩き、お茶を出す。
「す、すみませっ、大丈、夫っ」
二人にお礼を言いながらも、市井は勘弁してくれ、と叫びたかった。
(この人たちは、隠す気がないのか!?)
一応自宅だが、第三者である自分のいる前でいちゃつき始めるのは見たくなかった。
「も、大丈夫です、ちょっと驚いて……」
物理的な苦しさもあり、お茶を啜る。大夢は市井の背中を優しく撫でた。昨夜のほとんどの記憶はなかったが、一番恥ずかしかったトイレでの記憶はところどころあって、受けた恩は返せる時に返したいのだ。
「ほら見ろ、佐藤。市井さんだってご飯中にそんな話聞きたくないよっ」
市井を味方に付けた大夢に、佐藤がムスッとして反撃する。
「んなことあるか。どうみても経験豊富な市井さんだぞっ。キスの経験もない八木沢とはレベルが違うに決まってるだろ」
その言葉に市井の思考が止まった。
「俺の経験は関係ないだろっ」
「おやおや、認めましたね、八木沢クン。はぁ、マジでキスしたことないのかよー」
語るに落ちた大夢をケラケラ笑う佐藤に、昨日の残りのピーナッツを投げつける大夢を見ながら、市井の顔から血の気が引いた。
「キス……」
ぼそり、と呟いた市井の声に、大夢と佐藤が振り返る。
「どした? 市井さん?」
おでこに当たってテーブルに落ちたピーナッツを食べながら佐藤が尋ねると、市井は目を泳がせながら確認した。
「八木沢さま……キスしたことないんですか」
「えっ、いやっ、あの、……これ、答えないと、ダメ?」
「なんで俺に聞くの?」
なんだこの状況、と三人が三人とも思った。
困り果てて、思わず佐藤に聞いた大夢と、大夢の反応にやはり未経験か、と納得する佐藤。そして、佐藤に伺いを立てた大夢に愕然とする市井。
大袈裟に笑い転げる佐藤に大夢が最後の一つになったピーナッツを投げて不貞腐れる。
「あははっ、八木沢、マジでか」
キスもまだなら、当然その先もお察しである。
常日頃から佐藤が感じていた、どうにも男臭くない大夢の原因を垣間見た気がした。
(そっかー。まだ男になってなかったかー)
憐れむ目で大夢を眺める佐藤を、市井は驚いて見ていた。
『だめぇ。サト、いじわるだから……市井さんもいじわるになったら、やら』
そういえば、昨夜大夢はそんなことを言っていたか。
(佐藤さんがいじわるって、身体だけ関係してキスもさせてないってコト!? 佐藤さんドS過ぎるでしょ!)
そう思うと佐藤の今の表情も意味深に見える。
(あれ……まてよ)
そうして、ようやく気づくに至った。
『優しく、できましたか……?』
昨夜、自分が大夢にキスしていたことを。
(えっ、アレっ、俺!?)
知らなかったとはいえ、どう考えても大夢のファーストキスの相手は間違いなく自分になる。
(さささ、佐藤さんっ、何やってんですかっ。俺、一番にしちゃったじゃないですかっ)
衝撃の事実に市井は青ざめつつも、小さな嬉しさは否定できなかった。
「別に……急いでないし……」
拗ねた大夢の唇。そこに触れたのは自分だけなのか。そう思うだけで、やはり嬉しかったのだ。
洗濯物を済ませた市井と、よれたシャツを着た佐藤が昼前に帰ってしまってから、ベランダでぼーっと空を眺めていた大夢は、大事なことを聞きそびれたことを思い出した。
「市井さんの、名前っ」
しまった、と項垂れている大夢は気付いていない。
その名前も知らない男とファーストキスを済ませ、乳首を開発され、更には尻の穴も解されてしまっていることを――。
(市井……何さんなんだろ)
顔と同じで名前も格好いいのかな、と考えながら、昨日のアダルトな市井の夢をちょっと思い出してしまい、そわりと腰を揺らしてしまう。
そうして目を閉じた大夢は、夢の中で囁かれた市井の低く優しい声を思い返すのだった。
……to be continued
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