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*夜はこれから・その2

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 とくとくと鳴る胸の音は、どちらのものか。ちょうど目の前にある肩口にひたいを押し付けると、首の後ろををやんわり包まれる。耳の上側に触れる指先が耳殻をかすめ、首根っこを押し上げられるように上向かされた。
 鼻先がこすれあい、かすかに息がかかる。浅く重ねられた唇は少しかさついていた。自分のはどうだろう。あらかじめ塗っておいたリップバターがちゃんと機能してくれていることを願う。
 ついばむような軽いキスを繰り返しながら、長い前髪の向こうに透けて見える色の濃い虹彩を追う。こういう時は目を伏せるものだ。わかっていながらもタイミングを失っていた。
 見ているということは、見られているということでもある。見つめ合いながら交わす口づけなんて、バカップルじみて恥ずかしいことこの上ない。なのにとろける思考の先では、それでもいいや、なんて結論してしまっている。
 彼の背に回していたはずの腕はいつしか力を失い、身体の横に落ちていた。だらりと下がった手首を彼の手がそっとつかまえて、指先同士が絡められる。

「ふ、ぁ……」

 息継ぎの際に吸い込んだ空気が火照った身体を内側から冷やしていく。言葉もなく、ただ唇だけで伝え合う感情は、胸の奥に温かなさざ波をたてた。嬉しいけれどなぜだかもどかしくて、それを発散させるためにまた口づけを結ぶ。
 優しい触れ合いは、柔らかく濡れた舌で唇のあわいをたどられたことで気配を変えた。わずかに開いた隙間を逃さず、彼の舌がこちら側へと侵入する。歯の並びを確かめられる動きでそろりとなぞられた後、さらに奥へ。

「んぅっ……」

 舌が軽く触れただけで、ビリ、と舌先がしびれた。同時に鼻に抜けるようなため息がもれる。恥ずかしさにいたたまれないけれど、彼はやめてくれる気はないらしく、引っ込めた舌を追って口内を探ってくる。粘膜をかき回されて、喉の奥にむず痒いような感覚が生じる。
 指先がぴくりと引き攣れるように跳ね、吸い出された舌を甘噛まれて、じわっと目元が潤んだ。
 ちゅ、と濡れた音を残して唇が離れる。乱れた息に肩を上下させながら彼の姿を追うと、艶めいた視線が返ってきた。

「きて」

 手を引かれるまま、ふわふわと雲を踏むような足取りでリビングから続く寝室へ移動する。中央に据えられたベッドまでもう少しという時、身体をすくわれた。
 彼の腕に抱き上げられたのを理解した時にはすでに、ベッドの上で彼の顔を見上げていた。鮮やかな手口に驚嘆してしまう。

「大丈夫?」

 目を丸くしていると、彼が首をかしげながら頬に触れてくる。

「あ、うん……」
「この先も?」

 それがこの先の行為に進むことを覚悟しているか問われていると理解して、思わず視線が泳ぐ。一夜を共にするというのがただ寝るだけではないことは理解しているし、その覚悟はあるつもりだ。けれど実を言えば、さっきからドキドキしすぎて胸から心臓が飛び出しそうだった。
 緊張にわななく唇をなだめ、「もちろん」と告げた。彼が顔を近づける気配にそっと目を伏せる。軽い口づけから始まるのだろうという見込みは外れ、いきなり口内に舌が差し入れられた。
 表面をすりあわせる柔らかな舌使い、舌の根まで舐め上げる大胆さに心を乱され、翻弄されてしまう。口蓋をくすぐられるたびに身体がびくびくと波打った。
 何も考えられない。彼と彼のもたらしてくれる感覚のほかは。借り物の服の中で身体が泳ぐ。分厚い生地越しに肌をまさぐられて、そのもどかしさに熱が高まっていく。
 キスが途絶えたのに気づき、反射的に目を開けると、彼が切なげに目を細めるのが見えた。リビングから漏れる光源で、思いのほかはっきりと表情がうかがえる。自分がそうなのだから、きっと相手も。どういう顔をすればいかわからない。きっと情けなく眉を下げているはずだ。
 する、と腰に指が触れてジョガーパンツのウエスト部分がわずかに浮いた。そのままゆっくりと下にずらされる。脱がせやすいようにつま先をついてゆっくりと腰を浮かせると、彼が口角を持ち上げて軽くキスを落としてきた。
 少しずつあらわになっていく下肢の心もとなさに落ち着きなく視線をさまよわせる。つま先を通り抜けたジョガーパンツはベッドの下に落とされた。ひんやりとした空気が肌を撫でるけれど、肌が粟立つのは寒さのせいなんかじゃない。
 残るは明らかにサイズオーバーなTシャツと袖が余りに余ったパーカー。これは寝転んだままじゃ脱げない。一旦起き上がらなきゃ、と考えた時、先に彼が着ているスウェットに手をかけた。思い切りよく脱ぐから、目のやり場に困る。いや、しっかり見てしまった。意外にたくましい。服を着ている上からはわからなかった。しっかり割れた腹筋の残像を頭から追いやろうとしても、一度目に焼き付いてしまった記憶がなかなか離れていかない。
 その間に、彼が腰の後ろに手のひらを添えて体を起こす手伝いをしてくれた。今にも震えそうな指先でパーカーのジッパーを下げ、袖から腕を抜く。一息つきたいと思ったけれど、彼の手がTシャツを裾から持ち上げていく。

「下着、ちゃんとつけてるんだ」
「……うん」

 指摘されて、脱がされるまま上げていた手を思わず体に巻きつけた。どうしようか迷って一応つけておくことにしたブラジャーは、新しいからまだ体に馴染んでいない気がする。デザインだって、迷いに迷って選んで選んだはずなのに、今となってはその判断に自信もない。

「それじゃ脱げないよ」
「わかって、る……」
「恥ずかしがるとこもかわいいけど、そろそろ俺も限界かな」

 薄闇の中、いつもは眠たげな彼の瞳が欲に濡れているのがわかった。観念して、胴体から腕を離し思い切りよく脱ぎ捨てた。すぐに彼の手が、背後に回る。「うまくできるかな」なんて前置きしておきながら、背中の留め金はあっさりとはずされた。ゆるんだ肩紐が肩から滑り落ちる。彼の指先がそれをつまんでベッドの下側に追いやった。
 もうダメだ。全部見られてしまう。どうしようもなく羞恥がこみ上げて体を丸めていると、そっと背中を引き寄せられる。

「好き」

 身体にも手練手管にも、全然自信がない。醜態をさらしてしまうかもという引け目が、そのひと言で救われたような気がした。彼ならすべて受け入れてくれるという予感に心がほどけていく。
 自分から手を差し伸ばし、彼からの抱擁をねだる。与えられたぬくもりを抱きしめると、胸の内が満たされた。
 心の準備は整ったが、熱い手のひらに肌をなぞられると身体が勝手に逃げようとする。そうしようと思っていないのに動いてしまうのだ。
 こんなふうだったっけ、と記憶をたどろうとした思考が途中で霧散する。言葉にならない音が口をついて出て、それを唇で優しくふさがれた。必死に彼にしがみつき、その合間にせわしなく息をこぼす。
 初めて二人で越す夜は、とびきり甘く幸せだった。
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