ハズレ合コン救世主〜理系男子の溺愛は不言実行

乃木ハルノ

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夜はこれから・その1

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 バスルームは使用後なはずなのに、少しタイルが濡れている他はキレイなものだった。

「タオルはこれで、シャンプーとコンディショナーは中のラックに。男用だけどスキンケアのサンプルも出しといた」

 新しいのかもしれない、ふわっと繊維の立ったタオルを手渡され、次々に教えてもらう。ひと通り説明を終えた後、出ていこうとする彼の腕を引いた。

「着替え借してもらってもいいかな? 時間なくて、その……」

 下着の調達はしたものの、寝間着まで気が回らなかったのだ。彼は少し考える様子を見せる。

「ゴメンね、元カノの忘れ物とかでもなんでもいいから」
「ないよ。女の子を家に入れたのは、ゆきさんが初めてだし」

 さらっと告げられた言葉に胸の奥がきゅっと締め付けられる。舞い上がってしまいそうな自分を抑え、優樹は曖昧な相槌を打った。

「なんか探しとくから、先に入ってて」
「ありがとう。なかったら全然、今着てる服もう一回着るから」

 彼の後ろ姿を見送って引き戸を閉めると、鏡面に映る自分と目が合った。目尻が下がって唇は笑もうとしているのを無理やり噛み締めて、なんともちぐはぐな情けない顔つきだ。

***

「初めて家に入れた女が私? いやいやいや……」

 湯船につかりながら、延々と独り言をつぶやく。
(彼女はいたんだよね? ここに引っ越してからはいないってこと?)
 単にタイミングの問題だと思うけれど、自分だから入れてくれたのかもしれないと考えるだけでホワホワした気持ちになってしまう。気を抜くとだらしなくにやつく顔は、このバスルームから出してはいけない。
 たっぷりのお湯で身体を芯まで温めてから、脱衣所に出る。人の家を借りているため、普段よりかなり早めに入浴を済ませることになった。
(長々と入ってたら、考えすぎてのぼせそうだもん)
 用意してもらったバスタオルで髪と身体の雫を拭った後、汗が引くまで体に巻きつけておく。その状態でヘアドライヤーを手にとってスイッチを入れると、強い風圧が髪をはためかせた。そこへ…ー

「お待たせ、着替えここに……」

 突如引き戸が開けられた。
 時が止まったかと思われた静寂の後、先に動いたのは彼のほうだった。勢いよく戸が閉められた大きな音に、優樹はびくりと肩を揺らした。状況を飲み込めずにいた矢先、戸の向こう側から謝罪の声が届く。

「……ごめん。ドライヤーかけてたから、服着てるかと」
「あ、うん。こっちこそ」
「着替え外に置いとく」

 ほとんど一方的な会話の後、足音が遠ざかる音がして彼が行ってしまったのだと知る。

「……びっくりしたぁ」

 羞恥心はあるにはあるが、タオルを巻いていたから肝心なところは何も見えていないはずだからそれほどダメージはない。というのも、自分よりもよほど彼の方が動揺していたように感じられたからだ。
 戸の向こう側に出る前に見た彼は無表情だったけれど、いつになく早口で声も一本調子だった。
(緊張してるのは私だけじゃないってわかって、ちょっと安心したかも)
 告白までされておいてこんなことを思うのもおかしいかもしれないが、女として見られていたことにほっとした。つけっぱなしのドライヤーは優樹がぼんやりしている間もしっかりと仕事をしてくれていたようで、気がつけば髪はほとんど乾いていた。
 スイッチを切り、ショッパーバッグから下着を取り出す。最初に触れたほうを着ると決めていたからスムーズだった。下着を身に着けてから、そっと戸を開けて足元に置かれていた着替えを取る。
 ジョガーパンツにTシャツ、それにパーカーを順番に身に着けていく。予想通り大きくて、裾は引きずっているし袖も余ってぶかぶかだ。どちらも二回ずつまくりあげる。合わないサイズがこそばゆかった。なんとか見られる格好に整えてから、リビングに向かう。
 湯上がりの火照った足裏が、冷えたフローリングに触れて気持ちいい。

「お待たせ」
「おかえり」

 声をかけながらリビングに足を踏み入れると、ソファにかけていた彼が立ち上がった。近づいて向かい合うと、彼がミネラルウォーターのペットボトルを手渡してくれる。
 ソファに座り直す彼の隣に身を落ち着けてペットボトルの蓋を開けようとするが、さっき塗ったばかりのボディクリームのせいで手が滑ってしまう。悪戦苦闘していると、見かねた彼が代わりに蓋を取ってくれた。
 冷たい水をひと口飲むと同時に彼が口を開く。

「さっきの、ごめん」
「あ、いいよいいよ。事故みたいなものだし」

 軽く手を振って気にしていないと告げる。髪を乾かすまで服を着ないのは、自宅にいる時の癖だが、人の家では無分別だったかもしれない。

「そうやって流されるのもなんか」

 脚に肘をついて前かがみになった彼が、ぼそりとつぶやく。
(なんか、って、なんだろう?)
 そう思って横目に彼をうかがうと、彼の方も首をよじってこちらのほうに視線を向けていた。

「必死なのは俺だけなのかよって」
「必死」

 彼の言うことを繰り返すのは、思考停止しているわけではなく、むしろその逆だ。珍しく少し乱暴な言葉尻のすねたような言い方、その意図を相違なく受け取ろうと頭を働かせる。

「そこ、寝室だから眠くなったら使って」

 もう少しで核心に触れられるかと思ったのに、突如話の矛先がそらされた。

「え、友紀くんは?」
「ソファ使う」

 自分は彼の寝室で、彼はこのソファで眠るということだろうか。「なんで」思ったと同時に口から出ていた。

「家に来てもらったのは、そういうつもりじゃなくて」
「うん」
「手を出す気はなかったのに、さっき見たゆきさんが」

 目に焼き付いて離れない。かすれた声が、どこか熱っぽい。空気を震わせた声の切実さが、優樹の意識を焦がそうとする。
(待って。落ち着いて)
 自分に言い聞かせる。ここで間違ったらおしまいだ。もう一度この状況に戻ってくるのはきっと難しいだろうという予感があった。
 彼の言っている意味を噛み砕けば、がっつくつもりはないという意思表示にほかならない。関係をゆっくり進める理由なんて、相手を大事に思うからに決まっている。
 うぬぼれかもしれないけれど、それでもかまわないから自分の気持ちを伝えたいと思った。

「わ、わたし、は」

 つい今さっき、喉を潤したはずなのに口の中はすっかり乾ききって舌を動かすのに苦労した。

「そういうことになるかもって思って、その、買い物を」

 夜を越すだけなら量販店でブラキャミでも買えば済んだことだ。わざわざまともな下着売り場におもむいた上、悩みに悩んで結局決めきれなかったのは、彼に見られるかもしれないと思ったからだ。
 彼はとぎれとぎれにしか出てこない言葉を辛抱強く待っていてくれた。

「お預けできるほどいいもの持ってるわけじゃないし、どうぞってのも変だけど、でも幻滅されないようにがんばる気はある、から」

 澄んだまなざしで見つめられ、つい言わなくてもいいことを言ってしまう。彼が身を起こしたことで二人の距離が縮まって、優樹は自分がソファの半分の自分の陣地を越えて身を乗り出していたことに気がついた。
 急にきまりが悪くなって端に戻ろうとした時、肩に手が置かれる。その手に軽く力がかけられて、身体が前にかしぐ。当然その方向には彼がいて、正面から抱きしめられた。

「ゆきさんて、ほんとに」

 熱っぽいため息とともに抑揚のある声が鼓膜を揺らす。耳に響いてじんわりと染み込むような声使いに、背筋が震えそうになる。
 新宿で彼についていくと決めた時、今日こそは自分から踏み出すのだと決めた。お膳立てされるばかりじゃないところを見せたい。こんなに真摯に想われて、なお受け身でいるなんて無理だ。
 ゆるゆると腕を持ち上げて、広い背中に回す。ゆるくしがみつくと、ぬくもりが応えてくれる。
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