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残業
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優樹は勤めている特許事務所のオフィスで海外宛の請求書相手に格闘していた。
クリスマス休暇までに間に合うよう、代理人とのやり取りを前倒しに行わなくてはならない。そのせいで、連日残業続きだった。
クウ、と小さく胃が鳴った。もうじき十九時半を回るところだ。リフレッシュボックスでフルーツバーを買ったのが二時間前だから、空腹も限界だった。
(でも、feeの支払い期限が厳しいこことここの分だけは明日の朝イチで出したい)
そして二十時過ぎ、ようやく仕事を終えて席を立とうとしたちょうどその時、スマホが着信を知らせた。
「あ」
画面に彼の名前を認めて、思わず声が出る。この場で出るのはまずい。オフィスの中にはまだ何人か、弁理士が残業しているからだ。お疲れ様です、と言いおいて足早にエレベーターホールに出る。
「もしもしっ?」
__ゆきさん、今いい?
「うん。今、仕事終わったとこなんだ」
__そっか、お疲れ。まだ職場ならかけ直すけど。
「あ、大丈夫だよ。今階段でゆっくり降りてるとこだから」
気を使わせてしまいそうで、慌ててそう告げる。
__ありがと。
穏やかな声が鼓膜を揺らす。
「……それで、どうしたの?」
__今度会う約束したでしょ。行き先だけど、横浜でいいかな?
「うん、もちろん。でも、ユウキくんは遠くなっちゃわない?」
てっきり東京で会うものだと思っていた。けれど優樹の家は横浜寄りの川崎だから、かえって楽なくらいだ。
__会ってもらうなら、ゆきさんが近いほうがいいと思って。俺もそんなに遠くないよ。
「……ありがとう」
会ってもらうだなんて、そんな大層なことじゃないのになんだか気恥ずかしくなってしまう。こちらこそ会ってもらう気持ちでいるのに。時間と集合場所を決める間に、地上に降り立つ。
今決めたことは、確認のために後でメッセージしてくれるという。こういう細やかな気遣いが、自他ともに認めるうっかり者である優樹にとってはありがたい。
職場のあるビルから出て夜道に出ると、ふと彼が尋ねてきた。
__周り、人いる?
「え、……うん、前にサラリーマンが」
__後ろは?
「ちょっと待って……遠いけど女の人の二人組がいる」
__そっか。なら平気かな。
突然周囲の状況確認を促されて優樹が頭に疑問符を浮かべていると、彼がもう一度口を開いた。
__夜道、危ないから。
「危ないって、今日なんか事件でもあったっけ?」
__違うけど、女の人の独り歩きは気をつけなきゃ。
(女の人、って……)
当たり前のように女性扱いを受けた面映ゆさで、喉の奥がむずむずとしてくる。
__本当はこうやって通話しながら歩くのも良くないんだって。
「そうなの? 逆に何かあったらすぐ通報してもらえて安心な気がするのに」
__それはそうだけど、すぐに駆けつけられるわけじゃないから。
「あー、確かに」
__だからゆきさん、用心して。
「わかった。強盗とか無差別殺人鬼とか、ニュースで見るもんね」
普段は遠い話だと思っているけれど、いつ何時自分に降り掛かってくるかはわからない。いざという時のために用心するべきだ。優樹はきょろきょろと左右に眼を走らせ、振り返ってもみる。
(よし、異常なし)
__それもなくはないけど、痴漢の方がありえそう。
「えっ、それはないよ」
それは断言できる。色気も華もないアラサーをわざわざ触ろうなんて奇特な人間がいるとは思えないからだ。
__そんなんだから心配なんだよ。
ため息とともに苦言を呈されて、急に胸がそわそわ落ち着かなくなる。
__ゆきさんはさ、自分で思ってるよりずっとかわいいよ。
衝撃的な発言に、全身がぶわっと熱を帯びた。ともすれば震えそうになる声を、無理やり絞り出す。
「あ、ありがとう?」
混乱のあまりつい彼の言葉を肯定するような返事をしてしまった。まるで自分がかわいいと思っているみたいではないか。恥ずかしい。
__なんで疑問形?
柔らかな声音に指摘され、困り果てる。
「いや、途中で間違えたなって思って。私自分のことかわいいなんて思ったことないし」
__間違ってない。俺のこと信じて、ちゃんと気をつけて。
力強く断言されて、息を呑む。これ以上の反論は無理だと悟った。
「気をつけます……」
この話を終わりにしたいという一心で、彼の言い分に従う。頬が燃え上がりそうなくらいに熱い。火照りを冷まそうと、空いた片手で懸命に顔を扇いだ。
__もう駅に着いた?
「まだ、だけどもう少しかな」
話題が別のことに移ったことに、ほっと息をつく。数メートル先に見えるコンビニの向かいにある階段を降りれば、もう駅だ。
__そっか。そろそろ切らなきゃだ。
「うん、わざわざ連絡ありがとう」
通話を終える流れだ。優樹は改めて、感謝を口にした。
__家に着いたら教えて。スタンプ一つ送ってくれるだけでいいから。
「もちろんいいけど、なんで?」
__無事に家に帰ったって知って安心したいから。
(もうっ、この……女殺し!)
冷めかけた熱がまた上昇していく。動揺を気取られないよう、深呼吸をしてから答えた。
「……わかった」
__じゃあ、切るね。ほんとに気をつけて。
「うん……ありがとう、心配してくれて」
__こっちこそありがとう。ゆきさんの声が聞けて、元気出た。
「そう? ならよかった?」
__また疑問形。
わずかに笑い声を響かせた後、バイバイ、と言い合って終話ボタンを押す。明るい駅構内に足を踏み入れながら、優樹はスマホをバッグにしまった。それから両手で顔を包み込む。意外なことに、指先と頬の温度はそれほど変わらない。
外気の冷たさがのぼせそうな熱を冷ましてくれたのだろう。冷たい皮膚の下で、ぬくもりの余韻が凍える指先を温めた。
クリスマス休暇までに間に合うよう、代理人とのやり取りを前倒しに行わなくてはならない。そのせいで、連日残業続きだった。
クウ、と小さく胃が鳴った。もうじき十九時半を回るところだ。リフレッシュボックスでフルーツバーを買ったのが二時間前だから、空腹も限界だった。
(でも、feeの支払い期限が厳しいこことここの分だけは明日の朝イチで出したい)
そして二十時過ぎ、ようやく仕事を終えて席を立とうとしたちょうどその時、スマホが着信を知らせた。
「あ」
画面に彼の名前を認めて、思わず声が出る。この場で出るのはまずい。オフィスの中にはまだ何人か、弁理士が残業しているからだ。お疲れ様です、と言いおいて足早にエレベーターホールに出る。
「もしもしっ?」
__ゆきさん、今いい?
「うん。今、仕事終わったとこなんだ」
__そっか、お疲れ。まだ職場ならかけ直すけど。
「あ、大丈夫だよ。今階段でゆっくり降りてるとこだから」
気を使わせてしまいそうで、慌ててそう告げる。
__ありがと。
穏やかな声が鼓膜を揺らす。
「……それで、どうしたの?」
__今度会う約束したでしょ。行き先だけど、横浜でいいかな?
「うん、もちろん。でも、ユウキくんは遠くなっちゃわない?」
てっきり東京で会うものだと思っていた。けれど優樹の家は横浜寄りの川崎だから、かえって楽なくらいだ。
__会ってもらうなら、ゆきさんが近いほうがいいと思って。俺もそんなに遠くないよ。
「……ありがとう」
会ってもらうだなんて、そんな大層なことじゃないのになんだか気恥ずかしくなってしまう。こちらこそ会ってもらう気持ちでいるのに。時間と集合場所を決める間に、地上に降り立つ。
今決めたことは、確認のために後でメッセージしてくれるという。こういう細やかな気遣いが、自他ともに認めるうっかり者である優樹にとってはありがたい。
職場のあるビルから出て夜道に出ると、ふと彼が尋ねてきた。
__周り、人いる?
「え、……うん、前にサラリーマンが」
__後ろは?
「ちょっと待って……遠いけど女の人の二人組がいる」
__そっか。なら平気かな。
突然周囲の状況確認を促されて優樹が頭に疑問符を浮かべていると、彼がもう一度口を開いた。
__夜道、危ないから。
「危ないって、今日なんか事件でもあったっけ?」
__違うけど、女の人の独り歩きは気をつけなきゃ。
(女の人、って……)
当たり前のように女性扱いを受けた面映ゆさで、喉の奥がむずむずとしてくる。
__本当はこうやって通話しながら歩くのも良くないんだって。
「そうなの? 逆に何かあったらすぐ通報してもらえて安心な気がするのに」
__それはそうだけど、すぐに駆けつけられるわけじゃないから。
「あー、確かに」
__だからゆきさん、用心して。
「わかった。強盗とか無差別殺人鬼とか、ニュースで見るもんね」
普段は遠い話だと思っているけれど、いつ何時自分に降り掛かってくるかはわからない。いざという時のために用心するべきだ。優樹はきょろきょろと左右に眼を走らせ、振り返ってもみる。
(よし、異常なし)
__それもなくはないけど、痴漢の方がありえそう。
「えっ、それはないよ」
それは断言できる。色気も華もないアラサーをわざわざ触ろうなんて奇特な人間がいるとは思えないからだ。
__そんなんだから心配なんだよ。
ため息とともに苦言を呈されて、急に胸がそわそわ落ち着かなくなる。
__ゆきさんはさ、自分で思ってるよりずっとかわいいよ。
衝撃的な発言に、全身がぶわっと熱を帯びた。ともすれば震えそうになる声を、無理やり絞り出す。
「あ、ありがとう?」
混乱のあまりつい彼の言葉を肯定するような返事をしてしまった。まるで自分がかわいいと思っているみたいではないか。恥ずかしい。
__なんで疑問形?
柔らかな声音に指摘され、困り果てる。
「いや、途中で間違えたなって思って。私自分のことかわいいなんて思ったことないし」
__間違ってない。俺のこと信じて、ちゃんと気をつけて。
力強く断言されて、息を呑む。これ以上の反論は無理だと悟った。
「気をつけます……」
この話を終わりにしたいという一心で、彼の言い分に従う。頬が燃え上がりそうなくらいに熱い。火照りを冷まそうと、空いた片手で懸命に顔を扇いだ。
__もう駅に着いた?
「まだ、だけどもう少しかな」
話題が別のことに移ったことに、ほっと息をつく。数メートル先に見えるコンビニの向かいにある階段を降りれば、もう駅だ。
__そっか。そろそろ切らなきゃだ。
「うん、わざわざ連絡ありがとう」
通話を終える流れだ。優樹は改めて、感謝を口にした。
__家に着いたら教えて。スタンプ一つ送ってくれるだけでいいから。
「もちろんいいけど、なんで?」
__無事に家に帰ったって知って安心したいから。
(もうっ、この……女殺し!)
冷めかけた熱がまた上昇していく。動揺を気取られないよう、深呼吸をしてから答えた。
「……わかった」
__じゃあ、切るね。ほんとに気をつけて。
「うん……ありがとう、心配してくれて」
__こっちこそありがとう。ゆきさんの声が聞けて、元気出た。
「そう? ならよかった?」
__また疑問形。
わずかに笑い声を響かせた後、バイバイ、と言い合って終話ボタンを押す。明るい駅構内に足を踏み入れながら、優樹はスマホをバッグにしまった。それから両手で顔を包み込む。意外なことに、指先と頬の温度はそれほど変わらない。
外気の冷たさがのぼせそうな熱を冷ましてくれたのだろう。冷たい皮膚の下で、ぬくもりの余韻が凍える指先を温めた。
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