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3.人の気も知らないで
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「それなのに私、ずーっと待ち続けて……大馬鹿だよねえ」
お盆にはこっちに戻って来るんじゃないかと期待して、よそ行きのワンピースやルームウェアを新調していた自分が滑稽で乾いた笑いが漏れる。
「馬鹿っていうか、見る目がないよな」
啓斗のことだから茶化したうえで笑い飛ばしてくれるんだろうって思っていたのに、返ってきたのは予想とは違って落ち着いたトーンの声だった。
どういう顔をしているんだろうと何の気なしに顔を上げると、強い視線に射すくめられる。
「ケジメもつけられない、人のせいにして楽な方に逃げる。そんなクソ野郎、早く忘れろよ」
いつになく乱暴な口調の啓斗に圧倒されながらも、胸のつかえが取れたような気分だった。元彼への辛辣な批判を聞いて、正直すっとした自分がいる。
ここ数日、自分が至らないせいで元彼の気持ちが離れてしまったのだと落ち込んでばかりいたけれど、もっと怒ってもいいのかもしれないと思わされた。
彼は大人だから仕方ないんだと鈍感なふりをして、目をつぶった。その気になればもっと早くに関係が終わっていることに気付けたはずなのだ。
私も悪い所はあった。それでも明確に別れてもいないのによその女になびくのは二股だし、誠実じゃない。
「……うん。そうだね。ほんとそう」
霧が晴れてぱっと道の向こうが見渡せたような晴れやかさで頷く。
「わかったならほら、乾杯」
いつの間にか啓斗は缶ビールのプルトップを開けていた。私も急いでグラスを手に取る。
「一口だけちょうだい」
さっきまでは休肝日だなんて言っていたけれど、無性に飲みたい気分になってしまった。
「ヤケ酒?」
「ううん、景気づけ!」
ずいっとグラスを近づけると、啓斗は満足げに口の端を持ち上げた。
「そうこなくちゃな。浮気男のことは忘れて、楽しく飲もうぜ」
プルトップの小さな口から泡をまとった金色の液体がしゅわしゅわと音を立てながらグラスに注ぎこまれる。
一口って言ったのに少し多めに入れてくれたのは、。でも迎え酒という言葉もあるし、このままいただくことにする。「乾杯」と言い合ってお互いビールを煽った。
口の中を苦みが満たし、舌がぴりっと痺れる。日が高いうちから飲むお酒っていつもにも増して美味しい。
口を潤した後は総菜に箸を伸ばす。何から食べようか迷うくらい、どれもこれも好物ばかり。少しずつつまんでいるうちに自然と頬がほころんだ。
「やっぱり紗矢はそうやって笑ってる方がいいわ」
「え、私怒ってた?」
自覚はなかったけれど、怖い顔をしていたのだろうか。思わず自分の頬に手をやる。
「怒ってるっていうか、元気なかったかな」
「それはだって……啓斗だって彼女と別れてすぐは落ち込むでしょ?」
「どうだろうな」
周りの話を聞いて、どんなに円満に別れても恋が終わる瞬間は寂しいものだと思っていたけれど、啓斗の場合はそうでもないようだ。ドライなタイプなのかもしれない。
歴代彼女とはどうだったんだろうと考えを巡らせた時、はたと気づいた。
「啓斗の彼女の話って聞いたことないかも……?」
口に出してからもう一度記憶を遡ってみるけれど、やっぱり記憶にない。
大学時代、かなりモテていたのは確かだ。サークルの飲み会で啓斗の近くに座りたがる女の子はたくさんいたし、女子だけの場で彼女はいるかどうか話題に上がることも少なくなかった。
結構露骨に誘われていた場面を目撃したこともある。あの子とどうなった?と本人に聞いても「〇〇ちゃん? あー、誘われて飲みに行ったけど付き合うとかそういうんじゃない」とさらりとしたものだった。
当時はフェスやライブに行くのにハマっていたから恋愛よりも趣味なんだなと受け取っていたけれど、出会ってからの六年で一度も彼女の話を聞いたことがないというのはさすがに不自然だ。
いくら考えても結論が出ないことに焦れつつあるも、啓斗は焦らすようにゆっくりと缶ビールを口元に運ぶ。そうして一口二口と飲んだ後、どこか挑発的な眼差しを私に向けながら呟いた。
「紗矢には言ってないからな」
含みのある言い方だ。どうしてもネガティブな意味に受け取ってしまう。
とはいえショックを受ける資格が自分にないのもちゃんとわかっていた。プライベートな話を誰にするかは本人が決めるべきことだ。それでも悔しさがこみ上げる。
「……私のことは色々聞いてきたくせに」
自分のことは秘密にするくせに私の恋愛事情には首を突っ込んでくる。フェアじゃない。
「あれ、拗ねてる?」
「違う」
からかうような口ぶりで問われ、唇を曲げる。
私が不機嫌になったのを感じ取ったのか、啓斗がこちらに手を伸ばしてきた。頭に触れようとしていると直感し、とっさにその手を避ける。
「じゃあ何?」
空を切った手を引っ込めながら、啓斗が機嫌を取るように生ぬるい笑みを浮かべる。
「友達だと思ってたのに、私ってそんなに信用ないかなあ」
あくまで冗談の範疇に収まるように軽い口調で答えたはずが、啓斗の表情が見る間に曇っていく。
「人の気も知らないで」
「え……?」
急にテンションが急降下した理由がわからず戸惑う私の方へ、啓斗が両腕を伸ばしてきた。そのまま脇をすくい上げられ、いともたやすく体が持ち上がる。
浮遊感は一瞬のことで、気がつくと背後のベッドに背中を預けていた。膝下は床に落とした状態で天を仰いだ私を囲うように啓斗が両腕をついている。
つまり、ベッドに押し倒されていた。
状況を把握しても理解が及ばなくて、まばたきも忘れて静止する私の耳元へ、啓斗の声が落ちる。
「これで何で俺が紗矢に恋バナしないかわかった?」
「そんなの、わかるわけない……っ」
毅然と答えたかったのに、わずかに語尾が震えてしまう。
「別れた直後に会いに来た意味もか?」
「意味って……エアコンが壊れたから避難してきたんでしょ?」
そう答えると、啓斗が鼻で笑う。
「そんなの口実に決まってるだろ」
何となく、最初からわかっていた。他にいくらでも行く場所はあるだろうにわざわざうちを選んで、それも私の好物ばかりを持ってきてくれた。その行為に理由をつけるなら、やはり友達だからだと思う。
「私を元気づけに来た……?」
「本気でそれだけだと思ってるならお前の鈍さも相当だな」
「そんなこと言われても、わからないものはわからないよ」
「わからないんじゃなくて、わかろうとしてないだけだろ」
その言葉は断定的なのにどこか拗ねているみたいに聞こえた。
「何が言いたいの……?」
なるべく冷静に問いかけたのに、返ってきたのは舌打ちだった。
「自分で気づかなきゃ意味ねーんだよ。無知は罪って聞いたことないか?」
反論しようとした寸前で手首を取られ、シーツに押し付けられた。
「ちゃんと答えられるまでこのままだからな」
自由を奪われ、覚えのないことで糾弾される。理不尽極まりない状況だ。腹立たしいし、落ち着かないから早く離れて欲しい。
思いっきり抵抗したら逃げられるような気がする。押さえられていると言っても手首にはほとんど力がかかっていないからだ。
そうできないのは、さっきから啓斗がひどく切なげな目をしているせいだ。被害者はこちらの方なのに、まるで私が何か悪いことをしてしまったんじゃないかと錯覚させられる。
啓斗は本来は気のいい友人だ。行き違いがあるなら正したい。だから突破口を探してもう一度、深く思考を巡らせる。
無知は罪。大学の教授の教えだった。知らないことを恥じる必要はないが、知らないままでいいと開き直るのはいけないと言っていた。
先輩たちから楽に単位が取れると言われてサークルの一年生皆で履修した科目で気を抜いていた中、一番初めの講義の時に無知であることで失敗したり損をしたり、人を傷つけることがある。だから学びなさいと諭してくれた。
さっきまでの私はまさに無知の状態で、啓斗の言葉を理解することさえ拒絶していた。
それを踏まえて、啓斗が私に気づいてほしいことはなんだろう。
私に恋バナできない理由、ベッドに押し倒した理由。それとこの件を一歩も譲らないという強い意思。
そういえば啓斗が豹変したきっかけは、私が口にした「友達だと思っていた」という一言じゃなかっただろうか。
「なあ、まだ?」
もう少しで結論にたどり着くという時に声をかけられる。つられて顔を上げると、至近距離で啓斗と目線が重なった。
その瞬間、今まで点として存在していたいくつかの事実が繋がって、一つの仮説が導き出された。
__もしかして、啓斗は私のことが好きなのでは?
お盆にはこっちに戻って来るんじゃないかと期待して、よそ行きのワンピースやルームウェアを新調していた自分が滑稽で乾いた笑いが漏れる。
「馬鹿っていうか、見る目がないよな」
啓斗のことだから茶化したうえで笑い飛ばしてくれるんだろうって思っていたのに、返ってきたのは予想とは違って落ち着いたトーンの声だった。
どういう顔をしているんだろうと何の気なしに顔を上げると、強い視線に射すくめられる。
「ケジメもつけられない、人のせいにして楽な方に逃げる。そんなクソ野郎、早く忘れろよ」
いつになく乱暴な口調の啓斗に圧倒されながらも、胸のつかえが取れたような気分だった。元彼への辛辣な批判を聞いて、正直すっとした自分がいる。
ここ数日、自分が至らないせいで元彼の気持ちが離れてしまったのだと落ち込んでばかりいたけれど、もっと怒ってもいいのかもしれないと思わされた。
彼は大人だから仕方ないんだと鈍感なふりをして、目をつぶった。その気になればもっと早くに関係が終わっていることに気付けたはずなのだ。
私も悪い所はあった。それでも明確に別れてもいないのによその女になびくのは二股だし、誠実じゃない。
「……うん。そうだね。ほんとそう」
霧が晴れてぱっと道の向こうが見渡せたような晴れやかさで頷く。
「わかったならほら、乾杯」
いつの間にか啓斗は缶ビールのプルトップを開けていた。私も急いでグラスを手に取る。
「一口だけちょうだい」
さっきまでは休肝日だなんて言っていたけれど、無性に飲みたい気分になってしまった。
「ヤケ酒?」
「ううん、景気づけ!」
ずいっとグラスを近づけると、啓斗は満足げに口の端を持ち上げた。
「そうこなくちゃな。浮気男のことは忘れて、楽しく飲もうぜ」
プルトップの小さな口から泡をまとった金色の液体がしゅわしゅわと音を立てながらグラスに注ぎこまれる。
一口って言ったのに少し多めに入れてくれたのは、。でも迎え酒という言葉もあるし、このままいただくことにする。「乾杯」と言い合ってお互いビールを煽った。
口の中を苦みが満たし、舌がぴりっと痺れる。日が高いうちから飲むお酒っていつもにも増して美味しい。
口を潤した後は総菜に箸を伸ばす。何から食べようか迷うくらい、どれもこれも好物ばかり。少しずつつまんでいるうちに自然と頬がほころんだ。
「やっぱり紗矢はそうやって笑ってる方がいいわ」
「え、私怒ってた?」
自覚はなかったけれど、怖い顔をしていたのだろうか。思わず自分の頬に手をやる。
「怒ってるっていうか、元気なかったかな」
「それはだって……啓斗だって彼女と別れてすぐは落ち込むでしょ?」
「どうだろうな」
周りの話を聞いて、どんなに円満に別れても恋が終わる瞬間は寂しいものだと思っていたけれど、啓斗の場合はそうでもないようだ。ドライなタイプなのかもしれない。
歴代彼女とはどうだったんだろうと考えを巡らせた時、はたと気づいた。
「啓斗の彼女の話って聞いたことないかも……?」
口に出してからもう一度記憶を遡ってみるけれど、やっぱり記憶にない。
大学時代、かなりモテていたのは確かだ。サークルの飲み会で啓斗の近くに座りたがる女の子はたくさんいたし、女子だけの場で彼女はいるかどうか話題に上がることも少なくなかった。
結構露骨に誘われていた場面を目撃したこともある。あの子とどうなった?と本人に聞いても「〇〇ちゃん? あー、誘われて飲みに行ったけど付き合うとかそういうんじゃない」とさらりとしたものだった。
当時はフェスやライブに行くのにハマっていたから恋愛よりも趣味なんだなと受け取っていたけれど、出会ってからの六年で一度も彼女の話を聞いたことがないというのはさすがに不自然だ。
いくら考えても結論が出ないことに焦れつつあるも、啓斗は焦らすようにゆっくりと缶ビールを口元に運ぶ。そうして一口二口と飲んだ後、どこか挑発的な眼差しを私に向けながら呟いた。
「紗矢には言ってないからな」
含みのある言い方だ。どうしてもネガティブな意味に受け取ってしまう。
とはいえショックを受ける資格が自分にないのもちゃんとわかっていた。プライベートな話を誰にするかは本人が決めるべきことだ。それでも悔しさがこみ上げる。
「……私のことは色々聞いてきたくせに」
自分のことは秘密にするくせに私の恋愛事情には首を突っ込んでくる。フェアじゃない。
「あれ、拗ねてる?」
「違う」
からかうような口ぶりで問われ、唇を曲げる。
私が不機嫌になったのを感じ取ったのか、啓斗がこちらに手を伸ばしてきた。頭に触れようとしていると直感し、とっさにその手を避ける。
「じゃあ何?」
空を切った手を引っ込めながら、啓斗が機嫌を取るように生ぬるい笑みを浮かべる。
「友達だと思ってたのに、私ってそんなに信用ないかなあ」
あくまで冗談の範疇に収まるように軽い口調で答えたはずが、啓斗の表情が見る間に曇っていく。
「人の気も知らないで」
「え……?」
急にテンションが急降下した理由がわからず戸惑う私の方へ、啓斗が両腕を伸ばしてきた。そのまま脇をすくい上げられ、いともたやすく体が持ち上がる。
浮遊感は一瞬のことで、気がつくと背後のベッドに背中を預けていた。膝下は床に落とした状態で天を仰いだ私を囲うように啓斗が両腕をついている。
つまり、ベッドに押し倒されていた。
状況を把握しても理解が及ばなくて、まばたきも忘れて静止する私の耳元へ、啓斗の声が落ちる。
「これで何で俺が紗矢に恋バナしないかわかった?」
「そんなの、わかるわけない……っ」
毅然と答えたかったのに、わずかに語尾が震えてしまう。
「別れた直後に会いに来た意味もか?」
「意味って……エアコンが壊れたから避難してきたんでしょ?」
そう答えると、啓斗が鼻で笑う。
「そんなの口実に決まってるだろ」
何となく、最初からわかっていた。他にいくらでも行く場所はあるだろうにわざわざうちを選んで、それも私の好物ばかりを持ってきてくれた。その行為に理由をつけるなら、やはり友達だからだと思う。
「私を元気づけに来た……?」
「本気でそれだけだと思ってるならお前の鈍さも相当だな」
「そんなこと言われても、わからないものはわからないよ」
「わからないんじゃなくて、わかろうとしてないだけだろ」
その言葉は断定的なのにどこか拗ねているみたいに聞こえた。
「何が言いたいの……?」
なるべく冷静に問いかけたのに、返ってきたのは舌打ちだった。
「自分で気づかなきゃ意味ねーんだよ。無知は罪って聞いたことないか?」
反論しようとした寸前で手首を取られ、シーツに押し付けられた。
「ちゃんと答えられるまでこのままだからな」
自由を奪われ、覚えのないことで糾弾される。理不尽極まりない状況だ。腹立たしいし、落ち着かないから早く離れて欲しい。
思いっきり抵抗したら逃げられるような気がする。押さえられていると言っても手首にはほとんど力がかかっていないからだ。
そうできないのは、さっきから啓斗がひどく切なげな目をしているせいだ。被害者はこちらの方なのに、まるで私が何か悪いことをしてしまったんじゃないかと錯覚させられる。
啓斗は本来は気のいい友人だ。行き違いがあるなら正したい。だから突破口を探してもう一度、深く思考を巡らせる。
無知は罪。大学の教授の教えだった。知らないことを恥じる必要はないが、知らないままでいいと開き直るのはいけないと言っていた。
先輩たちから楽に単位が取れると言われてサークルの一年生皆で履修した科目で気を抜いていた中、一番初めの講義の時に無知であることで失敗したり損をしたり、人を傷つけることがある。だから学びなさいと諭してくれた。
さっきまでの私はまさに無知の状態で、啓斗の言葉を理解することさえ拒絶していた。
それを踏まえて、啓斗が私に気づいてほしいことはなんだろう。
私に恋バナできない理由、ベッドに押し倒した理由。それとこの件を一歩も譲らないという強い意思。
そういえば啓斗が豹変したきっかけは、私が口にした「友達だと思っていた」という一言じゃなかっただろうか。
「なあ、まだ?」
もう少しで結論にたどり着くという時に声をかけられる。つられて顔を上げると、至近距離で啓斗と目線が重なった。
その瞬間、今まで点として存在していたいくつかの事実が繋がって、一つの仮説が導き出された。
__もしかして、啓斗は私のことが好きなのでは?
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