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1.汗の匂いが嫌じゃない相手とは相性いいらしい
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朝のニュースで今年一番の夏日になると言っていた八月初めの土曜日。仕事が休みなのをいいことにエアコンで心地よく冷やされた部屋で二度寝して、気が付いたら窓の外から差し込む光が眩しくなっていた。
寝転んだまま枕元で充電していたスマホを取り上げる。通知が一件。
『エアコン壊れた』
これ以上ないほど簡潔なメッセージは、大学に通っていた時期にほんの少しだけ所属していたサークルで出会った男友達の啓斗からだった。
「あらまあ」
気の毒に。どこか他人事な感想を抱きながらファイト、という吹き出しと共に小さなうさぎが跳ねるスタンプを返す。すると即座にスマホが振動した。
『今から紗矢んちいくわ』
『なんで?』
ただの軽口だと思うけれど、啓斗の誘いは唐突なことが珍しくない。今から飲も、とか営業で近くに来たから夕飯一緒に食べよう、とか。
呼び出しに応じると奢ってくれるので都合のつく八割くらいで了承してきたけれど、休日の朝に自宅に突撃なんてさすがに冗談なはずだ。
前日の深酒の名残りで頭がぼんやりするし、きっと顔もむくんでいる。だるくて人と会うような気分じゃない。
冗談であってくれと願いながらシーツに後頭部を着地させた途端、軽快な着信音が鳴った。
「……もしもし?」
「俺が熱中症なってもいいの」
反射的に応答すると、恨みがましげな声が耳に入る。
「私も予定あるし、困るよ。涼むなら他のとこにして」
「予定ないでしょ」
「……どうして」
「こんな時間まで寝てるし、この前別れたばかりだから」
確かについ先日、四年近く付き合った彼氏から別れを告げられたばかりだけど、その話は啓斗にはしていないはずなのに。
「誰から聞いたの」
「風の噂」
共通の友人は何人かいる。つい昨晩、傷心の私を慰める会を開いてくれた大学の同級生もそうだ。きっとそこから漏れたに違いない。
「てわけで、あと十五分で着くから」
「えっ早い、困る!」
「すっぴんの紗矢もかわいいよ」
「……すっぴん見せたことない」
「そうだっけ? じゃあ三十分後ならいい?」
「一時間にして」
「ありがと、愛してるよ」
ペースを乱されたまま、いつの間にやら家に上げることは決定事項になってしまっている。
啓斗は営業社員だけあって、頭の回転が速いし口も回る。二日酔いな上、寝起きの状態では太刀打ちできない。
ため息をつきながらベッドから起き上がり、洗面所に向かうことに決めた。
大急ぎでシャワーを浴びて、髪を乾かすのもそこそこに部屋中に脱ぎ散らかした昨日の服を洗濯機の中に放り込む。
室内は昨夜帰宅した時、明日の自分に任せたと丸投げしたまま荒れ放題だ。
気心知れた相手とはいえ、さすがに足の踏み場もないくらい散らかっているのは見られたくない。
ワンルームなのでとにかくスペースが足りなくて、色んな所にはみ出した持ち物を目につかない場所に押し込んで隠す。
朝ごはんも食べずに片付けと軽く掃除、最後に前日の朝からキッチンに置いたままのヨーグルトのパッケージ、それに菓子パンのビニールをゴミ箱に捨てた。
約束の一時間を二分くらい過ぎた頃合いだ。湿った毛先を肩に垂らしたままもう一度室内を検めてから玄関へ向かう。
玄関で待ち構えているとベルが鳴る。
「お待たせしました、ウーバーです」
ドアを開けると啓斗がつりがちな目を細め、人懐こい笑みを浮かべていた。
「はいはい、いいから入って」
「お邪魔しまーす。これ、差し入れ。こっちの小さいのはケーキだから斜めにしないで」
「え、ほんとに何か持ってきてくれたの? ありがと」
突然の来訪に文句の一つでも言ってやろうと思ったのに先手を打たれてしまった。
全部で三つ、渡された袋はなかなか重い。
「あっつかったぁ。外、まじでヤバい」
改めて見ると、啓斗の首筋には玉の汗が浮いている。
「わあ……とりあえず入って」
部屋の奥に案内すると、啓斗が大きく息をつく。
「おー、涼しい。生き返るわ」
いつもは二十七度設定の室温も来客があるからと二十五度まで下げていた。
啓斗がオーバーサイズの白Tシャツの裾を上下させるので、うっすらと縦筋の浮いた腹部が惜しげもなくさらされる。
贅肉のひとかけらもついていなさそうな腹部に羨望の眼差しを送っていると、はためく裾の動きが止まる。
「……えっち」
からかい交じりになじられて、かっと頬が火照る。
「ち、ちがっ」
断じていかがわしい目的で見ていたのではない。濡れ衣である。なのに啓斗は「照れるなよ」などと言って肩を組んでくる。
ケーキを持たされているから振りほどくこともできない。距離が近いのはいつものことだけれど、時と場合を考えてほしい。
「もうっ暑苦しい! 汗臭い!」
「ウソ、俺、臭いの?」
啓斗はショックを受けたように体を離し、Tシャツの首元に鼻を突っ込んだ。
「……さあ?」
実際に臭うわけではないけれど、ずっと振り回されるのも癪で濁してみる。
「え、どっち? 臭いなら臭いではっきり言ってほしいんだけど」
必死な様子にしてやったりと唇の端が上がる。とはいえ長々と引っ張るような話題でもない。
「たぶん平気。ちょっとは汗っぽいかもだけど、別に不快じゃないから」
そう答えると、啓斗はほっとしたように肩を脱力させた。
「焦っただろ」
「仕掛けてきたのはそっちでしょ」
悪びれずに胸をそらし、踵を返す。そのまま部屋の中央に向かって歩き出そうとした時、こめかみあたりですん、と鼻を鳴らされた。
「……紗矢はいい匂いするな」
嗅がれた!? ぎょっとして体を引くと、勢いあまって肩口を壁に強打してしまった。指先までがじんと痺れる。
「っ、変態」
痛みをこらえながら睨みつけると、啓斗は目を丸くした。
「そこまで驚くとは思わなかった。ごめんな」
ぶつけた肩を包み込むようにさすられて、ほんの少しだけ痛みが和らいだような気がした。
「……二度としないでよね」
「はーい、善処します」
女子の匂いを嗅ぐなんて犯罪行為だ。シャワーを浴びたばかりだとしても嫌すぎる。
手を洗わせるために洗面所に案内すると、啓斗にシャワーを浴びたいと言い出した。
「着替えないよ」
「持ってきてるからお構いなく。バスタオルも」
下唇をきゅっと吸い込む。
背負ったリュックがまあまあ大きいのはそのせいか。用意周到である。
バスルームはさっき使ったままだ。入らせるのは抵抗があるけれど、ここでごねると何か隠してるんじゃないかと付け入る隙を与えることになりかねない。
熟慮の上、ため息と共に了承を伝えた。
「ちょっと待ってて」
バスルームの中をさっと掃除してから啓斗を招く。脱衣籠なんて気の利いたものはないから洗濯機の上に荷物を置いてもらった。
「棚と洗濯機は開けないでよね」
言うまでもないことではあるけれど、さっきのデリカシーのない言動があるから念のため釘を刺しておく。
回しそびれた洗濯機の中には昨日の服と下着が入っている。
「あー、パンツ? 大丈夫、俺ガワにはあんまり興味ないから」
「だからさあ……!」
せっかく濁したのに台無しだ。気色ばんで拳を振り上げると、啓斗が首を縮める。
「はいはい、余計な所は触りません。そっちこそ覗くなよ?」
「誰が覗くか」
「さっきは俺の体、舐めるように見てたくせに?」
相手にするのも馬鹿らしくて、無言でスライドドアを閉める。
「そういえばさあ、汗の匂いが嫌じゃない相手って相性いいんだって」
締まりゆく寸前のドアの隙間からそんな言葉が投げかけられた。
何が言いたいのかわからない。聞き流しながら隙間なくドアを閉じ切った。
寝転んだまま枕元で充電していたスマホを取り上げる。通知が一件。
『エアコン壊れた』
これ以上ないほど簡潔なメッセージは、大学に通っていた時期にほんの少しだけ所属していたサークルで出会った男友達の啓斗からだった。
「あらまあ」
気の毒に。どこか他人事な感想を抱きながらファイト、という吹き出しと共に小さなうさぎが跳ねるスタンプを返す。すると即座にスマホが振動した。
『今から紗矢んちいくわ』
『なんで?』
ただの軽口だと思うけれど、啓斗の誘いは唐突なことが珍しくない。今から飲も、とか営業で近くに来たから夕飯一緒に食べよう、とか。
呼び出しに応じると奢ってくれるので都合のつく八割くらいで了承してきたけれど、休日の朝に自宅に突撃なんてさすがに冗談なはずだ。
前日の深酒の名残りで頭がぼんやりするし、きっと顔もむくんでいる。だるくて人と会うような気分じゃない。
冗談であってくれと願いながらシーツに後頭部を着地させた途端、軽快な着信音が鳴った。
「……もしもし?」
「俺が熱中症なってもいいの」
反射的に応答すると、恨みがましげな声が耳に入る。
「私も予定あるし、困るよ。涼むなら他のとこにして」
「予定ないでしょ」
「……どうして」
「こんな時間まで寝てるし、この前別れたばかりだから」
確かについ先日、四年近く付き合った彼氏から別れを告げられたばかりだけど、その話は啓斗にはしていないはずなのに。
「誰から聞いたの」
「風の噂」
共通の友人は何人かいる。つい昨晩、傷心の私を慰める会を開いてくれた大学の同級生もそうだ。きっとそこから漏れたに違いない。
「てわけで、あと十五分で着くから」
「えっ早い、困る!」
「すっぴんの紗矢もかわいいよ」
「……すっぴん見せたことない」
「そうだっけ? じゃあ三十分後ならいい?」
「一時間にして」
「ありがと、愛してるよ」
ペースを乱されたまま、いつの間にやら家に上げることは決定事項になってしまっている。
啓斗は営業社員だけあって、頭の回転が速いし口も回る。二日酔いな上、寝起きの状態では太刀打ちできない。
ため息をつきながらベッドから起き上がり、洗面所に向かうことに決めた。
大急ぎでシャワーを浴びて、髪を乾かすのもそこそこに部屋中に脱ぎ散らかした昨日の服を洗濯機の中に放り込む。
室内は昨夜帰宅した時、明日の自分に任せたと丸投げしたまま荒れ放題だ。
気心知れた相手とはいえ、さすがに足の踏み場もないくらい散らかっているのは見られたくない。
ワンルームなのでとにかくスペースが足りなくて、色んな所にはみ出した持ち物を目につかない場所に押し込んで隠す。
朝ごはんも食べずに片付けと軽く掃除、最後に前日の朝からキッチンに置いたままのヨーグルトのパッケージ、それに菓子パンのビニールをゴミ箱に捨てた。
約束の一時間を二分くらい過ぎた頃合いだ。湿った毛先を肩に垂らしたままもう一度室内を検めてから玄関へ向かう。
玄関で待ち構えているとベルが鳴る。
「お待たせしました、ウーバーです」
ドアを開けると啓斗がつりがちな目を細め、人懐こい笑みを浮かべていた。
「はいはい、いいから入って」
「お邪魔しまーす。これ、差し入れ。こっちの小さいのはケーキだから斜めにしないで」
「え、ほんとに何か持ってきてくれたの? ありがと」
突然の来訪に文句の一つでも言ってやろうと思ったのに先手を打たれてしまった。
全部で三つ、渡された袋はなかなか重い。
「あっつかったぁ。外、まじでヤバい」
改めて見ると、啓斗の首筋には玉の汗が浮いている。
「わあ……とりあえず入って」
部屋の奥に案内すると、啓斗が大きく息をつく。
「おー、涼しい。生き返るわ」
いつもは二十七度設定の室温も来客があるからと二十五度まで下げていた。
啓斗がオーバーサイズの白Tシャツの裾を上下させるので、うっすらと縦筋の浮いた腹部が惜しげもなくさらされる。
贅肉のひとかけらもついていなさそうな腹部に羨望の眼差しを送っていると、はためく裾の動きが止まる。
「……えっち」
からかい交じりになじられて、かっと頬が火照る。
「ち、ちがっ」
断じていかがわしい目的で見ていたのではない。濡れ衣である。なのに啓斗は「照れるなよ」などと言って肩を組んでくる。
ケーキを持たされているから振りほどくこともできない。距離が近いのはいつものことだけれど、時と場合を考えてほしい。
「もうっ暑苦しい! 汗臭い!」
「ウソ、俺、臭いの?」
啓斗はショックを受けたように体を離し、Tシャツの首元に鼻を突っ込んだ。
「……さあ?」
実際に臭うわけではないけれど、ずっと振り回されるのも癪で濁してみる。
「え、どっち? 臭いなら臭いではっきり言ってほしいんだけど」
必死な様子にしてやったりと唇の端が上がる。とはいえ長々と引っ張るような話題でもない。
「たぶん平気。ちょっとは汗っぽいかもだけど、別に不快じゃないから」
そう答えると、啓斗はほっとしたように肩を脱力させた。
「焦っただろ」
「仕掛けてきたのはそっちでしょ」
悪びれずに胸をそらし、踵を返す。そのまま部屋の中央に向かって歩き出そうとした時、こめかみあたりですん、と鼻を鳴らされた。
「……紗矢はいい匂いするな」
嗅がれた!? ぎょっとして体を引くと、勢いあまって肩口を壁に強打してしまった。指先までがじんと痺れる。
「っ、変態」
痛みをこらえながら睨みつけると、啓斗は目を丸くした。
「そこまで驚くとは思わなかった。ごめんな」
ぶつけた肩を包み込むようにさすられて、ほんの少しだけ痛みが和らいだような気がした。
「……二度としないでよね」
「はーい、善処します」
女子の匂いを嗅ぐなんて犯罪行為だ。シャワーを浴びたばかりだとしても嫌すぎる。
手を洗わせるために洗面所に案内すると、啓斗にシャワーを浴びたいと言い出した。
「着替えないよ」
「持ってきてるからお構いなく。バスタオルも」
下唇をきゅっと吸い込む。
背負ったリュックがまあまあ大きいのはそのせいか。用意周到である。
バスルームはさっき使ったままだ。入らせるのは抵抗があるけれど、ここでごねると何か隠してるんじゃないかと付け入る隙を与えることになりかねない。
熟慮の上、ため息と共に了承を伝えた。
「ちょっと待ってて」
バスルームの中をさっと掃除してから啓斗を招く。脱衣籠なんて気の利いたものはないから洗濯機の上に荷物を置いてもらった。
「棚と洗濯機は開けないでよね」
言うまでもないことではあるけれど、さっきのデリカシーのない言動があるから念のため釘を刺しておく。
回しそびれた洗濯機の中には昨日の服と下着が入っている。
「あー、パンツ? 大丈夫、俺ガワにはあんまり興味ないから」
「だからさあ……!」
せっかく濁したのに台無しだ。気色ばんで拳を振り上げると、啓斗が首を縮める。
「はいはい、余計な所は触りません。そっちこそ覗くなよ?」
「誰が覗くか」
「さっきは俺の体、舐めるように見てたくせに?」
相手にするのも馬鹿らしくて、無言でスライドドアを閉める。
「そういえばさあ、汗の匂いが嫌じゃない相手って相性いいんだって」
締まりゆく寸前のドアの隙間からそんな言葉が投げかけられた。
何が言いたいのかわからない。聞き流しながら隙間なくドアを閉じ切った。
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