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未来が始まっていく瞬間に涙する

第5話

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「早く灯里あかりに触れたい」


 熱い瞳を向けられて、自然と体温が上がるのを感じる。

 人を好きになるって、こんな感じ。

 人を愛するって、こういうこと。

 梓那くんは私を急かせることなく、ゆっくりとした速度で私と歩んでくれている。


「でも、まだ頑張りたいから」

「……私も頑張ります」

「あ、でも」


 私を置いて行かないように、梓那しいなくんは常に私のことを考えてくれる。


「自分の時間を大切にしすぎた結果、別れるとか絶対にないから」


 心臓に触れていた手を握られ、手の甲に口づけが落とされる。

 まるで物語のワンシーンのような美しさに見惚れてしまいそうになるけれど、物語のままで終わらせたくないと私は記憶に命じる。

 これは現実だから、記憶に残してって。

 私はずっと、梓那くんのことを覚えていたいですって。


「楽譜探し、再開しよっか」


 音楽に対してあんなに夢中になった時間を、私は思い出せなくなっていた。

 もちろん経験してきたことをすべて忘れたわけではなく、夢中だった時間を少しずつ忘れ始めている。

 だからなのかもしれない。

 あのときの気持ちを取り返したい。

 大好きな、大好きな世界を取り戻しに行きたい。

 そんな願いを込めて、初めましての部屋を探索する。


「なんていうか……」

「ん?」

「生きることができるって、素晴らしいことなんですね……」

「梓那」

「ごめんなさい、泣くつもりはなくて……」


 不思議な人生を歩んでいるからこそ、ときどき不安になる。

 突然、また時計の針が巻き戻って、前の人生を歩むことになってしまうんじゃないかって。

 突然、時計の針の進みが速くなりすぎて、自分たちの意思とは関係ないところで人生が変わってしまうんじゃないかって。


「ほんの少しだけ、甘えさせてください……」

「うん」


 私が生きてきた世界に、梓那くんが存在する。

 私が生きている世界にも、梓那くんが存在する。

 梓那くんの存在を確かめるように、梓那くんの熱を感じたくて、私は彼の身体を抱きしめ返す。


「こんな甘えなら、大歓迎」

「ありがとうございます……」


 ここにいたい。

 ずっと、ここで、大切な人と生きていきたい。


「楽譜探し……進みませんね……」

「またご両親に挨拶に来ることになったら、俺の心臓がいくつあっても足りないかも」

「早く泣き止みます……」

「いいよ、ゆっくりで」


 どういう生き方をしたらいいですかと尋ねて、誰かが正解を与えてくれるわけでもない。

 だから、私たちは考える。

 自分と、自分の大切な人の幸せが、どういったものなのかを必死に考える。


「灯里の気持ち、俺にも共有させて」

 一人だけ、妄想力が激しくなくて良かったと思う。

 同じ世界で一緒に生きていきたいと願った人が、河原梓那くんで本当に良かったと思う。

 思考がまるっきり同じなんてことはあり得ないけれど、共有できるものがあるだけで心強い。

 梓那くんが隣にいてくれることで、少しずつ自分が強くなっていくのを感じる。
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