蒼の箱庭

葎月壱人

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第一章

転落

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落下していく時に見えた空は清々しい位に澄んだ青空。
自分の身体がふんわり浮いた感覚は一瞬で、すぐに耳を劈くつんざ風の音と、強い力に引き寄せられる落下感。

“3階から落ちても死なない”

真白は漠然とそんな事を思っていた。
昔、本で読んだ事がある。
死ぬ確率が高くなるのは4階からだって。
勿論、打ちどころが悪くなければの話だがピシッと次々肌に当たる無数の枝木に全てを賭けていた。
木がクッションになって落下の衝撃が和らげばそれでいい。
地面までの時間が、試験開始の合図前みたいに長く感じられる。
全てを出し切れるかな?出来るかな。やるだけの事はやったのに安心出来ず自分を信じられない、あの不安でドキドキした、たまらない瞬間。

“お願い、死にたくない!!”

藁にも縋る思いだった。
衝撃に耐えるべく目を閉じ歯を食いしばりながら出来るだけ身体を丸める。
衝撃は、すぐに来た。
鈍い音と何か固めのクッションに背中からぶつかり地面を転がる。
全てを受け止め切った真白は地面に伏したまま、暫く身体を襲っていた落下感と衝撃に動けなかった。
節々の痛みと腕に無数のかすり傷くらいだろうか?今のところ骨折を思わせる痛みはなく、大怪我の部類はないみたいだと判断して安堵する。

「やっ、た。生きてる」

ブルルッ……

突然、口を震わす音に真白は心臓が跳ねるのと同時に顔を上げた。

「えっ」

真白のすぐ近くに横たわる白い馬に全身の血の気がさぁっと引いていく。
学園の離れにある湖畔で会った、あの馬だった。

「……私……」

地面に衝突したと思った時に、何か固めの物に当たったのを思い出す。
確かめようと這う様に近づいていき馬の首筋に腕を回して抱きついた。
温かい体温と少し早い呼吸音に涙が溢れる。

「ごめんなさい、ごめんね、痛かったよね……どうしよう」

泣きじゃくる真白を白い馬は鼻先で押しやった。
それからゆっくりと立ち上がり、前脚を鳴らすと、その場を一周してみせる。
まるで“大丈夫”と言わんばかりの動作に、真白は涙を拭いて立ち上がった。

「そっか。ごめんじゃなくて、ありがとうだね。本当に、ありがとう」

真白が深々と頭を下げると、その後頭部を甘噛みされる。
その時、遠くから男達の声が聞こえてきた。

「探せ!散れ!」

真白は身体を強張らせながらもすぐに追っ手だと理解した。
逃げなきゃいけない。
この場に止まれば、この子を巻き込んでしまう。

「ごめんね、私……行かなきゃ!本当、ありがとう!!」

最後に馬の頬に軽く口づけする。
それから男達とは反対の茂みに向かって走り出した。
走り去る真白を追い掛けようと馬が軽く脚払いしているすぐ側の茂みから、突然ピンク色のおさげ頭の姫椿が飛び出し馬の胴体に体当たりしながらしがみついた。

「みーつーけーたー!!!」

怨念がましい声をあげる姫椿を全力で振り払うと、呆気なく剥がれ落ちていった。
受け身すら出来ず地味に尻餅をついた姫椿が痛みに顔を顰めると、激しくいななく馬と正面から向き合う形になり、その零れ落ちそうな瞳が恐怖に染まっているのを見逃さなかった。

「“使役”」

ゾワッと地面から真っ赤な鎖が無数に伸びて馬を縛りつける。
抵抗を止め、全身を震わせる馬の前で勝ち誇った格好で姫椿は話始めた。

「あんた湖畔で私に気づいた途端、逃げたでしょ!?私っ!根に持つタイプだから!!」

混乱して鼻息の荒い馬にズカズカ近づいて、臆する事なく顔を両手で挟むと怯える瞳を覗き込む。

「いい?私の名前は姫椿よ。あんた勘違いしてる。白椿は双子の片割れよ?私じゃない」

納得いかないのか姫椿の手を振り払おうとした馬の身体を、容赦なく赤い鎖が締め上げた。

「聞いて」

グッと力を込めて、言い聞かせる。

「見て、しっかり、理解して」

馬が拒絶しているのは明白だった。
“使役”がなかったら危なかったかもしれないと思いながら、姫椿は持ってきたハサミを使って耳のすぐ下辺りに狙いを定め、おさげを切り落とした。
パラパラとピンク色の髪が落ちて、軽くなった頭を振る。

「これでどう?」

二度と間違えるなと暗に命令する様に見せつけると、ようやく観念したのか馬は静かに頭を前に下げた。

「……よし。満足」

納得のいく態度に一人で頷いてた、その時だった。

「ーーーーー」

確かに聞こえた声に振り返るが、視線の先には森が広がっているだけで人の気配はない。
空耳か?とも思ったが、姫椿はどこへともなく呼びかけた。

「綾瀬?」

返事はない。
やっぱり空耳だと結論づけて改めて大人しくなった馬を振り払ると、そこに馬の姿はなかった。

「……えぇー」

面倒事だけが増えた気だけがして、姫椿は深い溜息を漏らした。







「いたぞ!こっちだ!!」

脇腹が痛くなっても走り続けなきゃいけない状況なんて、持久走だけだと思っていたから自分のスタミナの無さに愕然としてしまう。
もっとちゃんとやっておけばよかったなんて、自分が身をもって体験してからじゃないと後悔に気づかない。
上がる息が苦しそうに空気を求めて呼吸も乱れ、常に身体が怠くて重い。
背後に迫る追っ手が怖くて足を止められない。
でも苦しい……走りながらずっと逡巡する思考と戦い、なんとか自分をなだめながら走ってはいるが、もうそろそろ本当に何処かで足を取られて転んだりして止まってもいいかもしれない、諦めてもいいかもと甘い考えが過ぎる。
けれどそう考えれば考える程、絶対に足を取られないように意識して走ってしまう矛盾から抜け出せなくて心も身体も辛かった。

「はぁっ、はっ」

悶々と思考を巡らせていると、いきなり強い力で肩を捕まれ地面に突き飛ばされた。 
受け身も出来ず無様に倒れ、顔に擦れる土の匂いと肌の痛さに涙が滲む。

「……ちょこまかと粋のいいお嬢さんだ」

羽根をもがれた虫みたいに必死にもがき起き上がろうとしても髪の毛を無造作に鷲掴みにされ、気力を折るには十分な威力で再度地面に押さえつけられた。

「ぐぁっ、ぅ」

逃げない様にと知らない男に馬乗りにされ状況はどんどん不利になっていった。

「退いて!」
「うるせぇ!!」

布団叩きを思わせる大きなスイングで頬を殴打され、衝撃で視界がチカチカ光った。
頬が燃える様に熱くて涙が出る。
男は、真白の顎を掴むと恐怖に歪む表情を左右にゆっくりと動かし角度を変えて反応を楽しみながら舌なめずりした。

「なかなかの上玉だな。味見したら怒られるかな」

下品に笑いながら男がズボンのベルトに手を掛けたのが見え、真白は全身の血が冷えていくのを感じた。
ガタガタ震える身体を無理矢理動かして抵抗するが、男はビクともしない。
こんなに抗っているのに、力を出せば出す程それ以上の力で押さえつけられ男と女の力の差を身を持って知り絶望しか残らない。

「大人しくしてろ!」

男の怒鳴り声と共に再度、頬を殴られた。
口の中を切ったのか鉄の味が広がる。
両手を頭の上で一纏ひとまとめにされ男の荒い息遣いが顔を撫でるように近くで感じられたと思ったら犬猫の様にザラついた舌で舐め上げられた。
その気持ち悪さに声すら出せず、ただひたすらゾッとした。

「仲間が来る前に済ませるからよぉ」

男の発する言葉は、死刑宣告の様だった。
震える真白の胸元を強引に引きちぎる。
手作りの制服が布きれの様にビリビリと裂けていく音が抵抗する気力を削いでいく。
また殴られるかもしれない、それが何より怖かった。
急に大人しくなった真白に気分を良くした男は白のビスチェに納まっている程よい大きさの膨らみに手を置きながら勝ち誇った下品な笑い声を上げた。

その時だった。

男の顔が横からの強い力に一瞬で真白の視界から消えた。
男が蹴られたのだと理解が追いつく頃には真白の上から重さも消え、そっと上半身を起こされる。
無惨に破かれ下着姿の真白の肩に掛けられた黒い上着は、一回り大きくて温かい。
ちらっと見えた横顔に真白は驚き安堵から涙で視界がぼやけた。
真白の視線に気づいたのか微笑まれ、それだけで急に恐怖から開放された安心感と、知っている人の温かさに胸が一杯になって涙が頬を伝う。
お礼とか、何か話たかったけれど今は声すら出ない。
子供みたいにしゃくりあげ声を出して泣く真白を気遣う様に頭を優しく撫でる手に答えたくて、震えが止まらない手で少しだけ掴む事に成功した。

「……いってぇ。ちくしょう、誰だてめぇ!!」

男が自分を蹴り飛ばした相手を見た時、その見目麗しい姿に息を飲んだ。
風に揺れる金色の髪は日の光を受けて更に輝き、髪と同じ色の瞳に引き寄せられて目が離せない。

「お前が知る必要性を感じないな」

辛辣な言葉に男の顔が怒りで赤く染まる。
飄々とした態度、スラリと伸びた身長、白のブラウスを緩く着崩した格好でも引き締まった体格の良さが分かる青年の名前を真白は思い出していた。

「き、きら……?」

弱々しい呼びかけに気づいた綺羅は、優しい笑みを返してくれた。
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