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Night
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夜。
濃い闇が昼間の喧騒を覆い隠し人々に深い眠りを与え、街が沈黙する時間。
そんな暗闇で動く生き物の中に夜を生業としている者たちがいた。
息を潜める様に彼等が集うのは秘密の扉を幾つも抜け地下に建設された巨大施設。
そこでは夜な夜な様々な物が非合法で売買されている。
通常であれば表に出回る事のない貴重な絵画、彫刻、人間、動物など種類は問わない。招待制の“オークション”には世界中からコレクターが集い、暇と金を持て余した貴族の娯楽としても密かに人気がある。
今宵も半円のステージの周りを囲む様に並ぶ観客席は満席、異様な熱気で満ちていた。
「おっ」
時にどよめき、歓声を上げる忙しない会場を最上階に設けられた金持ち専用の個室から見下ろす者が二人。
一人は規則に反しパーカーとジーパン姿というラフな格好で、もう一人は黒の正装を着崩した、なんともガラの悪い青年達だ。
ルキはタブレットに届いたメールに視線を落としたまま、目深に被ったニット帽を掻きながら文面を読み上げる。
「“林檎の国の雪乃”即買い、だと」
聞いているかの確認も兼ねて隣でオペラグラスを覗いているクルスの腕を肘で小突くが相手からの反応はない。
さみしい位の無反応はいつもの事なのでさして気にせず、独り言の様に話を続けた。
「今日は収穫なさそうだなー。お腹減ったよー」
呑気な言葉を聞き流し、クルスはステージ上で繰り広げられている少女の落札合戦を眺めていた。
“その眼を見たら最後、魂を引き抜かれ息絶える死神の瞳とも言われる呪いを持つ少女、ナンバー39”
司会者が今回の目玉商品と言わんばかりに捲し立て喋り続ける中、渦中の少女はスポットライトの下、直立不動で落札の鐘が鳴るのを待っている。
骨ばった身体は色気も生気もなく、垂れる乳房も老婆のそれと変わりない。
拷問か折檻か、夥おびただしい数のミミズ腫れが全身を這うように刻まれ長年買い手がついてない事を、その逸し纏わぬ裸体が悲痛に物語っていた。
先程まで出品されていた少女らとは異なり、恥じらうことも泣き叫び発狂する事もないこの少女。
魂を引き抜く瞳の威力を強調したいのか、頭部から首元まで隙間なく巻かれた薄汚い布は、生きたミイラを彷彿とさせ会場を異様な興奮と熱気で満たす。
「ではここで一つ、デモンストレーションと参りましょう!皆様、私の言葉が嘘偽りだと思うならばどうぞそのまま、ご自分の目で……いや、命をかけて確かめてみて下さい。命が惜しい方は、今から目を閉じて、私が声をかけるまで決して瞳を開けませんように」
司会者はそう言い切った後、少女の顔に巻かれた包帯を解き始めた。
ざわつく場内に視線を動かせば、皆、半信半疑といったところだろうか。
クルスはオペラグラスを外すと、隣で黙々とゲームをしているルキに声をかけた。
「ルキ」
「あーん?」
「疲れただろう、少し休むといい。寝ろ」
「え?何、えっ!?ほんと何っ!?ちょっ!!まっ!!!………ぐぇぇっ」
説明が面倒で、取り急ぎ手刀で黙らせた。
そして何事も無かった様に再びオペラグラスで例の少女を確認する。
視界に広がる光景に思わず息を呑んだ。
全て解かれた包帯は足元でとぐろを巻き、顔を覗かせた少女の顔は身体よりも悲惨だった。
肩口で切られた不揃いな金髪は殴られたまま長く包帯で巻かれていたせいか、血液が凝固したまま頭の形で固まり、赤錆のヘルメットを被っている様に見える。
頬骨が浮き出る程、痩せこけ、一際目を引いたのは瞼が開かないように幾重にも縫われた痛々しい跡のせいで瞼は暖簾の様に細かく裂かれ瞳を覆う機能を果たしていない。
涙の跡の様に流れた血液は頬にそのままこびりつき、異様な模様と化していた。
これはまずい、本能的に悟った時にはもう遅かった。
◇
ステージ上では興奮気味に司会者が少女に命令していた。
「やれ」
男の命令に胸の奥がドス黒い気持ちに飲まれていくのを感じる。
あぁ、またか。
諦めにも似た絶望に包まれながら奥底に眠る彼女を呼び起こす。
彼女の力を借りたい時は、あの日の出来事を思い出すのが条件だ。
あんなに辛くて痛くて悲しかった出来事も何度も何度も巻き戻しては繰り返す作業をしている内に、さして何も感じなくなった。
ホール全体が息を呑む静けさに包まれていくのを肌で感じながら、意識を手放し全てを彼女に委ねる。
あの日、私は光を失った。
最後に見た光景は、果物にナイフを何度も突き刺す様に私の両目を躊躇なく刺してゆく無表情な母の顔だった。
視界が鮮血でゆっくりと覆われていくのは、まるで劇の幕が降りたみたい。
次に強い力で頭を床に叩きつけられ、襲ってきたのは瞼と目の下の肉を縫いつける糸の動く感触。
耳に残る音は、自分の悲鳴と一通りの作業を終えた母の狂気じみた、感極まる嘲笑だった。
鼻にかかる、ねっとりとした生暖かい息と残酷な言葉が今も生々しく頭に蘇る度に憎しみを濃くしてゆく。
“あんたは、私の本当の娘に用意した贄よ”
優しかった時の母を思い出そうとすると、靄がかかったように思い出せなくなったのはいつからだろう。
“おかあさん”
潰れて消えゆく視界で最後に見た母の満足そうな微笑み。
いつか、あの顔をめちゃくちゃに潰してやる。
そう考えただけで私も笑顔になれるんだ。
胸の中でジクジク燃える復讐心だけを支えに生きてきた。
だから、何をされようとも怖くない。耐えられる。
だって私には夢があるから。
だから誰か、あの女に復讐する機会を……私に下さい。
再び意識が戻った時には、バタバタと重い物が何個か倒れる音から一拍置いた後、会場全体は阿鼻叫喚と化し、地響きと共に出入り口に殺到する人々の動きが感じ取れた。
あの得意気に命令していた男の声もしない。姿も……ない。
もしかして、この足元に倒れているのがソレだろうか。
なら、一体この場を誰が納めるのか。
少女は他人事の様に只この時間が終わるのを待ち続けるのだった。
◇
「……はっ?!ヤバイ、俺様ガチ寝してた!?今、何時!?ももももう帰ろっか、クルス」
席を立つルキとクルスが自席に置かれた赤いボタンに手を伸ばし押したのはほぼ同時だった。
スポットライトがクルスとルキのいる席を照らすと、会場には更なる衝撃が走った。
最上階は全てガラス張りになっているので、下の客席からは二人の姿を伺うことはできないが最上階にいる者は絶対的な金持ちであることを周囲は知っている。
「クク、………クル………クルス?」
ルキは困惑し眉間に皺を寄せ、わなわなと唇を震わせたまま言葉なく金魚の様にパクパクと口を動かしたまま相方を見た。
お前、何考えてんの?
そう顔に書いてある顔面蒼白なルキにクルスは口角を上げる。
「買いだ」
「……あっ!はい!お買い上げですね?お客様!なんて言うもんか、このお馬鹿っ!却下だ!!!」
なんて素早いノリツッコミなんだろう。
毎回、柔軟な反応を示すルキに感心しながらクルスも譲らず無言でボタンを連打した。
ポチポチポチポチポチポチ……
「ちょ!止めて!いつぞやの俺様の真似するの止めて地味に胸に響くから!!」
ポチポチポチポチポチポチ……
「やーめーろー」
頭を抱え、その場に蹲るルキに追い打ちをかける。
「風呂場にいる人魚、記憶に新しいな?」
「よし、買いましょうクルスさん!!」
ほぼ半泣き状態のルキを見てクルスは満足そうに頷いた。
“風呂場の人魚”を軽く説明すると、つい最近、此処でルキが私的な買い物をした商品の事である。
ボスに大目玉を喰らった記憶が鮮明に思い出されたのか痛む胸を押さえつつ、ヨロヨロ起き上がったルキは大きく深呼吸をすると、部屋を訪ねてきた男が持ってきた書類にサインをした。
「またカフマに怒られる……いや、殺される?」
「安心しろ。ルキは殺させない」
「クルスったら、男前!好き!!」
飛びついて来ようとしたルキを避け、クルスは再びステージを見た。
ルキが購入手続きのサインをしたことにより、会場には落札の木槌の乾いた音が会場に響き渡る。
その音は少女の耳にも届いたのか、一瞬、首がもたげた。
そして、その後すぐにステージの裏へと腕を強引に引かれ裏へ連れて行かれる。
「ちょ、クルス!」
ルキの制止も無視して、クルスはすぐに引き渡し部屋へと急いだ。
何度も足を運んだことのある場所は、昔、衣装部屋として使われていた劇場の裏側にある小さなコンクリート張りの一室である。
重くて冷たい鉄の扉を開けると、何もない部屋の中央に少女は床に膝をついて既に待っていた。
引き渡す為に少女と共にいた係の男は、入ってきたクルスがあまりにも若々しく、これが貴賓室にいた奴なのかと目を見開き驚いた表情をしていたが、それには目もくれず、クルスは少女に近づいた。
上から見た時よりも痛々しくて弱々しい小さな少女の首に繋がれた鎖を男が犬を躾けるように強く引く。
「おら。お前の新しい主人だ。もうへまするなよ」
怒気を含んだ物言いと、戒めとでも言うのか何度も鎖を引き上げられ首が絞まる。
顔を覆い隠す様に無造作に巻かれた血の滲む包帯から微かだか苦しそうな息が漏れた。
「触るな」
クルスは男の手から鎖を奪い取り、着ていた黒のジャケットを脱いで何も身に纏っていない少女の肩に掛けた。
「お客さん、こんな出戻り商品を買うなんざ物好きだな」
蔑さげすむ物言いに、クルスは微かに反応した。
“出戻り?”
クルスの顔にそう書いてあると言いたげな男は、気分を良くして話し始めた。
「あぁ、そいつ何度も何度も返品されてくるんだよ。過去に何人もこいつを買った日の次の日に血相変えてくるんだ。あんたも同じ様にならないといいなぁ」
下品に笑う男の忠告を聞きながらクルスは無言で少女の肩を抱き部屋を後にする。
重々しい音を立てて閉まる扉が男の嘲笑を遮ると、今度は沈黙がやってきた。
人形の様に反応を示さない少女にクルスはポツリと呟いた。
「ミク」
微かだか少女が此方に向けて顔を上げた気配がする。
「名前だ」
よろしく、と気持ちを込めて頭を撫でると返事をしない少女、ミクに代わってジャラジャラと重そうに鎖が揺れた。
◇
ミクを連れ、人里離れた森の中にある古びた屋敷にクルスとルキは戻ってきた。
日課である今日の報告をしに、カフマのいる執務室を尋ねなければならないのだが今日ほど足取りが重い日はなかった。
憂鬱そうなルキとは対象的に普段と変わりなくクルスが執務室の扉をノックなしに開け放つ。
さして驚いた様子もなく、突然の来訪者にカフマも視線だけで三人を迎え入れた。
まるで地獄への門が開いた心持ちで、道中じゃんけんに負け今日の報告する役を担う事になったルキが大きく深呼吸をし腹を括る。
頭の中で考えに考え、いかに相手の逆鱗に触れることなく、最悪、掠かする程度のダメージを受ける覚悟で捻り出した言葉を言い終えた後の沈黙は時計の秒針が動くよりも長く感じた。
そしてその後の返答が今までの努力を無に還すのに十分過ぎる威力を持っているのも全てカフマだからなせる技なのではないかと錯覚する位、毎度強烈な一言で片付けられてしまうのだ。
「……で?」
クルスとルキの上司にあたる人物、カフマは辿々しく拙つたない説明を汗だくになりながら話し終えたルキに安堵の隙すら与えなかった。
机に両肘を立て、両手を口元の前で組んだまま続きを促す。
ガタイの良いカフマはそれだけで周囲に威圧感を与える事が出来た。
肩幅が広く、胸板も厚いボディービルダーに近い体格に加え、程よく日に焼けた小麦色の肌と堀の深い顔立ち。灰色の髪は短く刈り上げ、インテリ眼鏡の奥の瞳は片方だけおでこから頬にかけ随分昔に負った刀傷が生々しく走っている。
一見ヤクザにしか見えないが、こう見えて闇の社会で彼の名を知らない者はいない凄腕の何でも屋、通称“天狼”の総括司令官である。
誰も答えない中、カフマは今一度対面している三人を順に観察した。
取りつく島すらない絶望から卒倒しそうになっているのを最早、気力だけで立っているルキ。
平然と睨み返してくるクルス。
そしてミイラみたいに顔面包帯巻きの少女。
先程から微動だにしない人形と見まごう程、生気を感じないミクに更に眉間のシワが深くなる。
「え、えっと。“……で?”とは?」
眉間に皺を寄せ、カフマの表情を顔マネするルキに室内は一瞬にして凍りついた。
俗に言うスベった状況に陥っているのにもかかわらず誰も救済措置として言葉を発する事なく、当たり前の様に時を流す。
阿呆極まりない幼稚な問答を拒否し、カフマはルキを睨んだ。
睨めば睨む程、ルキの視線は明後日の方へ向き、助けを求める様に弱々しくクルスを肘で小突く。
「痛い」
「痛いじゃねぇよ!何とかしろよ!!」
「勝負に負けたのはルキだろう」
「確かに!そうだけど!でも俺様そんなメンタル強くないし!!」
メンタル弱い奴は顔マネしないと言いかけた時、カフマの声が二人のやり取りを遮った。
「返品しろ」
言い合いをしていたクルスとルキが弾かれた様にカフマを見返す。
「“イワクツキ”には手を出すなと言ってある筈だ。それには商品としての価値も値打ちも無い、返品が嫌なら此処で処分する」
カフマが重い腰を上げたと思った矢先、ルキとクルスの間を一陣の風が頬を掠めた。
振り返ればカフマが愛用している長刀が背後の壁に深々と刺さっている。
「次はない」
指をポキポキ鳴らして威嚇する。殴り殺す準備は出来ている、と言わんばかりの迫力にクルスは臆することなく噛み付いた。
「ミクは返さない」
「……そんなに女が欲しいなら別のをあてがってやる」
首を横に振るクルス。
自分の背後にミクを庇いながら、続けた。
何故そこまでミクに固執するのか?その理由を答えなければカフマは納得しないだろう。
「ひとめぼれ、した」
目を丸くして口元を手で覆うルキ。
意外過ぎる返答にカフマも固まったまま動かない。
言い方を間違えただろうか?ミクしかいないというハッキリとした気持ちをどう表現すればいいのか適切な言葉が思い当たらなかった。
妙な冷や汗をかきながらカフマの返答を待つ。
すると暫くして、カフマは再びゆっくりと座席に腰を落ち着けた。
「…………なら、仕方ないな」
「ぅおおおおおおい!?!?」
ルキ渾身の雄叫び虚しく、こうしてミクは受け入れられたのだった。
【完】
濃い闇が昼間の喧騒を覆い隠し人々に深い眠りを与え、街が沈黙する時間。
そんな暗闇で動く生き物の中に夜を生業としている者たちがいた。
息を潜める様に彼等が集うのは秘密の扉を幾つも抜け地下に建設された巨大施設。
そこでは夜な夜な様々な物が非合法で売買されている。
通常であれば表に出回る事のない貴重な絵画、彫刻、人間、動物など種類は問わない。招待制の“オークション”には世界中からコレクターが集い、暇と金を持て余した貴族の娯楽としても密かに人気がある。
今宵も半円のステージの周りを囲む様に並ぶ観客席は満席、異様な熱気で満ちていた。
「おっ」
時にどよめき、歓声を上げる忙しない会場を最上階に設けられた金持ち専用の個室から見下ろす者が二人。
一人は規則に反しパーカーとジーパン姿というラフな格好で、もう一人は黒の正装を着崩した、なんともガラの悪い青年達だ。
ルキはタブレットに届いたメールに視線を落としたまま、目深に被ったニット帽を掻きながら文面を読み上げる。
「“林檎の国の雪乃”即買い、だと」
聞いているかの確認も兼ねて隣でオペラグラスを覗いているクルスの腕を肘で小突くが相手からの反応はない。
さみしい位の無反応はいつもの事なのでさして気にせず、独り言の様に話を続けた。
「今日は収穫なさそうだなー。お腹減ったよー」
呑気な言葉を聞き流し、クルスはステージ上で繰り広げられている少女の落札合戦を眺めていた。
“その眼を見たら最後、魂を引き抜かれ息絶える死神の瞳とも言われる呪いを持つ少女、ナンバー39”
司会者が今回の目玉商品と言わんばかりに捲し立て喋り続ける中、渦中の少女はスポットライトの下、直立不動で落札の鐘が鳴るのを待っている。
骨ばった身体は色気も生気もなく、垂れる乳房も老婆のそれと変わりない。
拷問か折檻か、夥おびただしい数のミミズ腫れが全身を這うように刻まれ長年買い手がついてない事を、その逸し纏わぬ裸体が悲痛に物語っていた。
先程まで出品されていた少女らとは異なり、恥じらうことも泣き叫び発狂する事もないこの少女。
魂を引き抜く瞳の威力を強調したいのか、頭部から首元まで隙間なく巻かれた薄汚い布は、生きたミイラを彷彿とさせ会場を異様な興奮と熱気で満たす。
「ではここで一つ、デモンストレーションと参りましょう!皆様、私の言葉が嘘偽りだと思うならばどうぞそのまま、ご自分の目で……いや、命をかけて確かめてみて下さい。命が惜しい方は、今から目を閉じて、私が声をかけるまで決して瞳を開けませんように」
司会者はそう言い切った後、少女の顔に巻かれた包帯を解き始めた。
ざわつく場内に視線を動かせば、皆、半信半疑といったところだろうか。
クルスはオペラグラスを外すと、隣で黙々とゲームをしているルキに声をかけた。
「ルキ」
「あーん?」
「疲れただろう、少し休むといい。寝ろ」
「え?何、えっ!?ほんと何っ!?ちょっ!!まっ!!!………ぐぇぇっ」
説明が面倒で、取り急ぎ手刀で黙らせた。
そして何事も無かった様に再びオペラグラスで例の少女を確認する。
視界に広がる光景に思わず息を呑んだ。
全て解かれた包帯は足元でとぐろを巻き、顔を覗かせた少女の顔は身体よりも悲惨だった。
肩口で切られた不揃いな金髪は殴られたまま長く包帯で巻かれていたせいか、血液が凝固したまま頭の形で固まり、赤錆のヘルメットを被っている様に見える。
頬骨が浮き出る程、痩せこけ、一際目を引いたのは瞼が開かないように幾重にも縫われた痛々しい跡のせいで瞼は暖簾の様に細かく裂かれ瞳を覆う機能を果たしていない。
涙の跡の様に流れた血液は頬にそのままこびりつき、異様な模様と化していた。
これはまずい、本能的に悟った時にはもう遅かった。
◇
ステージ上では興奮気味に司会者が少女に命令していた。
「やれ」
男の命令に胸の奥がドス黒い気持ちに飲まれていくのを感じる。
あぁ、またか。
諦めにも似た絶望に包まれながら奥底に眠る彼女を呼び起こす。
彼女の力を借りたい時は、あの日の出来事を思い出すのが条件だ。
あんなに辛くて痛くて悲しかった出来事も何度も何度も巻き戻しては繰り返す作業をしている内に、さして何も感じなくなった。
ホール全体が息を呑む静けさに包まれていくのを肌で感じながら、意識を手放し全てを彼女に委ねる。
あの日、私は光を失った。
最後に見た光景は、果物にナイフを何度も突き刺す様に私の両目を躊躇なく刺してゆく無表情な母の顔だった。
視界が鮮血でゆっくりと覆われていくのは、まるで劇の幕が降りたみたい。
次に強い力で頭を床に叩きつけられ、襲ってきたのは瞼と目の下の肉を縫いつける糸の動く感触。
耳に残る音は、自分の悲鳴と一通りの作業を終えた母の狂気じみた、感極まる嘲笑だった。
鼻にかかる、ねっとりとした生暖かい息と残酷な言葉が今も生々しく頭に蘇る度に憎しみを濃くしてゆく。
“あんたは、私の本当の娘に用意した贄よ”
優しかった時の母を思い出そうとすると、靄がかかったように思い出せなくなったのはいつからだろう。
“おかあさん”
潰れて消えゆく視界で最後に見た母の満足そうな微笑み。
いつか、あの顔をめちゃくちゃに潰してやる。
そう考えただけで私も笑顔になれるんだ。
胸の中でジクジク燃える復讐心だけを支えに生きてきた。
だから、何をされようとも怖くない。耐えられる。
だって私には夢があるから。
だから誰か、あの女に復讐する機会を……私に下さい。
再び意識が戻った時には、バタバタと重い物が何個か倒れる音から一拍置いた後、会場全体は阿鼻叫喚と化し、地響きと共に出入り口に殺到する人々の動きが感じ取れた。
あの得意気に命令していた男の声もしない。姿も……ない。
もしかして、この足元に倒れているのがソレだろうか。
なら、一体この場を誰が納めるのか。
少女は他人事の様に只この時間が終わるのを待ち続けるのだった。
◇
「……はっ?!ヤバイ、俺様ガチ寝してた!?今、何時!?ももももう帰ろっか、クルス」
席を立つルキとクルスが自席に置かれた赤いボタンに手を伸ばし押したのはほぼ同時だった。
スポットライトがクルスとルキのいる席を照らすと、会場には更なる衝撃が走った。
最上階は全てガラス張りになっているので、下の客席からは二人の姿を伺うことはできないが最上階にいる者は絶対的な金持ちであることを周囲は知っている。
「クク、………クル………クルス?」
ルキは困惑し眉間に皺を寄せ、わなわなと唇を震わせたまま言葉なく金魚の様にパクパクと口を動かしたまま相方を見た。
お前、何考えてんの?
そう顔に書いてある顔面蒼白なルキにクルスは口角を上げる。
「買いだ」
「……あっ!はい!お買い上げですね?お客様!なんて言うもんか、このお馬鹿っ!却下だ!!!」
なんて素早いノリツッコミなんだろう。
毎回、柔軟な反応を示すルキに感心しながらクルスも譲らず無言でボタンを連打した。
ポチポチポチポチポチポチ……
「ちょ!止めて!いつぞやの俺様の真似するの止めて地味に胸に響くから!!」
ポチポチポチポチポチポチ……
「やーめーろー」
頭を抱え、その場に蹲るルキに追い打ちをかける。
「風呂場にいる人魚、記憶に新しいな?」
「よし、買いましょうクルスさん!!」
ほぼ半泣き状態のルキを見てクルスは満足そうに頷いた。
“風呂場の人魚”を軽く説明すると、つい最近、此処でルキが私的な買い物をした商品の事である。
ボスに大目玉を喰らった記憶が鮮明に思い出されたのか痛む胸を押さえつつ、ヨロヨロ起き上がったルキは大きく深呼吸をすると、部屋を訪ねてきた男が持ってきた書類にサインをした。
「またカフマに怒られる……いや、殺される?」
「安心しろ。ルキは殺させない」
「クルスったら、男前!好き!!」
飛びついて来ようとしたルキを避け、クルスは再びステージを見た。
ルキが購入手続きのサインをしたことにより、会場には落札の木槌の乾いた音が会場に響き渡る。
その音は少女の耳にも届いたのか、一瞬、首がもたげた。
そして、その後すぐにステージの裏へと腕を強引に引かれ裏へ連れて行かれる。
「ちょ、クルス!」
ルキの制止も無視して、クルスはすぐに引き渡し部屋へと急いだ。
何度も足を運んだことのある場所は、昔、衣装部屋として使われていた劇場の裏側にある小さなコンクリート張りの一室である。
重くて冷たい鉄の扉を開けると、何もない部屋の中央に少女は床に膝をついて既に待っていた。
引き渡す為に少女と共にいた係の男は、入ってきたクルスがあまりにも若々しく、これが貴賓室にいた奴なのかと目を見開き驚いた表情をしていたが、それには目もくれず、クルスは少女に近づいた。
上から見た時よりも痛々しくて弱々しい小さな少女の首に繋がれた鎖を男が犬を躾けるように強く引く。
「おら。お前の新しい主人だ。もうへまするなよ」
怒気を含んだ物言いと、戒めとでも言うのか何度も鎖を引き上げられ首が絞まる。
顔を覆い隠す様に無造作に巻かれた血の滲む包帯から微かだか苦しそうな息が漏れた。
「触るな」
クルスは男の手から鎖を奪い取り、着ていた黒のジャケットを脱いで何も身に纏っていない少女の肩に掛けた。
「お客さん、こんな出戻り商品を買うなんざ物好きだな」
蔑さげすむ物言いに、クルスは微かに反応した。
“出戻り?”
クルスの顔にそう書いてあると言いたげな男は、気分を良くして話し始めた。
「あぁ、そいつ何度も何度も返品されてくるんだよ。過去に何人もこいつを買った日の次の日に血相変えてくるんだ。あんたも同じ様にならないといいなぁ」
下品に笑う男の忠告を聞きながらクルスは無言で少女の肩を抱き部屋を後にする。
重々しい音を立てて閉まる扉が男の嘲笑を遮ると、今度は沈黙がやってきた。
人形の様に反応を示さない少女にクルスはポツリと呟いた。
「ミク」
微かだか少女が此方に向けて顔を上げた気配がする。
「名前だ」
よろしく、と気持ちを込めて頭を撫でると返事をしない少女、ミクに代わってジャラジャラと重そうに鎖が揺れた。
◇
ミクを連れ、人里離れた森の中にある古びた屋敷にクルスとルキは戻ってきた。
日課である今日の報告をしに、カフマのいる執務室を尋ねなければならないのだが今日ほど足取りが重い日はなかった。
憂鬱そうなルキとは対象的に普段と変わりなくクルスが執務室の扉をノックなしに開け放つ。
さして驚いた様子もなく、突然の来訪者にカフマも視線だけで三人を迎え入れた。
まるで地獄への門が開いた心持ちで、道中じゃんけんに負け今日の報告する役を担う事になったルキが大きく深呼吸をし腹を括る。
頭の中で考えに考え、いかに相手の逆鱗に触れることなく、最悪、掠かする程度のダメージを受ける覚悟で捻り出した言葉を言い終えた後の沈黙は時計の秒針が動くよりも長く感じた。
そしてその後の返答が今までの努力を無に還すのに十分過ぎる威力を持っているのも全てカフマだからなせる技なのではないかと錯覚する位、毎度強烈な一言で片付けられてしまうのだ。
「……で?」
クルスとルキの上司にあたる人物、カフマは辿々しく拙つたない説明を汗だくになりながら話し終えたルキに安堵の隙すら与えなかった。
机に両肘を立て、両手を口元の前で組んだまま続きを促す。
ガタイの良いカフマはそれだけで周囲に威圧感を与える事が出来た。
肩幅が広く、胸板も厚いボディービルダーに近い体格に加え、程よく日に焼けた小麦色の肌と堀の深い顔立ち。灰色の髪は短く刈り上げ、インテリ眼鏡の奥の瞳は片方だけおでこから頬にかけ随分昔に負った刀傷が生々しく走っている。
一見ヤクザにしか見えないが、こう見えて闇の社会で彼の名を知らない者はいない凄腕の何でも屋、通称“天狼”の総括司令官である。
誰も答えない中、カフマは今一度対面している三人を順に観察した。
取りつく島すらない絶望から卒倒しそうになっているのを最早、気力だけで立っているルキ。
平然と睨み返してくるクルス。
そしてミイラみたいに顔面包帯巻きの少女。
先程から微動だにしない人形と見まごう程、生気を感じないミクに更に眉間のシワが深くなる。
「え、えっと。“……で?”とは?」
眉間に皺を寄せ、カフマの表情を顔マネするルキに室内は一瞬にして凍りついた。
俗に言うスベった状況に陥っているのにもかかわらず誰も救済措置として言葉を発する事なく、当たり前の様に時を流す。
阿呆極まりない幼稚な問答を拒否し、カフマはルキを睨んだ。
睨めば睨む程、ルキの視線は明後日の方へ向き、助けを求める様に弱々しくクルスを肘で小突く。
「痛い」
「痛いじゃねぇよ!何とかしろよ!!」
「勝負に負けたのはルキだろう」
「確かに!そうだけど!でも俺様そんなメンタル強くないし!!」
メンタル弱い奴は顔マネしないと言いかけた時、カフマの声が二人のやり取りを遮った。
「返品しろ」
言い合いをしていたクルスとルキが弾かれた様にカフマを見返す。
「“イワクツキ”には手を出すなと言ってある筈だ。それには商品としての価値も値打ちも無い、返品が嫌なら此処で処分する」
カフマが重い腰を上げたと思った矢先、ルキとクルスの間を一陣の風が頬を掠めた。
振り返ればカフマが愛用している長刀が背後の壁に深々と刺さっている。
「次はない」
指をポキポキ鳴らして威嚇する。殴り殺す準備は出来ている、と言わんばかりの迫力にクルスは臆することなく噛み付いた。
「ミクは返さない」
「……そんなに女が欲しいなら別のをあてがってやる」
首を横に振るクルス。
自分の背後にミクを庇いながら、続けた。
何故そこまでミクに固執するのか?その理由を答えなければカフマは納得しないだろう。
「ひとめぼれ、した」
目を丸くして口元を手で覆うルキ。
意外過ぎる返答にカフマも固まったまま動かない。
言い方を間違えただろうか?ミクしかいないというハッキリとした気持ちをどう表現すればいいのか適切な言葉が思い当たらなかった。
妙な冷や汗をかきながらカフマの返答を待つ。
すると暫くして、カフマは再びゆっくりと座席に腰を落ち着けた。
「…………なら、仕方ないな」
「ぅおおおおおおい!?!?」
ルキ渾身の雄叫び虚しく、こうしてミクは受け入れられたのだった。
【完】
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