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第二章 その一歩は何をもたらす
雨が降り出す
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遊さんの送迎。
彼女がファミレスでアルバイトをするようになってから増えた、僕の仕事。
それが日常に馴染んできた頃のこと。
「それじゃあ、遊さんを迎えに行ってくる」
「はい。管理人さん、お気をつけて」
いつも通り、星寧にひと声かけてから屋敷を出る。
空は一面、灰色の雲。
「ひと雨降るな」
もうそろそろ梅雨入り。雨の季節がくる。
早足で車庫へと向かいながら、そんなことを考えていた。
案の定、十分後には雨が降り始めた。
弱い雨。
木々の隙間から落ちてきた雨滴が、フロントガラスを濡らしていく。
薄暗い山道に、一台分の走行音。
遊さんを乗せているとき以外はそれが常となっていて、最近は屋敷での作業とは違った心地よさを覚えていた。
けれど……。
けれど、その心地よさはかき消されることとなる。
聞こえてきたのはサイレンの音。
遠くから、微かに届いてくる。
音は徐々に近くなる。消防車のサイレンだ。
山奥の屋敷で暮らすようになってから久しく聞くことのなかった慌ただしい音に、言いようのない不安が募っていく。
かといって、その不安を解消するすべはなく、車をファミレスへと向かわせ続けた。
そして……不安は的中してしまう。
燃え盛る炎。
必死に消火活動を行う消防隊。
熱風、轟音、人々の叫び声。
火事……
火事だ。
ファミレスが燃えている――燃えている!
「遊さんっ!」
車を適当な場所に投げ出し、僕は叫んだ。
悪夢そのものの光景に、頭の中が熱くなる。
避難者、避難者はどこだっ!
火災現場から目を切って視線を巡らせる。
ファミレスの駐車場と道路の一部には緊急車両。
そして、向かいのコンビニに、群衆。
その中にはファミレスの制服姿も見える。
そこを目指して地面を蹴る。
「遊さんはっ⁉」
到着するなり視線を走らせる。
しかし、遊さんは見つからない。
まさか、中に取り残されてるんじゃ……。
黒い霧のような不安が、心に充満していく。
そんなとき……。
「あの……」
遠慮がちな呼びかけと共に、肩をたたかれる。
振り返ると、ファミレスの制服を着た女性。
けれど、遊さんではなかった。
「あ、やっぱり……お迎えの人、ですよね?」
その言葉にはっと気づいた。
バイトを終えて店を出てくる遊さんが、この女の人と親しげに話しているのを何度か目にしている、と。
僕は思わず詰め寄ってしまう。
「あの、遊さんは⁉」
遠慮がちな彼女とは対照的に、大声が出てしまい、女性はびくっと肩をすくませる。
それでも彼女はあっちです、と指で示しながら教えてくれた。
コンビニの庇の下。
そこに特徴的な亜麻色髪を見つける。
遊さんだ。
確信したとたん、気持ちが一気に軽くなった。
女性にありがとうございます、と伝える余裕もできた。
今まで感じなかった小雨の水滴が、熱くなった体に気持ちいいさえ思った。
そしてそのまま遊さんのもとへと駆けて行く。
けれど。
近づいたところで、気づく。遊さんの異変に。
虚ろな瞳、生気のない顔色。
そして、彼女は小さく口を動かしている――何かを呟いているのだ。
だが、何を呟いているのかは聞こえてこない。
代わりに、遊さんを落ち着かせようとする声。
「遊ちゃん、大丈夫、大丈夫だからね……」
というおじさんの声が聞こえた。ファミレスの店長さんの声だ。
僕は不安を押し殺しながら傍へ寄る。
「……い……ゆ……じゃ……こは……おうち……」
遊さんの呟きはイントネーションもテンポも不規則で。
だけど徐々にはっきりと輪郭をなしてゆく。
「じゃ……こは……おうち…………い……ゆうの……ちじゃ」
繰り返している?
そう、短いフレーズを繰り返しているんだ。
それを理解したからか、遊さんの言葉をくみ取ることができた。
「ここは、ゆうのおうちじゃ、ない……」
「っ……!」
酷く悲しいことが起こってしまった。
確信した途端、心がズキンと痛んだ。
雨音が強くなり、遊さんの呟きをかき消す。
それでも彼女は繰り返す。繰り返し続ける。
そこにいつもの彼女はいない……。
僕は……。
僕は遊さんを抱きしめた。
「遊さん、帰ろう、帰ろう……」
そう何度も囁きかけた。
彼女の背中を何度も摩った。
僕は……遊さんには笑っていてほしいんだ。
「みんな待ってるから……星寧も、摩耶ちゃんも、曙さんも……。だから帰ろう、みんながいるあの屋敷に」
「……シュー、くん?」
ささやかな声。
そして、胸の中で身じろぎ。
さらに、それが錯覚ではないと証明するかのように、もう一度、彼女の声。
「シューくん……どーしたの?」
僕は遊さんの顔を覗き込む。視線が交わる。
遊さんは、戸惑いながらも口の端に笑みを浮かべてくれた。
失いかけていた生気。それが遊さんに宿っている。
「よかった……本当に、よか――」
瞬間、轟音が大地を揺るがす。
それは後方、今なお燃え続けているファミレスの方からだった。
遊さんが視線を音の方へと向けた。
そして、次の瞬間。
「か、じ……」
遊さんの表情が、悲痛さに歪んでしまい――
「あ、あああっ……ああああああああああああああああぁぁああああああぁぁ!!」
両手で頭を押さえつけ、悲鳴を発する。
その響きは、雨音、サイレン、そしてその他の何もかもを凌駕し……。
そして、糸が切れたかのように、遊さんの体から力が失われた。
彼女がファミレスでアルバイトをするようになってから増えた、僕の仕事。
それが日常に馴染んできた頃のこと。
「それじゃあ、遊さんを迎えに行ってくる」
「はい。管理人さん、お気をつけて」
いつも通り、星寧にひと声かけてから屋敷を出る。
空は一面、灰色の雲。
「ひと雨降るな」
もうそろそろ梅雨入り。雨の季節がくる。
早足で車庫へと向かいながら、そんなことを考えていた。
案の定、十分後には雨が降り始めた。
弱い雨。
木々の隙間から落ちてきた雨滴が、フロントガラスを濡らしていく。
薄暗い山道に、一台分の走行音。
遊さんを乗せているとき以外はそれが常となっていて、最近は屋敷での作業とは違った心地よさを覚えていた。
けれど……。
けれど、その心地よさはかき消されることとなる。
聞こえてきたのはサイレンの音。
遠くから、微かに届いてくる。
音は徐々に近くなる。消防車のサイレンだ。
山奥の屋敷で暮らすようになってから久しく聞くことのなかった慌ただしい音に、言いようのない不安が募っていく。
かといって、その不安を解消するすべはなく、車をファミレスへと向かわせ続けた。
そして……不安は的中してしまう。
燃え盛る炎。
必死に消火活動を行う消防隊。
熱風、轟音、人々の叫び声。
火事……
火事だ。
ファミレスが燃えている――燃えている!
「遊さんっ!」
車を適当な場所に投げ出し、僕は叫んだ。
悪夢そのものの光景に、頭の中が熱くなる。
避難者、避難者はどこだっ!
火災現場から目を切って視線を巡らせる。
ファミレスの駐車場と道路の一部には緊急車両。
そして、向かいのコンビニに、群衆。
その中にはファミレスの制服姿も見える。
そこを目指して地面を蹴る。
「遊さんはっ⁉」
到着するなり視線を走らせる。
しかし、遊さんは見つからない。
まさか、中に取り残されてるんじゃ……。
黒い霧のような不安が、心に充満していく。
そんなとき……。
「あの……」
遠慮がちな呼びかけと共に、肩をたたかれる。
振り返ると、ファミレスの制服を着た女性。
けれど、遊さんではなかった。
「あ、やっぱり……お迎えの人、ですよね?」
その言葉にはっと気づいた。
バイトを終えて店を出てくる遊さんが、この女の人と親しげに話しているのを何度か目にしている、と。
僕は思わず詰め寄ってしまう。
「あの、遊さんは⁉」
遠慮がちな彼女とは対照的に、大声が出てしまい、女性はびくっと肩をすくませる。
それでも彼女はあっちです、と指で示しながら教えてくれた。
コンビニの庇の下。
そこに特徴的な亜麻色髪を見つける。
遊さんだ。
確信したとたん、気持ちが一気に軽くなった。
女性にありがとうございます、と伝える余裕もできた。
今まで感じなかった小雨の水滴が、熱くなった体に気持ちいいさえ思った。
そしてそのまま遊さんのもとへと駆けて行く。
けれど。
近づいたところで、気づく。遊さんの異変に。
虚ろな瞳、生気のない顔色。
そして、彼女は小さく口を動かしている――何かを呟いているのだ。
だが、何を呟いているのかは聞こえてこない。
代わりに、遊さんを落ち着かせようとする声。
「遊ちゃん、大丈夫、大丈夫だからね……」
というおじさんの声が聞こえた。ファミレスの店長さんの声だ。
僕は不安を押し殺しながら傍へ寄る。
「……い……ゆ……じゃ……こは……おうち……」
遊さんの呟きはイントネーションもテンポも不規則で。
だけど徐々にはっきりと輪郭をなしてゆく。
「じゃ……こは……おうち…………い……ゆうの……ちじゃ」
繰り返している?
そう、短いフレーズを繰り返しているんだ。
それを理解したからか、遊さんの言葉をくみ取ることができた。
「ここは、ゆうのおうちじゃ、ない……」
「っ……!」
酷く悲しいことが起こってしまった。
確信した途端、心がズキンと痛んだ。
雨音が強くなり、遊さんの呟きをかき消す。
それでも彼女は繰り返す。繰り返し続ける。
そこにいつもの彼女はいない……。
僕は……。
僕は遊さんを抱きしめた。
「遊さん、帰ろう、帰ろう……」
そう何度も囁きかけた。
彼女の背中を何度も摩った。
僕は……遊さんには笑っていてほしいんだ。
「みんな待ってるから……星寧も、摩耶ちゃんも、曙さんも……。だから帰ろう、みんながいるあの屋敷に」
「……シュー、くん?」
ささやかな声。
そして、胸の中で身じろぎ。
さらに、それが錯覚ではないと証明するかのように、もう一度、彼女の声。
「シューくん……どーしたの?」
僕は遊さんの顔を覗き込む。視線が交わる。
遊さんは、戸惑いながらも口の端に笑みを浮かべてくれた。
失いかけていた生気。それが遊さんに宿っている。
「よかった……本当に、よか――」
瞬間、轟音が大地を揺るがす。
それは後方、今なお燃え続けているファミレスの方からだった。
遊さんが視線を音の方へと向けた。
そして、次の瞬間。
「か、じ……」
遊さんの表情が、悲痛さに歪んでしまい――
「あ、あああっ……ああああああああああああああああぁぁああああああぁぁ!!」
両手で頭を押さえつけ、悲鳴を発する。
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