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番外編
②
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こうなってしまえば自分の事より奏の事が心配になった。
俺はどうなってもいい、せめて奏だけは守らなくては。お願いだからこっちへ来ないで。ここから家は近い、気づかれる前にどうか逃げて――っ。
と思うのに俺の事を探す小さな愛しい我が子の声が聞こえた。
「ママぁ?」
がさりと音がして奏が顔を出したが、興奮状態なのか男は奏の存在に気づいていない。
俺は視線で奏の存在に気づかれないようにそっと目を閉じ、遠ざかっていく足音にほっと息を吐く。
男にはそれで俺が男を受け入れたと思ったのか、興奮したように息遣いを更に荒くさせた。
無遠慮に身体を這いまわる男の手の感触に吐き気を覚えながらも、こんな事はどうという事はないと自分に言い聞かせていた。
奏を守れたのだからこのくらいなんて事はないのだ、と。
だけど流石にズボンのベルトに手がかかると、このまま穢されてしまうのならいっその事――と自ら舌を噛もうとするけれど力が入らずうまく噛む事ができない。
ごめんなさい、と何度も心の中で楓君に謝った。
今の俺にはそうする事しかできなくて、涙が頬を伝うのだけをぼんやりと感じていた。
カチャカチャとベルトを外す音がして――――、しばらく経ってもそれ以上の事は起こらず、いつの間にか俺に圧し掛かっていた重みも消えていた事に気づいた。
実際に俺の身体を見て萎えてしまった男が立ち去ったのかも、とそっと目を開けると俺の目に飛び込んで来たのは男を殴る楓君の姿だった。
奏が助けを呼びに行ってくれたのだろうか。我が子ながらなんて聡い。
狂ったように殴り続ける楓君。怒りに染まった楓君の様子は、番である俺ですら怖いと思ってしまう。
恐怖にカタカタと震え、薬の影響で未だ自由にならない身体で必死に楓君に向って手を伸ばした。
楓君はすぐにそれに気が付いて、俺の元に駆け寄って抱きしめてくれた。
結果から言えば俺は服の前を開けられて上半身を執拗に撫でまわされはしたものの、他の色々な事はされてはいなかった。
ただ番ではない男に性的な意味で触れられた事が気持ち悪く、もし助けが来なければどうなっていたのか……と思うと怖くてこわくて仕方がなかった。
「――楓……君。ごめ……んね。こんな……」
「謝らないで下さい……っ。俺の方こそ……遅くなってすみません……っ」
そんな楓君の自分自身を責める声に胸が痛くなった。
俺を抱きしめる楓君の腕の力が一層強まり震えている。
番を害される恐怖はαもΩもない。俺が受けた傷も恐怖も全て楓君も――いや、もしかしたら俺以上に…………。
男は楓君の通報で駆け付けた警官に連れて行かれた。男の気配が近くにない事にやっと息ができる気がした。
その場に残った警官は、「アイツはゴツイΩ狙いの変質者なんですわ。ひとりでいるところを薬使って力ずくでって――それにしても……少しやりすぎですよ」と言われたが楓君が出していた威嚇フェロモンが強まり、「ま……、まぁ仕方ないか――」と言っているのが聴こえた。
後で落ち着いたら俺にも話を聞きたいと言われたが、楓君は自分が代理で話すからと言って俺との直接の接触を認めなかった。根掘り葉掘り訊かれる事で再びこの恐怖を思い出させるような事は、番を害するのと同じ事なのだ。危険が去った今も深くふかく抱き込まれていて、まだ少し興奮状態なのか楓君の心臓の音がばくばくと煩く鳴るのを俺は一生懸命聞いていた。
抱き抱えられて帰ってからすぐにそのままお風呂で綺麗に洗われ、ベッドで俺の負担にならないようにゆっくりと執拗に愛された。楓君はほんの一瞬でも俺の傍を離れない。
薬で無理矢理起こされてしまったヒートによる身体の熱と、番以外に触れられた気持ち悪さに凍り付く心を楓君が優しく溶かしていく。
番との触れ合いで、自ら命を絶つ事も覚悟した俺も段々と落ち着いてくるのだから番っていうのは不思議なものだ。楓君が傍に居てくれるだけで幸せな気持ちになれるんだ。
そして俺がベッドから出られたのはそれから10日は経った後だった。
やっと会えた奏は俺の事を見るなり抱き着いてきて、泣きながら俺の首の辺りをあむあむと噛み続けた。痛くはないのだけど首のまわりがヨダレでべとべとになるのと楓君の機嫌が悪くなるから本当にこの癖は止めて欲しい。
そう、これが奏の困った癖だ。
いつもは複雑そうな顔をするだけで何も言わなかった楓君が、今日は違った。奏の頭にそっと手を置いて、
「奏、薫さんは俺の『番』だ。お前の『番』は別にいる」
と静かだけどはっきりと言い聞かせるように言ったんだ。
え?番?もしかしなくてもこれってそういう事だったの?
あ、だからこれが始まった頃から楓君は奏をΩとして心配しなくなった?
あの時言った奏をαだという言葉はちゃんと根拠があったんだ。
奏はびくっと一瞬だけ身体を震わせ、それからは俺の事を噛まなくなった。
あれから何事もなかったように平和な日々が続き、奏は『α』だと分かった。そしてαだと思われていた彼方君の方が『Ω』だった。
Ωというのはいくら時代が変わったからといって未だにその社会的地位は低く冷遇されがちだ。性的な被害に合う事も多い。番を持ち美人でも可愛くもない俺ですらあんな目にあったのだから、美人である彼方君はもっと危険だ。
俺は勿論の事、楓君も彼方君の事を我が子のように大切に思っている。
だから奏がΩじゃなかったからといって、手放しに喜んでばかりはいられなかった。
本当ならどんな二次性であったとしても、自由に安心して生きられる世の中がいいに決まってる。そう思うのに俺にはそうする為には何をしたらいいのかは分からなかった。
だけど楓君はいつの頃からかどんな二次性であってもそれぞれにあった平等でいられる社会であるように、まずは会社から意識改革を始めていたそうだ。
その事でΩを見下し蔑む事がなくなれば理不尽に泣くΩも減るだろう。根付いてしまっている意識はそう簡単に変えられるものじゃないからすぐには実を結ぶ事はないだろうけど、楓君がやろうとしている事は確かに意味のある事で、どんなに大変でもきっと楓君ならやり遂げられると思った。
それとは別にいつの時代も、こんな世の中であっても愛し合う相手がいる事は幸せだ。それはどんな二次性だってどんな容姿をしていたって関係ない。
だからどうか、奏も彼方君も素敵な相手と出会い、愛し愛されますように――。
俺は楓君の腕の中で、みんなの幸せを願うと同時に楓君に出会えた事を神さまに感謝した。
-おわり-
俺はどうなってもいい、せめて奏だけは守らなくては。お願いだからこっちへ来ないで。ここから家は近い、気づかれる前にどうか逃げて――っ。
と思うのに俺の事を探す小さな愛しい我が子の声が聞こえた。
「ママぁ?」
がさりと音がして奏が顔を出したが、興奮状態なのか男は奏の存在に気づいていない。
俺は視線で奏の存在に気づかれないようにそっと目を閉じ、遠ざかっていく足音にほっと息を吐く。
男にはそれで俺が男を受け入れたと思ったのか、興奮したように息遣いを更に荒くさせた。
無遠慮に身体を這いまわる男の手の感触に吐き気を覚えながらも、こんな事はどうという事はないと自分に言い聞かせていた。
奏を守れたのだからこのくらいなんて事はないのだ、と。
だけど流石にズボンのベルトに手がかかると、このまま穢されてしまうのならいっその事――と自ら舌を噛もうとするけれど力が入らずうまく噛む事ができない。
ごめんなさい、と何度も心の中で楓君に謝った。
今の俺にはそうする事しかできなくて、涙が頬を伝うのだけをぼんやりと感じていた。
カチャカチャとベルトを外す音がして――――、しばらく経ってもそれ以上の事は起こらず、いつの間にか俺に圧し掛かっていた重みも消えていた事に気づいた。
実際に俺の身体を見て萎えてしまった男が立ち去ったのかも、とそっと目を開けると俺の目に飛び込んで来たのは男を殴る楓君の姿だった。
奏が助けを呼びに行ってくれたのだろうか。我が子ながらなんて聡い。
狂ったように殴り続ける楓君。怒りに染まった楓君の様子は、番である俺ですら怖いと思ってしまう。
恐怖にカタカタと震え、薬の影響で未だ自由にならない身体で必死に楓君に向って手を伸ばした。
楓君はすぐにそれに気が付いて、俺の元に駆け寄って抱きしめてくれた。
結果から言えば俺は服の前を開けられて上半身を執拗に撫でまわされはしたものの、他の色々な事はされてはいなかった。
ただ番ではない男に性的な意味で触れられた事が気持ち悪く、もし助けが来なければどうなっていたのか……と思うと怖くてこわくて仕方がなかった。
「――楓……君。ごめ……んね。こんな……」
「謝らないで下さい……っ。俺の方こそ……遅くなってすみません……っ」
そんな楓君の自分自身を責める声に胸が痛くなった。
俺を抱きしめる楓君の腕の力が一層強まり震えている。
番を害される恐怖はαもΩもない。俺が受けた傷も恐怖も全て楓君も――いや、もしかしたら俺以上に…………。
男は楓君の通報で駆け付けた警官に連れて行かれた。男の気配が近くにない事にやっと息ができる気がした。
その場に残った警官は、「アイツはゴツイΩ狙いの変質者なんですわ。ひとりでいるところを薬使って力ずくでって――それにしても……少しやりすぎですよ」と言われたが楓君が出していた威嚇フェロモンが強まり、「ま……、まぁ仕方ないか――」と言っているのが聴こえた。
後で落ち着いたら俺にも話を聞きたいと言われたが、楓君は自分が代理で話すからと言って俺との直接の接触を認めなかった。根掘り葉掘り訊かれる事で再びこの恐怖を思い出させるような事は、番を害するのと同じ事なのだ。危険が去った今も深くふかく抱き込まれていて、まだ少し興奮状態なのか楓君の心臓の音がばくばくと煩く鳴るのを俺は一生懸命聞いていた。
抱き抱えられて帰ってからすぐにそのままお風呂で綺麗に洗われ、ベッドで俺の負担にならないようにゆっくりと執拗に愛された。楓君はほんの一瞬でも俺の傍を離れない。
薬で無理矢理起こされてしまったヒートによる身体の熱と、番以外に触れられた気持ち悪さに凍り付く心を楓君が優しく溶かしていく。
番との触れ合いで、自ら命を絶つ事も覚悟した俺も段々と落ち着いてくるのだから番っていうのは不思議なものだ。楓君が傍に居てくれるだけで幸せな気持ちになれるんだ。
そして俺がベッドから出られたのはそれから10日は経った後だった。
やっと会えた奏は俺の事を見るなり抱き着いてきて、泣きながら俺の首の辺りをあむあむと噛み続けた。痛くはないのだけど首のまわりがヨダレでべとべとになるのと楓君の機嫌が悪くなるから本当にこの癖は止めて欲しい。
そう、これが奏の困った癖だ。
いつもは複雑そうな顔をするだけで何も言わなかった楓君が、今日は違った。奏の頭にそっと手を置いて、
「奏、薫さんは俺の『番』だ。お前の『番』は別にいる」
と静かだけどはっきりと言い聞かせるように言ったんだ。
え?番?もしかしなくてもこれってそういう事だったの?
あ、だからこれが始まった頃から楓君は奏をΩとして心配しなくなった?
あの時言った奏をαだという言葉はちゃんと根拠があったんだ。
奏はびくっと一瞬だけ身体を震わせ、それからは俺の事を噛まなくなった。
あれから何事もなかったように平和な日々が続き、奏は『α』だと分かった。そしてαだと思われていた彼方君の方が『Ω』だった。
Ωというのはいくら時代が変わったからといって未だにその社会的地位は低く冷遇されがちだ。性的な被害に合う事も多い。番を持ち美人でも可愛くもない俺ですらあんな目にあったのだから、美人である彼方君はもっと危険だ。
俺は勿論の事、楓君も彼方君の事を我が子のように大切に思っている。
だから奏がΩじゃなかったからといって、手放しに喜んでばかりはいられなかった。
本当ならどんな二次性であったとしても、自由に安心して生きられる世の中がいいに決まってる。そう思うのに俺にはそうする為には何をしたらいいのかは分からなかった。
だけど楓君はいつの頃からかどんな二次性であってもそれぞれにあった平等でいられる社会であるように、まずは会社から意識改革を始めていたそうだ。
その事でΩを見下し蔑む事がなくなれば理不尽に泣くΩも減るだろう。根付いてしまっている意識はそう簡単に変えられるものじゃないからすぐには実を結ぶ事はないだろうけど、楓君がやろうとしている事は確かに意味のある事で、どんなに大変でもきっと楓君ならやり遂げられると思った。
それとは別にいつの時代も、こんな世の中であっても愛し合う相手がいる事は幸せだ。それはどんな二次性だってどんな容姿をしていたって関係ない。
だからどうか、奏も彼方君も素敵な相手と出会い、愛し愛されますように――。
俺は楓君の腕の中で、みんなの幸せを願うと同時に楓君に出会えた事を神さまに感謝した。
-おわり-
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