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第20問
しおりを挟むジュリの身体を抱きしめて数分した時、彼が軽く身じろぎした。そして、晴也の背中に腕を回すとゆっくりと撫でてくれる。
「なあ、また辛いこと、思い出しちまった?」
その言葉は少しも棘が無くて、晴也の涙でぬれた心を溶かしてくれた。
晴也は小さくうなずく。すると、ジュリの大きな手が晴也のぼさぼさになった頭を撫でてくれる。
「もしかして、俺だけの女の子、ってあんまり好きじゃなかったとか?」
違う。そんなことで泣くかよ。自分の願望があまりにも無謀で情けなくて、とてつもなくどうしようもないことに気付いてしまったから涙が止まらないんだ。
女の子になりたい。なれない。なりたい。思いが揺らぐ。だって女の子になれるわけないだろう。例え、性転換手術を受けたとして晴也が女になったとしても、晴也の時の流れはもう一生戻らない。ゆっくりと自分は大人になり、老いて行く。たとえ女になれても、少女にはなれないのだ。でも、諦められない。
けれど、晴也はもう大学生だ。世間で言えば、青年という扱い。大人の類に入る。もう子供でもないのだ。初めて女装をしたあの時はまだ16歳だった。また背を低くて体も小さかったから、本物の少女のようだった。あれからもう数年経ってしまった。
ジュリの服を握り締めて、晴也は声を絞り出した。
「…俺、女の子になれない」
「なんで?俺だけが女の子にしてあげるって約束しただろ」
「無理だ。俺…、もう19歳になるし。穢れを知らないなんて嘘だ。本当の少女なら、セックスって言葉もなんにも知らない。女性の身体の仕組みだって、エロ雑誌だって見たことない。でも、俺は…」
「そんなの今どきの女の子だったら知ってるって。みんなませてるからな、男の子の下半身と自分の下半身が違うことも。セックスのことだって知ってる。エロ雑誌…は分かんないけど、興味ある子だったら一回くらいは見たことあるんじゃないか?
別にそんなことで女の子になることを諦めなくていいだろ。はるが女の子になりたいって思うならそれで十分だろ」ジュリは晴也の背中を強く抱きしめてそう言った。
「でも、俺…男、だから。歳を取れば女の子の服だって着られなくなる」
男は年齢と比例して身体が少しずつ成長していく。途中で止まることもあるが、19歳の晴也はまだまだ成長していくだろう。この細くて薄い身体も、170センチの身長もあっという間に大きくなっていくのだろう。その時に、本当に自分は女の子になっていられる自信がなかった。
しかし、その思いはジュリの小さな笑い一つで吹き飛んだ。
「男?歳?そんなの関係ない。はるはいつだってはるだ。可愛いし綺麗だし、今だって女の子の格好をしてなくても可愛い。俺は、どんなお前でも好きだ。でも、はるが女の子になりたいって思い続けるなら、俺の前ではいつでも女の子の服を着てよ。お前を女の子にしてやるって、俺が決めたんだから」
彼は晴也の頭をポンポンと撫でながら優しく言い放った。まるで駄々をこねた子供をあやすように。それはまるで、彼にとって当たり前のようだった。
俺は、芹沢晴也という男はまだ、少女願望を捨てなくていいのか。どうしても自分には何もない気がして、何かを探そうとして。自分にしかない「何か」を求めていた。それがやっと見つかった気がしたのだ。自分にしかできない事。完璧な女の子になること。それが東京に来て達成できたと思った。でも違った。晴也の客は皆、男の晴也が女装しているから一緒にいてくれているのであり、女の子の晴也として見ていない。男だから、男が可愛い女の服を着ているから興味を持っているだけ。そんな簡単なことに気付きもしないなんて。
だからこそ、自分の少女人生は制限時間があると思っていた。
聖年クラブのゆいやつむぎのように、大人の女性になりたくない。本当はそう思っていた。長く務めることを勧めてくるスタッフにも、心のどこかで冷めていた。もう2年もしたら、自分の少女人生は終わる。願望として、一瞬しか叶わないと思っていた。しかし、実際は一度も叶ってはいないし、それは願望だった。叶うわけないことだった。
それを抱きしめてくれている男が、変えてくれた。
嘘か本当かさえも分からない。だってこいつは、女好きの金持ち坊ちゃんだ。世間知らずでいつも訳の分からない事ばかり言っている。でも、信用がしたいと思った。
女の子で居ていいと言ってくれる彼の言葉を心から信じたかった。
「…うん」
ジュリの背中から手を離すと、ゆっくりと彼を向き合う。ジュリは少し泣いていた。
「ってかさ、はるは色々考えすぎ。女の子になれないとか、男だからとか。俺、最初に言ったじゃん。お前が女の子の服着てようが着てなかろうが、お前のことが好きなんだって。だから、はるが女の子になりたいって思うならそれでいいんじゃないの?
だって人生って一度切りじゃん。自分のやりたいことをやらないと楽しくないし、詰まんないじゃん。世の中、性別に区切られて生きるのなんておかしいと思うけどな。女だって男になりたいって思うし、そうしたら男だって女の子になりたいって思ってもおかしくないだろ?まあ、きっと。はるはもっと色々考えてるんだろうけど」
その言葉に晴也は目を丸くして涙を流した。
どうしてこんな人が、こんなにも優しい言葉をかけてくれるのだろうか。ジュリはきっと、他の人生があった。晴也なんて女の子になりたい男を好きなる以外にも様々な道が。彼の周りにはたくさんの運命の成功が転がっている。両親に見放されて一人暮らしをしている、と彼は言っていたが正直、就職先が父親の企業であることは完全に見放されていない証拠だろう。誰もが羨ましがるエリートコース。しかも彼は頭の悪いふりをしているだけだ。本当はあんな誰でも行けるような大学にいる人間ではない。確かに晴也の選んだ大学は中の上くらいの程度だが、ジュリの頭脳ならば都内の名門校など簡単に入学できただろう。
なのに、神田樹里はこんなところで晴也に優しい言葉をかけてくれている。
大学の女子生徒が知ったら、顔を真っ赤にして怒るだろう。彼の取り合いだって始まる。こういう時の女の恨みはすごいってテレビで言っていたのを見たことがある。
ジュリは眼のふちに溜まった己の涙を指で拭うと、少し微笑んだ。
「笑っててくれよ、ずっとなんて言わないから。はるは笑顔が一番かわいい」
ぼさぼさの短髪にろくに化粧もしていないこの顔を可愛いと。少女みたいだと言ってくれる目の前の神様のような男は、本当に神様のようだった。
いいや、神がアダムとイブを作ったというのならば、ジュリは神様ではない。男が男を愛するなんて禁忌だ。時代の流れとともに少しずつ緩和されていった同性愛という者はいまだに人々の心に異論を残している。反発する意見も、気持ち悪がる人間もいる。それを晴也は良く知っていた。女の子の格好をする男も、それを一緒だからだ。最悪、晴也は女装した状態で出歩いていても男と思われることはないが、SNSでは女装男子に対しての批判は絶えることはない。
それでも、こんな俺でもいいのか。
泣きそうになるのを必死に我慢して、ジュリの言葉に頷く。女の子にさせてくれる。俺のことを、女の子の格好をする俺を好きでいてくれる。それだけで十分だ。でも、ジュリに何も返せないのは辛かった。
晴也はジュリの腕を握り締めると、ゆっくりと自分の太ももに置いた。ジュリの手はほんのりと暖かい。生きているから当然なのだろうが、晴也は気が気でなかったので手が冷え切っていたと思う。人生で初めて、自分の意志で、己の身体を触らせるのだから。
「…はる、無理しなくていいって。俺、大丈夫だからさ」
「大丈夫、じゃないだろ。いい、無理してないから。俺、ジュリになら身体のどこ触られてもきっと嫌、じゃないと思う」
自分の言葉の意味を知らないわけがない。だからこそ、晴也の手は震えていたし冷たくなっていた。緊張していたのだ、こんなにも自分の身体を誰かに触らせるのも。告白を受けて、受け止めて。ここまでやってこられたのも。たった一日の間だとしても、高校生の時の晴也ではできなかったことだ。
きっと、晴也もジュリも初めて出会った時からこうなることを分かっていたように思う。やばい奴と思っていたけれど、彼のことを心のどこかで実はいい人間なんじゃないか、と期待してしまうほどには。
「いいの?」晴也の言葉に大きく間を開けてジュリが聞き返した。それに対して、晴也は小さく首を縦に振った。
ジュリの手のひらが優しく太ももを撫でる。晴也はゆっくりと手を離して、ジュリの手の温度を感じ取る。暖かい、男の人の手だ。少しざらついていて、指先はかさついている。爪が短くて引っかかることはない。中指にタコがある。勉強をたくさんしてきたから、タコができてしまったのかな。なんて考えながら、ジュリに身体を寄せる。
するとジュリが突然手を止めた。それに伴って顔を上げると、ジュリは真っ赤な顔をして晴也を見つめていた。じっと至近距離で目が遭って晴也も顔を赤くする。
「…な、なんだよ…」
思わず出てしまった晴也の声にジュリは太ももから手を離す。
「お、お前…本当に処女?男と付き合ったことない?」
「だからないって、お前が初めて」ジュリの言葉に晴也が眉をひそめて返すと、ジュリは両手で顔を抱えた。
「…天然記念物かよ…最高すぎる」
「はあ?」
経験のない晴也には全く分からなかったが、晴也の行動はまるで男を惑わす女のようだったという。色々な経験を経てきたジュリにとって、晴也はまるで毒リンゴのようだった。美味しそうに惑わず魔性の女。表現としてはそうなるだろう。しかし、晴也にとっては分からなかった。
ジュリのあまりにも意味不明な発言に眉をひそめていると、目の前のジュリが嬉しそうに笑った。
「お前、笑った顔も可愛いけどさ。変な顔も可愛いんだな」
「変な顔って言うなよ。ジュリが変なこと言ったんだろ。天然記念物ってなんだよ、こっちは人だわ」
「そういう意味じゃねえわ」あはは、と笑いながらジュリが晴也の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。ジュリは弟の割には随分と年下の扱いに慣れているような気がした。親戚に年下の子供でもいるのだろうか。
「お前が永遠に少女になりたいって思うなら、それはもう天然記念物だし。てか、はるレベルの顔で処女とか。このご時世もまだ救いがあるなあ、なんて思っただけだよ」
「人を薄汚れた世間と一緒にするなよ。こちとら田舎から上京してきた田舎者だからな」
「そうだった、お前は田舎者だった」
二人して身体をくっつけて笑っていると、晴也の心が温かくなっていく。
先ほど冷え切っていたのがまるで嘘のようだ。この男、神田樹里という男は本当に自分のことを、いいや男でも女の格好している自分でも好きだということなのだろう。天然記念物。そんなことを晴也に言うならば、ジュリだって天然記念物そのものじゃないか、なんて言いそうになって晴也は笑った。
「そうだ。晩御飯食べて帰るだろ?なんか作ろうか」
この部屋に来て、色々あって。もうすっかり外は真っ暗になっていた。昼食を取ってからもうかれこれ時間が経っている。それに自宅にあげておいて何もしないというのも、晴也は申し訳なく思ったのだ。
しかし、ジュリは違った。
「いや、良いよ。そろそろ帰るから」
先ほどまでくっつけていた身体を離すと、ジュリは早々に帰り支度を始めた。
洗濯して乾燥機までかけてやった皴だらけの服を着なおすと、自分の来ていた晴也の部屋着を畳んで返してくれた。
「別にこんなに早く帰らなくても…晩御飯くらい…」
当たり前のようにまだここにいると思っていた。先ほどのように身体をくっつけて、笑いながらご飯を一緒に食べてくれるとばかり思っていた。急に消え切っていく空気に晴也は黙り込む。
「ごめん。今日はこの後予定が入っててさ。まだ今度、晩御飯は食べにくる。それにこれからは遠慮なく家に来るから、そんなに寂しがるなよ」
「寂しがってないわ。ってか、急に来るなよな。俺だって仕事で居ないことの方が多いし」
「了解。家行くときには連絡するわ」
少ない荷物をもってジュリを玄関まで見送る。彼は少しも寂しそうな顔をしていない。まるで帰るのが当たり前のような顔をしていた。
寂しくないと言ったらウソになる。正直、晴也は感情に正直だ。仕事中でも仲の良い客と別れて帰る時は寂しいと感じるし、一人暮らしとなった今は家に居ても一人だ。誰もいないというのは悲しい。
しかし、ジュリはそんなのお構いなしに靴を履くとドアノブに手をかけた。
「じゃ、また今度な」
「あんまりしょっちゅう家に来るなよ」
「分かってるって」ドアノブをひねって、ドアが開くとジュリはさっさと姿を消してしまった。相当急いでいたのか。それほど大事なようがあったのか。まあ、大手企業の次男坊だし、それなりに用事も管理されているのだろう。いくら縁を切られたと言っても、血筋は繋がっている訳だし。
晴也は閉ざされたドアに鍵をかけると、静かになった自室にため息をついた。
ああ、そうだ。仕事の連絡が来ていたのだった。早めに返しておかないといけない。それに、明日はシフトで常連さんの接客だ。夜からの仕事とはいえ、服やアクセサリーは早めに選んでおかないと。
なんだか、ジュリと一緒にいた時間はあっという間だった。あれだけ親密に他人と話をしたりするのは人生で初めてだった。いつも友達にも家族にも本当の自分を隠していた晴也は、心の底から誰かを信頼したことはなかった。口を滑らせて女装していることを言ってしまったら、なんて考えて、いつも口を開かずにいた。だからジュリと気兼ねなく話ができた時間はとても楽しかったのだろう。
クローゼットを開けて明日の服を選ぶ。常連の客となると、服の好みがある。それに合わせておかないと。ええと、明日の人は清楚系が好みの人だったっけ。だったら、王道の白で行くかな。丈は長めで夏らしく、半そでのワンピース。アクセサリーはあまり派手じゃないのにして、そうだな…夏だしシェル系のものを付けるかな。去年のセールに買った夏用のアクセサリーを付けられるのは嬉しい。
髪はやっぱり王道にロングの緩めカールだな。色は抑え気味のアッシュブラウン。メイクはいつも通りのあんまり派手じゃないメイクで行こう。
すべてを用意して服はハンガーラックに、アクセサリーはドレッサーの上に。ウィッグも一緒に置いておく。メイク用品や香水はしまってあるのでそのままだ。うん、やっぱり女の子の服を選ぶのは楽しい。早く明日にならないかな、こんなかわいい服を着て外を歩けるなんてちょっと前までは夢のようなことだった。それが今、現実になっている。
ベッドにゴロンと転がって天井を見つめていると、呆然と眠くなってくる。ああ、まだ夕飯も食べていないし。もう一度ちゃんと湯船につかってストレッチとかマッサージしないといけないのに。考え込んでいると、晴也はそのままうつらうつらと眠ってしまった。
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