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逸れ猿4
しおりを挟む女の視線が娘のいる部屋に向かう。
「……あの娘は、躊躇うことをしなかったみたいね」
「……ああ」
切なげな女の声に白い狼は頷く。
女の眼に浮かぶのは羨望と嫉妬が、入り混じった複雑な感情。
自分もなりたいと願い、でも、あがいても、自分以外の誰かにはなれない羨望。
わかっていても、想わずにいられない感情。
そして、自分も、そうなりたかった。もうなれない。自分が掴むことのできなかったのを掴むことができた者への嫉妬。
白い狼は、女を酷いなどと責めることができなかった。自分も同じ愚かな過ちをおかそうとしていたのだから、白い狼には女の気持ちがよくわかる。
一年前のあの時、白い狼は娘を自分の元から人間の村に暮らさせようとした。
娘を人間の世界で暮らす方が娘の為になる。娘が幸せに生きられると考えた。しかし、それは、娘の為ではなく、自分自身の為。
白い狼は娘が自分の前から去ってしまうのが怖かった。行くなとみっともなく縋り付いて振り払われて、呆れて見離されるのなら、自分から娘を手離そうと思った。
それなのに、娘は村の暮らしを拒み、白い狼と共にあることを選んだ。
白い狼は〈化け猿〉を知らない。〈化け猿〉がどんな思いであったかわからない。
もしかすると、〈化け猿〉も恐れていたのかもしれない。自分と女では、共に生きられない。だから、あの時、女を突き放したのではないのか。
だから、〈化け猿〉と女は、互いに手を伸ばすことをしなかった。
翌朝。嵐が通り過ぎ、晴れ晴れとした青空が広がる。
「ありがとございました」
「気をつけてね」
娘と白い狼は、見送る女に礼を言って、出発した。
歩きながら、白い狼は一年前の夜の事を思い出す。あの時、白い狼は娘と共に生きると決めた。何が何でも娘を離さないと白い狼は自分自身に誓った。
みっともないと言われようが、白い狼は娘を手放したりなどしない。娘が白い狼から逃げようとしても、白い狼は決して娘を逃したりなどしない。
娘の後ろを歩く白い狼は、娘の手を取る。手を掴まれた娘は驚きながらも嬉しそうに、白い狼の手を握り返した。
「若いっていいわね」
白い狼と娘を見送った女は、躊躇いなく、手をのばした若き彼らの姿に女は笑う。
自分とは、異なる選択をした彼らが羨ましい。
女は彼らの幸せを願う。彼らが悲しむことがないようにと願う。
〈化け猿〉を失い、あの日から悲しみにくれたが、今は悲しむことはない。女はもう独りではなくなった。
「母、帰った」
「あら、お帰りなさい。遅かったわね」
家に入ろうとしていた女に、籠を背負った男が続けて入る。
「山のモノに捕まった。これ、土産」
男は山の幸が入った籠を下ろす。その時、微かに家に残る匂いに、男は女に尋ねた。
「誰か、いた?」
「ええ、旅の方が泊まったのよ。もう行かれたわ」
「そうか」
素っ気なく男は返す。女を母と呼ぶ男には、猿のしっぽがついていた。
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〈化け猿〉の子を守るために、女は村を出て、人里から離れたこの家で暮らした。
辛いこともあった。それでも、女は諦めることをしなかった。
・・・生きろ・・・
あの時、自分を裏切った女に〈化け猿〉が告げた言葉。
〈化け猿〉を裏切った自分には、そんな価値はないかもしれない。それでも、最後の〈化け猿〉の言葉を守りたかった。
「私はあなたの妻になれて幸せだったわ」
どこからか、猿叫の声が聞こえた。
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