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【第三章 海へ】第一節 江浙の旅
マカオ ひとを殺した罪に悩む青年と
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杉沢についていくと、店のそとに置かれた背の高い小さな円卓を挟みポルトガル人と、杉沢と同じ髪型の男とが向き合い酒を傾けながら話をしていた。
ポルトガル人のほうは身なりが整い巍然たる風態で、店内で騒ぐポルトガル人たちとは一線を画している。
日本人のほうは、髪は整っているが衣服はずいぶんと痛んでいる。背丈が花蓮と同じくらいしかなく顔も体も痩せていることもあってずいぶんと気弱にみえる。ただ、となりの円卓にその従者らしき者がふたりいるので身分が低い者ではなさそうだ。
杉沢によれば、ポルトガル人の名はアルヴァロ・ヴァス、日本人の名は弥次郎。弥次郎は薩摩の山川港の出身で、昨年秋にある事情により殺人を犯し、ちょうど山川港に停泊していたポルトガル船の船長ヴァスの紹介で、同じく山川港にいた別のポルトガル船に乗せてもらいマラッカへ逃亡した。マラッカで半年が過ぎて、薩摩に残している妻子のことが気にかかり密かに帰国することにしマカオを経由して日本へ向かった。ところが嵐に遭い、やむをえず中途で引き返しマカオに戻った。マカオで途方に暮れていたところ杉沢に出会い、彼の船で働かないかと誘われた。杉沢は双嶼で年を越したあと博多に戻る予定なので、それまでのあいだだけ働いたのち帰国してはどうか、と誘ったのだ。弥次郎はいったんその気になったのだが、小一時間前にたまたまこの店で酒を飲んでいたヴァスに声を掛けられた。ヴァスはマラッカへ向かう途中でマカオに立ち寄ったのである。弥次郎はヴァスに自分の船でもう一度マラッカへゆかないか、と誘われた。
杉沢は奥のカウンターから持ってきたワイン・グラスをヴァスと弥次郎の前に置きながら、弥次郎に訊いた。
「それでどうだ。考えはまとまったかい。北へゆくか、南へゆくか」
「実は、杉沢さんのお話のほうを断らさせていただこうかと考えていました。せっかくのお誘いなのに申し訳ないのですが。やはり私は洗礼を受け、キリスト教徒になりたいのです」
「洗礼を受けずに日本に帰ることにしたのだろう。どうして気が変わったんだい」
「気が変わったわけではありません。マラッカでは洗礼を受けさせてもらえずやむを得ず帰国することにしたのです。教区司祭は、私が国に妻を残しており、いずれ国に帰るつもりであることを知ると、『国に戻って異教徒の妻と暮らすつもりならば洗礼を施すことはできない』といって拒んだのです」
杉沢が弥次郎との会話の内容を訳してヴァスに聞かせると、ヴァスが口を開き、
「異教徒の妻があるからといって洗礼を施さないというのはおかしい。私の友人でもあるパードレ・マエストロ・フランシスコは喜んで弥次郎に洗礼を施すはずだ。いま彼はアジアへの布教のための人材を求めており、弥次郎は日本への道案内になれる。彼は弥次郎を大いに歓迎するだろう」
東洋への布教をめざすフランシスコ・ザビエルは一五四五年九月にマラッカに着き、翌一五四六年初から一年三ヶ月にわたってモルッカ諸島で布教活動をおこないマラッカに戻った。弥次郎が薩摩から逃げマラッカに着いたのはちょうどザビエルがモルッカ諸島へいっていて不在のときだったのである。
杉沢がいった。
「つまり、そのザビエルというひとに会えば洗礼を受けられるということか」
「はい。いまマラッカに戻れば会えるはずとのことです」
「君の妻子は君がいなくなって困っているはずだ。それでもマラッカに戻りキリスト教徒になりたいというのか」
と杉沢が訊くと、弥次郎はこくりとうなずいた。
「君がそう決めたのならば、そうすればいいと思う。ただ、聞かせてくれないか。どうしてそうもキリスト教徒になりたいのか。キリスト教のことを知りもせずにいうべきことではないのかもしれないが、妻子や祖国を捨ててまで信じるべきことなのか――」杉沢は顎をさすり考えて、「もしかして君が殺人を犯したことと関係があるのか。キリスト教徒になれば、その罪が消えると考えているのか。キリスト教の神様が罪を肩代わりしてくれるのか」
「そんなことはありません」
と、弥次郎は多少感情的にいった。
「むきになると図星をさされたようにみえるぞ。まあ、神様が罪を肩代わりしてくれると思ってはいなくても、ひとを殺したことによる君の苦悩が多少なりとも癒されるということなのではないのか」
弥次郎は少し間を空けてから「そうかもしれません」とつぶやくようにいった。
「つまり君は自分のためにキリスト教徒になろうとしているのだな。しかし、君の家族の生活は相当に苦しいだろう。君は自分の心の平安のために家族を苦しませている」
弥次郎はうつむいてしまったが、ようやく首を少し上げてヴァスに訊いた。
「いつごろ日本に戻ることができるでしょうか」
「パードレの判断次第だが、おそらくインドのゴアの聖パブロ学院でキリスト教を学び、そののちにパードレとともに日本へ渡ることになる。だとすれば二、三年後となろうか」
杉沢が強い口調でいった。
「二、三年ものあいだ、君の家族は貧しいどん底の暮らしを強いられる。君は死んだと思っているだろうから、そんな生活が永遠に続くと思わなければならない。むごいことだ」
対照的に弥次郎はかぼそい声で、
「私が薩摩に戻ろうとしたとき、故郷を目の前にしながらマカオへ押し戻されたことも、嵐で死ぬ思いをしながらもこうして生きながらえたことも、みな神の思し召しではないかと思うのです。神が私に日本の人々の心を救うために働けと命じておられるのではないかと」
杉沢はやれやれと首を横に振った。
この会話は日本語とポルトガル語とでなされており、花蓮には全く聞き取れていない。杉沢はここまでの会話の内容を北京語に訳して花蓮に聞かせた。
そして弥次郎に向きなおり、いった。
「あいにく神も仏も信じないのでね、神の思し召しとかいわれても、たわごとにしか聞こえない。ただ、もし仮にそれが本当に神様の思し召しとやらだったとしても、君が神様の命に従わなくてもきっとほかの誰かが君の代わりになる。しかし、君の家族を救うのは君だけだ。代わりはいない」
弥次郎はまたうつむいた。
杉沢が花蓮にいま自分がいったことばを訳した。聞き終わり、花蓮がいった。
「おもしろいわ。本当におもしろい。海を渡って遥か遠い異国へいったというのも、帰ろうとして帰れずに放浪しているというのも、私とはまるで別世界のことで思い悩んでいることも」
岑匡が、
「真剣に悩んでおられるのに、そんないいかたはありませんよ」
と窘める。しかし花蓮は杉沢を指さして、
「あなたもおもしろい。名家の出の武人でありながら商人になり、あちらこちらと飛び回っているなんて。あなたについては羨ましくもあるわね。好きなように生きられて」
杉沢は苦笑した。花蓮が続け、
「あなたは、弥次郎は家族を犠牲にして自分の心の平安を得ようとしているっていったけど、ちょっと違うと思う」
「どう違うのです」
「弥次郎は外国の宗教をおもしろいと思い、それをもっと知りたいと思っているだけなのではないかしら」
「そうだとしたら、それは殺人の苦悩から逃れること以上に自分中心な考え方ではありませんか」
「私は、杉庄が好きなことをやっていることを羨ましく思うし、すばらしいことだとも思う。誰かがなにかやりたいことをやろうとしているのであれば、それをあと押ししたいと思うわ。単にひとを殺した苦悩から逃れようとしているのならば、そんなこと我慢しなさい、っていいたくなるけど、心からやりたいことがあって行動しようとしているひとがいれば、がんばって、と応援したくなるわね」
「宗教を学ぶことがそんなにやりたいこととは思えないのですが」
「ひとそれぞれでしょう」
杉沢は首を傾け、理解できない、という顔をしている。
「じゃあ、キリスト教が倭国に来れば多くの人の心が救われる、だからその手助けをしたいと強く思っているとしたらどうかしら。それならばあなたの硬い頭でも理解できるんじゃないの」
「それならまだわかりますが、しかし――」
「私は、妻子のことなど気にする必要はないといっているのではないのよ。弥次郎が妻子のために日本に帰ることが最も大事だと思うのならばすぐに帰国すべきだし、それより先に宗教を学ぶことが大事だと思っているのなら、そうすべきだといっているの。そして、心の命じる声を聞いたならば、もう悩まずにさっさと実行しなさい、と」
花蓮の思考はアクが強く、それは、もともとの恬淡として思い切りのよい性格と王陽明に教えられたものとが混ざり合って形成されたものである。杉沢が江戸期の武士であれば理解できただろうが、陽明学の光を浴びていない彼には花蓮のことばは容易に伝わらない。
怪訝そうな顔をしている杉沢に向かい、花蓮は問うた。
「あなたは好き勝手にやりたいことをしているのに、人にはやりたいことを諦めろというのはおかしくないかしら」
「私には妻も子もおりませんから」
「弥次郎には妻と子があるからやりたいことを諦めろといっているということね」
「まあ、そうなりましょうか」
「ならば簡単じゃない」
「えっ?」
と杉沢は驚いた。花蓮は弥次郎に向きなおり、いった。
「弥次郎。ゆきなさい、マラッカへ。なにも心配することはない。あなたの家族のことは杉庄がなんとかするわ」
杉沢は慌てて花蓮の北京語を日本語に訳して弥次郎に聞かせてから、花蓮に対して
「なに勝手なことをいっているんですか」
と、驚き顔で噛みついた。しかし花蓮は飄々と、
「あなたが日本に帰ったついでに弥次郎の家族に『弥次郎は生きている』と知らせなさい。それから、弥次郎の家族の生活のための資金をあなたが出しなさい」
「なんですって」と杉沢が驚き、岑匡が「話が飛躍していますよ」と注意した。
「いいじゃない。杉庄、あなた儲かっているのでしょう。そのくらい、あなたにとってはなんでもないでしょう。私たちの運賃だって、あなたはもともと双嶼にゆく予定だったのだから、おまけの収入じゃない。それをそのまま弥次郎の家族にあげなさいよ」
「いやいや、人間だけならまだしも、馬七頭は結構な荷物ですよ。その分ほかの荷を積めなくなります」
「細かいことをいうのねぇ。まあ商人としてはそのくらいのほうがいいのかもしれないけど」
「お褒めいただいたものと考えましょう」
花蓮は「ふん」と鼻から息を強く吐き、
「じゃあ、もういいわ。私が出すわよ。弥次郎が帰ってくるまでの二、三年、妻と子が暮らすのにいくら必要かしらね。それを運賃に上乗せして払うから、あなたが薩摩まで届けなさい」
弥次郎が杉沢の袖を引き訳を促したが、杉沢の訳より先に花蓮がいった。
「まさか薩摩に届ける手間賃まで私に出せとはいわないわよね」
「も、もちろんそれくらいは負担しますが」
「じゃあそういうことね。よかったよかった。解決、解決」
と、花蓮は無邪気にいった。
杉沢は、「わかりましたよ。私も出しますよ。あなたに全額出させるわけにはいかない」と不満げな口調でいったが、顔は笑っている。
ふたりの会話を聞き取れない弥次郎は、花蓮と杉沢の顔を交互にみている。
ヴァスは弥次郎以上に会話の流れをわかっていないはずだが、全てを理解したというように、首を縦に深く二度振った。
ポルトガル人のほうは身なりが整い巍然たる風態で、店内で騒ぐポルトガル人たちとは一線を画している。
日本人のほうは、髪は整っているが衣服はずいぶんと痛んでいる。背丈が花蓮と同じくらいしかなく顔も体も痩せていることもあってずいぶんと気弱にみえる。ただ、となりの円卓にその従者らしき者がふたりいるので身分が低い者ではなさそうだ。
杉沢によれば、ポルトガル人の名はアルヴァロ・ヴァス、日本人の名は弥次郎。弥次郎は薩摩の山川港の出身で、昨年秋にある事情により殺人を犯し、ちょうど山川港に停泊していたポルトガル船の船長ヴァスの紹介で、同じく山川港にいた別のポルトガル船に乗せてもらいマラッカへ逃亡した。マラッカで半年が過ぎて、薩摩に残している妻子のことが気にかかり密かに帰国することにしマカオを経由して日本へ向かった。ところが嵐に遭い、やむをえず中途で引き返しマカオに戻った。マカオで途方に暮れていたところ杉沢に出会い、彼の船で働かないかと誘われた。杉沢は双嶼で年を越したあと博多に戻る予定なので、それまでのあいだだけ働いたのち帰国してはどうか、と誘ったのだ。弥次郎はいったんその気になったのだが、小一時間前にたまたまこの店で酒を飲んでいたヴァスに声を掛けられた。ヴァスはマラッカへ向かう途中でマカオに立ち寄ったのである。弥次郎はヴァスに自分の船でもう一度マラッカへゆかないか、と誘われた。
杉沢は奥のカウンターから持ってきたワイン・グラスをヴァスと弥次郎の前に置きながら、弥次郎に訊いた。
「それでどうだ。考えはまとまったかい。北へゆくか、南へゆくか」
「実は、杉沢さんのお話のほうを断らさせていただこうかと考えていました。せっかくのお誘いなのに申し訳ないのですが。やはり私は洗礼を受け、キリスト教徒になりたいのです」
「洗礼を受けずに日本に帰ることにしたのだろう。どうして気が変わったんだい」
「気が変わったわけではありません。マラッカでは洗礼を受けさせてもらえずやむを得ず帰国することにしたのです。教区司祭は、私が国に妻を残しており、いずれ国に帰るつもりであることを知ると、『国に戻って異教徒の妻と暮らすつもりならば洗礼を施すことはできない』といって拒んだのです」
杉沢が弥次郎との会話の内容を訳してヴァスに聞かせると、ヴァスが口を開き、
「異教徒の妻があるからといって洗礼を施さないというのはおかしい。私の友人でもあるパードレ・マエストロ・フランシスコは喜んで弥次郎に洗礼を施すはずだ。いま彼はアジアへの布教のための人材を求めており、弥次郎は日本への道案内になれる。彼は弥次郎を大いに歓迎するだろう」
東洋への布教をめざすフランシスコ・ザビエルは一五四五年九月にマラッカに着き、翌一五四六年初から一年三ヶ月にわたってモルッカ諸島で布教活動をおこないマラッカに戻った。弥次郎が薩摩から逃げマラッカに着いたのはちょうどザビエルがモルッカ諸島へいっていて不在のときだったのである。
杉沢がいった。
「つまり、そのザビエルというひとに会えば洗礼を受けられるということか」
「はい。いまマラッカに戻れば会えるはずとのことです」
「君の妻子は君がいなくなって困っているはずだ。それでもマラッカに戻りキリスト教徒になりたいというのか」
と杉沢が訊くと、弥次郎はこくりとうなずいた。
「君がそう決めたのならば、そうすればいいと思う。ただ、聞かせてくれないか。どうしてそうもキリスト教徒になりたいのか。キリスト教のことを知りもせずにいうべきことではないのかもしれないが、妻子や祖国を捨ててまで信じるべきことなのか――」杉沢は顎をさすり考えて、「もしかして君が殺人を犯したことと関係があるのか。キリスト教徒になれば、その罪が消えると考えているのか。キリスト教の神様が罪を肩代わりしてくれるのか」
「そんなことはありません」
と、弥次郎は多少感情的にいった。
「むきになると図星をさされたようにみえるぞ。まあ、神様が罪を肩代わりしてくれると思ってはいなくても、ひとを殺したことによる君の苦悩が多少なりとも癒されるということなのではないのか」
弥次郎は少し間を空けてから「そうかもしれません」とつぶやくようにいった。
「つまり君は自分のためにキリスト教徒になろうとしているのだな。しかし、君の家族の生活は相当に苦しいだろう。君は自分の心の平安のために家族を苦しませている」
弥次郎はうつむいてしまったが、ようやく首を少し上げてヴァスに訊いた。
「いつごろ日本に戻ることができるでしょうか」
「パードレの判断次第だが、おそらくインドのゴアの聖パブロ学院でキリスト教を学び、そののちにパードレとともに日本へ渡ることになる。だとすれば二、三年後となろうか」
杉沢が強い口調でいった。
「二、三年ものあいだ、君の家族は貧しいどん底の暮らしを強いられる。君は死んだと思っているだろうから、そんな生活が永遠に続くと思わなければならない。むごいことだ」
対照的に弥次郎はかぼそい声で、
「私が薩摩に戻ろうとしたとき、故郷を目の前にしながらマカオへ押し戻されたことも、嵐で死ぬ思いをしながらもこうして生きながらえたことも、みな神の思し召しではないかと思うのです。神が私に日本の人々の心を救うために働けと命じておられるのではないかと」
杉沢はやれやれと首を横に振った。
この会話は日本語とポルトガル語とでなされており、花蓮には全く聞き取れていない。杉沢はここまでの会話の内容を北京語に訳して花蓮に聞かせた。
そして弥次郎に向きなおり、いった。
「あいにく神も仏も信じないのでね、神の思し召しとかいわれても、たわごとにしか聞こえない。ただ、もし仮にそれが本当に神様の思し召しとやらだったとしても、君が神様の命に従わなくてもきっとほかの誰かが君の代わりになる。しかし、君の家族を救うのは君だけだ。代わりはいない」
弥次郎はまたうつむいた。
杉沢が花蓮にいま自分がいったことばを訳した。聞き終わり、花蓮がいった。
「おもしろいわ。本当におもしろい。海を渡って遥か遠い異国へいったというのも、帰ろうとして帰れずに放浪しているというのも、私とはまるで別世界のことで思い悩んでいることも」
岑匡が、
「真剣に悩んでおられるのに、そんないいかたはありませんよ」
と窘める。しかし花蓮は杉沢を指さして、
「あなたもおもしろい。名家の出の武人でありながら商人になり、あちらこちらと飛び回っているなんて。あなたについては羨ましくもあるわね。好きなように生きられて」
杉沢は苦笑した。花蓮が続け、
「あなたは、弥次郎は家族を犠牲にして自分の心の平安を得ようとしているっていったけど、ちょっと違うと思う」
「どう違うのです」
「弥次郎は外国の宗教をおもしろいと思い、それをもっと知りたいと思っているだけなのではないかしら」
「そうだとしたら、それは殺人の苦悩から逃れること以上に自分中心な考え方ではありませんか」
「私は、杉庄が好きなことをやっていることを羨ましく思うし、すばらしいことだとも思う。誰かがなにかやりたいことをやろうとしているのであれば、それをあと押ししたいと思うわ。単にひとを殺した苦悩から逃れようとしているのならば、そんなこと我慢しなさい、っていいたくなるけど、心からやりたいことがあって行動しようとしているひとがいれば、がんばって、と応援したくなるわね」
「宗教を学ぶことがそんなにやりたいこととは思えないのですが」
「ひとそれぞれでしょう」
杉沢は首を傾け、理解できない、という顔をしている。
「じゃあ、キリスト教が倭国に来れば多くの人の心が救われる、だからその手助けをしたいと強く思っているとしたらどうかしら。それならばあなたの硬い頭でも理解できるんじゃないの」
「それならまだわかりますが、しかし――」
「私は、妻子のことなど気にする必要はないといっているのではないのよ。弥次郎が妻子のために日本に帰ることが最も大事だと思うのならばすぐに帰国すべきだし、それより先に宗教を学ぶことが大事だと思っているのなら、そうすべきだといっているの。そして、心の命じる声を聞いたならば、もう悩まずにさっさと実行しなさい、と」
花蓮の思考はアクが強く、それは、もともとの恬淡として思い切りのよい性格と王陽明に教えられたものとが混ざり合って形成されたものである。杉沢が江戸期の武士であれば理解できただろうが、陽明学の光を浴びていない彼には花蓮のことばは容易に伝わらない。
怪訝そうな顔をしている杉沢に向かい、花蓮は問うた。
「あなたは好き勝手にやりたいことをしているのに、人にはやりたいことを諦めろというのはおかしくないかしら」
「私には妻も子もおりませんから」
「弥次郎には妻と子があるからやりたいことを諦めろといっているということね」
「まあ、そうなりましょうか」
「ならば簡単じゃない」
「えっ?」
と杉沢は驚いた。花蓮は弥次郎に向きなおり、いった。
「弥次郎。ゆきなさい、マラッカへ。なにも心配することはない。あなたの家族のことは杉庄がなんとかするわ」
杉沢は慌てて花蓮の北京語を日本語に訳して弥次郎に聞かせてから、花蓮に対して
「なに勝手なことをいっているんですか」
と、驚き顔で噛みついた。しかし花蓮は飄々と、
「あなたが日本に帰ったついでに弥次郎の家族に『弥次郎は生きている』と知らせなさい。それから、弥次郎の家族の生活のための資金をあなたが出しなさい」
「なんですって」と杉沢が驚き、岑匡が「話が飛躍していますよ」と注意した。
「いいじゃない。杉庄、あなた儲かっているのでしょう。そのくらい、あなたにとってはなんでもないでしょう。私たちの運賃だって、あなたはもともと双嶼にゆく予定だったのだから、おまけの収入じゃない。それをそのまま弥次郎の家族にあげなさいよ」
「いやいや、人間だけならまだしも、馬七頭は結構な荷物ですよ。その分ほかの荷を積めなくなります」
「細かいことをいうのねぇ。まあ商人としてはそのくらいのほうがいいのかもしれないけど」
「お褒めいただいたものと考えましょう」
花蓮は「ふん」と鼻から息を強く吐き、
「じゃあ、もういいわ。私が出すわよ。弥次郎が帰ってくるまでの二、三年、妻と子が暮らすのにいくら必要かしらね。それを運賃に上乗せして払うから、あなたが薩摩まで届けなさい」
弥次郎が杉沢の袖を引き訳を促したが、杉沢の訳より先に花蓮がいった。
「まさか薩摩に届ける手間賃まで私に出せとはいわないわよね」
「も、もちろんそれくらいは負担しますが」
「じゃあそういうことね。よかったよかった。解決、解決」
と、花蓮は無邪気にいった。
杉沢は、「わかりましたよ。私も出しますよ。あなたに全額出させるわけにはいかない」と不満げな口調でいったが、顔は笑っている。
ふたりの会話を聞き取れない弥次郎は、花蓮と杉沢の顔を交互にみている。
ヴァスは弥次郎以上に会話の流れをわかっていないはずだが、全てを理解したというように、首を縦に深く二度振った。
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