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15. 幼い頃の思い出

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 あれはたしか5歳か6歳頃だったかしら。その日の茶会は王宮の庭園で行われていた。どこの貴族家で開かれるものより、王宮での茶会が一番緊張する。
 何があったか覚えてはいない。けれどその日私は、あまり機嫌がよくなかった。早朝のマナー教育か勉強中に怒られたとか、たぶんそういう理由だったのだろう。連日の猛勉強でストレスが溜まっていたのかもしれない。珍しく行きたくないとぐずって涙を零す私を宥めるために、母が新品のドレスを出してきてくれたのだ。

『ほら、メレディア。見てごらんなさい。綺麗でしょう?』
『ひっく、ひっ……。……。……ええ……』

 それは見惚れるほど美しい空色のドレスだった。軽やかな生地を幾重にも重ねてふわりと広がった膝下までの丈のそのドレスは、纏えばまるでおとぎ話に出てくる妖精になったような気分だった。

『まぁっ!なんて愛らしいんでしょうか、メレディアお嬢様!』
『本当に可愛らしくていらっしゃいますよ。さ、そのドレスに似合う素敵な髪型に結い上げましょうね』

 侍女たちも私の気分を盛り上げるために一生懸命褒めそやしてくれていた。



 そうして出かけたその王宮の庭園での茶会。いつもは一通りの挨拶が終わると、茶会がお開きになるまで母の隣にじっと座っているだけだったのだが、その日は王妃陛下が貴婦人たちに珍しい花を見せたいと言って皆で席を立って移動しはじめた。

『隣国から寄贈されましたの。何でも品種改良を重ねてできたものらしくて、とても幻想的な色合いですのよ』
『まぁ、それは素敵……』
『楽しみですわ、王妃陛下』

 ご婦人やご令嬢方がキャッキャとはしゃぎながら、庭園の中をその花が植えてある場所までぞろぞろと歩いていく。
 その時、私と同じくらいの歳の子どもたちが全然違う方向へパタパタと走りはじめた。とても楽しそうな表情を浮かべて。
 それを見た別の子どもたちも何事だろうと追いかけていく。

『……。』

 何をして遊ぶんだろう。いいな。
 そう思いながらも、他の子たちに交じって母のそばを離れていく勇気はなかった。淑女らしくない行動を、と後からどれほど怒られるか。
 すると、その時。

『っ!!』

 ふいに右手をぐいっと強く引かれ、驚いて一瞬息が止まった。
 反射的に振り返ると、そこにいたのは……

(……トラヴィス殿下……っ)

 いたずらっ子のような顔でニヤリと笑う小さな殿下が、私の手を引き走り出した。

『っ!!で……、でんか……っ』
『おいで。今のうちに遊ぼう』
『え……、えぇっ?』

 いいの?そんなことして。他の子たちはまだ許されるとして……私はダメじゃない?あと、殿下も。

 そうは思ったのだけど、心臓がものすごくドキドキして、トラヴィス殿下に引かれて走るこの足はまるで地面から浮いているようで、これから起こる楽しい出来事に期待する子供心に鞭打って「母のところに戻ります」と言い出すことはできなかった。

 子どもたちは庭園の反対側に集まっていた。いつの間にかアンドリュー様までいた。皆思い思いに楽しんでいる。大きな木に登る男の子たち、それを見ながらキャッキャと囃し立てるように笑っている女の子たち。アンドリュー様は地面を這いずり回っている虫を落ちていた木の枝に掴まらせて遊んでいる。小さな草花を摘んで花束を作っている子や、その花を互いの髪に飾り合っている女の子たちもいた。

(そっか……。お茶会の間中退屈を我慢していたのは私だけじゃなかったのね)

 皆の満面の笑みを見ているだけで私までどうしようもなく楽しくなってきた。心がウズウズして仕方ない。こんな気持ちは初めてだった。

『メレディア、こっちにおいで』
『えっ?……ど、どこへ行くのですか?トラヴィス殿下……。あまり離れない方が……』
『少しだけ。見せたいものがあるんだ』

 だけどトラヴィス殿下はそんな子どもたちの群れから私の手を引いてさらに離れていく。少し不安になってきた。どこまで行くんだろう。ちらりと周りに目をやると、衛兵たちがじっとこちらを見ていた。庭園を出てしまったらすぐにお母様や王妃陛下に報告されてしまう。
 だけど殿下は一番端の生け垣のところまで行くとピタリと止まり、私に背中を向けて屈んだ。

『ほら。乗って』
『……え?』
『俺の背中に乗って、メレディア』
『へっ?!な、なぜっ、……で、できませんそんなこと!』

 びっくりして思わず大きな声を上げてしまう。殿下の背中に乗っかるだなんて。冗談じゃない。母に見られたらお説教では済まない。

『いいから。ほんの一瞬だけだよ。乗らないときっと後悔するぞ』
『…………っ、』
『こんなチャンスもうないかもしれないんだから。さぁ』
『…………。~~~~~~っ!』

 ええい……もうどうにでもなれっ!
 意を決して私はトラヴィス殿下の背中に抱きついた。心臓が破裂しそうだ。
 殿下は片手で器用に私の体を下から支える。お尻にちょっと手が当たってて恥ずかしい。すると殿下は生け垣のそばにある曲がりくねった木を、少しずつ登りはじめた。

『ひゃ……っ!!で、でんかっ!殿下ぁぁっ!』
『よっ……と。ほら、向こうを見てごらんメレディア。ずっと向こうだよ』
『…………。……っ!わぁ……っ!』

 生け垣の向こう側は開けた景色が広がっていた。王宮は小高い丘の上に建っているから見晴らしがとてもいい。王都の街並みのその向こう側には、陽の光にキラキラと輝く海が見えた。

『綺麗だろう?』
『ええ……!本当に……。とても素敵です殿下……!』
『だろ?……なぁ、いつかあそこまで一緒に遊びに行かないか?メレディア』
『えっ?……ふ、二人で、ですか?』
『ああ、二人で。きっと楽しいよ。海辺を走り回るんだ』
『……。ふふ、いいですね。お弁当も持っていきたいです』
『いいな。一緒にサンドイッチとか食べよう!約束だ』
『はいっ』



 もちろんそんな日は決してやって来なかった。
 この後呼びに来た王妃陛下や母の声にびっくりした私と殿下は、その木から落っこちてしまった。そんなに高くなかったし、いつの間にか真下に来ていた衛兵たちが受け止めてくれたから怪我はしなかった。「俺がメレディアを無理矢理連れてきたんだ。怒らないで」と殿下が庇ってくれていたけれど、そんなことは関係ない。その夜は人生でこれほど怒られたことはないというぐらいにみっちり怒られた。

 その夜、ようやくお説教から解放されてベッドに潜り込んでからも、興奮してなかなか寝付けなかった。ずっと心臓がドキドキしていた。

 あれから一度もあんなに心躍る出来事はなかった。子ども時代の、唯一の楽しい思い出。成長するにつれ、私は淑女としてのあるべき姿をどんどん身につけていったし、アンドリュー様もトラヴィス殿下も同じように大人になっていった。

 だけどあの日の出来事は、幼い頃の一番幸せな日の記憶として、今も私の心の奥に大切にしまってある。




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