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41.青い月

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「……すごい……」

 寝室の窓を開けバルコニーに出ると、幻想的な青い月明かりが私の視界いっぱいに広がり、思わず小さくそう呟いた。澄んだ空気はひんやりと冷たく、夜の世界に凛とした気配が漂っている。

(やっぱりネグリジェだけじゃ肌寒かったわね)

 それでも今夜の特別な色に魅せられた私は、空に浮かぶ大きな青い月を見つめながら一歩、また一歩と前に進む。星々の控えめなきらめきはとても優しくて、まるでこのまま夜空に吸い込まれそうな気がした。

(素敵…。今夜は一体どうしたんだろう。こんな月、初めて見るわ…)

 私はそのまま前に進み出て、中庭の花々を見るためにバルコニーの手すりを掴んで真下を見下ろした。

 すると…、



「─────……っ!!」

(…………え……?)



 一瞬、幻を見ているのかと思った。

 青く浮かび上がるような柔らかい輝きを放つ一面の花たちを背に、驚いた表情でこのバルコニーを見上げている人物は、…ついさっきまで私の頭の中を占領していたその人に他ならなかった。

(……エル、ド…。どうして…ここに…?)

 そのしなやかな金髪も、深い翠色の瞳も、今は青の世界に染まりいつもとは違う神秘的な色味を帯びている。騎士の隊服ではなくシャツにトラウザーズという軽装の彼は、普段とはまるで雰囲気が違って見えた。

「……っ、」

 手すりを握る指先に、力がこもる。
 もう花々なんて、目に入らなかった。
 青く輝く月も、星々も、もう何も見えない。
 私の瞳は、ただ彼の姿だけを映したがっていた。ほんのひと時も、目を離したくなかった。

 そして彼の姿を認めた途端に全身を駆け抜けた、このどうしようもない切ない痛みが、私に自覚させた。

 私がどれほど、彼に心惹かれているのかを────



「…………。」
「…………。」

 エルドは何も言わない。私も、何も言葉を紡ぐことができなかった。きっと今声を漏らせば、切なく震えるその声で私の気持ちが彼に伝わってしまうと思ったから。

 私たちは何も言わず、ただ互いのことを見つめていた。

 もしも私の背中に翼が生えていたのなら、きっと私は迷うことなくここから飛び降りたはずだ。

 彼の元へ。

 そう思うほどに、私の心はエルドのことを強く求めていた。今ここにいてくれる彼のことが、愛おしくてたまらない。

 エルド。エルド……。
 今すぐあなたのそばに行きたい。

 ああ、このまま永久にあなたのことだけをずっと見つめていられたら……。



 どれくらいの時間が流れたのだろう。
 ふいに、彼の唇がほんのわずかに動いた。

「……、……にを、」
「……っ?」
「そこで何をなさっておられるのですか、アリア様」
「……あ、」

 何だかとても久しぶりに聞くような、彼の低く穏やかな声。
 その声は少し震えて、掠れていた。

「…ね、眠れなくて…。月明かりがとても美しかったから、少しだけ、外を見てみようかなって…、…それで…」

 私の声は、もっと震えている。口を開いたことで急に現実に引き戻された私は、彼に見とれていた気恥ずかしさでしどろもどろな言い訳をする。

「…夜は冷えます。そんな格好でバルコニーに出ては、風邪をひいてしまいますよ」

 エルドは少し困ったように微笑みながらそう言った。その笑顔を見るだけで、私の心臓がまた痛いほどに大きく跳ね、頬に熱が集まる。

「あ…、あなたこそ…、そんな薄着で…。…いつからそこにいたの…?」
 
 あなたが風邪をひいてしまう。抱きしめて、温めたい。そんなはしたない考えが頭をよぎり、罪悪感で胸がツキリと痛む。

「…さっき来たばかりです。休む前に、離宮の周りを見回っておりました」
「…そう…」

 戻らなきゃ。
 もう彼におやすみを言って、部屋に入らなくては。
 分かっているのに、離れがたい。
 このまま夜が明けるまで、ずっとこうしてエルドと言葉を交わしていたい。
 激しく脈打つ鼓動が、子どものようにそう駄々をこねていた。
 
 ほんの少しの間見つめあった後、エルドがゆっくりと言った。

「…アリア様。本当に美しいですね」
「……え……っ」
「…今夜の月です。とても幻想的だ」
「…ええ。そうね。とても、綺麗だわ」

 本当はもう、月なんて少しも見ていなかったけれど。
 このまま少しでも長く、エルドと一緒にいたかった。

「珍しいわよね、こんな青い月。見られてよかったわ」

 あなたとこんな夜の時間を、一緒に過ごせてよかった。

 決して言葉にすることのできない想いを、心の中でだけ呟く。

「ええ、本当に。…俺も見られてよかったです」

 そう答えてくれたエルドも、私と同じようにこの夢みたいなひと時を喜んでくれているのかしら。

 …ううん。私と同じ、ではないわよね、きっと。
 彼にとって、私はこの王国の王妃、護衛すべき対象でしかないはずだもの。ちゃんと分かってる。

 分かっているのに、わずかな期待をしてときめいてしまう愚かな自分がいる。
 国王の妃でありながら……。

「…そろそろお戻りください、アリア様。あなたに風邪をひいてほしくない」

 こんな優しい言葉一つで、私の心はまた心地良く乱される。

「…そうね。もう戻るわ。…おやすみなさい、エルド」
「おやすみなさいませ、アリア様。…今宵もどうぞ、良い夢を」

 ねぇ、あなたも早くお部屋に戻ってね。あなたこそ風邪をひかないで。いつもずっと、元気でいて。
 
 そんな風に最後に声をかけたかったけれど、少しでも自分の本音を漏らせば涙が溢れてきそうで、私は黙って彼に微笑みかけるとそのまま踵を返し、部屋に入った。



 ベッドに倒れ込み、私は静かに泣いた。
 もうバルコニーに戻りたい。エルドが恋しい。もっとずっと、あなたのその優しい声を聞いていたい。

(…どうして、気付いてしまったんだろう…)

 決して自覚してはいけなかった。結ばれることのない相手。実ることのない想い。
 
 …黙っていれば、許されるのだろうか。
 決して誰にも打ち明けず、悟られず、これまで通りに接していれば、心密かにあの人を想うことだけは許してもらえるだろうか。

(…神様、ちゃんと頑張りますから。誰に貶められようと、裏切られようと、この王国の王妃としてなすべき仕事を最後までやり遂げます。…だから…)

 この孤独と重圧に潰されそうな毎日の中で、彼への想いだけは、どうか私の唯一の救いでいさせてください──────




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