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60. 伝わってない
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静かに耳を傾けてくれている旦那様に、私はその後のエヴェリー伯爵邸での日々を全て打ち明けた。見た目が気に食わないからと髪を切り落とされ、真っ黒な染め粉を毎朝塗るよう強要されたこと。使用人として働かされながら、あらゆる虐待を受けていたこと。あの日スティーブ様から部屋で押し倒され、それを私のせいにされ身一つで追い出されたこと。
あらかた話し終わり沈黙が訪れると、旦那様は低い声で呟いた。
「……そうか」
「……私があの日森にいたのは、ハリントン公爵領を抜けて王都まで行こうと思っていたからです。一番大きな町へ行けば、こんな私にも何か生きる手段が見つかるのではないかと思って……。今思えば、あまりにも無謀でした。極度の緊張や疲れと空腹で、冷静な判断などできていなかったのだと思います。……でも、あの時はあのまま留まっていても、ただ死を待つだけだと思ったんです」
素直にそう打ち明けると、突然旦那様が私の体を引き寄せ、そして強く抱きしめた。
(……っ?? だ、旦那様……?)
混乱する私の耳元で、旦那様の少し掠れた声が響く。
「……生きていてくれてありがとう、ミシェル」
「……」
なぜ、旦那様が「ありがとう」と仰るのだろうか。
爽やかで甘い香りのする旦那様の腕の中でしばし呆然と考えながら、私は旦那様が、この私の存在にそんなにも価値を見出してくださっていたのかと思い、小さく感動する。
(旦那様は、ハリントン公爵邸のメイドとしての私を、そんなにも買ってくださっているってこと……かしら)
真面目に働いてきてよかった。けれど……。
「……ミシェル?」
私は旦那様のその優しい腕からそっと逃れ、あらためて謝罪した。
「旦那様、私はエヴェリー伯爵邸に送り返されるかもしれないという恐怖心から、保身のためにあなた様に嘘をつきました。貴族の娘ではなく、平民だと。一度そこを偽ってしまえば、もう両親のことや素性に関しては何も話せなくなってしまい……。貴族の女性をお嫌いな旦那様の元で、そのことを隠して働くなど、許されることではなかったと理解しています。ひどいお怪我を負わせた上に、こんなにずっと親切にしてくださった旦那様を裏切り続け……。本当に、申し訳ございませんでした」
出て行くべきだったのだ。本当はすぐに。
体力が回復した後、すぐにここを去るべきだったのだろう。
だけど、ここはとても居心地が良くて。旦那様もカーティスさんも、アマンダさんも他の使用人の方々も、皆とても親切で。
自分を偽ったまま、甘えてしまった。そのツケが今回ってきたんだ。そう思った。
けれど。
「っ! ……だ、だんな、さま……?」
旦那様は再びその胸の中に私を誘った。しっかりと抱きしめられ、私の髪には旦那様の唇が触れている。
旦那様はそのまま口を開いた。
「そんなことを詫びる必要はない、ミシェル。君の境遇を聞けば、そんなことを責める気になどなるはずがない。むしろ、私は君と出会えた運命に感謝している。過酷な環境の中で生き抜いた君を、神が私の前に導いてくださったのかもしれないな」
「……旦那様……」
私を抱きしめ髪を優しく撫でながら、旦那様はどこまでも慈悲深くそう言ってくださった。そのお気持ちに、また新たな涙が溢れる。安堵と感謝の思いで、私の胸ははち切れんばかりだった。
(ただのメイド一人に、ここまで真摯に向き合ってくださるなんて……。私と出会えたことを、感謝……? この方は使用人の一人一人に、常にそんな気持ちで接していらっしゃるのかしら。神の導きというよりも、もうこの方こそが神だわ……)
旦那様がゆっくりと体を離し、二人の間にはわずかな隙間が生まれる。見つめ合った旦那様の青い瞳はどこまでも澄んでいて、そして私のことだけを映していた。
(どうしよう……。私、なんだかものすごくドキドキしてる……)
この世のものとは思えない美貌の旦那様に抱きしめられ、そして見つめられ、私の心臓は狂ったように早鐘を打ち続けていた。旦那様があまりにも私のことを見つめ続けるものだから、私の頬がカッカと火照りはじめた。
熱くなってしまったその頬を手のひらでそっと撫で、旦那様が私に言った。
「ミシェル……。これからはこの私が、君のことを大切にしてもいいだろうか。この手で君を守っていきたい」
(……旦那様……)
その言葉に、喜びで胸がいっぱいになる。
旦那様は私に、これからもこのハリントン公爵邸でメイドとして働いて構わないと言ってくださっているのだ。
雇用主として、私の生活を守ってくださると。
旦那様の慈悲に感動し、私の頬にまた涙が流れた。
「……ありがとうございます、旦那様。……はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
心を込めてそう返事をすると、旦那様は一瞬目を見開き、そして輝くような素敵な笑顔を浮かべた。
「嬉しいよ、ミシェル。……私のミシェル。もう誰にも、君を傷つけさせはしない」
そう言うと旦那様は、また私のことを抱きしめたのだった。
幸せな気持ちに浸りながらも、私は照れくさくてならなかった。
(……うーん……。私もう十八なんだけどな……。旦那様との年の差は、たしか六つ。……そんなに子どもだと思われてるのかしら)
父も母も、よくこうして私のことを抱きしめてくれていたっけ。こんなことをされるのは、小さな子どもだったあの頃以来だ。
嬉しいけど……ちょっと恥ずかしい。
それに、なんだかどうしようもなく、胸がドキドキする。困ったな。
あらかた話し終わり沈黙が訪れると、旦那様は低い声で呟いた。
「……そうか」
「……私があの日森にいたのは、ハリントン公爵領を抜けて王都まで行こうと思っていたからです。一番大きな町へ行けば、こんな私にも何か生きる手段が見つかるのではないかと思って……。今思えば、あまりにも無謀でした。極度の緊張や疲れと空腹で、冷静な判断などできていなかったのだと思います。……でも、あの時はあのまま留まっていても、ただ死を待つだけだと思ったんです」
素直にそう打ち明けると、突然旦那様が私の体を引き寄せ、そして強く抱きしめた。
(……っ?? だ、旦那様……?)
混乱する私の耳元で、旦那様の少し掠れた声が響く。
「……生きていてくれてありがとう、ミシェル」
「……」
なぜ、旦那様が「ありがとう」と仰るのだろうか。
爽やかで甘い香りのする旦那様の腕の中でしばし呆然と考えながら、私は旦那様が、この私の存在にそんなにも価値を見出してくださっていたのかと思い、小さく感動する。
(旦那様は、ハリントン公爵邸のメイドとしての私を、そんなにも買ってくださっているってこと……かしら)
真面目に働いてきてよかった。けれど……。
「……ミシェル?」
私は旦那様のその優しい腕からそっと逃れ、あらためて謝罪した。
「旦那様、私はエヴェリー伯爵邸に送り返されるかもしれないという恐怖心から、保身のためにあなた様に嘘をつきました。貴族の娘ではなく、平民だと。一度そこを偽ってしまえば、もう両親のことや素性に関しては何も話せなくなってしまい……。貴族の女性をお嫌いな旦那様の元で、そのことを隠して働くなど、許されることではなかったと理解しています。ひどいお怪我を負わせた上に、こんなにずっと親切にしてくださった旦那様を裏切り続け……。本当に、申し訳ございませんでした」
出て行くべきだったのだ。本当はすぐに。
体力が回復した後、すぐにここを去るべきだったのだろう。
だけど、ここはとても居心地が良くて。旦那様もカーティスさんも、アマンダさんも他の使用人の方々も、皆とても親切で。
自分を偽ったまま、甘えてしまった。そのツケが今回ってきたんだ。そう思った。
けれど。
「っ! ……だ、だんな、さま……?」
旦那様は再びその胸の中に私を誘った。しっかりと抱きしめられ、私の髪には旦那様の唇が触れている。
旦那様はそのまま口を開いた。
「そんなことを詫びる必要はない、ミシェル。君の境遇を聞けば、そんなことを責める気になどなるはずがない。むしろ、私は君と出会えた運命に感謝している。過酷な環境の中で生き抜いた君を、神が私の前に導いてくださったのかもしれないな」
「……旦那様……」
私を抱きしめ髪を優しく撫でながら、旦那様はどこまでも慈悲深くそう言ってくださった。そのお気持ちに、また新たな涙が溢れる。安堵と感謝の思いで、私の胸ははち切れんばかりだった。
(ただのメイド一人に、ここまで真摯に向き合ってくださるなんて……。私と出会えたことを、感謝……? この方は使用人の一人一人に、常にそんな気持ちで接していらっしゃるのかしら。神の導きというよりも、もうこの方こそが神だわ……)
旦那様がゆっくりと体を離し、二人の間にはわずかな隙間が生まれる。見つめ合った旦那様の青い瞳はどこまでも澄んでいて、そして私のことだけを映していた。
(どうしよう……。私、なんだかものすごくドキドキしてる……)
この世のものとは思えない美貌の旦那様に抱きしめられ、そして見つめられ、私の心臓は狂ったように早鐘を打ち続けていた。旦那様があまりにも私のことを見つめ続けるものだから、私の頬がカッカと火照りはじめた。
熱くなってしまったその頬を手のひらでそっと撫で、旦那様が私に言った。
「ミシェル……。これからはこの私が、君のことを大切にしてもいいだろうか。この手で君を守っていきたい」
(……旦那様……)
その言葉に、喜びで胸がいっぱいになる。
旦那様は私に、これからもこのハリントン公爵邸でメイドとして働いて構わないと言ってくださっているのだ。
雇用主として、私の生活を守ってくださると。
旦那様の慈悲に感動し、私の頬にまた涙が流れた。
「……ありがとうございます、旦那様。……はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
心を込めてそう返事をすると、旦那様は一瞬目を見開き、そして輝くような素敵な笑顔を浮かべた。
「嬉しいよ、ミシェル。……私のミシェル。もう誰にも、君を傷つけさせはしない」
そう言うと旦那様は、また私のことを抱きしめたのだった。
幸せな気持ちに浸りながらも、私は照れくさくてならなかった。
(……うーん……。私もう十八なんだけどな……。旦那様との年の差は、たしか六つ。……そんなに子どもだと思われてるのかしら)
父も母も、よくこうして私のことを抱きしめてくれていたっけ。こんなことをされるのは、小さな子どもだったあの頃以来だ。
嬉しいけど……ちょっと恥ずかしい。
それに、なんだかどうしようもなく、胸がドキドキする。困ったな。
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